映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

勝利依存症の女神

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女神の見えざる手

映画情報

こんな話(作品概要)

政治家や世論を動かし、マスコミをもコントロールするプロフェッショナル集団。それがロビイスト。彼らはクライアントに利益をもたらすために、あらゆる活動をします。ワシントンD.C.には、通称「Kストリート」と呼ばれる、ロビイストの会社が立ち並ぶエリアがあるそうです。

邦題の、“見えざる手”とは、あくまでクライアントのために、様々な戦略を巡らせ暗躍する(時に表舞台にも登場する)ロビイストの働きを指しており、“女神”とは、その業界において圧倒的勝率を誇るロビイスト、ヒロインのエリザベス・スローンのことに他なりません。

業界内のみならず、政治家からも畏れられるほど有能なロビイストであるスローンは、銃の規制(販売時の身分証確認を義務づける)法案の成立を阻止したいクライアントから指名されます。クライアントは共和党の大物議員であり、ライフル協会などの大きな支持母体が背後にあります。

しかし、法案の成立を是とするスローンは依頼を断り、それによって所属する最大手のロビイスト会社からも、これほど大きな依頼を引き受けないなら「お前はクビだ」とまで言われてしまいます。

その後、銃規制法案の成立に尽力しているシュミットからスカウトされたスローンは、何人もの部下を引き連れて移籍し、銃規制阻止派に立つ元いた大手ロビイスト会社と対決することに。

スローンは、時にモラルに抵触するような戦略を駆使し、圧倒的劣勢から見事な逆転劇を幾度も見せます。しかし不測の事態や、阻止派によるスキャンダラスな個人攻撃に襲われ、法案の成立も彼女自身も致命的なダメージを受けることになってしまうのですが。

わたくし的見解

ロビイストという、あまり馴染みのない職業を取り上げていることもあり、少し地味な印象のある作品ですが、大変に面白い社会派サスペンスです。

社会派サスペンスと聞くと、暗く重厚で静かな展開を辛抱強く見せられるイメージもありますが、この作品はテンポもよく展開もスリリングで、エンターテインメントとして優れた映画です。法廷ものやウォールストリートものなどの名作群に、十分に名を連ねることができるでしょう。

本作の中で戦っているのが、銃規制法案の成立を目指す小さなロビイスト会社(クライアントがNPO法人で資金も少なく、必然的に小さな会社にしか頼れない)と、廃案を目指す最大手のロビイスト会社(ライフル協会をはじめとする非常に大きな権力と資金力を持つクライアントなので当然、最も勝率の高い最大手の会社に依頼している)。

ヒロインのエリザベス・スローンが、最初に銃規制法案の廃案を依頼された際に明言していますが「廃案に持ち込むのは簡単」なのが、アメリカの現状です。

ドキュメンタリー映画ボウリング・フォー・コロンバイン」や、同じ銃乱射事件に着想を得たフィクション映画「エレファント」などの印象が強かったため、コロンバイン高校の銃乱射事件は、アメリカにおいてもセンセーショナルな事件なのだと、私はある時まで思い込んでいました。

日本ならば、そのような事件一つで銃の規制に向けて、政府も国民も大きく動くと思われますが、アメリカでは州によって法律が違うとは言え、大きく銃規制が進まずに事件以降の20年近くが過ぎています。

コロンバイン高校の事件は、実はそれほどセンセーショナルでは無かったのです。現在のアメリカで年間に発生している銃乱射事件は300件(←うろ覚えの数字です)を超えており、日常茶飯事と言っても過言ではありません。

件数に比例して被害者は増え続け、被害者の家族まで含めれば、とても無視できない数になるはずですが、このような悲劇の度に銃の規制を叫ぶ者と、それに対抗する勢力が声を上げます。

対抗する勢力の言い分が、これまた日本人にはまったくピンとこない「このような悲劇を生み出す、銃の暴力に対抗できるのは銃の所持しかない」というものです。

このあたりの丁々発止のやり取りは、映画の見所の一つです。

銃を手放したくない人たちにとって「アメリカという国は銃を持つ権利によって成り立っている」という信条、思想?信念?に支えられています。建国の父を支えたものが銃であり、アメリカ国民は銃を保持する権利が憲法で保障されている。

スローンは、銃規制を支持する立場ですから、憲法を作った頃とは時代が違うなどの指摘をメディアで放ちます。実はこの切り返しはアメリカではあまり効果的ではなく、どちらかと言えば、するべきではない反論のようですが、スローンはその後の展開のために、あえてこの下手を打って見せる。

このようなツイスト(逆転)の応酬は、ぜひ本編で楽しんで頂きたいのですが、日本人にとっても思うところの多い論争と言えないでしょうか。銃規制という、あまり私たちには縁のない極端なところを取り上げられることで、ちょっと冷静に考えられる部分があります。

憲法にあるからというだけで、本当に今、無条件に正しいと信じてよいのか?とか。国民を守るための銃(武力)によって国民が傷つけられることがあるなら、一体どうすればいいのか?とか。

さて、作品の屋台骨としてヒロインの人物像がよくできています。仕事の鬼で、超絶合理主義。ヒューマニズムに溺れず、必要であれば躊躇なく人の弱点を利用する。その態度は、仲間に対しても同じです。すべては勝利のため。

ハードな日々を乗りきるために睡眠薬ではなく、眠らないための薬を常用している。薬物依存と言うよりは、勝つまで眠らない、勝利依存症なのです。

他の物語のヒロインのように、プライベートを犠牲にしていることを思い悩むふしはありません。潔いほどの冷血漢の彼女が、自分の築き上げたキャリアを賭けて、なぜ極めて勝算の低い戦いに身を投じたのか。

スローンが周囲に自分の生い立ちやバックボーンを明かさないように、映画も彼女のその部分を語りはしない。語られないことで、とても好感度の低いヒロインなのに興味が湧き、様々な想像を膨らませることができます。

勝利のためにモラルの一線を超えてしまう、自他共に認める最低の人間なのに、銃規制実現のために、ここまで労力を惜しまないのは何故なのか。劇中で彼女が語るように、「『どんな異常者でも、店やネットで銃が買える』世の中を容認するべきではない」という単純な信条によるものなのか。

その意志を確固たるものにするようなストーリー(悲劇)が、本当はスローンの人生にあったのかも知れない。あるいは、ただ周囲から絶対に勝てないと言われている戦いに「勝利すること」だけが、彼女のモチベーションのすべてだったのかも知れない。

スローンを「いい人」として描かないことで、人間が複雑な生き物であるリアリティーが生まれているように思いました。フィクションであることが残念に思えるほど、かっこいいダークヒロインです。

ところで、アメリカでの銃乱射事件の増加は、銃大好きな共和党のトランプさんが大統領に当選した影響は否めないと、個人的に思っています。アメリカと銃社会への「?(はてな)」や、憲法改正というものをよそ事として流せない現在、様々な要素が旬に感じられる内容でした。

ちょっと取っ付きにくく小難しいような感じもしますが、弱小チームがメジャーリーガー引き抜いて、ジャイアントキリングを目指す、みたいなシンプルで熱い面白さもありますので、本当にお勧めの作品です。

121分 de 名著

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メアリーの総て

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

19世紀のイギリス。いつでも読書と創作に夢中のメアリーは、継母から家業の書店を手伝わないことを責められていた。メアリーを出産してすぐに亡くなった生母は、フェミニズム創始者として知られる女性だったが、伝統を重んじる継母から、実母を悪く言われたことでメアリーは思わず手を上げてしまう。

メアリーと継母を引き離すため、また思う存分創作活動に取り組めるようにと、父は古い友人の元へメアリーを送る。父もまた、無神論者、アナキズムの先駆者として有名なウィリアム・ゴドウィンだった。

メアリーは滞在先で開かれた読書会で、”異端の天才詩人”パーシー・シェリーと出会う。二人はすぐに惹かれあったが、パーシーにはすでに妻子があった。いつもメアリーに理解を示してくれる父にも反対され、二人は駆け落ちする。

ゴシックの古典的名作であり、初めてのSF小説とも謳われる「フランケンシュタイン」が、10代のうら若きメアリーから、どのようにして生み出されたのかを描く。

わたくし的見解

イギリスを代表する女性作家の一人として挙げられる、メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」を発刊するまでが描かれています。

1818年の初版では匿名で発行され、メアリー・シェリーの名前が著者として記されるのは改訂版以降。理由は、女性が書いた物語として内容がふさわしくないというもので、その当時、女性名義で発行される書籍が存在しなかった訳ではないようです。

しかし、1847年発行のエミリー・ブロンテ著「嵐が丘」も、1848年発行のシャーロット・ブロンテ著「ジェーン・エア」も、男性名義で出版されていることから、求められる女性像に見合わない内容だと出版にさえ辿り着けなかった。そういう時代だったことは間違いないでしょう。

ブロンテ姉妹やメアリー・シェリーより少し遡り、同じく代表的なイギリスの女性作家ジェーン・オースティンの作品は、貴族の女性が長閑な郊外で紆余曲折ありながらも、最後は素敵な結婚をしてエバーアフター幸せに暮らしました、的なキラキラした物語群のように見えます。

しかし、結婚することでしか身を立てる事が出来ない。ようするに結婚できなければ食べていくことまで難しい、当時の女性の苦労をそこかしこで見てとることができます。

現代の感覚で「なら働けばいい」とはいかず、身分のある女性には働く自由もほぼ無く、唯一生きていく術である結婚さえ、持参金無しには成立しない時代だったのです。

例えばヒロインの姉妹は、明言されていなくても行かず後家としての将来を予感せざるを得なかったり、事実ヒロインの親類のような女性には独り身で年老い、かろうじて生活を援助してくれていた身内もいなくなり、暮らしが立ち行かなくなるなどのエピソードが、当たり前のように描かれます。

そのような身分のある女性にさえ権利らしい権利も自由もない時代に、メアリーの母親は、男女同権や教育の機会均等を訴えた人物として名を残しています。

フェミニズムと聞くと、刈り込んだショートカットで言論のファイティングポーズをとり続ける女性を思い描きますが(それは私だけかも知れませんが)本来は、このようなところから来ているのだと自らの偏見を悔い改めるほどの感慨がありました。

「メアリーの総て」自体は、そう言った政治的に直接訴えるような内容のものではないところが魅力です。先駆的な精神を持った両親のもとで生まれ、当時の常識に囚われない自由な女性像と共に、ただ恋に落ち、若さゆえの愚かさが目立つ等身大のメアリーも見せてくれる。

初めは妻帯者であることにも気づかず恋をして、その熱に浮かれていただけの少女が、母になる喜びと子を失う悲しみを経験し、確実に成長する姿がとても丁寧に捉えてられており、その総てが創作の肥しになっていることを示唆しています。

メアリーの強さと弱さは、演じるエル・ファニングの少女から大人への過渡期に見られる危うさと共に、強く惹きつけられるものがありました。数年前のエル・ファニングでも数年後のエル・ファニングでも駄目で、ベストのタイミングで彼女を主演に据えることが出来たと思います。

また概要だけだと、今さらこんなベタなフェミニズム映画と一蹴したくなるのですが、ハイファ・アル=マンスール監督を起用したあたりが製作者サイドの思惑に見事にはまっていて、悔しいけれど見事でした。

ハイファ・アル=マンスールサウジアラビア出身の女性監督で、彼女の国では宗教的な問題で、未だ女性がこの映画に見られるような憂き目にあっている訳です。けれども、当事者である監督は案外さらりと作品に昇華させるものなのだと感心。

一人の女の子の成長を丁寧に描く。という切り口が、とても真摯に感じられ好感を持ちました。なんか、やっぱり刈り込んだショートカットの人たちとは違うんです。軽やかというか、爽やかというか。

映像に雰囲気もあり、コスチュームプレイとしても魅力的で、少しもフェミニズム映画ではないのだけれど、現代のフェミニズムのあり方をちょっと考えてしまった作品でした。

悪人のいない、よくできた落語みたいなのだ

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ラブ・アゲイン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

キャルは40代の冴えない男だが誠実で、良き夫であり良き父でもある。ある晩、夫婦水入らずでの外食の最中に、25年連れ添った妻エミリーから突然「離婚したい」と告白される。そして、会社の同僚デイヴィッド・リンハーゲンと浮気をしたことも。

10代で結婚し、妻一筋で生きてきたキャルはショックのあまり、反論や抵抗をまったく出来ずに離婚を受け入れ、家を出てしまう。

独りになったキャルは、地元のバーでヤケ酒を呑みながら、相手構わずに妻に浮気され捨てられた身の上話を繰り返していた。それを見かねた、バーの常連客でプレイボーイのジェイコブは、キャルを垢抜けたナイスミドルに変身させ、女性の口説き方を伝授する。

キャルは初めのうちは少しも乗り気ではなかったが、ほぼヤケクソでジェイコブの言う事を聞くうちに、バーから女性をお持ち帰り出来るほどになる。キャルとジェイコブの間には、いつの間にか不思議な師弟関係と友情が生まれていたのだが。

わたくし的見解

主演のスティーブ・カレルは、もともとTVで人気を博したコメディアンで、映画でもコメディ俳優として活躍しています。でも顔だけ見ていると、あまりコメディアンには見えないですよね。

ミスター七・三とあだ名を付けたくなるような、とても真面目に見える顔立ちだし、何気にハンサム。正直、ジョージ・クルーニーあたりのスタアと写真を並べても、誰も違和感を覚えないのではないでしょうか。

だから、どんな悪ふざけやバカをされるより、ハンサムが過ぎるところが、一番スティーブ・カレルの面白おかしいところだと思うのです。

本作もコメディではあるのですが、スティーブ・カレルはほとんどバカをしません。時々、我慢しきれずに悪ふざけしかけても、すぐにやめます。一見まともなのに何か含みのある「佇まいの可笑しみ」という彼の持ち味が、よく活かされた作品です。

主人公のキャルは、冴えない見た目の中年男性ですが、人から疎ましがられるようなキモ男ではありません。

ただセクシーとは程遠く、その年齢の多くの既婚者がそうであるように、マイホームパパらしい洒落っ気のない服装と髪型。幸せな父親らしく、会話は子供が起こす日常のささやかな事件や、深入りしない仕事の話。

子供たちもパパの帰りを待ちわびる、素晴らしい家庭人に他ならないのです。

キャルの場合「真面目な男はつまらなく、ちょっとワルな感じの方が女性にはモテる」というような定説に振り回される年齢でもありませんが、青天の霹靂、離婚のせいで、年下のジェイコブによるモテ男レクチャーを受けることになります。

おっさんながらも「マイ・フェア・レディ」よろしく、まず外見から変えるため、ショッピングモールで改造計画が始まります。その時、ジェイコブから指摘される「冴えない男あるある」が楽しい。

サイズの合わない服を着るな。スティーブ・ジョブズでもないのに、ニューバランスのスニーカーばかり履くな。それから買い物のあいだ、しばらくスルーされていましたが、最後に「ビリビリ(マジックテープ)の財布はやめろ」。

ところが、冴えないあるあるコンプリートのキャスに、ずっと恋している女性も登場する。この映画の、ただただ真面目な良い人(男性)に惹かれる女性もいるのだ、という視点に私は好感を持ちました。

物語全体としては、ラブコメ(ロマンチック・コメディ)と言うよりも、ハートウォーミングな群像劇の印象が強いです。

それでも、あえてラブコメを銘打っているのは、多くの登場人物が、恋心や愛情の矢をそれぞれ一方的に放っているから。ちぐはぐだった恋の(愛の)矛先は、最終的に「恋のから騒ぎ」さながら見事に収束します。

それぞれの恋や愛(片思い)に、歯が浮くような甘ったるさも、狂おしいほどの切なさもないところが個人的にとても好み。素直に、登場人物を祝福したり応援したり出来ました。

なんとも、ほっこりした気分になれるので、ふだんはラブコメなど観ない人も、落語の人情話のような感覚で楽しんでもらいたい作品です。

ちょっと余談ですが、「ラ・ラ・ランド」の二人がすでに、ここで共演していました。「ラ・ラ・ランド」でも本作でも、ライアン・ゴズリングエマ・ストーンの仲睦まじい様子は、実に微笑ましいのです。

エマ・ストーンに対する、ただの私のエコ贔屓なのかも知れませんが、彼女はイチャイチャするのがとても上手なんですね。恋人同士が「一緒に居ること」の楽しさを見せるのが、いつも巧い。

ライアン・ゴズリングエマ・ストーンもそれぞれ、プライベートではすでにパートナーがあるようですが、往年の三浦友和山口百恵のように、いずれ結婚してくれないだろうか、と思ってしまうほど相性の良さを感じます。

二人の相性の良さは、自他共に認めているから共演も重なるのだろうし、プライベートはさておき、トム・ハンクスメグ・ライアンみたいな、作品上のベストカップルに今後なってくれると嬉しい。

鑑賞を終えると、コメディとは思えない豪華なキャスティングにも納得の、構成のよくできた作品でもあります。

サスペンス要素はまったくないのに、序盤からうっすら気になっていたことが「なるほど、ここに繋がっていたのね」とスッキリするツイスト(どんでん返し、という程でもないのだけれどチョットかした種明かし)が心地よかった。

年末年始に、お家でゆっくり、ほっこり楽しめる作品としてお薦めします。

 

ミギー

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ヴェノム

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

カリフォルニア州サンフランシスコで、TV局の記者として活躍するエディ・ブロック。自身も出演する突撃取材番組は、決して批判を緩めない姿勢が好評で人気を博している。弁護士の恋人アンとの仲も順調だった。

エディは、かつて画期的なガンの治療薬を開発した、カールトン・ドレイクが代表を務める「ライフ財団」によって行なわれている人体実験が、非常に危険なものであるという情報を得た。

この疑惑について報道しようとした途端、財団からの圧力でTV局をクビになり、財団の訴訟に関わっていた恋人のアンも、弁護士事務所を解雇される。そして、この事が原因で、エディはアンから別れを告げられてしまう。

職も恋人も失い、半年間、自暴自棄に過ごしてきたエディの元に「ライフ財団」の研究職員であるドーラ・スカース博士が現れ、財団がホームレスを利用して行っている人体実験で死者を出している事実を、改めて公表して欲しいと願い出る。

エディは、証拠を掴むため「ライフ財団」の研究所に侵入。その際、知り合いのホームレスの女性マリアを見つけ、助け出そうとした時に何かに寄生されてしまう。

それは財団が宇宙探査で見つけてきた、“シンビオート”と呼ばれる地球外生命体で、財団は、ヒトが宇宙環境に適応できるようになるため、“シンビオート”をヒトに寄生させようと人体実験を行なっていたのだ。

実験は失敗を繰り返し、数多くのホームレスがすでに死んでいた。しかし、エディは奇跡的に“シンビオート”との共生に成功し、凄まじいパワーを手に入れる。

問題は、“シンビオート”が寄生した宿主も含めて、ヒトを喰らう生物であること。そして、地球に連れて来られたのではなく、地球を支配するために意図的に捕まり、やって来たという点だった。

わたくし的見解

「悪役」あるいは日本的な表現だと「敵役」の魅力が、作品の人気に左右すると言っても過言ではありません。ガンダムの(初代)主人公アムロに対してのシャア、ルパン三世と対なる銭形警部、世界的に有名な悪役(敵役)のダース・ベイダー

そのような役回りを、アメリカン・コミックではスーパーヴィランと呼ぶそうです。DCコミックスの「バットマン」にも、ジョーカーなど印象的なヴィランが多く存在します。

ヴェノムは、マーベル・コミックスの「スパイダーマン」にとって最大の宿敵とされている人気キャラクターで、映画でも2007年の「スパイダーマン3」(サム・ライミ監督、トビー・マグワイア主演のシリーズ)に登場しています。

そこではすでに、“シンビオート”なる地球外生命体は、生物スーツとして開発されており、悪意のある人間が着用したことでスパイダーマンと敵対する存在になっていました。

さて、本作においてのヴェノムは、まさに宇宙から地球にやってきたばかりで、生物スーツなどにはなっていない、生命体そのものの状態です。

うジュるうジュるした形態のせいか変幻自在で、強力なパワーを持っています。そのぶん食欲も旺盛。何でも食べてくれれば問題ないのですが、食べられるものが限られていて、数少ない食べられるものに、何故がヒトが含まれているので困りものです。

地球外生命体なので、当然、地球上の常識や倫理感などある訳もなく、生き抜くためにヒトを殺す、そして食べることに躊躇しません。ある程度は宿主の意思で制御できるものの、それにも限界があり、寄生された主人公エディの苦労する様子がしっかり描かれています。

寄生されてから、その異常事態をエディが理解するまで、そして共生関係が安定するまでで本作は終了してしまいます。アメコミものの映画化作品の多くは、だいたい三部作を想定して製作されるので、一作目はどうしてもイントロダクションにある程度の時間が裂かれるもの。

「ヴェノム」は主人公の紹介だけでなく、地球外生命体みたいな突飛なものが何処から来たかなどの説明が必要なせいか、他のアメコミ原作の映画作品よりも一層スロースタートな印象を受けました。

ただ、それよりも観ていて一番心配になったのは、この傍若無人な食人モンスターを、どのようにして正義のヒーローにするのやらという点。ここは結局、アンチ・ヒーローの王道的展開を見せてくれます。

悪魔と合体しながら人間の心を持つ「デビルマン」や、改造人間になりながら人間の側に立ち、自らと同じ境遇の怪人たちと闘う「仮面ライダー」のように、人ならぬモノと人間のハーフのような異質な存在で、人間を救うために闘う流れに「ヴェノム」も該当します。

しかし、昭和の日本のアンチヒーローたちと少々趣が異なるのは、ベースとなる人間(主人公)と融合する人ならぬモノ(ここでは“シンビオート”)との間で友情に似たものが芽生え、共存・共生のために、ある種の契約を交わした結果、正義のヒーローとして誕生するところです。

闘いが終結したあかつきには、自らも抹消しなければならない昭和のアンチヒーローの悲劇的な存在と比べると、「共に生きよう!」と高らかにぶちまけるアシタカ(「もののけ姫」に出てくる理想論を掲げる若者)のような、どのような状況でも希望を失わない性根の明るさを「ヴェノム」にも感じます。

私としては、地球外生命体から寄生される、それらはヒトを頭から喰らう、変幻自在な形態などは、昭和から平成(1988〜1995年)にかけて発表された日本の漫画作品「寄生獣」を思い出さずにいられません。(ちなみに、マーベル・コミックスに「ヴェノム」が初登場したのは1885年)

実はヴェノムも「寄生獣」のミギー同様に、自らヴェノムだと名乗ります。ミギーは右手に寄生した経緯から自分でそう名付けましたが、ヴェノムは元々そのような名前を持った個体だったようで、他の”シンビオート”にも名前があります。

うジュるうジュるしてるくせに生物として強靭で、しかも知的生命体なのですから、かなり厄介です。しかし、おそらくヒトより優れた地球外生命体の彼らの中では、ミギーもヴェノムも出来損ないや負け犬で、そんな劣等生達の抱く人間へのシンパシーのお陰で、いつも地球は救われるのですから世の中捨てたものではありません。

色々それらしく御託を並べておりますが、アメコミものの映画は大体において面白いんです。その中で、ベストとまでは申しませんが、ヴェノムの(モンスター的)映像表現だけでも一見の価値があります。ぜひ、楽しんで下さい。

ところで余談ですが「もののけ姫」と言えば、ヴェノムが途中からエディにヒトを食べていいか許可を得るくだりが、しきりにサンに「食べていい?」と聞く山神(デカい犬)みたいで可愛く思えました。

とんがった歯が一杯生えてて邪悪な形相のヴェノムですが、不思議と愛嬌があって憎めないギャップ萌えが、他のアメコミ作品にない魅力かも知れません。

 

スクラップ&ビルド

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雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

ある朝デイヴィスは、自動車事故に遭う。

助手席にいた自分は軽い怪我で済んだが、運転席の妻は担ぎ込まれた病院で亡くなっていた。デイヴィスは、突然の出来事を上手く飲み込めず、事実を頭では理解していても感情がついてこない。

妻の死に何も感じられないまま、葬儀の日を迎える。他人事のような感覚で葬儀に参列しながら、事故の日、病院の待合いで自販機が故障し、チョコレートを手に入れられなかった件についての苦情の手紙を書き始める。

デイヴィスは、苦情よりもチョコレートを買うに至った経緯など、自らの身の上を書くことに夢中になる。

交通事故で妻を失ったこと。車には自分も同乗していたこと。妻の父親が経営する投資会社に勤めていること。それなのに通勤電車で毎朝会う男性に、自分はマットレスのセールスマンだと嘘をついてしまったこと。

見ず知らずの、自動販売機メーカーの顧客担当に宛てて、とりとめもなく書き綴った手紙は、何枚にも何通にも至った。

ある晩、手紙の内容に感銘を受けたと、顧客担当の女性から電話がかかってくるのだが。

わたくし的見解

昨年公開された作品なので、すでにあちこちで突っ込まれているけれど、邦題で失敗していることは否めない。

この情感あふれる邦題に見合った内容ではないので、ちょっと紛らわしい。では、どのような内容かと言えば、主人公は原題(“Demolition”)どおり、劇中ほとんどの時間を「解体」あるいは「破壊」に費やしている。住宅の壁を壊すような大きなハンマーや、ブルドーザーを使って。

だからと言って、「解体」というタイトルの映画など、誰が観に行くものか。建設事業にまつわるドキュメンタリーか、シリアスなイラン映画ならまだ可能性はあるにしろ、観客動員よりも、まず上映館数が極端に減ってしまう。

物語は、妻や結婚生活に関心を失っている男が、突如妻を失った様子を描いている。制作年度や公開年度を見ても、本当に偶然としか言えないが、西川美和監督作品「永い言い訳」と設定がとても似ている。

どちらの作品の主人公も、周囲が期待するような形で、妻の死を悲しむことが出来ず困り果てている。涙が出るとか出ないとか、そんなのは表面的なことだから構わないとして、とにかく感情が湧き上がらず途方に暮れる。

妻の死後に知り合った親子との交流で、主人公が少しずつ、本来あるべきものを取り戻していく流れ。そして、悲しみのないことに罪悪感さえ抱いていたのに、物語の中盤で、亡き妻から手痛いしっぺ返しを食らうところまで、二つの作品は要約すると本当に同じような物語なのだ。

しかしながら、同じ食材でも違う料理が出来上がるように、単に日本とアメリカの違いにとどまらず、きちんと違う物語になっている。カレーと肉じゃがくらい、この二つの作品はちゃんと違うのだ。

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」は、序盤で主人公が言っているように、“すべてが、metaphorになった”作品だ。

物語の説明をする時に「これは一種のメタファーで」と述べるのは、いかにも中二病的で個人的にとても恥ずかしく、他に適当な表現はないものか大変迷うところなのだが、本作に関しては、もはや比喩であって比喩でないところが面白い。

手紙は、特定の誰か宛てでないからこそ、正直に自分の感情や結婚生活についてまで書き連ねることが出来たに違いない。これには、書くという行為で自分や自分の置かれた状況を客観視できる、心理学的効果が期待できる。

主人公は、苦情の手紙という体裁のものを書くことで、セルフセラピーを行なっている。映画に描かれていないだけで、本当はカウンセラーに勧められて書いたのかも知れない。

同じように、彼自身をとり戻す(再構築する)ために「解体」する必要があったのだけれど、比喩としての解体ではなく、実際に自宅も自宅以外の家も壊していく様子は見どころだ。

自販機メーカーの顧客担当として電話してきたのが、ナオミ・ワッツ演じる(美人で絶妙に幸薄そうな、現在の宮沢りえファンあたりには堪らない)シングルマザーなのに、ロマンス要素は少ない。

彼女は「何も感じない」と感じている主人公の長い手紙から、それは大き過ぎる喪失感によるものだと知っていて、それこそカウンセラーのような役割を果たしていく。いわゆる一線は超えないところも、まさにカウンセラーのようだ。

後半にいたっては、ほとんど彼女の息子との交流が中心になっていくのも、実にさっぱりとしている。テーマの割には、しんどい思いをせずに鑑賞できる、邦題とは真逆の、ドライで軽やかな作風が本作の魅力でもある。

作品全体を振り返っても、ふわふわしていると言うか、やはり全体的に象徴的と言うか、“すべてが、metaphorに”感じられる。主人公が再生する過程(解体と再構築)の、イメージを見せられているような映画だった。

失ってから、大切にするべきだったものを、ないがしろにしてきた自分に気付く。なんて、よくある喪失と再生の物語なのだけれど、誰の人生にも喪失は付きもの。でも自分の人生で、失ってから大切なものに気付くなんて、あんまりだ。

よくある物語は、きっと本当によくある事なのだろうから、つい忘れてしまわないように、時々は自分への戒めと思って観るべきなのかも知れない。

 

過去が追いかけてきて、追い抜いていく

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ノクターナル・アニマルズ

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

アートギャラリーのオーナーであるスーザンは、人並み外れた成功の中にあるように見えた。まるで外交官の公邸か小さな美術館のような豪奢な自宅、20年連れ添った夫は、容姿端麗な会社経営者。自ら主催した展覧会も成功を収めたと言って良い。

しかし実際には、夫の会社は苦境にあり破産寸前で、夫婦の関係も上辺を取り繕うばかりの冷めきった状態だった。そんな中、スーザンのギャラリーに上梓前の小説が届く。

それは、大学院生の頃ごく短期間結婚していた、前夫エドワードから送られてきたものだった。エドワードは当時小説家を志していたが、うまくいかず、現在は進学校の教師をしている。

その小説は春に刊行が決まっていて、現在は校正段階にあると言う。スーザンとの別れから着想を得た作品なので、目を通して感想を聞かせて欲しい、とメッセージが添えられていた。

作品は、スーザンの知る20年前のエドワードの小説とはまるで作風が異なり、暴力的でセンセーショナルだったが、力強く、惹きつけられるものがあった。

送られてきた小説「ノクターナル・アニマルズ」の虚構、そしてスーザンの現在と過去の現実が、密接に絡まり交錯していく。

わたくし的見解

ずっと、トム・フォードの映画を観てみたいと思っていた。

監督のトム・フォードは、本来ファッションデザイナーだ。20年ほど前、死に体に近かったグッチ、およびグッチグループの高級ブランドを復興させた人物、という印象を私は持っている。

現在、自身の名を冠するブランドを持って久しい彼だが、ファッションや高級ブランドにあまり興味のない人でも、近年の「007」のジェームズ・ボンドのスーツは「トム・フォード」のものだと言えば、雰囲気が伝わるだろうか。

と言いながらも、私は彼のブランドの愛好家でもファンでもない。古めかしく思えた頃のグッチも、現代的にスタイリッシュに復活した後のグッチも所有したことはないし、手にすることを憧れたこともない。

にもかかわらず、初めて監督した前作「シングルマン」(2009年の作品)の時から、とても気になっていた。「シングルマン」の時も、本作の劇場公開時も手が出せなかったのは、お洒落なだけの映画なら避けたいと思っていたからだ。

学生の頃なら、お洒落なだけの映画に時間を費やしても構わない。けれど年々、体感としての時間の経過速度が加速する一方なのに、そんな贅沢な時間の使い方はしていられない。

ノクターナル・アニマルズ」は、とても美しい映画だが、決してお洒落映画の枠にとどまらない。ヒロインの内面を丁寧に描いた、スリラー映画(恐怖映画という狭義よりも、ミステリーやサスペンスの要素が強い)として見事に確立している。

別れてから20年。スーザンから連絡しても、一方的に電話を切ってしまうような態度だった前夫エドワードが、「スーザンに捧ぐ」と記し、送りつけてきた小説。

その映画内小説「ノクターナル・アニマルズ」は、かつてスーザンが知っていた頃のエドワードの作品とは全く異なるものだった。あまりにも暴力的な内容に衝撃を受けるスーザン。しかし同時に、あの頃のエドワードが、どうしても書けなかった力強い作風に心奪われる。

小説では、ある男が妻と娘を連れた家族旅行の途中、深夜のハイウェイでチンピラにからまれ、妻子を奪われ無残にも殺されてしまう。一人残された男は、担当捜査官の協力を得て、最後には復讐を遂げる物語。

スーザンは、現在の夫が出張で留守の週末、広い豪邸でたった一人、送られてきた小説を手にとる。登場人物の名前もエピソードも、何ひとつ現実にあったものではないのに、物語のあまりの臨場感に、スーザンは度々いても立っても居られなくなる。

その都度、時には出張先の夫に、あるいは離れて暮らす娘に電話をかけるが、会話はわずかで終わり、改めて自らが置かれた孤独を思い知るだけだった。その中で、かつての夫エドワードと過ごした数年間を思い返すようになる。

小説を読み進めては、過去を振り返る。そして現在のスーザンの生活。この虚構と記憶と現実の繰り返しを見せられることで、鑑賞者はスーザンの心境と、小説で描かれているのはエドワードの物語であることが分かってくる。

20年前に妻子を失ったエドワードと、妻子を奪われた小説の主人公とがリンクしていく。

エドワードが自己を投影させた小説の中で、彼は著者として、明らかにスーザンを投影した妻を(他者によって奪われた形をとりながらも)殺し、それによって主人公も死に至る物語。

これは、自分を捨て去り打ちのめした、かつての妻への復讐に他ならない。スーザン自身も恐ろしい程そう感じているのに、それ以上に、これほど見事な小説として昇華させたエドワードを誇りにさえ思うのだ。

この映画のスリラー(サスペンス)要素は、映画内小説の展開にささえられている。

虚構である小説の部分が、最も現実味のある映像表現になっていて、スーザンほど動揺しないまでも、観ていると心がざわついてくる。ジェイク・ギレンホールの演技力によるところも大きいが、そこにある温度や湿度まで感じられるようなリアリティーがある。

対照的にスーザンの現在は、現代アート的な作り物のリアルのようで、徹底的に無機質で空虚。また、スーザンが思いを馳せる過去は、やはり彼女の記憶に頼るものなので、少し夢想的。現実の過去と現在は、違うタッチながらも、やや絵空事めいた描かれ方をしている。

リアルな虚構と、現実味に欠ける現実。

この三つの物語の見せ方に感心した。評論のいくつかに、イメージの近いものとして、デヴィット・リンチの名前が挙げられているのを見たが、あの恍惚感を保ちながら、もっとシンプルで分かりやすい親切さが、この映画にはある。

ずっと無彩色を身に纏っていたヒロインに、ラストで色味のあるドレスを着せるのは、ニクい演出だと思う。あえてフルメイクをやめて、エドワードに会いにいくスーザン。ジェイク・ギレンホールだけでなく、エイミー・アダムスも大変に巧い人で、退廃的な美しさがあった。

実は、ちょっと後悔している。

何年先になるか分からないが、今度トム・フォードが映画を撮った時には、必ず映画館へ足を運ぼうと思った。

 

A-Ha?

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パターソン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

アメリカ、ニュージャージー州の街に暮らすパターソンは、在来線のバスの運転手で、美しい妻と愛犬と共に規則正しい日々を過ごしている。

住む街も、彼の暮らしも、経済的物質的に格別豊かとは言えないが、パターソンに不満はない。日常の美しさに目を向け、詩を綴る彼の7日間を切りとった作品。

第69回カンヌ国際映画祭において、主人公の愛犬マーヴィンを演じたネリーが、パルム・ドッグ賞を受賞。

わたくし的見解

最近、白菜を切る夢をみた。

週末なのをいい事に、明るいうちから白ワインを頂き、ほろ酔いで洗濯ものを片付けてから午睡を貪っていたら、どういう訳だか白菜の夢である。

とくに好物でもないし、実家が白菜農家でもない。村上春樹のように「それは、しるしのようなものだ」とか言ってもいいけれど、正直そんな風には全く思えない。

夢占いや、夢による現在の精神状態の分析みたいなものを持ち出されても、つい私は眉に唾を塗ってしまうような人間なのである。つくづく可愛げがない。

私にとって夢は、得た情報を脳が処理(整理)する時の副産物だと信じている。

記憶の、どのステージに情報を配置するか、寝ている間に脳がせっせと作業している。すぐに取り出さなければいけないような情報は、記憶の浅いステージに。とくに重要ではなかったり緊急性の低い情報は、めったに思い出すことのない、記憶の深ぁーいステージに。

時々あるいは、ほとんどの夢が支離滅裂だったり極端に飛躍した展開になったりするのは、一体いつ得たのかさえ分からないような、些細な情報まで処理していくため、作業段階で複数の情報がザッピングしたようになっているに違いない。

白菜。

少しもそんな事は覚えていないけれど、どうせ私のことだから「涼しくなったし、そろそろ鍋も悪くないかな」とか思ったのだろう。

夢で見た白菜は、今までの人生で私の知る、どの白菜よりも美しかった。ちょうど半分に切ったところから覚えている。虫食いはおろか、しみのようなものも一切なく、繊維はきめ細やかで、切り口はとても瑞々しかった。

雪の下でしばらく保存していたような、ちょっとしたブランド白菜だろうか。こんなに白菜自身のポテンシャルがあるなら、雑多に鍋に放り込むよりも、豚バラ肉を一枚ずつ挟んでミルフィーユ仕立てにするべきではないのか。

とっさに夢だとは気づかなかった私は、半分から四分の一に、さらに切り分けていく間、とてもワクワクしていた。たかだか白菜で。


パターソンという名の街で暮らす、パターソンという名の主人公。彼の人生のうちの、それほどドラマティックでもない7日間を、まるで風景を眺めるように鑑賞する映画である。

パターソンは、運行前のバスの運転席や、滝を背景に臨む鉄橋が見えるお気に入りの場所、そして自宅の地下室兼書斎で毎日熱心に詩をしたためる。

妻や職場の同僚に、創作活動を遮られても意に介さず、そこに苛立ちみたいなものは全くない。かと言って、詩に対するスタンスが冷めている感じでもない。とても純粋に真摯に詩と向き合っていて、その上で完全に生活の一部となっている。

彼には詩を書くことが、好きなコーヒーや煙草で一服するような、いたって日常的なことなのだ。

バスの運転手であることも象徴的で、毎日ほぼ同じ時間に同じルートを走る。決して大きな都市ではないので、乗客も通勤や通学で見慣れた顔ぶれがほとんどだろう。車窓の景色も変わり映えはしない。

しかし、ささやかながら日々、季節は移ろい天気も変わる。耳にする乗客のたわいもない会話も毎日違う。目覚めた時に横にいる妻、悩み多き同僚の愚痴、一日の締めくくりに出かける愛犬との散歩と小さなジョッキのビール。

たとえ大きな変化がなくても、一日たりとも同じ日はないのだ。パターソンはそれらを慈しみ詩に綴る。

暮らしている街や、あるいは自分の人生について、特筆すべきことは何もないと感じるのは、見方が違うだけなのかも知れない。視点を変えれば、パターソンの街や彼のように、本当は何かがあるのかも。

そして、映画としてはあまりにも牧歌的に思えた7日間も、もしかしたらパターソンにとって、人生で最も劇的な一週間だったのではないか、とも思うのだ。

作品の後半で、パターソンと同様に秘密のノートにポエムを書き綴っている女の子が登場する。彼女は、自らの詩を誇らしそうに披露してくれるが、しきりに「でも韻は踏んでいないの」と繰り返す。

そんな彼女にパターソンは「韻を踏めているところもあったし、中間韻もあったよ」と励まし褒めてあげる場面が、とても印象的だった。実は映画全体も、詩のような構造をとっているようだ。

ウィリアム・カーソル・ウィリアムズという現代アメリカの詩人の名が、映画の中で何度か出てくる。パターソンが最も敬愛する詩人なので、妻がわざと名前を間違えて言ったりするのだ。

彼の作品にそれこそ「パターソン」という長編詩がある。当然、この映画の元になっている作品だが、興味深いのは小説からの映画化のように、ストーリーを中心に下敷きにするのではなく、構造を映像作品にしている点だと思う。

さらに重要なのは、映画の中に散りばめられた韻とかリフレインとか擬人化だとかを、全く気にしなくても、十分に楽しめる作品だと言うこと。登場するキャラクターは犬にいたるまでチャーミングだし、実に穏やかな物語なのに退屈させない。

しかも、今までの人生で私の知る、どの映画よりも美しかったと言っても良い。まるで夢で見た白菜のように。ほんの束の間の、とても幸せな午睡のように。