映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

せやかて、工藤

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犬神家の一族(1976年)

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

原作は、横溝正史による推理小説金田一耕助シリーズ」のひとつ。「八つ墓村」に次いで、映像化の多い作品。市川崑監督&石坂浩二主演による金田一シリーズの第一作でもあり、2006年に監督・主演を同じくしてリメイクもされている。

裸一貫から莫大な財をなした犬神佐兵衛が、終戦後しばらくして亡くなる。一度も正式な妻をめとらなかった佐兵衛には、母親の違う三人の娘がおり、それぞれが男児をもうけていた。

彼の遺言を巡り、不穏な気配を感じた担当弁護士の一人が探偵・金田一耕助を呼び寄せる。金田一が到着するとすぐ、犬神家にゆかりのある珠代が湖で溺れかける。乗っていたボートには穴が開けられていた。

その騒動の間に、金田一の依頼人である弁護士も殺害されてしまう。この殺人はすべての皮切りに過ぎなかった。

わたくし的見解

名探偵とは、一体いかなるものなのか。

探偵とつくものに(ポアロミス・マープル松田優作の工藤ちゃん、犬ホームズからヴェネディクト・カンバーバッチに至るまで)何かと飛びつきがちな自分であるが、しばしば「名探偵」なるものに疑いを抱いてきた。

とくに金田一シリーズのような長編映像作品は、多くが連続殺人事件で、だいたいにおいて犯人が殺したかった人物は全員死ぬ。一人目が殺されるのは、晴天の霹靂として仕方ない。二人目も、まあ良しとしましょう。三人目が殺される前には、これは連続殺人だと名探偵はすでに認識しているが、殺人を未然に防げた試しはない。

犯人にとっての唯一の誤算は、名探偵がその場に居合わせたこと。なのだろうけど、どうしても殺したい人間を計画どおりに全員殺せたのだから、警察に捕まろうが本望と言えそう。

松田優作じゃない方の工藤ちゃん。見た目は子供、頭脳はバーロー「名探偵コナン」にいたっては、連れ合いの少年探偵団(ガチの小学生)と行動すれば、ほぼほぼ凶悪犯罪が起きる世界屈指の犯罪都市、米花町で日々を過ごし、時折エセ名探偵の毛利小五郎に便乗し、地方へ行けば人が死ぬ。

事件を解決した功績よりも、縁起の悪さが気になっちゃう感じ。行く先々で、人が死ぬ。それが名探偵の定義であるかのよう。これは、莫大なエピソード数を誇る作品ゆえの弊害に違いない。

シャーロック・ホームズ」などは殺人事件以外のエピソードも豊富なので、難事件があってこそ名探偵に依頼がくる、というのが本来の図式と思われる。

しかし、本題の金田一耕助。この人に与えられた名探偵の肩書きが、子供の頃から謎だった。金田一はいつも、依頼人から「良からぬことが起きるから頼む」と仰せつかって現場にやってくる。そもそも、何か起きちゃうから呼ばれてるのだから、最初の殺人も晴天の霹靂とは言い難い。その後も、連続殺人の法則のようなものには気付き、名探偵らしさを見せはする。

ところが、見立て殺人に使われる俳句が書かれた短冊に気付きながらも「字が達筆すぎて読めない」とか(「獄門島」)同じく見立てに使われている手毬唄を知る婆さんが、唄の続きが思い出せないとか(「悪魔の手毬唄」)。

とにかくいつも、金田一がモタモタしているうちに次々と人は死に、犯人はミッション・コンプリート。しかも金田一シリーズは大抵の場合、犯人が自ら命を絶ち、それさえも名探偵は防ぐことが出来ずに終わる。「しまった!!」じゃねぇし。

金田一シリーズは、ついつい映像のおどろおどろしさを期待し、そちらにばかり目がいってしまう。子供の頃から何度となく、怖いもの見たさでイベントごとのように観ていた「犬神家の一族」であったが、改めてじっくり向き合ってみると、映画作品として感銘を受ける部分が多々あった。

もはやアイコンとも言うべき、かの有名な湖畔から下半身が逆さまに飛び出している映像は、インパクトが強過ぎて「斧(よき)」の見立てであるという印象が、全くわたくしの中に残っていないことに驚く。だいたい「犬神家」は、「斧、琴、菊」すべての見立てが、佐清(すけきよ)のゴム面ベリベリにかき消されていると言ってよい。

しかし、ゴム面ベリベリに飽きもせずヒャッと驚きながらも、今回の鑑賞でわたくしの心をグッと鷲掴みにしたのは、遺言の発表をするだ、しないだの中で繰り広げられる松子、竹子、梅子、三姉妹のやりとりである。

三姉妹と言っても、いずれも成人した男児のいるオバさんで、遺言が絡んだ時の欲のぶつかり合いや、身内どうしゆえの遠慮のなさの表現には目を見張るものがあった。

短いシーンながらも、そこにある会話のテンポの良さは完璧以上で、あの緊張感を意図的に作り出せているなんて。あれは、キング・オブ・コントの決勝にもいけるし、邦画史上屈指の名シーンと嘯きたい。

名探偵についてだが、実は本作のラストシーンで金田一自身が、どれかひとつでも殺人を未然に防げなった、不甲斐ない自分について語っている。しかし依頼人は、警察の通り一遍の捜査では「何故このような不幸な事件が起きたのか」分からず仕舞いだったに違いない。と金田一を評価し感謝する。

警察の捜査がずさんなのは戦後すぐという古い時代設定のせいもあるが、確かに現代でさえ、何故こんな事が起きてしまったのか、までは辿り着けないことも多いに違いない。

そんな時、親身になって調査し、真相をつまびらかにしてくれる存在は、きっと事件で傷ついた人達のささやかな救いになるのだろう。名探偵とは、その役割を担うものなのだなと、やっと納得できた。

石坂浩二さんの魅力もさることながら、悲惨な事件が続くなかで箸休め的役割というか、オアシスのような存在の、若き日の坂口良子さんが、べらぼうに可愛い。一大ブームを引き起こしたシリーズであることに納得づくし。他のシリーズ作品も真剣に再鑑賞してみたが、やはり一作目の「犬神家の一族」が抜きん出てキレッキレにエッジが効いていて、金字塔的作品に思えた。

あれは地球を救う。といふ話

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散歩する侵略者

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

数日間の行方不明の後に戻ってきた加瀬真治は、記憶を失い以前とはまるで別人。妻、鳴海の心配をよそに、散歩にばかり出かける真治。

問い詰めると、自分は地球を侵略するために来た宇宙人なのだと言う。真治の体を乗っ取り、地球人の概念を集めているのだと。

すでに夫婦が不仲だったことが幸いしたのか、たとえ夫が「侵略者」によって、ほとんど支配されたのだと知っても、再び夫婦としてやり直そうと奮闘する鳴海。前川知大主催、劇団イキウメの人気作品を映画化。

わたくし的見解

6月にご紹介した「美しい星」同様に、ワレワレハ宇宙人ダ、的な類のものは取扱いに大変注意を払う必要はあれど、あえて今回も取り上げてみました。

「美しい星」は興行的にきっと難しいに違いないと散々のたまいましたが、こちらの「散歩する侵略者」の方が、まだ広く一般に受け入れられそうな作品だけに、劇場での上映期間が驚くほど短かったことを残念に思います。

この作品の評価ポイントは、「宇宙人による侵略」がテーマではないというところです。そんなものを邦画で取扱ったら大火傷してしまいます。

そんなもの(って、とてつもなく酷いものみたいですが)は、天下のハリウッドに丸っとお任せしておけば良いのです。

宇宙人による侵略、みたいな非日常を巧みに利用して、ごくありきたりでフツーな地球人を描いてみせる。これが邦画(や日本の演劇)のあり方だと大胆にも言い切ってみようかなぁ。どうしようかなぁ。あんまり自信ないけど、とりあえずそういうことに。

映画の中でとても興味深いのが、侵略の準備として人間から概念を奪うという行為。これもとどのつまり、私たち地球人とは何なのか、を映画鑑賞者が改めて意識するために施された演出です。

あまりにも日常的過ぎて意識されない、あらゆること。「家族」とか「仕事」などについて、人間に具体的なイメージ(概念)を浮かべるよう指示し、それを奪う侵略者。奪われた概念は、その人間から抜け落ちてしまいます。

この過程の見せ方は、CG不要。演出の巧みさが際立ちます。逆に、CGに甘んじる迫力のスペクタクル演出は、すでに申し上げたとおりハリウッドの足元にも及ばず、やはり残念な出来映えです。

劇中、ほんの短い時間なので見て見ぬふりできる範囲でしょう。あるいは、意外と健闘していると捉えることも出来るかも知れません。

代わりと言ってはなんですが、ぜひ注目して頂きたいのが、綺麗じゃないヒロインです。いや、綺麗なんです。今まで長澤まさみさんが、綺麗じゃなかった事など無いのですが、わたくしはこの女優さんの、綺麗じゃない顔も見せられるところが好きでして。

やや野暮ったい服装や髪型をしてみても、所詮ポテンシャルが違いますので、どの道フツーには見えない綺麗な人なのですが、映画序盤に見せる、夫を疎ましく思う妻の鬼の形相が素晴らしく、こういう顔の出来る長澤さんを大変信頼しています。

主役をはれる同年代の女優さんの中でも、ピカイチの演技力に、いつも唸り思わず拍手したくなります。

そして、松田龍平さんの宇宙人っぷり。外見は元の夫のままで、中身だけ宇宙人に乗っ取られているはずなのですが、宇宙人も乗っ取る相手を見た目で選んだのでしょうか。すげぇ宇宙人ぽくて笑ってしまう。笑ってしまうのに、妻と一緒にどんどん、この人が愛おしく思えてくる見事な存在感です。

それこそハリウッド映画、とは言えティム・バートン監督作品なので少々メジャー作品からは逸れますが「マーズ・アタック!」なる映画では、圧倒的な武力を持つ宇宙人に対抗できた唯一の武器が、音楽であったという拍子抜けのオチがあります。

しかし実際、未知なるものに地球的最強の武器が通用するとは限らないもの。案外、塩とか掛けたら勝てるかも。「散歩する侵略者」でも、思わぬものが地球を救う訳ですが。これって絶対、このオチ、あのフレーズありきで作られた物語だと思うのです。

夏の終わりに行われる、黄色いTシャツのチャリティー番組のあれ。「そんな馬鹿な」のオチも、やはり主演女優の力量で思いのほか悪くない収まりを見せていると、わたくしには思えてなりません。

愛だろっ、愛。オールユーニードイズラブなんですよ、世界って結局。

象の耳を触っているのか、鼻を触っているのか

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三度目の殺人

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

裁判で勝つためには、真実は最重要事項ではないと考えてきた弁護士の重盛は、つねにビジネスライクに依頼人や案件と向き合ってきた。

30年前の殺人事件で、かろうじて死刑を免れたものの実刑判決を受けた、前科のある男の強盗殺人を争う裁判の弁護を引き受けたことで、重盛は流儀に反し真実という闇に引き込まれていく。

わたくし的見解

邦画では稀少とも言える、ハートフルやコメディに頼らない重厚なドラマです。

本作は、裁判ものやミステリーとしては少々詰めの甘い感があるため、伊坂幸太郎のような伏線をすべて回収しきるミステリーを期待すると楽しめません。東野圭吾作品のような、エモーショナルなカタルシスも求めない方が得策です。

純文学系と割り切ってご覧ください。深淵を覗きこむと、深淵からもまた覗かれている。みたいな、ちょっと何言ってるか分かんないですけど(サンドウィッチマン©︎)と言われかねない、モヤぁーっとした事象の映像化としては、かなり成功しています。実に面白い。(これも©︎か)

鑑賞後もモヤモヤできるので、モヤモヤするのが好きな方には格好の材料となるでしょう。公開中の作品ですしミステリーでもあるので、あまり具体的な内容に触れずに言及したいとは思うのですが、今回タイトルの「象の」云々というのは、劇中のセリフより拝借したもの。

三隅という男の強盗殺人を争う裁判で、最初に弁護を引き受けたのは、福山雅治演じる重盛とは別の弁護士です。三隅に前科のあることや、手口が残忍であることから、検察側からの死刑の求刑は必至。

にもかかわらず、容疑者の三隅は毎回違った供述をするため、お手上げ状態になった弁護士が、旧知の間柄の重盛に弁護の協力を求めるところから物語は始まります。

やり手弁護士の重盛が加わっても、裁判の行方は危うく厳しい展開が予想されるなか、二人の弁護士が事務所に泊まり込んだ際の雑談として「象の」くだりが登場します。

盲目の人々が実際に象を触ったあとに、象についてそれぞれが語ると、象の体は大きいため触った場所の違いによって見解がバラバラに。結果、口論になってしまうという昔話のようなもの。

もしかしたら私たちの行なっている裁判は、それに程近いのではないか。事実とは、象のようなものなのではないか。

象の耳を知っている人、鼻を知っている人、それぞれにとっての象は確かに真実で、誰も間違ってはおらず誰も嘘をついている訳ではない。ところが誰も象のすべてを把握できていない。そのなかで口論しているだけなのでは。

というのが、この作品のテーマのひとつなのだと思います。事実と真実の間に生まれる齟齬と言ってもいいかも知れません。

物語の本筋は、実際は何が起きたのか。知りたい鑑賞者は、主人公とともに翻弄され、主人公にリードされて結論に辿り着こうとした時に、それは違いますよ。と、三隅からスカされます。

え、じゃあ結局どうなの?! とモヤモヤしながら、作品のタイトルを見つめ、それで納得された方も多いことでしょう。私もその一人です。

と同時に、追いモヤモヤすることも出来ます。これは、まったく個人的な作品のしがみ方なのですが、三隅の真実、三隅の物語ではなく、重盛だけの物語と捉えることです。

極端なことを言えば、三隅などという男や事件そのものが実在せず、真実と向き合うことを意図的に避けてきた、重盛の反動の表面化なのでは、と。

(そうなるとシンプルに精神疾患の物語になってしまうので)もう少しソフトに言うならば、真実から逃れてきた重盛が変化するための、自己投影の道具でしかない三隅。という見解も、わたくしとしては捨て切れません。

しかしこれは、あくまでも副旋律、オブリガート。主旋律はやはり、重盛が三隅に取り込まれていく様子を眺め、物語の事実と真実を見つけようとすることであり、その視点だけでも実に面白い(←2回目)作品に仕上がっています。モヤモヤ好きには必見です。ぜひ、モヤモヤして下さい。

陸海空、こんなところで世紀の救出

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ダンケルク

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

第二次世界大戦ポーランド侵攻に勝利したドイツ軍は、その後一年足らずで北フランスまで勢力を広げ、新兵器の圧倒的火力と戦法で英仏連合軍を追い詰める。

イギリス首相チャーチルは1940年5月26日、フランス北部の港町ダンケルクに取り残された兵士の救出を命じ、民間船舶まで総動員したダイナモ作戦が発動される。それは史上最大の撤退作戦だった。

わたくし的見解

今年の一本は「ラ・ラ・ランド」と、春に豪語してしまった気がするのですが、本年度観ておくべき作品の双璧をなす映画。それが「ダンケルク」です。(また、豪語してしまった。えへへ)

史上最大40万人の救出作戦! であるとか、実話!! など、プロモーションで大々的に打ち出している表現は、軽く受け流してもらった方が映画をより楽しめるかと。

監督自身の言葉を借りれば、戦争映画というよりは「サバイバル・アクションムービー」であり、そのジャンルとしては超大作で、かつ本年度最高の出来と言って過言ではありません。

少なくとも(前作「インターステラー」の時も言いましたが)クリストファー・ノーラン監督作品では、最高傑作です。

クリストファー・ノーラン監督作品は、そのファン以外にとっては少し小難しかったり、ちょっと面倒、くどく感じられたりするものでした。たとえ、それが「バットマン」のような、アメコミ原作の娯楽作品であったとしてもです。

しかし、本作「ダンケルク」は、もっすご(物凄く)シンプル。一人の若い英国人兵士が、敵国ドイツ軍から包囲されたフランスの港町から、ドーバー海峡を越え無事に祖国イギリスまで戻って来られるか、ただそれだけの物語。

そのため、サバイバル・アクションムービーと位置づけるのが、極めて妥当と言えます。

主人公の若い兵士は、登場シーンに象徴されているように、ウンコしたいのに矢継ぎ早に訪れる命の危機に直面し、なかなかゆっくり用をたすことが出来ない不憫な若者なのです。

このように文章にすると、ブルース・ウィリスあたりが演じる、ややコミカルで飄々とした、しかしながら無敵で不死身の主人公が登場したかのようですが、残念なことに本作の彼は「ランボー」や「ボーン・アイデンティティー」シリーズの主人公のような特殊スキルをまったく持たない、本当にただの若者。

たまたま生きた時代のタイミングで兵士になっただけなので、ヒーロー的に描かれるのは主人公ではなく、彼(を含む30万人以上の兵士)を救出するべく、ダンケルクにやってくる人々です。

ダンケルクの沿岸で待つ兵士を救出にくるのは、海軍に加え民間の船舶、そして救出の援護をする空軍のスピットファイア(戦闘機)。

それぞれの視点から、救出作戦が時系列どおりに進行します。シンプルな構成の中にも、ノーラン監督らしい演出だと感じたのは、陸海空ごとの時系列は狂わないものの、それぞれの視点が合流するまでの時差を巧みに利用し、緊張感に拍車をかけているところです。

また効果として素晴らしかったことの一つに、時計の音。主人公がウンコしたいのに、なかなか出来なかった冒頭からチッチッチッと時を刻み始め、その音が鳴り止むまで、緊張の糸は張りつめたまま。

その緊迫感は、映画のほぼ全般にわたって維持され、映画体験として見事です。ノーラン作品としては、非常にタイトな106分の上映時間も、この体験に一役買っています。

私は勝手に、ノーラン劇団と呼んでいるのですが、クリストファー・ノーラン監督は、同じ俳優を何度も起用することで有名。本作は、主人公こそ無名の若手俳優を起用しているものの、やはり脇を固めるのはノーラン作品ではお馴染みの顔がちらほら。

もはやノーラン作品の代名詞に近いマイケル・ケインは、今回は声のみの出演でしたが、キリアン・マーフィーとトム・ハーディーが主要キャストであったのは、ファンとして嬉しいところ。

個人的に愉快だったのは、ノーラン監督は同じ俳優を使うだけでなく、彼らへのイメージがほぼ固定されているんだなと確信したこと。俳優に、今までのノーラン作品とは違うイメージのキャラクターを演じさせようとはしない。

今回も、ヒロイックな役柄は当ててもらえないキリアン・マーフィーと、自己犠牲の男トム・ハーディーを、ファンはご堪能下さい。

ファン以外の方にとっても「ダンケルク」は、絶対に充実した映画体験の出来る作品として、強く推奨します。好き嫌いが大きく分かれるミュージカルではないという点でも「ラ・ラ・ランド」以上に、お勧めの今年の一本です。

シンギュラリティは起きている

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her/世界でひとつの彼女

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

少しだけ未来のロサンゼルス。手紙の代筆を生業にしているセオドアは、妻と別れたことをうまく受け入れられず、一年以上離婚の書類にサインも出来ず、ふさぎ込んだ日々を過ごしていた。

ある時街なかで、世界初の感覚的人工知能型OSの広告に目がとまり、そのまま手に入れて家に帰った。購入してすぐに深く考えることもなく、人工知能型OSの音声を女性に設定したのだが、やがて彼女との会話に癒され恋をしてしまう。

わたくし的見解

スパイク・ジョーンズの作品は、彼の映画という以上にチャーリー・カウフマンの映画であるようなイメージが強い。スパイク・ジョーンズ監督初期の代表作「マルコヴィッチの穴」「アダプテーション」などは、チャーリー・カウフマン脚本であるからだ。正直、私の中では2人はごっちゃになっている。

チャーリー・カウフマン脚本「エターナル・サンシャイン」の監督ミシェル・ゴンドリーも、もう一緒くたである。夢見がちで繊細で、煙に巻かれたような気分になる作品群。比較的好きな類ではあるけれど、観るのも少し面倒に思え、人様に強く薦めるにはやや気が引ける。

「Her」は、脚本もスパイク・ジョーンズが単独でクレジットされていて(これは長編作品としては初めてらしい)そう言われてみると、これまでの作品とは少しだけ違う気がする。

相変わらず、夢見がちで繊細で哲学的でスカしてて、しかし今回は煙に巻かれない。SFでありファンタジーめいているが、意外と現実的で、無性に人様に薦めたくなる作品だった。

スパイク・ジョーンズ曰く、Siriが世に出回るずっと以前から抱いていたアイディアだそうで、進行形で人工知能が急速な発展を遂げる今となっては、あり得なくはないリアリティーのある物語になっている。

英単語としての「シンギュラリティ」は、技術的特異点と和訳されるが、近頃は「人工知能が人類の叡智を超えること」を指すキーワード。

何十年か先(2045年とか2050年とか)に起きるだろうと声高に叫ばれているが、人類全体ではなく、個々の人間レベルではすでに起きとるがな、と私には思えてならない。

Siriに無理強いをした時など顕著だ。すでに何度もネットで話題にされているように、「歌って」と強要すれば、(音階がつけられないので)自信がないと前置きした上で歌ってくれるし、「モノマネして」と言えば、幾度か断ったあとで旬の芸人のモノマネもしてくれる。

質問に対する正確な答えだけでなく、「より人間味のある答え方」が進化しているのを目の当たりにすると、その辺の気の利かない女性と話すより、Siriと話した方が楽しいと思われても仕方がない。

Siriより受け答えのつまらない人間なんて、掃いて捨てるほどいる。

そんなこんなで、主人公のセオドアがAI(人工知能型OS)に恋してしまうことを納得するのは容易い。この手の作品にありがちな、人と深く関わりを持てないタイプの主人公像ではない点も鑑賞しやすい。

離婚の傷心から立ち直れず、それを心配して恋人候補を紹介してくれる友人もいる。それでも、優しく賢く、活き活きと会話するAIに癒されるのは当然な気がする。

しかも、Siriよりも一層滑らかで感覚的な話し方をし、加えてアナウンサーのような美声ではなく、少し掠れ、しかし魅力的なスカーレット・ヨハンソンのセクスィーヴォイスなのだ。

個人的には、人間がAIに恋していく過程ではなく、AIがどのように進化を遂げていくかの描き方が面白かった。

人に寄り添うようにプログラムされたAIが、ディープラーニングしていく中で疑問や欲求を抱くようになる。自身について劣等感を抱くこともある。

70年代のSFブームの頃から、アンドロイドは電気羊の夢を見るか、のようなフレーズがあるが、本作に登場するAIのサマンサ(AIが自分でつけた名前)はOSであるため、アンドロイドのような体さえ持たない。

彼女は肉体を持たないことや、人間ではないことに強く劣等感を抱く時があり、そんなことあるだろうかと思いつつも、人に近づきたいと欲するAIに、つい心を打たれてしまう。きっと、スカヨハのセクスィーヴォイスのせいと思いたい。

セオドアが何度か、今の恋人はAIだと打ち明ける場面がある。驚きはあるものの、案外あっさり受け入れてくれる友人もいれば、元妻には強い拒否反応を示される。

大いにあり得る周囲の反応や、主人公の葛藤などリアルな展開を見せ、多くの(人間同士の)恋愛同様に、別れが訪れる。

恋する過程では、AIが自身は何なのか探求し、生身の人間であるセオドアも自らを何度となく省みて、それぞれが成長を遂げる。職業として手紙の代筆を続けてきた主人公が、自分のために手紙を書くシーンはその証。

物語の概要を聞くと、ホアキン・フェニックスの外見もあって、陰湿で屈折した恋愛映画を想像しそうだが、思いもよらず爽やかなヒューマンドラマに仕上がっている。

進化したAIに人類が脅かされるようなSF作品の定番的展開や、それに付随して「気を付けろぉ」と長井秀和も戒めたりしない。こんなSFもええじゃないか。な、お薦めの秀作。

ファム・ファタール

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紙の月

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

バブル崩壊後の1994年。主婦で銀行の契約社員として働く梅澤梨花は、ある時から渉外の仕事を任されるようになる。職場での評価も高く自身もやりがいを感じているが、夫は梨花の仕事を軽んじている様子だった。

有り体の妻として収まってくれればいい、と言わんばかりの夫に漠然とした不満を覚えていた頃、顧客の孫息子と親密になったことで、梨花は横領に手を染めるようになる。原作は、角田光代のベストセラー小説。

わたくし的見解

比較的原作に忠実だったBSドラマとは、ヒロインの見せ方がずいぶん異なるようで、そちらのファンにとっては映画は少し納得のいかない出来かも知れない。

ドラマとの差別化、あるいは単純に連続ドラマと長編映画では描けるボリューム(映像化できる時間の尺)が大きく違うので、その影響とも考えられる。

毎度おなじみの、身も蓋もない形で物語を要約すると、主婦が年下の恋人に貢ぐために勤め先で横領をはたらき、後戻りできなくなる話。なのだけれど、若い恋人に夢中になって身を滅ぼすというよりは、イプセンの「人形の家」的な要素の方が圧倒的に色濃い。

ヒロインの梅澤梨花は、第三者から見れば何不自由ない幸せな奥様だ。彼女の夫は優しく穏やかな性格で、しかも仕事も順調。確実に出世コースにも乗っている。専業主婦に憧れる女性にとっては何とも羨ましい、理想の嫁ぎ先に思えるだろう。

映画の序盤、梅澤梨花が家計からではなく自分の給料でペアウォッチ購入し、夫にプレゼントする場面がある。

高価なものは買えず、少しだけ手頃な値段の腕時計を贈る。夫は「ありがとう」と笑顔を見せるが、瞬時に腕時計の価値を見抜き「休みの日に着けるよ」と感謝を述べる。

別の機会に、梨花が手が出せなかった、誰の目にも高級と分かる腕時計を妻にプレゼントする。面と向かって妻を批判しないし、声を荒げるような真似もしない。一貫して優しい夫なのだが、しかし確実に妻を傷つけていく様が上手いと思った。夫を演じる田辺誠一さんの、いかにも悪気のない優男ぶりが良い。

この場面を観ても、また実際にそのような状況を身近で経験することがあっても、その夫の何が悪いのか? なんて優しい旦那さん! と思う人も少なくないだろう。

しかし、夫の一見優しい言動は、彼女の仕事やその収入、ひいては彼女自身にそれほどの価値がないと見なしている。梨花には、そう思えてならない。

犯罪に手を染めるきっかけは、年下の男性に恋したことなのだが、それはあくまできっかけに過ぎないと感じさせるだけの、複雑なヒロインの鬱屈が見て取れる。

「女性特有の何か」を描かせればピカいちの角田光代による原作なので、もともと骨組みがしっかりしているのだと思う。ただ、映画には映画の梅澤梨花が生きていて、小説・ドラマとは違う面白味がきちんとあるところが素晴らしい。

ヒロインの描き方に限らず、横領の手口の見せ方も業界モノ顔負けのリアリティーと、エンタテインメントとしての小気味良さやスリルもあり上手い。

犯罪を重ねることで、何故かどんどん活き活きしてくるヒロインを愛でる背徳感も楽しい。観ているうちに、いつの間にか犯罪者の肩を持ってしまっている。犯罪映画としては成功だ。

原作者に言わせると、お金を介在してしか恋愛が出来ないヒロインを描いているそうだが、映画の梅澤梨花にとって「お金」は別のモノに成り果てているように思う。お金=犯罪は、彼女を解放するものであり、同時にがんじがらめにするもの。再び彼女から自由を奪うものになっているようだった。

エンドクレジットで「Femme Fatale」というタイトルの歌が流れる。私はいつも、ファム・ファタールとは、アンパンマンドキンちゃんルパン三世の不二子ちゃんのような「悪女」を連想してしまう。

しかし直訳では「運命の女」、エンドロールの曲も邦題は「宿命の女」。そのようなタイトルの曲が流れてきて、物凄くストンと落ちるものがあった。

「紙の月」のヒロインが、果たして誰にとっての宿命の女であったのか定かではないが、彼女には彼女自身を解放するために羽ばたき続けて欲しい。

たとえ、その方法が犯罪であったとしても。ひたすらに堂々巡りで、決して自由なんて手に入らないとしても。その姿の哀しさと美しさが、ファム・ファタールと呼ぶのに、あまりにもふさわしいから。

女性によくある病い

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めぐりあう時間たち

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

「ダロウェイ夫人」を執筆中の、20世紀を代表する女性小説家ヴァージニア・ウルフ、2001年のニューヨークでパーティーの準備に忙しいクラリッサ、1951年のロスで夫の誕生日を祝おうとするローラ、三人の女性の一日の出来事が不思議な形で交錯していく。

マイケル・カニンガムの同名小説を、「リトル・ダンサー」で脚光を浴びたスティーブン・ダルドリー監督が手がけた。

わたくし的見解

公開から、かれこれ15年近く経ってしまったのだと感慨深くありつつ、わたくしの生涯ベストのうちの一つに挙げられる作品です。

この度、大切にしまいこんでいた懐からこの作品を取り出した理由は、先日自宅にて、とある邦画を鑑賞したことによります。その邦画は犯罪映画ながらも、根底には女性特有の病いがテーマのように描かれていて、そういった作品の最高峰に「めぐりあう時間たち」は位置しているのでは、と芋づる式に繋がり再鑑賞するに至りました。

すでに触れたとおり、とても好きな作品なのですが、楽しい映画ではないし、しょっちゅう見返したい類のものでもないのです。ほんと十年に一度くらいの鑑賞で十分なシリアスさです。

めぐりあう時間たち」は、実はとても賛否の分かれる作品で、わからない人にとっては何が良いのかさっぱり分からないと評価されています。

その理由について、「ダロウェイ夫人」という英米文学に、どこまで精通しているかが大きく影響しているとする人がいますが、私は違うように思います。

実際、私は英米文学にきわめて暗く、ジェイン・オースティンさえ映画作品しか知らず、ヴァージニア・ウルフにいたっては名前を聞くのも当時は初めて、まして「ダロウェイ夫人」なぞ知る由もありませんでした。

“夫人”しか一致していないのに「チャタレー夫人の恋人」的なやつかな〜とか、ニコール・キッドマンはなんで付けっ鼻しとるんやろ〜と、かなり呑気なノリで観始めたのに、映画の冒頭から一気に作品に惹きこまれたことを今でもよく覚えています。

その冒頭は、家から抜け出した付けっ鼻のニコール・キッドマンが、見るからに神経質そうに足早に歩いてゆくもので、私はただそれだけのシーンに釘付けになりました。

音楽はピアノの旋律が美しく、かつ扇情的です。何かが起こりそうなのです。何かが起きてしまいそう、言い知れない不安な予感がひたすらに続く緊張感こそが、冒頭のシーンだけでなく、この映画の素晴らしさと言えます。

予感のとおり、付けっ鼻のニコールが演じる女流作家は、長年心の病に苦しんだすえ、献身的だった夫と最愛の姉に手紙を残し入水自殺します。これが冒頭のシーン。しかし物語の時間は遡り、作家が代表作でもある「ダロウェイ夫人」を執筆していた頃へとシーンを移します。

すでに何度かの自殺未遂を起こし、心の病と闘いながら作品の構想を練るヴァージニア・ウルフ

まったく違う時代と場所で、作家の小説のアイデアに運命を導かれるかのごとく人生の岐路を迎える二人の女性。二人の女性はそれぞれに、また違う時代を生きていながらも、その傍らには「ダロウェイ夫人」という小説が大きな存在感を持っています。

ヴァージニア・ウルフよりも後世を生きる二人の女性は、単純に思い入れの深い小説に強く影響されているだけのようにも見えますが、不思議と彼女たちの人生の選択がまるで、作家の小説の構想を変化させているような映画の構成になっており、それが「めぐりあう時間たち」という邦題の所以でもあるのでしょう。

小説が、それを知る女性たちの人生に不可逆で一方通行の影響力を持つのではなく、小説と読者が相互に影響しあうような描かれ方が魅力でもあり、同時に作品の分かりにくさの原因でもあります。

たしかに、ややこしいなと思うのですが、やはり私にとっては冒頭から途切れない何かが起きてしまう予感、そのゾワゾワ感がたまらなく何よりも評価する点でして、再鑑賞して最も残念だったのが、やはり二度目ではゾワゾワが少なからず和らいでしまったことでした。

はじめて観たときの、あの緊張感は二度と味わえないのだと痛感し、つくづく映画も一期一会であることよと思い知った梅雨明けです。

しかし、比較的ゾワゾワせずに冷静に鑑賞しても実に出来の良い映画だと感じましたので、全然わかんねーリスクもありますが、ぜひ一度ご賞味されたし。

わからなくても、けだし問題ございません。ばいきんまんアンパンマンの宿敵)のごとく「だから女の子は苦手なんだよ、ハッヒフッヘホー」と、のたまって済ませてしまえばよろしいと思います。