映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

山椒は小粒でぴりりと辛い

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おとなのけんか

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

子供同士の喧嘩といえ、前歯を折る怪我にまで発展したことについて、当事者の少年二人の両親が集まり、建設的かつ平和的な解決を目指して話し合うつもりだったのだが。原作は、ヤスミナ・レザによる戯曲「大人はかく戦えり」。ワンシチュエーションの会話劇でありコメディ。

わたくし的見解

いくつかの性犯罪疑惑(というか、ほぼ事実)を抱える波乱万丈人生の監督、ロマン・ポランスキーの諸事情により、映画の舞台は現代のアメリカ、ニューヨークなのに、撮影はすべてフランスで行われている。

子供たちが遊んでいる冒頭とエンディングシーン以外は、終始、怪我をした少年の家の中で物語は展開するので、どこで撮影しても同じと言えば同じなのだけれど。

一応、子供たちが遊ぶ場所には背景にブルックリン橋が見え、冷蔵庫の中身はアメリカの食品(牛乳やら何やら)で埋めつくされている。

というような、ささやかなトリビアはどうでもよくなる位、秀逸な会話劇であり、オスカー受賞者の中でも特に生真面目なイメージの女優を集めておきながら、見事にコメディとして確立している。

何しろ、オープニング・クレジットの後に一発目に拝めるのは、娼婦を演じようが何しようが永遠の優等生、ジョディ・フォスターのお顔だったので、私はコメディが始まったとは露知らなかった。

これがキャスティングの妙であると後に分かるとは言え、ジョン・C・ライリークリストフ・ヴァルツにコメディの要素を感じとることは出来ても、ジョディに加えケイト・ウィンスレットみたいな米英二大シリアス女優が登場して、果たして笑いの匂いを嗅ぎとる者がいようか。否、いないはず。

前歯が折れる怪我をした少年の両親が、ジョン・C・ライリージョディ・フォスター。夫は日用品おもに金物を扱っている店の店主、そしてアフリカ事情に詳しく物書きでもある書店員の妻。

棒で殴って怪我をさせた少年の両親が、クリストフ・ヴァルツケイト・ウィンスレット。大手製薬会社を顧客にもつ弁護士の夫と、投資ブローカーの妻。

という組み合わせだ。会話の中で、おそらくあえて触れないようにしているが、二組の夫婦は生活水準に大きく差がある。当然、価値観も違う。

前歯が二本折れるような、そこそこヒドい怪我をしてはいるが、どちらも穏便に話を終えようと努めるも、はなからギクシャク感が否めない。

四人のうち最も穏健派であるジョン・C・ライリーは、実現はしなかったものの舞台のキャストとしても何度かオファーを受けたそうで、庶民的で、話し合いの雲行きが怪しくなってくると「まあまあ」と丸く収めようとする夫役が、実にはまっている。

対して、この庶民側夫婦の妻がジョディ・フォスターであることに違和感を覚えていた。しかし、すでに触れたとおり、このキャスティングこそが計算尽くなのだと分かる。

所詮、子どもの喧嘩と軽くとらえている男親に比べ、子供が怪我をさせられたことに過剰に反応する神経質な母親では、少々役の方が不足している。

演技そのものは、さすがと言ったところなのだが、ジョディ・フォスターにやらせるならもう一捻り欲しいと思っていたら、きちんと役の方が彼女のビッグネームに追いついてくれるのだ。

話が進んでくる(喧嘩がエスカレートする)につれ、彼女のアフリカ事情に詳しい設定が効いてくる。

自らの住む場所から遠く離れたアフリカで絶えない悲劇について、心を痛めること自体には全く問題はなく尊敬すべきことなのだけれど、どこか自分ばかりが聖人気取りで、賢しい女の鼻につく様が、なるほど、ここはジョディ・フォスターのポジションだと感心させられた。

おとなのけんかは、被害者側の夫婦と加害者側の夫婦という対立から始まるも、先に少し触れたように事態をさほど深刻にとらえていない父親たちと、そうではない母親たちの対立という図式や、あるいは三つ巴、さらにはそれぞれの夫婦喧嘩へと巧みに形を変えることで、退屈させない展開。

私はあらゆる芝居のなかで、コメディは最も難しい部類に入ると考えているが、この作品の名優たちは文句なしの演技を見せている。

ポランスキー監督のセンスによるものかも知れないが、特に会話の「間」が完璧であるし、その巧みな演技力で産み出された「緊張と緩和」が的確に笑いを誘う。素晴らしい会話劇の小品と言えるだろう。

実にへんてこりんな映画

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美しい星

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

予報が当たらないことで知られる、お天気キャスターの大杉は愛人を車で送っていく途中、突如大きな強い光に包まれ気を失い、自らが火星人であると悟る。

すでに互いへの関心も弱まっていた彼の家族も、次々と金星人、水星人として覚醒。妻だけが一人地球人として家族旅行を夢見て、ネットワークビジネスにのめり込んでいく。三島由紀夫が1962年に発表したSF小説の設定を、現代に置き換え映画化した意欲作。

わたくし的見解

吉田大八監督は、ここ近年の作品で興行的に成功を収めていると言ってよいと思う。直近から遡ると宮沢りえさん主演の「紙の月」、口コミから上映期間をじわじわ伸ばし最終的に国内の映画賞をいくつも受賞した「桐島、部活やめるってよ」。

やはり、ある程度スマッシュヒットを飛ばしたからこそ、大手を振って今回のような壮大な茶番劇を作ることが叶ったのだと信じてやまない。

大変に出来の良い、そして上質な悪ふざけ(ただし大真面目でもある)であるから、さすがに今回は興行的には厳しいのではというのが私見である。

吉田大八作品に対する印象は、(あるある〜早く言いたい〜)イタい人が取り上げられがちであること。悪意のある表現での「イタい人」だが、作品自体にはあまり悪意がない。

かと言ってイタい人を、あたたかい眼差しで見てもいないし、どちらかと言えばフラットに眺めて批判もせず、でも人間てこんなんですよねぇ結構。みたいな体温の低さがある。

「ゆれる」などの西川美和監督が一貫して嘘つきを描いているのに対し、吉田大八監督は自分あるいは他者が作り上げた、嘘の世界で生きる人にスポットを当てている。

両監督が、比較的近いところに人間らしさ、人間臭さを見出していると感じているが、しかし似て非なるもの。嘘を発信する人が好きな西川監督、嘘に飲み込まれて嘘(虚)の中で生きている人が好きな吉田監督、と個人的に分類している。

どちらの場合も、さほど他人事ではないと言うか、案外誰にでも当てはまることのように思う。嘘をつく人と、虚の世界で生きる人。

さて、興行的には当たらないと踏んでいる本作のポイントは、今となっては口に出しただけで何故か胡散臭さが漂ってしまう「UFO」。

劇中で、はっきり「UFOを見たから」とのセリフはないものの、主人公家族が宇宙人と自覚したきっかけは確実にこれなのである。この名実ともにふわふわしたUFOを、どのように扱えばよいのか思案することが鑑賞者には課せられる。

未確認飛行物体という名称よりも、より明確に宇宙人(地球以外の星の生物)が乗っているものと捉えて頂きたい。

ロマンとしてUFOが好きな人以外は、完全否定する人と、より科学的に未知数の部分を鑑みて広い宇宙中探せばいるかも知れないけど、円盤型して地球人に見えるところをプカプカ飛んだりしないんじゃないのかと考える人に、大きく分かれるのではないだろうか。

そして、この映画においては、本当にUFOが来て主人公たちは、その肉体ではなく精神が宇宙人(地球人ではない)なのだと考えるべきか、あるいは地球人が結局そのように思い込んでしまっているだけなのか、という非常に危うい綱渡りが周到に展開される。

そのため作品の軸は、お天気キャスターの自称火星人が訴える環境破壊に歯止めが効かない美しい星、地球の存亡ではなく、自称宇宙人どもが果たして宇宙人なのか否かであり、どちらに転んでも見事なトラジコメディ(悲喜劇)として仕上がっている。

原作者の三島由紀夫の中では、宇宙人なのか否かは明確に念頭において創作したようだが、時代設定も現在から数年後に置き換えた本作では、さてどうだろう。わたくしは非常に上手く出来ていると感心した。

それでも、やはり(しつこいようだが)興行的にはムツカシイと思う。

だからもし、この作品を観ても何じゃコラと怒らないで欲しい。怒りそうなら観ないで欲しい。観たならイタイタしい人々を不謹慎と思わず笑ってあげて欲しい。笑い飛ばすことは、必ずしも上から目線である事にはならないのだから。

"Misirlou" 丸腰刑事のテーマ

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パルプ・フィクション

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

低俗小説(パルプ・フィクション)的エピソードを集積させ、オムニバス仕立てにしたクライムムービー。ヴァイオレンス、コメディの要素も強い。

ギャングのボスと二人の部下、ボスの妻、ボスが八百長を仕掛けたプロボクサーのエピソードがストーリーの主軸。94年アカデミー賞脚本賞カンヌ映画祭パルムドール獲得。

わたくし的見解

昨年末からブレイクし、今年のR-1ぐらんぷりで優勝したアキラ100%さん。丸腰刑事のテーマ曲が「パルプ・フィクション」のセンセーショナルなオープニングテーマと同一なのです。

あらためて本当にこの曲かっこいいなぁ、なんて感心しながら丸腰刑事の巧みなオボンさばきを眺めていたら、無性に「パルプ・フィクション」を観たくなってしまい、20年ぶりくらいで再鑑賞。

映画の冒頭で、パルプ・フィクションなる言葉の意味がテロップで表示されますが、まさに煽情的な音楽です。血湧き肉躍る、とはこの事か。

タランティーノの監督デビュー作「レザボア・ドッグス」に心酔した男子たちにとっては、満を持しての二作目でありメジャー作品と言えるものでした。一般の人にとっては、タランティーノは「パルプ・フィクション」から、のイメージが強いのではないでしょうか。

キル・ビル」のインパクトが強すぎるユマ・サーマンも、この頃は前後して「ガタカ」などの出演もあり、正統派のファッション・アイコン的存在。劇中、アニエス・ベーを見事に着こなしツイスト・コンテストに出場する彼女を、私も心底COOL、すこぶるイイ女だと憧れておりました。

また公開当時は、あの「サタデーナイト・フィーバー」のジョン・トラボルタが残念なくらい中年太りして、だけれども踊るとやっぱり格好いい! と騒がれていましたが、わたくし個人は往年の映画への思い入れもない世代のため、彼の長髪も似合うと思えず、欧米人がセクシーとのたまう割れた顎も解せず、正直ピンときていませんでした。

しかし時を経て鑑賞してみると、やはりジョン・トラボルタのダンスの実力はまったく目を見張るものがあり、超絶COOL。ユマ・サーマンとのツイスト・コンテストシーンは、ほんま痺れます。

激しさだけで踊る(しかし顔は無表情の)ユマ・サーマンに対し、あくまで冷静で、ともすればアンニュイに軽く流して踊るジョン・トラボルタ。彼がこの作品を機に、大人の俳優として返り咲いたと言っても過言ではないかも知れません。以降は、ちょっとクセのある、個性的な悪役として活躍する機会が増えます。

オムニバスの中で(プロローグを除く)最初のエピソードとして、ギャングのボスの妻であるユマ・サーマンとボスの部下の一人ジョン・トラボルタが、ボスの命令で食事に行きます。

他の部下が妻の足をマッサージしただけで、ボスから半殺しにあったと噂に聞いたヴィンセント(ジョン・トラボルタ)は、とにかく穏便に食事を済ませ家まで送り届けたい。しかし、ボスの妻ミアは美しく魅力的で、良い雰囲気になってしまった二人。

抗いがたいミアの魅力と、ボスへの忠誠心の間で煩悶していると、急転直下で下心が吹き飛ばされる事態に見舞われます。ユマ・サーマンは鼻血を出しても格好よく、すったもんだがありながら、最後は無事にミアを家まで送ったジョン・トラボルタの気障な去り際も、大変に洒落ています。

タイトル通り、くだらなく実に低俗なエピソードで構成されたオムニバスですが、時系列の置き換えだけでなく各エピソードのリンクの仕方が洗練されていて、下品なのにスタイリッシュの極み。それが「パルプ・フィクション」のすべて。

ほぼ同じ頃の作品「レオン」の悪徳警官、ゲイリー・オールドマンを俳優たちが真似したがるように、当時のクリエイターは「パルプ・フィクション」をこぞって真似した、そんな作品でした。

今観ても、この手のオムニバス作品の最高峰に位置していると感じますし、あの頃得た興奮、映画体験は何ものにも代え難い。

劇場鑑賞以降、20年あまり観ていなかった間もオープニングテーマの「ミシルルー」と、サミュエル・L・ジャクソンの唱える、旧約聖書のエゼキエル25章17節はずっと脳裏に残っており、また今後も私の頭から完全に消え去ることのない響きなのだろうと思えました。

上級者のこなれた抜け感

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カフェ・ソサエティ

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1930年代のハリウッド。その街は映画関係者のみならず、あらゆる種類の成功者と、成功を夢見る者で活気に満ちていた。

まだ夢見る側にいるニューヨーク出身の青年ボビーは、業界大手エージェントとして成功している叔父の紹介で、美しい女性ヴォニーと出会う。

アカデミー賞史上最多の24回ノミネート記録を誇るウディ・アレンが、片目をつぶっていても撮れるであろう、お得意のロマンチック・コメディ。

わたくし的見解

前回ご紹介したケン・ローチ監督に負けず劣らずの御老体、ウディ・アレン。彼くらいになると、もう息をするように脚本を書き上げ、ルーティンワークをこなすごとく、年に一本かるーく映画を撮ってしまう。

毎回似たような話やないかい、と突っ込むのもかえって野暮。近頃、性別を問わずファッション誌で多用されるワード「こなれ感」が、見事に映画として具現化したのがウディ・アレンの作品ですから、確かに「こなれ」てるのは大層お洒落であると実感しました。

ニューヨークを愛するあまり、9.11以降しばらくしてニューヨークを離れ、ロンドンを拠点に映画制作するようになったウディ・アレン

映画人のくせにハリウッドにさえ滅多に足を運ばず、ニューヨークから出ないことで知られてきたウディ・アレンですが、いったんヨーローッパまで行ってしまったら、きっと案外楽しかったんでしょうね。ちょっと古めかしい欧州の雰囲気も、彼の近頃の気分にマッチしたに違いありません。

とはいえ、ヨーロッパもだいぶ満喫できたしと思ってか思わずか、2013年の「ブルージャスミン」あたりから、作品の舞台を再びアメリカへと戻しつつあります。

今回の作品も物語の前半はロサンゼルス、後半はニューヨークを舞台に展開します。主人公はニューヨークの下町ブロンクス出身の青年で、言わずもがな当然ユダヤ人です。

演じるジェシー・アイゼンバーグは比較的小柄なこともあり、かつて自身で主演していた頃のウディ・アレンを代替するような役回り。気の利いた会話と楽しい人柄で、正直パッとしない外見ながら、最終的には美女を魅了するタイプです。

駆け出しの若者だったロサンゼルス時代も、成功者として地位を得たニューヨークでも、虚飾に満ちた社交界(カフェ・ソサエティ)のなか、一歩引いた目線で人々を観察し、人間あるいは人生を悟る主人公。

ニューヨークで成功した後、もう一人の美しいヴェロニカと出会い妻にすることが叶いますが、かつてロサンゼルスで恋をしたヴェロニカ(ヴォニー)と再会し心が揺れます。

すべてが大方の予想どおり進む物語ですし、それについても観に行く前からだいたい想像できていて、しかも結果なにひとつ裏切られる展開はない。

では一体この映画は何なんだ? と問われれば、オシャレ上級者の「こなれ感」や「抜け感」を楽しむ映画と答える他ありません。

ヒロインのヴォニーが主人公を「ヘッドライトに照らされて怯えた鹿みたいでスイート」と評し、上手いこと言いおるなと感心しつつも、考えてみればウディ・アレンジェシー・アイゼンバーグを見てそう思っただけに違いなく、結局ウディ・アレンが好きか嫌いかだけに、作品の評価は集約されてしまうのが厳然たる事実です。

好きな人にとっては、今回の作品もジューイッシュ(ユダヤ教ジョークが冴え渡り、人生のほろ苦さがサラリと描かれ、みごと期待に応える出来と思われます。

奇遇にも(現代の)ハリウッドを舞台にしたストーリーを要約すれば、身も蓋もない「ラ・ラ・ランド」同様、確かに幸せなのに、あり得たかも知れないもう一つの未来(人生)に思いを馳せ遠くを見るラストシーンまで、何もかも想定内におさまる。

ある種の映画のお手本のような作品。風薫る5月に、ちょっとお勧めしたくなる軽やかさです。

ちなみに、ジェシー・アイゼンバーグは猫背で何を着ても野暮ったいですが、ヴェロニカ、クリステン・スチュワートブレイク・ライブリーの二人は、本人たちの輝きもさることながら、CHANELの衣装とジュエリーによって、まさにゴージャス。

ファービュラス。決して会話のみならず、目に見えて実際オシャレ映画であることは間違いありません。

たらい回しホラー

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わたしは、ダニエル・ブレイク

映画情報

  • 原題:I,Daniel Blake
  • 制作年度:2016年
  • 制作国・地域:イギリス、フランス、ベルギー
  • 上映時間:100分
  • 監督:ケン・ローチ
  • 出演:デイブ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ、ケイト・ラッター

だいたいこんな話(作品概要)

イギリス北東部のニューカッスルで、長年大工として働いてきたダニエルは心臓発作を起こして以降、医師からは仕事を止められている。

働く意欲は強いが、心臓の治療が終わるまで収入を得る手段がないため、国からの援助に頼る他なかった。しかし、複雑な社会保障制度によって支払いは拒否されてしまう。

役所で手続きするうちに、同じように制度から見放されたシングルマザーとその子供たちと知り合う。彼らとの交流は心温まるものであったが、それぞれの生活は困窮していくばかりだった。第69回カンヌ国際映画祭で、最高賞パルムドール受賞作品。

わたくし的見解

ケン・ローチ監督といえば社会派。本作も混じりっけのない、もっすご分かりやすい社会派作品です。The 社会派、This is 社会派、とシュプレヒコールして街をねり歩いてもいいくらいです。

同監督は10年前にも「麦の穂をゆらす風」でパルムドールを受賞しているのですが、そちらはアイルランド独立戦争を描いているためか、(私自身が不勉強なこともあり)社会派な上にとっても真面目な作品、という印象しか残っていません。

くらべて本作は、現代進行形で起きている問題を扱っているからか、あるいは監督が御年80を迎え肩の力がいい具合に抜けた余裕の現れなのか、とりあげられている問題は極めてシリアスながらも、大変とっつき易くライトタッチに仕上げられています。

カンヌ映画祭の受賞作品は、よく分からんと評価されるケースが多々ありますが、本作に難解な部分はありません。

主人公は日本で失業保険にあたるものを申請するのですが、医師から働くことを止められているにもかかわらず、健康面で就労が不可能な時に求める受給の対象から外されてしまいます。

受給却下の審査結果を不服として再審査を求める手続きと、求職活動をしているけれども、職に就くことが出来ない場合の受給申請を同時に行わなければならないと役所から説明され、困り果てるダニエル・ブレイク。

お役所で手続きを行ったことがある人なら、おそらく誰でも感じたことのある不便さ(時には理不尽さ)を見せるところから物語は始まります。

手続きの書類を入手するのにインターネット以外の手段がないなど、日本より
も不親切な制度のようにも感じられますが、明日は我が身のあるあるネタです。

ユーモアのある皮肉たっぷりな口ぶりが魅力的な、主人公のダニエル・ブレイク。彼のおかげで事態の深刻さは、かろうじて見るに耐えるものになっていますが、物語は一貫して問題提起のみを行います。

単館映画館でよく上映されている、クセは強いが実は根はやさしい老人と、周囲の人々との交流をハートフルに描いた作品みたいなものを期待すると、キツイ思いをすることになる。

このあたりのシビアさは、いかにもカンヌで評価される類の作品と言えます。

日本とイギリスとの細かな社会保障制度の違いはあれ、作品を観ていて感じることは、ルール(制度)遵守にこだわることで、しばしば援助の必要な人にそれが与えられない結果を招くということです。

鑑賞者が主人公に寄り添って、物語のゆく末を見守ることが出来るのは、ひとえにダニエル・ブレイクなる人物が、至極まっとうな人だからこそ。

おそらく日本でもイギリスでも、実は援助の必要がない状況にありながら不正受給をしている人が、あたり前のようにしているズルを出来ない、曲がったことを嫌うダニエルの一本気な性格が災いし事態が悪化してしまう。

不正受給をなくすために設けられているルールなのだろうけれど、真面目な人が損をするのはおかしいんじゃないの?と(問題をあまり込み入らせずに)シンプルなところへ気持ちを持っていかせる見事なキャラクター設定です。

主人公ダニエル・ブレイクを演じているのはコメディアンで、俳優としては主に舞台で活躍している人のようです。この人こそダニエル・ブレイクそのものと思わせる見事な演技で、大半の鑑賞者は彼を好きなるはずですし、その好感度こそが作品の肝となる。

まさにタイトルロールとなるべくして、なっています。また、固有名詞がタイトルであるという点も、この映画の最大のテーマのひとつでもあります。

ケン・ローチ監督のさっぱりとした演出だからこそ、感情に訴えてくるものがあり、社会的な問題提起の手法として実に巧妙であると感心しました。

シニカルの糖衣錠

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アメリカン・ビューティー

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台はアメリカ、郊外の閑静な住宅地。うだつの上がらないサラリーマン、レスターは不動産業を営む妻とのあいだに娘を一人持つ、ごくごく平凡な中年男。妻とは倦怠期まっ只中、典型的なティーンエイジャーの娘はいつも不機嫌で会話もない。会社ではリストラ候補としてレポートの提出を求められる。

くさくさした毎日に変革をもたらしたのは、娘の親友アンジェラと、隣に越して来た少年リッキーとの出会いだった。

わたくし的見解

冒頭、薄暗い部屋で家庭用ビデオカメラに撮られている少女は「あんなパパ、死んで欲しい」と洩らす。カメラを構えているボーイフレンドは「僕が殺してあげようか」と答える。

その後、舞台となる住宅地の空撮とともに主人公によるナレーションが始まり、軽い自己紹介と「一年以内に俺は死ぬ、この時はまだ当然そんなこと知らないけどね」と、いきなりの死亡宣言が。

不吉な言葉のもたらす印象とは裏腹に、映像は晴れた日の愛すべき我が街、愛すべき我が家を丁寧にとらえます。

物語はひたすらにコミカル。その中で丁寧にうわべの美しさと、裏側にずっと隠してきたものを描き出します。

ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」のように、死んだ男の回想として繰り広げられる数日間。主人公は、いかにして死を迎えたのか。

エピソードの数々を常にシニカルな笑いでシュガーコートすることで、静かに漂っていた哀しみが、かえって浮き彫りに。そのバランス感覚の妙は、実に見事で鮮やかでした。

アメリカン・ビューティーとは、劇中にもしばしば登場し、画面に彩りを添えている深紅のバラの品種名だとか。

しかし同時に「アメリカン」は、作品に登場する(一見した限りは)絵に描いたように幸せな?アメリカの中流家庭を指しているに違いないし、さらに続く「ビューティー」の語をもってして、皮肉に満ちたこの物語を完璧に表現しているタイトルと言えます。

サム・メンデスにとって初映画監督作品であり、脚本家もまた(TVの脚本家として活躍していたものの)映画脚本を手がけたのは、これが初めてと言うから驚き。1999年公開の作品ですが、今観ても断然おもしろい。

またサム・メンデス監督は「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」において、「アメリカン・ビューティー」と同じ系譜の作品に取り組んでいます。そちらでは、一切のコミカルを捨て、洗練を極め、またしても高い完成度を実現させました。ぜひ比較しながら、ご覧になってはいかかでしょうか。

懐古主義による総天然色の夢

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ラ・ラ・ランド

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

他者から見れば笑われるような夢を追い求める街、ロサンゼルス。ハリウッドのカフェでアルバイトしながら映画女優を目指すミア。今では時代遅れのジャズを、思う存分演奏できる店をいつか持ちたいと考えるセバスチャン。

LA名物の渋滞の中で出会った、夢を追いかける一組の男女の物語をミュージカル映画全盛期の華やかさをもって実現させた、本年度アカデミー賞最多ノミネート作品。監督賞、主演女優賞など最優秀賞を多数受賞。

わたくし的見解

個人的にファーストインプレッションは、タイトルがダサいと思っていて、アカデミー賞最多ノミニーだろうが何だろうが、スルーしかねない作品でした。

しかし、これもまったく個人的に「エマ・ストーン」ウォッチャーを自負しているので、色々チェックしてみると、なんと「セッション」の監督作品で、しかもミュージカルだと知り結果、公開日を待ちに待つ形で気持ちの上では多少食い気味に鑑賞いたしました。

「セッション」も、ある意味のジャンル映画というか、音楽もの(かつ青春もの)ではあったのですが、いきなりミュージカルって「大丈夫? デイミアン・チャゼルぅ(監督)」と実は鑑賞前は少々心配しておりました。

ところが、完全無欠の見事なミュージカル映画で、めちゃくちゃ楽しかったです。しかも、ブロードウェイで成功したミュージカルの映画化ではなく、オリジナル作品という点も、楽しくて忘れていましたけど何気に凄いことだと思われます。

その凄さは、アカデミー賞で最多部門ノミニー(美術賞、撮影賞、作曲賞、歌曲賞などではウィナー)という形で反映されています。

そもそもデイミアン・チャゼル監督は大学卒業制作の初長編監督作品で、すでにミュージカルを手掛けており、その時予算や技術面などで実現できなかったアイディアをモリモリ盛り込んだのが、今回の「ラ・ラ・ランド」なのだそうです。

私ごときが「大丈夫ぅ?」などと心配するに及ばない実績と実力の持ち主だった訳で、いやはや失礼つかまつる。

歌や踊り、その画面構成などが素晴らしく、もちろん単純にその演出だけでも楽しめた作品ですが、そこにさらに往年の作品へのオマージュがたくさん散りばめられており、そのジャイアンツ愛に勝るほどの映画愛が、鑑賞時の気分の高揚に拍車をかけたことは言うまでもありません。

いや言ってますけどね。映画史に残ると思われる、本作品のオーバーチュアでの、テクニカラーを意識したあえてカラフルな女性の衣装。現在の規格よりも横幅の割合の大きいシネマスコープの採用も、オープニングを筆頭に様々な場面でその効果を遺憾なく発揮しています。

物語は大変にシンプルで、正直、作品の一曲目ですべて語られています。はじめは予告だけで全部わかってしまうほどの、単純な男女の出会いと別れ、だと捉えていました。

しかし、CMなどで告知されている通り、夢追い人の物語に他ならないのです。私のような「セッション」ファンをニヤリとさせる、Jazz is deadの現実に、主人公の一人セブが葛藤する匂いづけと同様、ラブストーリーはあくまで夢の実現のサイドストーリーに過ぎない。

けれど、この単純なラブストーリーを珠玉なものにしているのは、一度は交差した二人の人生が、夢が叶ったことで離ればなれになってしまう、ベッタベタな切なさ。そして何より、この恋愛なくして二人の夢は実現しなかったことに尽きます。

この作品に向けられる批判は、おそらく「意外性のないストーリー」についてが最たるものかと想像しています。ただ私は、この手の作品に複雑な物語は不要だと考えています。

ミュージカルは歌と踊りを見せる必要があるので、視覚、音響の情報量が多くなります。舞台よりも映像の情報量が増える映画ならば、なおのこと。単純なストーリーは、ミュージカル映画の飽和しがちな情報量とバランスをとることに長けていると思うのです。

あと、あまりにも楽しくて忘れていたことが、もうひとつ。

そもそもミュージカルを受け入れられない人には、ストーリーの重厚さに関わりなく、まったく何っにも面白くない映画だと思うので、私や世間がどれだけ煽ってもスルーして下さい。

ただし、ミュージカル好きの自覚がある場合には(最終的な評価の保証は出来ませんが)オープニング10分だけで、映画一本分の価値がありますので必ずや鑑賞をおすすめします。