映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

ルイ帰る

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たかが世界の終わり

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

劇作家のルイは、自らの死期の近いことを知らせるために、疎遠にしていた家族の元へ戻った。母と妹の暮らす家に兄夫婦も訪れ、ルイの帰郷を待ち構えていた家族。しかし、血の繋がった家族にも12年ぶりの再会は一筋縄にはいかず、個々の思いにささやかな衝突が絶え間なく生まれるのだった。

お洒落をし、ご馳走を作り、気持ちの高揚を抑えきれない母。気がつけば大人になっていた妹。家族の面倒を実際的にすべて引き受けている兄。初めて会う兄嫁。ルイは帰郷の理由を打ち明けられないまま、時間ばかりが過ぎてしまう。

わたくし的見解

日本語的使用法から少し離れて、そもそもテンション(tension)とは、引っ張る力。「張りつめている」ところから「緊張」などの意味あいになるのだと思われますが、日本語的にも英語的にも、テンションの高い強い作品です。劇中、のべつまくなし喋られる言語はフランス語ではありますが。

ハリウッド映画にひっぱりダコの、マリオン・コティヤールと比べれば知名度は劣るものの、母親役のナタリー・バイを筆頭に、新旧フランスを代表する主役級のキャストで固められた、この映画のこの家族。

ほんと、一人ずつで一本ずつ主演映画撮れるような豪華なメンツですが、作品を観てみるとなるほど。結局、全員主役なのです。正直、主人公のギャスパー・ウリエルが一番サイドキャスト、語りべポジションと言うか、傍観者と言うか。家族が物凄いテンションで怒鳴り合う姿を、やるせなさそうに眺めるばかり。

なぜ、そこまで緊張が高まってしまうかと言うと、12年ぶりに帰省したルイは、家族にとって鬼っ子に他ならないからです。知的レベル、感受性、家族の中でルイだけが違う次元にいて、家族の誰もが彼を理解できずにいる。慕っていないのとも違う、愛していないのとも違う。ただ理解できない存在であることが、家族にとって異物としての彼を際立たせます。

その上、ルイはその研ぎ澄まされた感受性を活かし芸術家(劇作家)として社会的にも成功していて、その事も家族にある種の負い目を感じさせ、ますますナーバスにならざるを得ない。

登場人物が少ないことを補うかのような、あまりにも膨大な台詞の量に圧倒されます。編集しているとは言え、よくこれほどの言葉の掛け合いを一気にできるものだと、ここで改めて主役級のキャストの力量を思い知るのでした。

しかし大量の台詞群は、そのどれも台詞らしからぬ、とても日常的で家族間ゆえに遠慮のない、時には過度に相手を傷つけるような言葉が見事に選ばれており、大変によく出来た脚本だと感心していたのですが、そもそも原作が舞台戯曲なのだそうで至極納得です。

主演クラスの俳優による台詞の応酬は素晴らしいのに、少し接写に頼りすぎている映像が気になりました。あえて映画としての欠点を挙げるとするならば、この点かと思われますが、中産階級あるいは労働者階級の、決して広くはない実家を舞台にした密室劇とも言えるので、人物に寄らない引きの映像では、かえって不自然になってしまうのでしょう。

当然、接写の方が緊張感の演出効果もあります。また舞台とは違う映画ならではの演出も、きちんとなされており、世界から大注目の若手監督であることも十分理解できました。「たかが世界の終わり」はカンヌ映画祭で(最高賞ではない)グランプリ受賞作品で、これもまさにその通りだな、と。

カンヌのは苦手なんだよな、という人には必ずや苦手系作品でありましょうし、パルムドール(最高賞)ではないのも確かに、あと一歩まだ早い、まだ若い作品であることは否めない。とは言え、グザヴィエ・ドラン監督は本当にまだ若く(なんと、20代!)驚きの成熟度であること、大注目株であることに間違いはありません。

最後に、個人的に最も印象的であったことを幾つか挙げると、注目作品に主演するのは少し久方ぶりだったギャスパー・ウリエル(かつての美少年)が、良い感じに老け、大人のイイ男になっていたこと。

舞い上がって見せていても、その実やはり一番冷静に家族のすべてを思いやっている母親を演じていた、貫禄のナタリー・バイ。

そして、マリオン・コティヤールの、善良であること以外に何ひとつ取り柄のない普通のおばさん(兄嫁)の演技の完成度の高さは見事でした。強い女性を演じることが多い人なだけに、その振り幅の広さに、彼女のひっぱりダコの必然を感じました。

モノクローム、モナムール

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女の中にいる他人

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

夕刻の東京、赤坂。青ざめた顔で歩く田代は、ほどなくして近くのビアホールで、長きにわたる友人の杉本に声を掛けられる。互いに仕事帰りであったが、二人は鎌倉の住まいも近く、家族ぐるみの付き合いをするほど親密だった。行きつけの店で飲み直す田代と杉本に一本の電話が。それは杉本の妻が、赤坂で亡くなった知らせだった。

わたくし的見解

個人的には、成瀬巳喜男監督というと、林芙美子原作の女性映画のイメージが強くある。事実、女性映画の名手として知られているけれど、この時代の映画監督の作品数は、現代のそれとは比べものにならないほど多く、実際には実に様々な作品を手がけている。

女の中にいる他人」も、タイトルの印象とは違い、物語の大半は主人公の「男性」田代が、心理的に追いつめられていく様子が描かれる。

小津作品では、汗などかくこともなさそうなほど神格化された女優、原節子に驚くほど人間臭い芝居をさせるのが成瀬監督。しかし本作では、テレビCMみたいに郊外で暮らす理想的な家族像を描きだす。まるで小津映画ばりにハイソで、所帯じみた様子がおよそ見当たらない主人公ファミリー。市井の人々とは一線を画した、ブルジョワジーの匂いすらする。

私は、成瀬作品では特に「稲妻」がお気に入り。これは(時代設定が多少異なるとは言え)「女の中にいる他人」とは対照的に、所帯じみったれたド庶民の家族を見ることが出来る作品だ。面白いのは、ブルジョワ臭がプンプンの本作も、こってこての生活感漂う「稲妻」も、ふとフランス映画のような趣きを感じさせるところにある。

特に「女の中にいる他人」は、外国文学を原作としているせいもあって、テーマも含め、より一層ヨーロッパ的。映像も強いコントラストを用いたモノクロで、本来その言葉が指すものとは厳密には違うにせよ、フィルムノワールと呼びたくなる作品だ。

内容は、ひらたく言ってしまえば、自責の念にかられる。ただ、それだけの物語なのだ。罪を犯した者が、良心の呵責に耐えられなくなる。日々のささやかな出来事が、罪の意識を持った主人公をどんどん追い詰めていく。

心の機微を丁寧に捉えている、とベタな表現が当てはまるも、果たしてタイトルの「女」はいつ登場するのか。という思いを、ずっと持ちながら鑑賞することになる。何しろ、見せられるのは小林桂樹演じる田代の心の機微なのだ。

「女」と言えば、物語が始まった時にはすでに死んでいる杉本の妻と、テレビCMみたいに出来の良い田代の妻だけである。映画における「女」は、消去法で当然、田代の妻になるが、ずっと田代中心で動いていた物語が、いつのまにか田代の妻に視点が移っている展開は鮮やか。

演出も、これまた超ベタなのに、どうしようもなく洗練されていて、やはり職人監督以上の力量を感じずにはいられない。

女の中にいる他人」は昨今、BSドラマでリメイクされている。連ドラの、こってりたっぷりも面白いと思うが、オリジナルの、あっさり味なのに重厚な感じも少しお勧めしたい。

極端に趣きが違うが、バカリズム脚本ではっちゃけていた「黒い十人の女」のオリジナル(市川崑監督作品)も、女優の美しさ目当てだけでも価値がある作品。モノクロ作品が苦手でなければ、試して頂きたい。

老奉行に蝿たかる

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沈黙 -サイレンス-

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

17世紀、日本は江戸時代初期。宣教師フェレイラ神父が日本で棄教し、さらに日本人になっているとの手紙が、ポルトガルイエズス会に届いた。フェレイラ神父を師と仰ぐ、若き司祭ロドリゴとガルペは、手紙は商人による情報に過ぎないと、真相を確かめるべく日本への渡航を決意する。

辿り着いた長崎では、キリシタンへの厳しい弾圧が行われていた。奉行所に捕らえられたロドリゴとガルぺは、かつてのフェレイラ神父と同様に棄教を強く迫られるが。

わたくし的見解

日本人の書いた物語が、他の言語、文化、宗教をバックボーンに持つ人、いわゆる外国人が映像化したものに対して、とても興味があります。日本のコミックが原作で、ハリウッドリメイクまで果たした韓国映画オールドボーイ」や、ベトナム出身のフランス人監督によって映画化された「ノルウェイの森」など。

まして遠藤周作原作の「沈黙」を、あのマーティン・スコセッシが手がけるとなれば、見逃すわけにはいかない。と興奮したのは、果たして何年前のことだったか。

配給会社は、マーティン・スコセッシが原作を手にしてから「28年」の歳月を、やたらと強調していますが、具体的に企画と制作が動き出してからも結構な年月が経っており、私はてっきり頓挫したものと(実際、一時期頓挫していたようだし)正直諦めていたくらいであったので、もう、実現しただけでも軽めの感動がありました。

そのような感慨は神棚に放りあげても、評価すべき点の多い作品だと断言したい。おそらくアメリカでの興行は(マーティン・スコセッシの作品としては)あまり期待できないだろうから、せめて日本では多くの人が鑑賞し、監督の熱意に報いたい、などと偉そうにも思っております。

実に興味深いテーマの作品ですが、それについては原作によるところが大きいので、先に日本を舞台にした海外映画としての評価を日本人目線でしたい。まず、侍がオカシくない事にマジ感謝。というか、その気になればちゃんとしたサムライ、ゲイシャを描けるなら、普段はよほどバカにされているのかもと疑心暗鬼。

日本語パーツの台詞回しも少しもオカシイところはなく、とても丁寧に調整されていて、変なストレスなく鑑賞できます。目の当たりにする拷問、苦悩、葛藤の連続、映画は終始重苦しい内容なので、不要なストレスが無い事はとても重要なのです。

信仰を棄てることを強要され、肉体的にも精神的にも苦しめられる状況が続くなか、何故、神は沈黙しているのか。若き司祭、ロドリゴの心は砕けそうになります。

神の沈黙の理由について、答えは見つかるのか。ロドリゴは信仰を棄てるのか。かつて原作を読んだ時に惹きつけられたテーマとは別に、今回の作品では新たな着眼点がありました。

イッセー尾形演じる井上様、浅野忠信演じる通辞役などの長崎奉行側と、イエズス会司祭のやり取りは実に興味深いものでした。

キリシタンイエズス会の聖職者は信仰の自由を求め、感情で強く抵抗します。対して奉行側は貴重な労働力であり収入源でもある農民たちの弾圧が目的ではなく、あくまで政治的判断で「キリシタンではない」ことを誓わせようとする。

その様子は、単純に善悪の図式が当てはめられるものではなく、そのあたりが比較的フェアな視点で描かれることで、神の沈黙、神と自らの信仰という最大テーマへ集約されていく流れは、非常によく出来た構成ではないでしょうか。

拷問を受け、あるいは殉教していった人々の命は決して軽んじられるべきではないものの、その後約200年続く天下泰平を思うと政治判断としては正しかったと考えられ、だからこそ複雑な思いで見届ける物語でもあります。

ここでは、あまり触れずに終わってしまいますが、キチジローという人物は裏主役なので、ぜひ大注目して鑑賞されたし。

シンプルにこの人をユダとして見ることは、作り手側からの狙いであることは確かですが、イエスにとってのユダにしろ、ロドリゴにとってのキチジローにしろ、神と向き合うにあたり重要な人物だったことに変わりなく、そしてこのような人間のために宗教というものは存在しているのではないだろうか、と私には思えてなりません。

神、あるいは宗教とは、弱く、しかし、したたかにも生き続ける人々に寄り添うものなのでは、と。

不屈の欠陥ヒーロー

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アイヒマンを追え!

映画情報

  • 原題:Der Staat Gegen Fritz Bauer
  • 制作年度:2015年
  • 制作国・地域:ドイツ
  • 上映時間:105分
  • 監督:ラース・クラウメ
  • 出演:ブルクハルト・クラウス、ロナルト・ツェアフェル

だいたいこんな話(作品概要)

1950年代、ドイツ。終戦から10年以上が過ぎ、国全体が戦後復興に傾くなか、ユダヤ人である検事長のフリッツ・バウアーは、ナチスによる暗黒の歴史を風化させまいと戦犯の告発に奮闘していた。

しかし、思うように成果が挙げられず苦しむ中、ユダヤ人の強制収容所への移送責任者であったアドルフ・アイヒマンが、アルゼンチンに潜伏しているとの情報を得る。

未だドイツ国内の上層部で要職に就く、かつてのナチス党員の妨害や脅迫が続く状況で、果たしてバウアーはアイヒマンを捕らえることが出来るのか。

わたくし的見解

つい数年前、ヒトラーを冠する作品が立て続けに公開される時期があった。ちょっと流行っているのか、とさえ思った。そして、昨年は「アイヒマン・ショー」という、アイヒマンの裁判をTV放映しようとする人々を描いたイギリス映画が公開され、今年は今回紹介しているドイツ映画とは別に、アイヒマン関連のハリウッド作品も公開される。

映画「JFK」のラストのように、今まで政府(とか)によって伏せられてきた、ヒトラーアイヒマンに関する事実が公開されたりしたのだろうか。はたまた、一度はグローバルを目指していた国々がばらけ、排他的でキナ臭いムードを無視できない世界情勢の中、ナチスの行ったことに何となく再び注目が集まっているのか。

などと、ついつい変な勘ぐりをしてしまう。実際は、特にヒトラーに関して言えば毎年ひとつは必ず関連作品が公開されているのであり、キナ臭いムードとのこじつけは、連日トランプ大統領の言動に翻弄されている報道を目にしているせいに他ならない。

本来、私という人間は、現在の世界情勢やホロコーストの歴史的事実についてなどは、目を背けてはいけないという認識だけ持っておいて、出来うる限り横目で見たり、見て見ぬ振りしたりしたいタイプなのだ。

じゃあ何で、正月ムードが抜けてきたとは言え、年始早々に堅苦しそうな映画を紹介するのかと言えば、シンプルに面白かったから。お正月的オメデタさはないけれど、大人向けのエンタメ作品として十分に楽しめた。

この作品でアイヒマンについては、ほとんど描かれていない。お陰で、しんどい思いをせずに鑑賞できる。と同時に、アイヒマンについての知識がまったくないと、さすがに面白くないのでサクッと検索しておくなり、前述した「アイヒマン・ショー」や、もう少し以前に公開されている作品「アンナ・ハーレント」を観るなどの下準備が必要かも知れない。

個人的には(大した本数は知らないながらも)ドイツ映画は雰囲気で誤魔化さない、質実剛健で潔い作風と捉えている。ファッショナブルでもアーティスティックでもないけれど、奇をてらわない良さがある。おしゃれ感は乏しいものの、しかし洗練されていて、面倒臭い展開もまずない。案外テンポもいいので、真面目でつまらないタイプではなく、真面目ながらも面白い。

本作もそれに当てはまり、史実を知っていれば結果は見えていても、その経過をサスペンスとして存分に味わわせてくれた。

主人公のバウアーの描き方が絶妙。不屈の精神で使命を果たそうとする人だが、かつての亡命先で逮捕歴があるなど欠点も示しつつ、地に足が着いた現実味のあるキャラクターとして確立していた。バウアーの他の登場人物も、だいたいオッサンなので絵面に華はない。ただ、味はある。

今ではナチスと言えば凶悪の極みとして、強い拒絶反応が示されるのに、バウアーによるアウシュビッツ裁判が行われる以前のドイツ国内は、大戦中の悲劇をおそらく無意識的に見て見ぬ振りして、やり過ごしていた。そのことが、よその国の違う時代のことと思えないリアリテイティーがあり、静かな衝撃を覚えた。戦後復興が優先されることは決して間違いとは言えない。

だからこそバウアーは言ったのかも知れない。「事実と対峙することが、どんなに大事でも、君たちの親世代には無理だろう。しかし君たち若者は、それが出来るのだ」この言葉は、彼がただの理想主義者でも、ユダヤ人として復讐の鬼と化しているのでもない、深い愛国心の持ち主であることを示していたのだと、しばらくして気づいた。

原題には、アイヒマンの名前はなく「国家(英題では、人々)対フリッツ・バウアー」であることに至極納得できる。あらゆる試練を乗り越えアイヒマンを追った、フリッツ・バウアーの闘いの物語だった。

おれがあいつであいつがおれで

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君の名は。

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

神社の石階段から同時に転がり落ちた滝と三葉は、互いの心と体が入れ替わってしまう。滝の体には女子高校生の三葉の心が、三葉の体には男子高校生の滝の心が。他人というだけでなく、いきなり異性の体になってしまった自分に戸惑いながらも、どうにかそれぞれの学生生活を送ろうと七転八倒の日々が始まる。

しかし、二人にさらなる試練が。実は、滝は地球上から植物が絶滅した後の時代からタイムトラベルしてきた、未来人だったのだ!滝は未来に戻る期限が近づいているのに、二人の体はまだ入れ替わったまま。ティアマト彗星が1200年ぶりに地球に最も接近する日が、滝の未来に帰らなければならないリミット。その時は、刻一刻と近づいてくるのだが。

(今回の「だいたいこんな話」は、ほぼほぼ嘘です……)

わたくし的見解

シン・ゴジラ」ヒットの興奮もまだ冷めやらぬ、8月の末に公開されて以来、快進撃を続ける「君の名は。」。

本年度のみならず歴代興行収入を見ても、押しも押されもせぬ大ヒット作品となりました。TVショウでもインターネットでも、日々伝えられる作品の魅力、そしてヒットの要因分析。犬も歩けば耳にする、前前前世。観客動員は1千万人を超えたとか、原作小説の売上は100万部突破したとかハンマカンマ。

溢れかえる情報の波にのまれ、すっかり観た気になっていたのですが、実は先日やっと鑑賞したばかりなのです。

新海誠作品が苦手だったので、このまま何となくスルーしようとさえ思っていたのですが、ここまでヒットしているなら普通に面白いはず。素晴らしいエンタメと、あちこちで絶賛されていたので、それなら今までの新海作品とはだいぶノリが違うのだな、と安心して鑑賞に臨みました。

映画好きを自称しておいて、観ていない作品にケチをつける訳にも参りませんし。文句を言うなら観てから、とも思った次第。

ヒット作品は大抵そうなるのですが、大絶賛と酷評が入り乱れます。「君の名は。」の食べログ的口コミ批評の賛否両論具合は、もはやジブリ作品のそれとよく似ており、大したものだと逆に感心したりして。

わたくし的には、新海監督が大人になったところが、実に評価すべきところであると思います。特に初期作品において、一人で全部やってて凄い才能が出てきたと高く評価されていた新海監督なのですが、一人でやらない方がよくない? というのが個人的本音でありました。

ある意味で、それは完成形でもあった訳ですが、一人で作ることの限界も同時に強く見えてしまっているのが、新海監督の初期作品でした。才能は否定しません。

でも、例えば脚本や演出において、さらに才能のある人とタッグを組めば、もっと可能性が広がるであろうに、何故しない。という歯痒さが彼の作品への苦手意識の最たる部分だったので、「君の名は。」は、そういったモヤモヤが解消されて、スッキリ爽快。これなら、まださらなる高みも期待できそうな。空も飛べるはず、そんな気分です。

キャラクターも気持ちの良い人物像へと刷新されたように思えます。村上春樹作品で言うところの「1Q84」が、「君の名は。」にあたります。それまでの作品の主人公は基本受け身で、主人公ゆえに魅力的に描かれてはいるものの、やや苛々がつのる人物だったのが、今回は大変に能動的で、好感が持てる上に応援したくなっちゃう。これって、とても重要だと思うのです。

ここが良くなった、あれも良くなっていると思えたネオ新海作品ですが、これは新海誠の進化というより、川村元気という人の功名ではないかと信じて疑わない私。幅広い層に受け入れられる作品づくりへのティップスを作家に与えたのは、商魂たくましい東宝のエース、川村元気に他ならないはず。

この作品、単純にテンポが良いだけではなく、映画を観ない観たことがない層を明らかに意識した作りで、ドラマやアニメのオープニングのような冒頭部分、高らかに鳴り響く主題歌とPV的映像でグッと観客を惹きつける手法は、その最たるもの。

映画好きには違和感ありありの演出ですが、エグい手法ながらも出来は良く、私としては「絶対にヒットさせる!」という強い意気込みに気圧され、かえって清々しいわ、とさえ感じました。

おそらく今となっては、さほど多くない映画好きを唸らせる作品をつくることも、映画にたずさわる人間として叶えたいことでしょうが、これほど趣味が多様化した現代において、映画館で映画を観ない観たことのない大多数の層を新たに取り込むことも、やはり映画人として今やっておくべきことなのだと思います。

不景気ムードの中、失われた世代なんて呼ばれて細々生きてきた私としては、「君の名は。」あったよねー! 高校生の時に見た見たぁー! と、いつか同世代の共通の話題として嬉々として盛り上がれるであろう今の若者たちが、ほんのチョビッとだけ羨ましく思えたり。

大ヒット作品というのは、そういう効能もあるだと思い知らされました。

嘘つきへの眼差し

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永い言い訳

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

流行小説家、津村啓は近頃はその作品より、端正な風貌を活かし文化人としてのテレビ出演で世間に知られていた。

ある時、小説家として大成する以前より長く連れ添っている妻が、親友とのバス旅行に出かけたまま帰らぬ人となる。ニュースで大きく報道されたバス事故だった。著名人である津村は、マスコミから突然の悲劇に見舞われた遺族の代表者として注目されてしまう。

わたくし的見解

事故、災害で、愛する人を突如失った人物を取り上げた作品は少なくないだろう。そういった形で訪れる別れは、あまりに予告なく叩きつけられ、残された者には処理するまでに時間がかかる。処理、つまり現実を受け止めることから、まず容易ではない。まして、その傷が癒えるまで、となればさらに膨大な時間を要するだろう。

この作品が取り上げたのは、すでに愛していない人を突如失ったなら「残された人はどうなってしまうのだろう」だった。

西川監督らしい、実にイケズなテーマである。常に(愛すべき)嘘つきを描き続けてきた監督が今回取り上げた人物は、おっと初めて嘘つきではないのかしら。と思ったりもした。しかし、詐欺師や偽医師ではないにしろ、小説家とは嘘つきの権化ではないか。うっかりうっかり。犯罪者でなくとも嘘つきは幾らでもいるのだ。

挙げ句、主人公の津村啓こと衣笠幸夫はマスコミの前で、成り行きとはいえ、愛する妻を失った悲劇の夫を演じる筋金入りの嘘つきだった。すでに、この夫婦には愛情などなかったのに。

しかし夫婦とは怖ろしいもので、関係が冷めきっていても当然のようにそこにあった暮らしが一気に崩壊してしまう。特に生活(の匂いのすること)ほぼ全てを妻に任せていた幸夫にとって、妻の死後の暮らしの堕落ぶりは顕著だった。それだけならば、愛する妻を失った場合も同じような顛末になっただろう。けれど、幸夫の場合は妻が事故に遭ったその時、最悪の形で妻を裏切っていた。

さまざまな負い目のある幸夫と、見事な対比を見せる大宮陽一の存在は秀逸。幸夫の妻、夏子の親友で、同じくバス旅行で亡くなった大宮ゆきの夫が陽一である。こちらは、大変に物語にしやすい「愛する人を突然奪われた人物」の典型である。

仕事において汗などかかず、小綺麗で洒落た服をこなれた感じで着こなす中年男性の幸夫とは対照的に、ブルーワーカーで肉体派、手に負えないような直情型の大宮陽一は、少し過ぎるほどの単細胞に描かれており、ともすれば主人公を際立たせるための駒に成り下がりかねない。

ところが陽一の、こういうタイプの人のリアリティーを維持しているのは、竹原ピストルの持つ匂いのせいか。それとも、その匂いを巧みに嗅ぎ分け配置した監督の功か。

主人公、幸夫も、裏主人公の陽一も、どちらも違うタイプの駄目男なのだ。劇中のマスコミも、あるいはこの映画の鑑賞者も、陽一の人間臭さに好感を示すだろう。わかりやすく妻の死を悲しみ泣きまくり、残された子供たちとの生活に四苦八苦している様は、心を打たれるし共感しやすい。しかし、西川監督は明らかに幸夫の駄目さに共感しているように感じられた。

西川監督も幸夫も、ひねくれているのだ。わかりやすく涙を流せない人なのだ。おそらく、全く妻を愛していない訳でもないのだ。大宮家のそれとは違っても、長く連れ添ったなりの情は確かにあって、しかし泣けない性分なのだと思う。そういう人の苦しみもあるというのを描いてみたかったのではないだろうか。

思えば、映画監督も小説家と同等に、虚業とまでは言わないにしろ、嘘つきの権化である。そして世の中に、嘘をついたことのない大人などいるだろうか。西川監督の嘘つきへの眼差しは、今作でもやはり、あたたかかった。

蛇足になるが、是枝裕和監督とよく組んでいる山崎裕氏の撮影は今作でも素晴らしく、西川監督の、子供を使うのは大の苦手意識をまったく感じさせない大宮家の子供らの自然体、そして昨今では珍しいフィルム撮影による映像も必見。

何て言うんですか、開放感

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カッコーの巣の上で

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1962年発表のケン・キージーの小説が原作。ロボトミー手術や当時の精神病院の劣悪な環境を扱った内容ながら、興行的にも大ヒットした。

刑務所での強制労働を逃れるため、精神疾患を装い精神病院に入院してきた主人公が、患者の自由と尊厳を勝ち取ろうとする物語。そもそもは犯罪者である主人公が、精神病患者に対し他の者と同等の人権を認めるアンチヒーローとして、不思議な魅力を放つ。

ジャック・ニコルソンの名演技のみならず、アメリカン・ニューシネマを代表する作品の一つ。

わたくし的見解

この作品の内容が、公開当時の1970年代において、センセーショナルであったことは想像に難くない。想像に難くないだけで、今は当時ほどは衝撃的ではないのも事実だと思う。

しかし、この作品から30年以上経った比較的近年のものでも、ミロス・フォアマン監督作は、かなりエッジが利いていることが大変に興味深い。むしろ以降の作品の方が、年老いて「なお」ではなく、年老いて「さらに」尖っており、映画監督として希有な存在だと感じる。

かつてどれほど奇才ともてはやされた監督も、いずれは良くも悪くも作品に老いが感じられるものだけれど、フォアマンはつくづくROCKな爺さんだと思う。否、PUNKか。

1996年の作品「ラリー・フリント」では、表現の自由を勝ち取るための闘いを取り上げている。こちらも「カッコーの巣の上で」のジャック・ニコルソン演じるマクマーフィー同様に、ポルノ王という世間が眉をひそめるようなアンチヒーローを生み出した。

大きな体制に抗う者こそが、ナチスの台頭やソ連によるチェコへの軍事介入(1968年のプラハの春)を経験したミロス・フォアマンにとってのヒーローなのかも知れない。

アマデウス」は、稀代の天才モーツァルトの誕生という、歴史上の事件を目の当たりにしたサリエリによって語られている。サリエリは後世において、モーツァルトと比べて無名に等しいが、事件の目撃者が劇中最も著名人であるのが「カッコーの巣の上で」から、およそ30年後の作品「宮廷画家ゴヤは見た」である。

2時間サスペンスの家政婦はホニャララに寄せた邦題から窺えるように、ある事件について第三者の視点をもって描かれている。キリスト教による異端審問、いわゆる魔女狩りを扱ったもので、最後にゴヤが「もぉ、たくさん! 狐と狸の化かし合いっ」と事件を断罪することはないのだが、その代わり目の前で起きる様々な悲劇を作品にするようになる。後期のゴヤは宮廷画家という、安定した公務員(しかも、ほぼ官僚に近い地位)的職業画家でありながら、作品によって事件を伝え記録するジャーナリストの側面も強かった。

そういった濃ゆい作品群のせいで、「カッコーの巣の上で」について生意気にも、まあまあ。などと評価してしまう私だが、ラストの開放感だけは、どうしても誰かに伝えたい感動があった。

作品のメインテーマではないが「宮廷画家ゴヤは見た」でも取り上げられている、かつての精神病院の悲惨な状況が、物凄い迫力をもって描かれている。フォアマン作品の真骨頂とも言うべきか。抗うべき対象、体制からの弾圧を映画の中では精神病院という箱で描いているのだろう。

しかし、「カッコーの巣の上で」を観ていていると(解釈は人それぞれあるだろうし、私にまったく同意できない人もいるに違いないが)病院の中も外も一緒、と表現されているように感じる。「病院の外には自由があると思いがちですが、本当にそうですか」と示されているように強く感じるのだ。

マクマーフィーは手術によって、おそらく自我が失われてしまった。少なくともそう考え、主人公の自由は病院の外でも叶うことはないと判断し、友人のネイティブアメリカン男性チーフは、彼に生からの解放としての自由を与える。その自由が正しいのか私には判断できず、大変に重たい心持ちで迎える映画のラストで、チーフは病院を脱出する。彼が生きたまま、その場を抜け出す時の、えも言われぬ開放感。

希望と呼べるほどの神々しさはないが、希望を全否定しない自由を求める活力がとても眩い。こんな感覚を味わえるなんて、映画って本当に素晴らしいと思える。そんな作品です。