溺れる夢を見る
シングルマン
映画情報
だいたいこんな話(作品概要)
1962年、キューバ危機下にあったロサンゼルス。大学教授のジョージは、長年暮らしを共にしてきた恋人のジムを交通事故で失ってから、生きる意味を見出せないまま日々を過ごしていた。
ある朝、とうとう人生を終わらせようと決意し、いつも通り授業を終えた後デスクを片付け、自宅に保管していたピストルに合う弾丸を購入した。棺の中で自らが着るスーツやワイシャツを並べ「ネクタイはウィンザーノットで」と遺書をしたためた。身近な人々に対して称賛や感謝を伝えながら、ジョージは粛々と自殺の準備を進めていくのだが。
原作は、1964年に発表されたクリストファー・イシャーウッドの同名小説。
わたくし的見解/ジョージの一番長い日
ここ数年、文章を読む機会が格段に増えたものの「文学」からは随分と遠ざかっているような感覚がある。私が今イメージしている「文学」はストーリーを読むものとは少し違って、強いて言えば「純文学」と呼ばれるものだろうか。「純文学」を定義するのも簡単ではないけれども、面白いストーリーがその条件ではない。だからと言って「純文学」=面白くない、という訳でもないのだが。
漠然としたイメージのまま語り続けて申し訳ないのだけれど、「純文学」や「純文学的なもの」が描いている世界はどこか閉鎖的な印象を受ける。閉鎖的とするとネガティブに捉えているかのようだが、そのつもりはなく良くも悪くも箱庭的だといつも感じるのだ。その世界に大きな広がりは感じないものの、掌握できる規模だからこそ起きている事柄だけでなく空気感のようなものまで、つぶさに受け取ることができる。
ところで、私が映画に心底求めているものはストーリーの面白さでも文学的な雰囲気でもない。もちろんストーリーは面白いに越したことはないし文学的なものも決して嫌いではないが、映像(&サウンド)表現だからこそ可能なものを見つけ出して、圧倒されたい。
しかし、そんな経験はそうそう出来ない。だから地道に、いつか巡り合えるようにアンテナを張り続けるほかない。また、なかなか圧倒される作品に出会えないからと言って、それ以外の映画がつまらないこととは全然違う。十二分に価値のあるもの、楽しめるものがいくらでも存在している。
ようやく本作の話に移る。結論から言えば、実に文学的な作品だ。先ほど述べたように極めて箱庭的だが、世界観は小さくても映像作品として大変に優れている。「文学」だなと強く感じさせるのに、文章で語るのではなく映像でしっかり物語を伝えてくる。
ファッションデザイナーとして名高いトム・フォードの初監督作品だが、初めてメガホンを取ったとは思えないほど、鑑賞者に少しのストレスも与えずにするすると物語が展開していく。自らが抱くイメージを他者と共有できる映像に昇華させる作業は、ファッションと共通している部分も多いだろうが、工程を同じにしても上手くいくはずはない。持ち合わせているビジュアルに対するセンスの高さを駆使しながら、そこに一切のこれみよがし感がないところが素晴らしい。
映画は、主人公がいつも見る夢から始まる。物語は回想シーンを含めつつも、自殺を決意した主人公ジョージの一日のみを描いている。ジョージが同性愛者であり、長年連れ添った恋人が男性であること以外には何の変哲もない、愛と喪失を丁寧に取り上げた作品。
その中でジョージは亡くなった恋人ジムへの思いを募らせながらも、日常で遭遇する若く引き締まった肉体や、ラテン系の美男子の甘いマスクに目を奪われるなど、人間味あふれる描写も多い。トム・フォード監督の2作目『ノクターナル・アニマルズ』を取り上げたときも述べたが、「お洒落」なだけではない。めまいを起こしそうなほど美意識で満たされた映画だが、ウディ・アレンが見せるような皮肉も効いていて静かに面白い。やはり文学的だからと言って、決してつまらないわけではないのだ。