女性によくある病い
めぐりあう時間たち
映画情報
- 原題:The Hours
- 制作年度:2002年
- 制作国・地域:アメリカ、イギリス
- 上映時間:115分
- 監督:スティーブン・ダルドリー
- 出演:ニコール・キッドマン、メリル・ストリープ、ジュリアン・ムーア
だいたいこんな話(作品概要)
「ダロウェイ夫人」を執筆中の、20世紀を代表する女性小説家ヴァージニア・ウルフ、2001年のニューヨークでパーティーの準備に忙しいクラリッサ、1951年のロスで夫の誕生日を祝おうとするローラ、三人の女性の一日の出来事が不思議な形で交錯していく。
マイケル・カニンガムの同名小説を、「リトル・ダンサー」で脚光を浴びたスティーブン・ダルドリー監督が手がけた。
わたくし的見解
公開から、かれこれ15年近く経ってしまったのだと感慨深くありつつ、わたくしの生涯ベストのうちの一つに挙げられる作品です。
この度、大切にしまいこんでいた懐からこの作品を取り出した理由は、先日自宅にて、とある邦画を鑑賞したことによります。その邦画は犯罪映画ながらも、根底には女性特有の病いがテーマのように描かれていて、そういった作品の最高峰に「めぐりあう時間たち」は位置しているのでは、と芋づる式に繋がり再鑑賞するに至りました。
すでに触れたとおり、とても好きな作品なのですが、楽しい映画ではないし、しょっちゅう見返したい類のものでもないのです。ほんと十年に一度くらいの鑑賞で十分なシリアスさです。
「めぐりあう時間たち」は、実はとても賛否の分かれる作品で、わからない人にとっては何が良いのかさっぱり分からないと評価されています。
その理由について、「ダロウェイ夫人」という英米文学に、どこまで精通しているかが大きく影響しているとする人がいますが、私は違うように思います。
実際、私は英米文学にきわめて暗く、ジェイン・オースティンさえ映画作品しか知らず、ヴァージニア・ウルフにいたっては名前を聞くのも当時は初めて、まして「ダロウェイ夫人」なぞ知る由もありませんでした。
“夫人”しか一致していないのに「チャタレー夫人の恋人」的なやつかな〜とか、ニコール・キッドマンはなんで付けっ鼻しとるんやろ〜と、かなり呑気なノリで観始めたのに、映画の冒頭から一気に作品に惹きこまれたことを今でもよく覚えています。
その冒頭は、家から抜け出した付けっ鼻のニコール・キッドマンが、見るからに神経質そうに足早に歩いてゆくもので、私はただそれだけのシーンに釘付けになりました。
音楽はピアノの旋律が美しく、かつ扇情的です。何かが起こりそうなのです。何かが起きてしまいそう、言い知れない不安な予感がひたすらに続く緊張感こそが、冒頭のシーンだけでなく、この映画の素晴らしさと言えます。
予感のとおり、付けっ鼻のニコールが演じる女流作家は、長年心の病に苦しんだすえ、献身的だった夫と最愛の姉に手紙を残し入水自殺します。これが冒頭のシーン。しかし物語の時間は遡り、作家が代表作でもある「ダロウェイ夫人」を執筆していた頃へとシーンを移します。
すでに何度かの自殺未遂を起こし、心の病と闘いながら作品の構想を練るヴァージニア・ウルフ。
まったく違う時代と場所で、作家の小説のアイデアに運命を導かれるかのごとく人生の岐路を迎える二人の女性。二人の女性はそれぞれに、また違う時代を生きていながらも、その傍らには「ダロウェイ夫人」という小説が大きな存在感を持っています。
ヴァージニア・ウルフよりも後世を生きる二人の女性は、単純に思い入れの深い小説に強く影響されているだけのようにも見えますが、不思議と彼女たちの人生の選択がまるで、作家の小説の構想を変化させているような映画の構成になっており、それが「めぐりあう時間たち」という邦題の所以でもあるのでしょう。
小説が、それを知る女性たちの人生に不可逆で一方通行の影響力を持つのではなく、小説と読者が相互に影響しあうような描かれ方が魅力でもあり、同時に作品の分かりにくさの原因でもあります。
たしかに、ややこしいなと思うのですが、やはり私にとっては冒頭から途切れない何かが起きてしまう予感、そのゾワゾワ感がたまらなく何よりも評価する点でして、再鑑賞して最も残念だったのが、やはり二度目ではゾワゾワが少なからず和らいでしまったことでした。
はじめて観たときの、あの緊張感は二度と味わえないのだと痛感し、つくづく映画も一期一会であることよと思い知った梅雨明けです。
しかし、比較的ゾワゾワせずに冷静に鑑賞しても実に出来の良い映画だと感じましたので、全然わかんねーリスクもありますが、ぜひ一度ご賞味されたし。
わからなくても、けだし問題ございません。ばいきんまん(アンパンマンの宿敵)のごとく「だから女の子は苦手なんだよ、ハッヒフッヘホー」と、のたまって済ませてしまえばよろしいと思います。