何て言うんですか、開放感
カッコーの巣の上で
映画情報
- 原題(英題):One Flew Over the Cuckoo's Nest
- 制作年度:1975年
- 制作国・地域:アメリカ
- 上映時間:133分
- 監督:ミロス・フォアマン
- 出演:ジャック・ニコルソン、ルイーズ・フレッチャー、ブラッド・ドゥーリフ
だいたいこんな話(作品概要)
1962年発表のケン・キージーの小説が原作。ロボトミー手術や当時の精神病院の劣悪な環境を扱った内容ながら、興行的にも大ヒットした。
刑務所での強制労働を逃れるため、精神疾患を装い精神病院に入院してきた主人公が、患者の自由と尊厳を勝ち取ろうとする物語。そもそもは犯罪者である主人公が、精神病患者に対し他の者と同等の人権を認めるアンチヒーローとして、不思議な魅力を放つ。
ジャック・ニコルソンの名演技のみならず、アメリカン・ニューシネマを代表する作品の一つ。
わたくし的見解
この作品の内容が、公開当時の1970年代において、センセーショナルであったことは想像に難くない。想像に難くないだけで、今は当時ほどは衝撃的ではないのも事実だと思う。
しかし、この作品から30年以上経った比較的近年のものでも、ミロス・フォアマン監督作は、かなりエッジが利いていることが大変に興味深い。むしろ以降の作品の方が、年老いて「なお」ではなく、年老いて「さらに」尖っており、映画監督として希有な存在だと感じる。
かつてどれほど奇才ともてはやされた監督も、いずれは良くも悪くも作品に老いが感じられるものだけれど、フォアマンはつくづくROCKな爺さんだと思う。否、PUNKか。
1996年の作品「ラリー・フリント」では、表現の自由を勝ち取るための闘いを取り上げている。こちらも「カッコーの巣の上で」のジャック・ニコルソン演じるマクマーフィー同様に、ポルノ王という世間が眉をひそめるようなアンチヒーローを生み出した。
大きな体制に抗う者こそが、ナチスの台頭やソ連によるチェコへの軍事介入(1968年のプラハの春)を経験したミロス・フォアマンにとってのヒーローなのかも知れない。
「アマデウス」は、稀代の天才モーツァルトの誕生という、歴史上の事件を目の当たりにしたサリエリによって語られている。サリエリは後世において、モーツァルトと比べて無名に等しいが、事件の目撃者が劇中最も著名人であるのが「カッコーの巣の上で」から、およそ30年後の作品「宮廷画家ゴヤは見た」である。
2時間サスペンスの家政婦はホニャララに寄せた邦題から窺えるように、ある事件について第三者の視点をもって描かれている。キリスト教による異端審問、いわゆる魔女狩りを扱ったもので、最後にゴヤが「もぉ、たくさん! 狐と狸の化かし合いっ」と事件を断罪することはないのだが、その代わり目の前で起きる様々な悲劇を作品にするようになる。後期のゴヤは宮廷画家という、安定した公務員(しかも、ほぼ官僚に近い地位)的職業画家でありながら、作品によって事件を伝え記録するジャーナリストの側面も強かった。
そういった濃ゆい作品群のせいで、「カッコーの巣の上で」について生意気にも、まあまあ。などと評価してしまう私だが、ラストの開放感だけは、どうしても誰かに伝えたい感動があった。
作品のメインテーマではないが「宮廷画家ゴヤは見た」でも取り上げられている、かつての精神病院の悲惨な状況が、物凄い迫力をもって描かれている。フォアマン作品の真骨頂とも言うべきか。抗うべき対象、体制からの弾圧を映画の中では精神病院という箱で描いているのだろう。
しかし、「カッコーの巣の上で」を観ていていると(解釈は人それぞれあるだろうし、私にまったく同意できない人もいるに違いないが)病院の中も外も一緒、と表現されているように感じる。「病院の外には自由があると思いがちですが、本当にそうですか」と示されているように強く感じるのだ。
マクマーフィーは手術によって、おそらく自我が失われてしまった。少なくともそう考え、主人公の自由は病院の外でも叶うことはないと判断し、友人のネイティブアメリカン男性チーフは、彼に生からの解放としての自由を与える。その自由が正しいのか私には判断できず、大変に重たい心持ちで迎える映画のラストで、チーフは病院を脱出する。彼が生きたまま、その場を抜け出す時の、えも言われぬ開放感。
希望と呼べるほどの神々しさはないが、希望を全否定しない自由を求める活力がとても眩い。こんな感覚を味わえるなんて、映画って本当に素晴らしいと思える。そんな作品です。