映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

神話的復讐譚

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聖なる鹿殺し

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

心臓外科医のスティーブンは、眼科医の美しい妻と、健康で将来有望な二人の子供に恵まれ暮らしていた。家族とは別に、時々会って話をするマーティンという16歳の少年がいる。彼はスティーブンのかつての患者の息子で、マーティンの父親が他界してから何かと気にかけていた。

スティーブンは、ある時マーティンを家族に紹介しようと自宅に招き入れた。マーティンはスティーブンの妻にも気に入られ、子供たちともすぐに打ち解けた。しかし、その時からマーティンは過剰に付きまとうようになり、スティーブンの家族にも異変が起きはじめる。

スティーブンはとうとうマーティンに対し、嫌がらせめいた付きまといを止めるように強く諭すが、マーティンから返ってきた答えは、これから行われる復讐の宣言だった。

第70回カンヌ映画祭において脚本賞を受賞したサスペンス・スリラー。

わたくし的見解

偏見は無知から生まれるが、ギリシャギリシャ人に対して無知な私は「あの人たちは根が暗い」という偏見を持っている。

近年デフォルトの危機に直面していたことを思うと、極めて楽観的な国民性とも考えられるが「ギリシャ悲劇」なんて言葉があるのだから、DNAに刻まれた根暗性質も大いにあり得る、と個人的に感じている。

楽観が過ぎるからデフォルトを起こすような悲劇に見舞われるのでは、と卵が先かニワトリが先かみたいな話はさておき、テオ・アンゲロプロスというギリシャ人映画監督の作品を観たときに「あゝギリシャ悲劇」と強く感じたことが、偏見の由来である。

アンゲロプロス作品は、物語が神話ではなく現実的な悲劇の場合でも、結末部分で神話や児童文学によく見られるようなファンタジーめいた展開を見せ、涙をさそう。これ見よがしな仰々しい音楽と、悲しい結末は情感たっぷりで、とくに昭和の頃ならば日本人に大変ウケそうな映画である。

本作のヨルゴス・ランティモス監督もギリシャ人で、かくある如し。なんてことないシーンで、ひたすら不穏な音楽の主張が強く、稲川淳二ばりに「嫌だなーやだなー」「怖いなーコワイなー」と煽る。たけしさん(ビートたけし北野武監督)も言っていたように、ただ歩いているシーンに悲しい音楽をつければ悲しい場面になり、楽しい音楽をつければ楽しい場面になるのが映画。

ちょっとクドいなぁと食傷気味になっていたところで、なんてことあるシーン、実際に事が起き始めた場面では、一転してBGMを廃し静けさを際立たせるような演出には感心した。

悲劇はマーティンの復讐によるものだが、彼は実際には何ら手を下さない。では一体どのようにして復讐が遂げられるのか、それは理解し難く受け入れ難い。しかし、ある意味で監督の術中にはまっている可能性が高い。その動揺は、真っ先に主人公が味わっているものだからだ。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のような作品(地球人が宇宙人たち、植物みたいなのやアライグマみたいなのと一緒に宇宙の危機を救う話)と比べると、アメリカで暮らす心臓外科医とその家族の物語は現実味を帯びていて、そのぶん突拍子もない展開に面食らう。

現実的であることに徹するなら、マーティンは良心の呵責につけ込み、言葉巧みにスティーブンを精神的に追い詰めたとも捉えられる。実際には何も起きていないのに、スティーブンや家族には予言どおりに悪いことが起きているように思え、マーティンの言葉に従わざるを得なくなる。

そもそも、実際に何か起きようが起きまいが、言葉が発せられた時点で、予言(呪い)というものは少なからず効力を発揮するものだ。

ところで、わたくしはこの作品を現代を舞台にした神話だと捉えている。

まず突如、下半身が麻痺し、次に食欲が失せ、第三に目から血を流し、最後には死に至る。スティーブンが犠牲者を選び命を奪わなければ、これが繰り返される。なんでマーティンにそんな復讐が出来るのさって、だって神話だから。

我を失って人を殺め、後悔して星座にしたりする神々の戯れと同じ。神の怒りに触れ、その怒りを収めるために生贄が必要になったのだ。ギリシャ神話のように、生贄に選ばれた者が悲しき運命を受け入れ従い、その姿を憐れんだ神は(自分が生贄を求めたくせに)その者ではなく鹿を生贄にする。

本作でも、そのような救いのある展開を期待して鑑賞していたけれど、観せられたのは、どうしても生贄には選ばれたくない、自己犠牲の精神など微塵もないスティーブンと家族たちのエゴだった。

ヨルゴス・ランティモス監督作品が日本であまり好かれないのは、この不快な作風のせいだと思う。監督は、この作品をコメディーだと言っているらしいが、ホラーやスリラーのつもりで鑑賞すると、なかなか見応えのある作品だ。

たまたま、前回ご紹介した「ビガイルド」とキャスティングがかぶっており、また同じ年度のカンヌ映画祭受賞作品でもある。色々ぼーぼーで濃ゆいコリン・ファレルと超涼しげ美人のニコール・キッドマンは、画面の中でのバランスが良いのかも知れない。

どちらも最高賞を逃していて、実際そんな感じの出来。鑑賞価値のある佳作だが最高賞には何かが不足している。

カンヌ映画祭が賞を与えるとき、次もぜひ頑張って下さいね、という奨励の意図が色濃い。カンヌは案外、面倒見が良くちょっとアットホームな側面があって面白い。アカデミー賞には違う面白味があるが、それはまた別の話。

 

たぶらかされたのは、男なのか女なのか

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The Beguiled /ビガイルド 欲望のめざめ

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台は南北戦争末期の1864年バージニア州。静かな森の中に、女子寄宿学校があった。学園長と教師、事情があって実家に戻れない生徒が数名、戦火を免れひっそりと暮らしている。

ある時、女生徒の一人がキノコを採りに出かけ、森の中で負傷兵と遭遇する。敵兵と分かり動揺しながらも、献身的に怪我の手当てをする学園の女性たち。

負傷兵は無事快方に向かうが、女性ばかりの学園にたった一人の男性が暮らしを共にするというだけで、学園内の秩序が狂いはじめる。

原作はトーマス・カリナンの小説「The Beguiled」、クリント・イーストウッド主演で1971年に「白い肌の異常な夜」として映像化もされている。

わたくし的見解

ソフィア・コッポラ作品の魅力は、良くも悪くも軽やかであることだと思う。

女性が魅力的である時に魅力的に写し、まるで後光が射して、ありがたみを感じるほど美しい映像。情念とか怨念とか、とにかく血文字の似合うような「念」は写さず、観ている側に強く深く突き刺さるような何かを残さない。

まさにマカロンみたいなものなのだ。キレイな色で丸っこくて可愛くて、たしかに美味しいけれど、もっと美味しいものを幾らでも挙げられそうな程度の美味しさ。少しディスっているみたいになってきたけど、決して違う。

初めの1、2作品だけならともかく、ソフィアは何だかんだで、この手の映画では唯一無二の存在になった。「どうせ父親の」などと言うは容易いが、兄のロマン・コッポラの映画は恐ろしいほど評価が低く、今では撮ってさえいない。すっかりプロデューサーとして偉そうに名前を連ねているだけだ。

ところで、蜷川実花が日本のソフィア・コッポラなどと謳われることがある。「日本の」という時点で格下扱いなのだから、目くじらを立てるようなことではないのだけれど、あんなものとソフィア・コッポラを比べてはいけない。

「女性による女性のための」っぽい作風と、親の実績と馬面気味であること以外に、大した共通点はないのだ。それだけあれば十分な気もするけど、映画をナメてる蜷川実花と、お嬢様なりに案外、映画に真摯に向き合っているソフィア・コッポラとを、同じ土俵にあげないで欲しいと個人的に思う。

さて本作については、やはり良くも悪くも軽やかで、テレビCMされているような昼ドラ的劣情や情念渦巻くドロドロの展開は、実はほとんどない。きっと思いのほか上品な作りに、がっかりした人もいただろう。

一人の男性を取り合う美しい女性たちは、相変わらずの映像美でフワフワしたまま結末へ向かう。

察しと思いやりの文化を持つ日本人ならまだしも、はっきり物言うことこそ美徳とするアメリカ人が、忖度しまくりの結論にたどり着く終盤は個人的に気に入っている。連体感が強くコミュニケーション能力が高い、女性だけの世界だからこそ成立する展開だろう。

今回、今までになく面白く思えたのは、ソフィアによるフワフワフィルターを外したら、きっと彼女たちの感情は(本当は)こんな感じなんだろうな、というところまで透けて見えたところだ。

あえて現実味を薄くしてきたフワフワフィルターは、一周回って、目の前の人の感情を測りきれない実生活の感覚に近くもある。軽やかさが、人間の真意に巧みにフィルターをかけ「で、結局のところ騙されたのはどっちなんだ」という心理サスペンスを生み出した点を評価したい。

タイトルの "beguiled"「騙される、たぶらかされる、紛らわせる」いずれの意味にせよ、たぶらかされたのは果たして唯一の男性なのか、それとも美しき女性たちなのか。

それにしても、71年当時のクリント・イーストウッドがワイルドでセクシーで、女性たちが彼を取り合うのは想像容易いが、なぜ本作ではその役がコリン・ファレルなのか。あの眉毛が、欧米ではワイルド&セクシーの象徴なのか。

そしてキルスティン・ダンストは、どうしていつも(あらゆる作品で)超イイ女扱いなのか。とくに本作においては、御歳50を迎えても明らかに造形として美しいニコール・キッドマンや、若くてピチピチのエル・ファニングがいるにもかかわらず、キルスティン・ダンストが一番の美女ポジションなのが解せない。

ソフィア・コッポラの映像美をもってしても、欧米人と日本人の感覚の違いは埋めることが出来ない。何だか話がおかしな方向に逸れてしまったけれど、格別思い入れがある訳ではないにも関わらず、彼女の作品が安定して評価されてきたことに、本作ではかなり納得できた。

流行りものだったマカロンが、今では定番化したような。フワフワのくせに安定している、それがソフィア・コッポラの映画なのである。決してナメてかかってはいけない。

 

 

おセンチなプロレタリア作品

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希望のかなた

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

内戦が激化するシリアから、一人の青年が逃れてきた。空爆で家族も住まいも失い、難民キャンプを渡り歩くうちに、唯一生き残っていた妹ともはぐれてしまった。

偶然の重なりあいで、フィンランドの港町ヘルシンキに辿り着いた彼は、妹を見つけたい一心で真っ直ぐに難民申請の手続きに向かう。しかし申請は却下され、シリアに強制送還されることになる。

保護施設で知り合った他の難民や職員の協力を得て、彼は不法滞在する形でヘルシンキに残る選択をするのだが。

わたくし的見解

アキ・カウリスマキ監督は、私の中では「ダメ男映画」世界三大巨匠の一人として輝く存在です。ちなみに、三大巨匠の他2名は、ジム・ジャームッシュ山下敦弘

とにかく、「オフビート」という都合の良い言葉で作品を紹介されながら、ただダメ男を描くのが好きな他2名の監督。すっかり商業監督になっても、山下監督に求められるのは基本、ダメ人間を描いたもの。ジム・ジャームッシュについても、晴れ時々ダメ男、といった作品群になっています。

対して、ダメ男というよりは不幸にもうだつの上がらない、社会的成功者と真逆の立場にある主人公に、温かな眼差しを向けてきたアキ・カウリスマキ。変わらず、本当はダメじゃないダメ男をクローズアップしています。

山下監督とジム・ジャームッシュ監督が描く人々は、ダメ人間だから成功していないのが明らかですが、カウリスマキ監督の主人公たちは、のっぴきならない事情と、どうしようもない不運の連続で敗者となっただけで、本質的にはダメじゃない人々。

本作の主人公の、難民という立場はまさに、これに当てはまります。むしろダメ男とは対照的な、勤勉で善良な市民であった青年カーリドは、度重なる空爆で命の危険にさらされ、妹と共に安全に暮らせる場所を求めて祖国シリアを離れます。

しかし、とめどなく増え続ける難民を受け入れる側のヨーロッパにおいて、カーリドは異なった外見、そして異なった言語と宗教と文化を持つ、危険分子のように見られる現実。

なんだか、とても覚悟の必要なチョットしんどい映画のように思えますが、これがカウリスマキ節によって、穏やかな気持ちで見守れる不思議な作品になっています。

ダメ男映画三大巨匠の、もうひとつの共通の特徴として挙げられるのが、ユーモア。爆笑ではなく、時にスベっているのではないかと思われるほどの、小さな笑い。そこはかとない可笑しみで、辛辣な現実やダメ男の救いようのない愚かさを包み込み、鑑賞者にそっと飲み込ませる手法は巧みです。

この手法は、テーマがシビアになればなるほど必要になってくるのですが、難民問題については言わずもがな。

シリア人難民のカーリドに対して、その身に起きた悲劇や苦労を察し、無償で手を差し伸べてくれる人もいれば、異質なものを排除したい(そうすることで安心したい)人間の根源的欲求に従って過剰な攻撃、暴力を用いる人もいる。

良いことばかりではないし、かと言って悪いことばかりでもない現実を、独特のユーモアでコーティングして提示するカウリスマキ

彼の映画の登場人物は皆、ほとんど無表情で淡々としています。それがかえって言動の滑稽さや、彼らの本質的な温かみを浮かび上がらせ、ボディーブローのように時間の経過とともにじわじわと効いてくるのです。

お洒落げなCMでも完コピされる、オフビートな世界観と独特な感性は、相変わらず健在ですが、あえて「難民三部作」と銘打たれた本作では、やはり一筋縄ではいかない難民問題について、決して楽観的ではない監督の視点が印象的でした。

いつもならば、ダメ男のレッテルを貼られた不幸続きの主人公に、やっと希望の光が差し込むような、ささやかなハッピーエンドが用意されているのですが、今回はタイトル(とくに原題)を示唆するような結末。希望の向こう側、反対側にあるものは何なのか。

希望の存在を信じながらも、それだけでは解決できない、乗り越えられない現実問題の難しさも隠さない。あらためて、アキ・カウリスマキの真摯で温かな眼差しを思い知る作品でした。可笑しみも辛辣さも、やはり後からじわじわと効いてきます。

スルメの三つ巴

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スリー・ビルボード

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台はアメリカ、ミズーリ州。田舎町の外れに、巨大な広告看板があった。誰も気にも留めない三枚の朽ちた看板に、広告を掲載したいと申し出る中年女性が現れる。彼女は田舎町の住人で、7か月前に娘を殺害されていた。

殺人事件の捜査が進展しないことに、業を煮やした中年女性ミルドレッドは、地元警察に対する抗議メッセージを広告に掲載する。

人望のあつい警察署長を擁護する住人から、ミルドレッドはあからさまな攻撃を受け、抗議の看板によって排他的な田舎町に不穏な波風が立つ。そして、事態は思わぬ急展開を見せるのだが。

わたくし的見解

当然、娘を無残に殺された母親、ミルドレッドが主人公ではあるものの、彼女の物語のようでいて彼女だけの物語ではない。また、7か月前の殺人事件が解決されることが、主軸でもない。心の置き所が難しい、何とも言えない居心地の悪さが特徴的ですが、とても素晴らしい作品です。

「(簡単には)解決しないこと」を丁寧に描いているため、面白くないという感想も一理あるでしょう。ただ、そのような事象を、間違いなく面白い映画として完成させています。ニクいね。

かつて、イギリス人であるサム・メンデス監督が颯爽とハリウッドに登場し、「アメリカン・ビューティー」という作品で、現代アメリカにおける理想的な中流家庭の闇を鮮やかに描ききったように、同じくイギリス人監督のマーティン・マクドナーも、エッジの効いた視点で理不尽な世界を見せつけてきた、という印象を受けました。

広告掲載から始まるミルドレッドの戦いは、理不尽な世界に対する怒りの感情が引き起こしたもの。娘を失った彼女の「悲しみ」については、田舎町の誰もが理解を示し同情的だけれど、「怒り」に対しては明確な反発が生まれます。

ところが、意識無意識にかかわらず弱まっていた事件への関心が、ミルドレッドの「怒り」によって嫌でも呼び起こされることに。

ミルドレッドはこの戦いを始めるとき、反発やそれ以上の何かが起きることは覚悟していたと見受けられます。けれども、それは「自分の身に何が起きても構わない」という覚悟であって、他の人がどのような傷つき方をしても当然の報いである、と思っている訳ではない。

ミルドレッドは人が傷つくことで自分も一層傷つきながらも、戦いをやめません。強い完璧な母親像を描いているのに、決して彼女を英雄に仕立て上げない。

ミルドレッドの怒りや悲しみは、もっともだ。しかし、必ずしも正しい道とは言えない。そんな、とてもフェアな視点によって作品への信頼感が増します。

行動の起点として「怒り」という感情は強い力を発揮するけれど、実際に行動する時には、判断力を鈍らせる厄介者になる。これは、ミルドレッド以外の中心人物を描くパートでも繰り返される、作品のテーマとも言えるでしょう。

また劇中で、看板の掲載について「良い一手だった」と褒めてくれる人がいます。確かに殺人事件の解決に向けて、大局を変える重要な一手になったと言えるのですが、だからと言ってミルドレッドを必勝に導く一手とは限らない。もしかしたら、彼女を大敗に導く一手だったのかも知れない。

怒りの感情の使いどころ同様に、そのような物事の二面性あるいは多面性を見せてくる作りも、本作の魅力のひとつです。

現実世界のままならなさを、わざわざ虚構の世界で見たくない人にはお勧めできませんが、2018年のまだ序盤ながら、本年度大本命の一作ではないかと静かに興奮しました。

個人的に、昔からサム・ロックウェルが好きなので、オスカー像(最優秀助演男優賞)を手にさせてあげたいなぁと願っています。アカデミー会員ではないので、願うことしか出来ないのですが。

麗しの三白眼

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ブルージャスミン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

「『ブルームーン』、夫と出会った時にかかっていた曲よ!」と自らの夫について、とめどなく話し続ける。女性の名前はジャスミン。自分でつけた名前だが芸名ではないし、娼婦でもない。直前までニューヨークでは名うてのセレブで、何不自由ない贅沢な暮らしを満喫していた。

彼女が、のべつ幕なしに語り続ける自慢の夫の莫大な資産は、すべて詐欺で手に入れたものだった。夫はFBIによって逮捕され、獄中で自殺。ジャスミンのセレブ生活は、一気に破綻した。

大学在学中に、夫ハルと出会ったジャスミンは、学校を中退し結婚してしまったので、何ひとつキャリアを持たない。FBIによって彼女名義の財産も一切没収され無一文の状態で、ニューヨークから、疎遠になっていた妹の住むサンフランシスコにやって来たのだが。

わたくし的見解

ほぼほぼ、年一のペースで映画を撮っているウディ・アレンの作品は、だいたいにおいてコメディである。時折、思いついたように辛辣な作品を発表することがあり、それが近年では、この「ブルージャスミン」なのだ。

この作品も、各方面ではコメディと紹介されていて、実際コメディでもある。ただ、多くのウディ・アレンの映画が劇中どのような事が起こっても、大抵の場合は鑑賞後に多かれ少なかれ、ほっこり出来るのに対し、ここで辛辣と称している作品にはまったく救いがない。とんでもなく手厳しい時があるのだ。

唐突だが、ケイト・ブランシェットは紛うかたなき美人だ。こんな美人は他に見たことがない! かどうかは、個々の経験や特に「好み」で違うだろうが、間違いなく誰から見ても美人だと思う。そして、間違いなく「可愛く」はない。

「カワイイ」に圧倒的権力や市民権を与えている日本と違い、マチュア=セクシーであることを大きく評価するアメリカという場所でさえ、ハリウッドで人気を博してきた女優のいくらかは、可愛い。つまり、キュートだったりチャーミングだったりが、人気の理由となっている場合が少なくない。

少し古いけれど、分かりやすいところで言うと、メグ・ライアンとか。「ターミネーター2」では、ムッキムキで懸垂してたサラ・コナー(リンダ・ハミルトン)でさえ、一作目の「ターミネーター」を改めて観ると典型的なアメリカン・ガールで、たぶん向こうの人にとっては「可愛い」女優だった。

ケイト・ブランシェットの凄さは、「可愛い」という要素の魅力をまったく持たずして、ただただ美しいことだ。男は必要ない、私は国家と結婚する! と宣言するのが似合い過ぎる。ムキムキじゃないのに、片手でショットガンを装填しないのに、サラ・コナー級の威圧感。しかし神々しいほどに、いつでも美人である。

とはいえ、大変に表現力のある素晴らしい女優なので、作品によっては劇中の表情など可愛い時だってある。「エリザベス」なんて今観ると、設定上のエリザベスの年齢や、演じている当時のケイト・ブランシェットの若さもあって、十分に可愛い。しかし、それらもすべてケイト・ブランシェット「にしては」可愛いと言うだけだ。

何が言いたいかと言うと、非常に美しいが可愛いという印象がまずない、そんなケイト・ブランシェットのためにあるような役がジャスミンである。こんなにも、スノッブで中身がなく、思慮に欠け、ただ美しいだけで自分では何ひとつ出来ない上に超ヤバい女を、演じられる人なんて他にいない。

もう少し丁寧に言えば、こんな女性を見事に演じながらも、嫌悪感を与えたり同情を得るのではなく、ただフラットに哀しく見せることが出来る人はいない。

この役で重要なのは、見た目だけ魅力的で馬鹿な女では駄目だと言うこと。セックス・シンボルのイメージを求められた、マリリン・モンローのようなタイプではなく、上品であるような、知的であるような、一見すると複雑な「であるような」女性像でなければいけない。

しつこく申し上げてきたように、可愛くはなく、美しさと圧倒的演技力で今まで君臨し続けてきた、ケイト・ブランシェットの真骨頂を観ることができる作品だ。

ウディ・アレンの映画の主人公にはしばしば、多かれ少なかれアレン自身が投影されていて、今回も例外ではない。顔を出さなくてもウディ・アレンの存在感をひしひしと感じるのが、ある意味楽しみでもあるのだが、さすがはケイト・ブランシェットウディ・アレン臭は微かで、キャラクターの要素として感じられるレベルだ。

ケイトと見えないウディの存在感が、実に拮抗している。最終的にウディが、ケイトに敬意を表して、いつもの彼の映画というよりは、ケイト・ブランシェットの映画に仕立て上げた。そんな、大いに見どころのある作品である。

透明感で包みこんだ闇

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ルーム

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

原作は、2010年に出版されたベストセラー小説「部屋」。原作者のエマ・ドナヒューは、本作の脚本にも参加している。

ジャックは目覚めると部屋のランプやシンクに朝の挨拶をする。ママと一緒にストレッチをして、駆けっこしながら狭い部屋の壁を何度もタッチする。

ジャックは、そんなトレーニングもゲームのように楽しんでこなす日々の中、5歳の誕生日を迎えた。この部屋で生まれ、この部屋しか知らないジャックに、ママは初めて外には広い世界があることを知らせるのだが。

わたくし的見解

さて、今回ご紹介する作品は、年始らしいおめでたさゼロ。監禁脱出モノです。おそらく、そのような映画ジャンルはないものの、残念ながら現実でもしばしば起きている「監禁事件」を描いています。

原作はフィクションですが、やはり実際に起こった海外の事件をモチーフにした物語のようです。

映画の主人公ジャックは5歳の少年。彼の母親は、オールド・ニックと呼ばれる男によって部屋(納屋)に7年間監禁されています。彼女は部屋でジャックを身ごもり、ここで生まれたジャックは一度も部屋から外に出たことはありません。

概要だけ聞くと映像作品としては、ほぼスリラーを想定しますが、内容が内容だけにあえて爽やかに仕上げています。こんな内容で、どうすれば爽やかになるのか想像し難いですが、部屋の中だけで生きることが、いたって自然でごく当たり前の子供、ジャックの視点で描くことで実現しています。

普通の(監禁されていない)暮らしを知る者にとっては、不自由が多く到底健全とは思えない部屋の中だけの生活ですが、生まれてこのかた、この暮らししか知らないジャックにとってみれば、それほど不幸でもない日常として映画はスタートします。

とはいえ、ジャックの母親は普通の暮らしを知っているので、ジャックの成長やオールド・ニックの経済的困窮などから、監禁生活に限界を感じ脱出を試みるという流れ。

しかし、この作品の最大の特長は、監禁からの脱出がクライマックスではないところです。トロント国際映画祭で最高賞を受賞し、アカデミー賞にもノミネートされた作品ながら、どちらかと言えばヨーロッパ映画の描き方を彷彿とさせます。

原作者がアイルランド出身なので、当然と言えば当然かもしれません。ちょっとヨーロッパ的と、わたくしが感じた理由は、脱出劇は意外にもあっさり成功し、その後の物語が丁寧に描かれている点です。

これが超アメリカ映画的だった場合、脱出するまでの周到な準備と実行時のスリルがたっぷりと描かれ、無事に成功してハッピーエンドとなることでしょう。

ただし、ヨーロッパ映画ほどは重苦しい作りをしておらず、主人公のジャックが女の子と見まがうほど可愛いところなど、暗い内容とうまくバランスが取れていて、とても観賞しやすい作品です。

わたくしとしては、この軽やかさが逆に評価に悩む点でもありますが、佳作と言って申し分ない映画です。

今回は映画自体もさることながら、「監禁事件」について思うところの多い作品でした。現実においても存在する犯罪で、しかも個人宅の敷地が広い欧米に限らず、日本でも少なくない事例があるという恐ろしさ。

とくに現実の事件をニュースなどで知るとき、そんなにも逃げ出せないものだろうか。それほど周囲に気づかれず救出されないものだろうか。と浮かぶ疑問に、フィクションではあるものの本作を観て、答えの一つにたどり着けたように思います。

本作に登場する部屋(納屋)は、窓は天窓のみ、ひとつしかない出入り口には暗証番号式の電子ロック。と、確かに脱出は困難に思えます。

しかし、逃げようと試みる時に一番それを難しくするのは、失敗したら殺されるかも知れない恐怖なのだろうと感じました。ストックホルム症候群よりも、逃げられない一番の足かせは、やはり死の恐怖ではないかと。

また、逃げる意欲も時間の経過と共に、どうしても衰退してしまうのも理解できます。

そして何より恐ろしく感じたのは、世の中には物理的には鍵をかけられていないし、自分の意思で出ていける状態なのに、脱出できない人がいるということです。

監禁されていると自由や尊厳が奪われる反面、ある意味では保護されている状態とも言えます。逃げ出せない人々は、心理的に監禁されているのでしょう。

経済的理由などで望まない結婚生活を続けている人や、心身ともに限界を感じているのに仕事を辞められないなど。一見すると事件性がなくても、現実に意外と多くひそむ捕らえられることの恐ろしさ。

本作のテーマとは全く結びつかないのですが、映画自体がさっぱりしていることで、かえって様々な方向に向かって悶々とすることが出来ました。

でもやっぱり。お正月には「寅さん」みたいな、呑気で楽しい映画の方を紹介する方が良かったよな、と年始早々反省しています。

How cute she is!(感嘆文)

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ロッタちゃん はじめてのおつかい

映画情報

  • 原題:Lotta flyttar hemifrån
  • 公開年度:1993年
  • 制作国・地域:スウェーデン
  • 上映時間:86分
  • 監督:ヨハンナ・ハルド
  • 出演:グレテ・ハヴネショルド、ベアトリース・イェールオース、クラース・マルムベリー

だいたいこんな話(作品概要)

長くつ下のピッピ」で知られる、アストリッド・リンドグレーンの児童文学を原作とした作品。「ロッタちゃん」シリーズとしては、二作目。

両親、兄、姉と共に暮らす5歳の女の子、ロッタちゃんの織りなす日常のささやかな出来事を、季節の移ろいの中で描くハートフル・ドラマ。本作はクリスマスを中心とした、冬から春にかけての物語。

わたくし的見解

どレミふぁ ソ・ら・シど♪

てなテーマ曲とともに、ちびっ子が初めてのお使いに四苦八苦する姿を、大人が見て「おぅ! なんと、いたいけであることか」と感動し、むせび泣くTVショウがあったと思う。

この映画は日本のそれとは少々趣きが違って、何が違うって、やはり主人公のロッタちゃん。彼女だって、日本のTVショウの子供らと同じく、そりゃあもう「いたいけ」で「いたいけ」が服着て歩いてるのだから、それを可愛いと言わずに何と言う。

ただ、ロッタちゃんは乳歯抜けずして、すでにパンキッシュ。その反骨精神あふれる、しかめっ面が空前絶後にラブリーなのだ。超絶カッコイイとさえ感じてしまう。思わず、羨望のまなざし。

ついつい、しかめっ面を真似したくなるけれど、身の丈を知っているので我慢せねばならない。オバさんがしかめ面して歩いてたら、石投げられますからね。かと言って、あんまりヘラヘラしていたら通報されるし。生きるって、つらいことばかり。

パンク女児ロッタちゃんは、二ヒルでストイックでもある。奈良美智の描く女の子みたい。と思っていたら、日本での劇場公開時のポスター画は奈良美智作品なのだとか。当時の配給会社も、似てると思ったのだろう。

「冬冬の夏休み」という台湾映画を紹介した時にも同じ理由を述べたが、日本の映像作品やハリウッド映画の、例えば「ホーム・アローン」のような子供描写をしない点が、わたくしとしては大変に好もしく感じている。子供は可愛く演出などしなくても、放っておいても可愛いのだ。

加えて、このシリーズ作品の心地よさは、ロッタちゃんに対する両親たち大人の反応によるところも大きい。些細なことで、大人の女性顔負けの不機嫌ぶりを見せつけるロッタちゃんを相手に、余裕も余裕。パパやママが、とても大らかに振る舞う様子は、見ていてホッとする。

親サイドのイライラ感は見受けられない上に、かと言って子供を甘やかしている印象もまったくしない。日本でも今どきは、怒らない(叱らない?)しつけを実践しておられる親御さんを見ることも少なくないが、その方向の子育てとしては、この映画の感じがきっと理想なんだろうなと思う。

本作では、タイトルの「おつかい」をはじめとして、さまざまな日常的エピソードをオムニバスのような形で見せていき、ロッタちゃんの冬の物語はクリスマスを迎える。そして、彼女が天下無敵だと知ることとなる。

その昔「涙は女の武器じゃけぇ、マスカラは透明って決めとるんよ」と、知り合いの広島県民が言っていたが(ウォータープルーフでええがな、といふ噂もありけり)ロッタちゃんも5歳にして、すでに女の武器の威力を知り尽くしている。

しかし、バブぅっていう程ガキやない。くもん行くほど大人やない(byアキナ)いたいけな5歳の女児の、最強必殺技がきかぬ相手が登場する。ラスボス(最終にして最強の敵の意だが、この映画では最終ではなく中盤のクライマックスに登場する)は、彼女とは他人のよそ者のオッさん。

ロッタちゃんは最大のピンチをむかえるが、その時、不思議なことが起こった。安っぽい宗教家なら、それを奇跡と呼んだだろう。

どどめ色ハートの私は、その奇跡(神様のご都合主義)を前にして恥を知った。この、ご都合主義があまりに鮮やかで、美しいほどに見事だったから。

「こんな子おるおる」と言いたくなる、怖いもの知らずの末っ子パワー。ロッタちゃんの持つ根拠のない自信と、底抜けスーパーポジティブ・シンキングが巻き起こすラッキーの数々を、とくとご覧あれ。

一家団らんのクリスマスが過ぎイースターの春がやって来ると、ロッタちゃんは前歯が抜け、イヴにはツリーがないと大泣きしていた、ロッタちゃんのお兄ちゃんも声変わりしていて。

そんな子供らのありきたりの成長に、おほほんと笑みがこぼれてしまう、実に罪のない作品。クリスマスに、こんなんどうでっしゃろ?