映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

ゆるふわ残酷おとぎ話

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リップヴァンウィンクルの花嫁

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

派遣で非常勤の高校教師をしている七海は、インターネットで知り合った男性とトントン拍子で結婚するに至った。結婚式の準備のなかで、新郎側に対して新婦側の参列者が足りなかったため、これもインターネット上で交流のあった人物のコネで、ある便利屋を利用し参列者をカサ増した。

ところが、あっさり手に入れたいわゆる「幸せ」は至極あっさり崩壊する。夫だけでなく職も住む場所も失った七海は、何かと親身に面倒をみてくれる便利屋の紹介で、豪邸の住み込みメイドの仕事を始めるのだが。

わたくし的見解

思わせぶりなタイトルで、掴みはオッケーと言ったところでしょうか。「リップヴァンウィンクル」て何? と、お思いになりませんか。ご存知「リップヴァンウィンクル」みたいに言われても何なのさ、それ。と、不勉強な私は思いまして調べたところによると、こうです。

リップ・ヴァン・ウィンクルは、アメリカではそれこそ「ご存知」的有名な短編小説。浦島太郎と酷似した内容で、森鴎外が翻訳した際「新世界の浦島」と邦題をつけたほど。主人公にとっては短期間のおよばれを楽しんでいただけなのに、実際には長い年月が過ぎていたという物語で、慣用句として使われる時は「時代おくれの人」「眠ってばかりいる人」を指すのだそうです。

このあたりを知っていないと映画つまらないかしら、と考え調べてから鑑賞したものの、正直知らなくても全く問題ありません。知っていたことで、より奥行きのある鑑賞ができたということもありません。

今回の作品の良いところは、この物語は一体どーなってしまうのでしょー、という実にシンプルなモチベーションだけで乗り切れる点です。透明感のある映像と、美しいクラッシックの調べに乗せ、それらとは何気に対照的で悲惨なストーリー展開。実に岩井俊二的な雰囲気先行ゆるふわ映画のようでいて、なかなかサスペンスしています。そのため3時間もある割に、シンプルなモチベーションを維持し続けられる不思議な作品です。

やはり、こちらも一見ゆるふわのようでいて実は芯のしっかりした女優、今ノリに乗っている黒木華(くろきはる)さんの力量によるところが大きいことは疑いのない事実でしょう。

また、他のキャストも期待どおりのハマり役。見事に胡散臭い綾野剛さんや、何故この人が? のCocco。シンガーソングライターであるCocco自身のイメージが最大限に、真白という登場人物にリンクしています。Cocco=真白の放つ危うさが、物語のサスペンス要素の屋台骨になっています。

上映時間3時間のうち、正直1時間は編集でカットしてもまったく問題ない雰囲気映像なのですが、カットしてしまうと岩井俊二の映画ではなくなるんだろうな、とも思ったり。持ち味と言うか、作家性と言うか。カットして特典映像として、セルDVDに付けるという選択をしないあたりを、ある意味勝負しているとも受け取れるので、実は評価するべき部分なのかも。

切り捨てることも出来なくはない1時間分のゆるふわ映像は、雑貨店で売られているものと同じで、必需品ではないけれど、心を豊かにしてくれる美しいものたちである事だけは間違いありません。

 

職業監督の極み

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ゴーン・ガール

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

片田舎で暮らすニックとエイミーは、その土地に似つかわしくない都会的雰囲気を持つ、人も羨む幸せな夫婦のはずだった。

ところが五回目の結婚記念日に突如、妻エイミーが失踪したことで夫婦の本当の姿が浮き彫りにされる。

エイミーの捜索が大々的に行われるなか、愛妻家と思われていたニックの不倫が発覚し、ニックはエイミー殺害の容疑をかけられるようになるが。

わたくし的見解

今年の春、「僕のヤバイ妻」という連続ドラマが放映されていました。番宣を見たとき、これは「ゴーン・ガール」ではないか。と思い、第一話を見てみたのです。

どんな風に日本に舞台を置き換え、またストーリーも、オリジナルをベースにどんなアレンジをし、そしてどのように独自の展開を見せるのかに興味がありました。

「僕のヤバイ妻」では、妻は身代金目的に誘拐されますが、それは妻による狂言誘拐のため、浮いた身代金二億円を巡って夫婦以外の人物も巻き込み展開していきます。

ゴーン・ガール」でも実家が裕福なのは妻エイミーで、事件も彼女の狂言。しかし事件は、身代金目的の誘拐ではなく、エイミーはおそらく殺害されたであろう状況を残し失踪する。

エイミーの目的は、殺人犯として夫に死刑判決が下ることなのです。彼女の両親はただ裕福なだけなく著名人であることから、エイミー失踪と夫にかけられた殺害容疑は、全米の注目する事件となっていきます。

「僕のヤバイ妻」に対する私の興味は結局持続せず、第一話の次に見たのは最終回となりました。けれども、身代金の二億円を軸に二転三転を繰り返し、見ていた人はきっとスリリングな展開を楽しめたに違いありません。

驚いたことに「僕のヤバイ妻」は完全にオリジナル作品で、「ゴーン・ガール」をベースにしていたり、インスパイアされたり、まかり間違ってパクっていたりは一切ないようです。私は作品が面白ければ良いんじゃない、というスタンスなので、そのあたりを追及するのは本意ではありません。

本意の「ゴーン・ガール」についての、その面白さは妻のヤバさ、に尽きます。女の浅知恵なる言い回しが世の中には存在しますが、妻エイミーは大変に賢くてヤバイ。もう勝てる気がしない。絶対、敵に回したくない権化です。

夫が死刑になるように仕込んでいる罠の多いこと、周到なこと。準備期間の長さや、夫に不利な事実・状況・証拠が露見するタイミングの巧妙さにマジ震える。(←西野カナ調)

陥れられた夫ではないのに、私もエイミーにとりあえず謝ってしまいたい。どうか、お命だけはご勘弁。

149分と長尺な作品ながら、夫視点の事件/sideAと、妻視点の事件/sideBのような見せ方をするので、退屈せず鑑賞できます。

デヴィッド・フィンチャー監督は、枕詞のように「鬼才」と呼ばれがちですが、私は稀代の職業監督だと感じていて、エンターテインメント性にとても重きを置いている人。

ゴーン・ガール」も、「僕のヤバイ妻」に限らず類似作品が簡単に見つかりそうな、さほど斬新な内容ではありません。

しかし、とにかく見せ方が巧い。プロフェッショナルの職人技です。やだな〜やだな〜、こわいな〜こわいな〜(←稲川淳二調)とつぶやきながら、この超常現象皆無で「生きてる人間(女)が一番怖い」話をお楽しみ下さい。

残暑が厳しい折の、納涼「ゴーン・ガール」のススメ、でした。

トトロのいない夏

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冬冬の夏休み

映画情報

  • 原題(英題):冬冬的假期/A Summer at Grandpa's
  • 制作年度:1984
  • 制作国・地域:台湾
  • 上映時間:98分
  • 監督:侯孝賢ホウ・シャオシェン
  • 出演:王啓光、李淑○(木偏に貞)、古軍

だいたいこんな話(作品概要)

台湾の都心部台北で暮らす少年、冬冬(トントン)は小学校を卒業した夏休みに、妹の□□(女偏に亭)(ティンティン)と共に田舎の祖父母の家で過ごすことになった。母が入院し、父はその看病で手が離せないからだ。

田舎から迎えにきてくれた親戚のお兄さんは、途中下車する恋人を見送るうちに電車に乗り遅れてしまい、冬冬たちとはぐれてしまう。冬冬と□□の、ささやかな冒険が始まる。

時代設定は、東京ディズニーランドが開園したばかりの頃。

わたくし的見解

「冬冬の夏休み」の特筆すべき点のひとつには、子どもの描き方があざとくないことが、何しろとにかく挙げられる。

子どもは子どもであるだけで十分に可愛い存在なので、過度な演出は大人のあざとさが透けて見えて、というか最早すけてさえおらずガッツリ丸見えで食傷ぎみになりませんか? 私はなります。

「冬冬」の子どもらは、「ロッタちゃん」シリーズに代表されるような北欧の
子供映画などと印象が近く、ニコっとキラースマイルを見せたり、(人間三回目と噂される)芦田愛菜さんのような、天下無敵のくしゃくしゃな泣き顔など見せない。

「冬冬」や「ロッタちゃん」らは、口を真一文字に結び一点を睨めつけ、思うところはあるが今言うつもりは毛頭ない! と言わんばかりの不服顔を見せてくれるので、笑ったらもっと不機嫌になるんだろうなと思いつつ、つい笑ってしまうのだ。

冬冬はお兄さんだし、夏休みが終われば中学生になるような年齢でもあるので、演出云々そっちのけでも、子供らしい言動などはそもそも似つかわしくない。

そのぶん美人な妹、□□ちゃんに子供らしさを期待しがちだが、この子が前述したような一点睨めつけ系のハードボイルドィ少女で、飾りじゃないのよ涙は、と言っていたかは定かではないが、基本的にあまり泣かない。

子どもって案外そういうもの、と妙に納得できる。お母さんは入院している。手術するけど死んじゃうかも知れない。冬冬は、その事実を理解している。

□□ちゃんはお兄ちゃんほどではなくとも、お母さんがいなくなってしうまうかも知れない不穏な状況は十分わかっている。

不安で泣いてしまうのではと大人は勝手に想像しがちだが、子どもは思った以上に気丈に振る舞い、それがかえっていじらしく愛おしく感じられる。ホウ・シャオシェンの、ニクい演出だ。

でも到底、演出をつけているようには思えない。子ども達に限らず作品まるごと自然体で、私世代にとっては他の国の出来事と思えないほど、自分の知っている田舎で過ごす夏休みがそこにある。

おそらく、子供時代に見ても何が面白いのか分からない映画だろう。これは、大人のための夏休み。世に言う、一服の清涼剤のような作品。

 

 

 

出来が良すぎて思わずウケる

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ファニーゲームU.S.A.

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

ハネケ監督自身の「ファニー・ゲーム」のハリウッドリメイク作品。ハリウッド的スリラーのパロディと言われるが、その手法は洗練されたえげつなさ。ある裕福な家族の穏やかな休日が、一変して不条理極まりない暴力にさらされる。行われる暴力をカメラが捉えることは一切ないが、赤裸々に見せつけられるスプラッタホラーよりも、ずっと恐ろしい。

コワイ怖い作品ですねぇ。(←淀川長治節)

わたくし的見解

97年のオーストリア作品「ファニーゲーム」と全く一緒、と伝え聞いていたのでスルーしていたけれど、オリジナルの鑑賞から数年経ったおり、じゃあどんくらい一緒なのか見てみっぺと思いたち、U.S.版も鑑賞。

リメイク権を獲得しプロデュース陣に名を連ね、オリジナル作品の監督ミヒャエル・ハネケに懇願して、自ら主演も務めるナオミ・ワッツの頑張りを見ておこうか、とゆー気持ちもあった。ナオミ・ワッツが監督に懇願、というくだりは出どころが思い出せない。ただの私の妄想かも知れない。

ミヒャエル・ハネケ本人が語ったのか、映画批評家が勝手に解説しているだけなのか、これも定かではないが、オリジナル「ファニーゲーム」はハリウッド映画への痛烈な批判であると一般的に言われている。

にもかかわらず、オリジナル監督がハリウッドでセルフリメイクするってどう? どーゆーことだと思います? みなさん。

U.S.版は伝え聞いていたとおり、マジでか? と思うほどオリジナルと一緒である。

キャストがハリウッド俳優に変わり、言語が英語に変わり、たぶん電話が携帯電話に変わった(あるいはオリジナルも子機ではなく携帯だったかも知れないが大きさが、ほら10年も経つと随分違いますよね)程度で、あとはホント一緒。

役名もドイツ語読みが英語読みになっているだけだし(子供の名前は違うっぽいけど)ロケーションもよくここまで似たとこで撮ったよな、て感じ。音楽もたぶん一緒で、衣装もほぼ同じ。カット割りも。

何これ?! こんな舞台の再演みたいなこと、やる意味あんの? 映像で。と思いつつ、ここまでくるともうウケる。

ナオミ・ワッツがこれを自分で演りたがるのは、よく分かる。

映画大国アメリカでは、案外ヨーロッパの映画って上映されないらしく、たぶん日本のほうが(たとえば地方都市においても映画館で)他国の映画を観ることが容易。

素晴らしいと思った外国映画があればリメイク作って、知名度もある自分が演じて、作品と同時に自らの演技力も誇示したくもなるでしょうとも。

すげー美人でスタイルも良し。演技だって出来ちゃうんだけど、いつまで経っても同じオーストラリア出身のニコール・キッドマンには追いつけない感じのナオミ・ワッツ。いつもすげー頑張ってるのにね。

でも、この作品を獲ってきたのは大正解。これはニコール・キッドマンの映画ではない。ニコール・キッドマンだと最後には勝っちゃいそうだもん。

ただただ、ひたすらいたぶられ続け一矢報いることさえない可哀想な感じはナオミ・ワッツ向き。「マルホランド・ドライブ」同様にニコールではなく、ナオミがハマる作品と言える(だって、ハリウッドで成功しまくりのニコールだと今いち悲哀に欠けるから)。

面白いのはミヒャエル・ハネケみたいな変人(としか思えない監督)がリメイクに同意したところ。やっぱ美人に、あいりありーりすぺくちゅー、とか言われたら悪い気しなかったのかな。

オリジナルがハリウッド映画への批判なのだとすれば、セルフリメイク自体がハリウッド・リメイク全てへの揶揄かも知れない。けど、完成度が高すぎて、なんか、どっちでもいーやって思う。

ミヒャエル・ハネケには、映画愛ゆえの映画への批判精神みたいなものは勿論あるだろうけど、それよりも「どう、こんなに完璧(な作品。だって、どこも修正するとこないもんねー)」って自信に満ち満ちている感じがして、そこが楽しい。しかも実際に完璧すぎて、ウケる。

たしかに完璧なんだけど、以降の作品を観ると、やっぱ未だ若いのかもと思ったり。

ファニーゲーム」は徹底的に悪意を見せる映画で、何しろ悪意がクンクンの短パン履いて歩いてる(クンクンなのはオリジナル版で、リメイクでは時代と共に短パンからハーフパンツになってるけどね)。

悪意が全面に出ていて、不快極まりない。ところが、その後の作品「白いリボン」では悪意が表に出てこない。たしかに存在してるのに。なんと気色の悪いことか。

悪意の無い直近の作品「愛、アムール」でさえ観客を徹底的に打ちのめすのだから、つくづく恐ろしい監督。でも美人には弱い。(←だから勝手な妄想だって)嫁にも頭が上がらない。(←たぶんそんな気がする)ウケる。

 

 

綺麗ごとを、あなたに

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未来を生きる君たちへ

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

エリアスは学校でいじめを受けていた。父アントンは医師としてアフリカ難民キャンプとデンマークを行き来する生活が続いていることで、エリアスの抱える問題に気付けずにいる。

ある時、いじめられていたエリアスは、転校生のクリスチャンに助けられ、二人は急速に距離を縮めていくのだが。

第83回アカデミー賞で最優秀外国語映画賞を獲得。

わたくし的見解

子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。

これは、太宰治「桜桃」の冒頭文である。

「未来を生きる君たちへ」は、決して夫婦喧嘩を持ってまわった物言いで描いてもいないし、一粒のさくらんぼさえ登場しない。

だからといって、このおせっかいな邦題のごとく、未来を生きる子供たちに向けて、あるいは子供たちの世界を物語としている訳ではないと思う。

「子供より親が大事」とまでは言わないけれど、子供たちの親、大人たちの物語でもあると強く感じた。

二人の少年、エリアスとクリスチャン、そして彼らの家族が中心に描かれている。原題は「復讐」とのことで、さすがにタイトルが(たとえ血文字でなくとも)漢字で「復讐」となれば、観客動員も期待出来ず、配給会社も邦題を考えて当然とは思う。

しかし、だったら英語タイトルの「IN A BETTER WORLD」でいいじゃん、などと邦題についての文句はつきないが、それはまた別の話。

少年たちと、エリアスの父(アフリカ難民キャンプで医師として働いている)の姿を、カメラは主に追いかける。それぞれに、理不尽なほど一方的な暴力が襲いかかるのだ。

暴力に対して復讐を是とする子供たちと、非とする姿勢を貫きたい、またそれを子供たちに理解して欲しいと切に願う父親

主人公たちが皆、真摯に生きている。これはスザンネ・ビア監督の映画に見られる共通点で、私がとても惹かれている部分でもある。

映画の彼らはみんな、それぞれにベストを尽くして生きている。しかし、だからといってベストな結果が得られるとは限らない。むしろ得られないことの方が圧倒的に多い。そしてベストを尽くしても、必ずしもそれが正しいわけでもない。

このあたりのシビアさがリアルで、観ていて正直しんどいけれど、ただただ重苦しいだけでは終わらない。映画の中に、スプーンひとさじの綺麗ごとがある。これも私がスザンネ・ビアの作品を好もしく思える重要な要素だ。

この物語を、このように解釈して、このように感動してください。というお膳立てが非常に弱い映画だ。そのくせ結局は綺麗ごとか、と物足りなく思われる人もいるに違いない。でも私は、映画に綺麗ごと、何がいけないの? と思う。

生きるということは、たいへんなことだ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。(太宰治「桜桃」より)

現実はいつだって厳しい。せめてフィクションに綺麗ごとを。フィクションの中だけでも正しい世界を。

スザンネ・ビアは、ハリウッドに進出したこともある監督なのだけれど、この作品のように古巣デンマークで映画を撮り続けて欲しい。そう強く感じた。

綺麗ごとの分量がハリウッドだと変わってしまうのだ。ヨーロッパで撮ると、ちょうどスプーンひとさじ位で心地よいのだ。


死して、なお守られるべきもの

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サウルの息子

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1944年10月。アウシュビッツ強制収容所でゾンダーコマンドとして、囚人の遺体処理の仕事をしていたハンガリー人のサウルは、ある日ガス室で、かろうじてまだ息のある少年を見つける。

少年はすぐ息をひきとり、サウルは彼を自分の息子だと主張して収容所の医師に解剖しないよう懇願。ユダヤ教に則った弔いをするために、収容所内でラビ探しに奔走する。

2015年、第68回カンヌ映画祭グランプリ受賞(最高賞はパルムドールなので次点)。第88回アカデミー賞でも最優秀外国語映画賞を獲得。

わたくし的見解

アウシュビッツ強制収容所が舞台の物語なので、変な言い方になるが「ホロコーストもの」を期待して鑑賞するのであれば、少し思惑と外れるのではと想像する。

主人公の男性サウルが、強制収容所内でせわしなく動き回る姿を、ひたすらカメラは捉え続ける。一眼レフカメラの写真のように、ほとんどの場合ピントはサウルに強く絞られていて、彼以外の人物や背景はピントを合わせた中心から離れれば離れるほどボヤけて映る。

携帯電話のほとんどにデジタルカメラが付いているので、今では見慣れたデジカメの画像と比べると、一眼レフ的画像は実際私たちが目にしている光景に近い。デジカメ画像は背景の端の方まで比較的ピントが合っている。これが綺麗に写っているように感じる要因でもあるが、短所としては綺麗過ぎて嘘くさくもなる。

見ようとしているものに焦点が合って、それ以外のものは比較的ボヤけて見える私たちの肉眼と、一眼レフの画像は確かに似ている。

おそらくこの作品も、まるで出来事を目の当たりにしているような、そういった効果を狙っての事と思われるが、ピントの絞り込みがあまりに極端なので、臨場感以上の緊張がみなぎり、リアルから一周まわった別次元の世界を強制的に見せられた疲労感がある。

時計じかけのオレンジ」みたいに、無理やり瞼を開かれて見せられるような。はたまた一周まわって、そこまでもが狙いか。

ピントの対象サウルや、サウルが話しかける人物以外はボヤけているので、目を背けたくなるようなものは、はっきりとは見えない。

サウルはユダヤ人として収容所にいるが、ゾンダーコマンドと呼ばれる囚人の中でも特別扱いされた労働者で、仕事の多くはガス室に送られた囚人の遺体処理とガス室の清掃。

はっきり見えなくとも、おびただしい数の囚人の遺体が、ずっしりとした確かな重みを持ってそこに積み重なっているのが分かる。ボヤけているからこそ、否応なしに刮目させられるのだ。

こういった光景が序盤、ほぼノーカットで見せられるのに「ホロコーストもの」と少し外れる理由は何なのか。

ゾンダーコマンドは特別扱いされているはずだが、彼らは働くうちに、いずれ自分たちもガス室で処刑されるのではと疑念を持っている。サウルの属するグループは、その疑念が現実である確証を得て脱走を計画していた。

サウルは信用に足る人物のようで、その計画の中でいくらかの重要な役割を担っていた。彼のグループは虎視眈々と脱走に向けて下準備を重ねていたのだ。今日明日にもそれが実行されようとするなか、グループの中でサウルだけ脱走よりも優先せざるをえない出来事が起きてしまう。

緊迫感を持って脱走の実行へ突き進むサウルのグループと、まるで逆流するようなサウルの行動。サウルは決して仲間を裏切る訳ではない。

予定通り仲間から与えられた役割をこなしながら、偶然にもガス室で見つけた自分の息子を、尊厳をもって弔いたいという無理難題を解決しようと奔走する。この極めて個人的な欲求に基づく行動が、数ある「ホロコーストもの」の中で新しい描かれ方ではないかと思う。

サウルらゾンダーコマンドは、ガス室に溢れる多くのユダヤ人の遺体を処理する時、感情を殺す事などはとうの昔に乗り越え、もはや感覚まで殺し作業することに集中しているだろう。同じユダヤ人なのに酷いと言うのは簡単だが、それはあまりにも無神経で思慮に欠ける発言だろう。

ところで、実はサウルが息子だと主張する少年は、年恰好の似ているだけの他人なのではと感じることが何度かあった。

サウルにその自覚があるのかは最後まで不明だが、極限状態で生き残ることだけに集中してきたサウルが、これまでの苦労を全て無にすることになろうともやり遂げたいと願った息子(あるいはそう思い込んだ少年)の弔い。

それは単純に埋葬することではなく、ユダヤ人がユダヤ人の考える天国に行けるように、儀式にこだわり続けたサウル。もし息子ではなく、息子と見立てていたのなら、自らの罪悪感をそそぐためのエゴともとれる。

しかし、ユダヤ人と一括りにして処分されようとしていた現実の中で、そのエゴは個人の尊厳を死に物狂いで訴えるものに見えた。

ホロコーストは、その残虐さと前代未聞の犠牲者数で語られがちだ。他にも、誰のせいでもなくても起き続けるカタストロフィー(大災害)についても、犠牲者の数で、その被害の大きさを計ってしまう。

でも、その何万人を一括りにしてはいけないと改めて思い知らされた映画だった。犠牲者一人一人に、感情を殺すことなど到底不可能な、彼らを心から大切に思う人たちがいるのだから。

とにかく丈夫なディカプリオ

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レヴェナント:蘇えりし者

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1823年、開拓時代のアメリカ北西部。ヒュー・グラスは、ネイティブアメリカンの妻と息子ホークと共に、毛皮を得るために狩猟し輸送する白人の部隊に、ガイドとして加わっていた。

大量の毛皮を輸送する最中に、ネイティブアメリカンのある部族により襲撃を受けたことから、砦までの帰路が極めて困難に。グラスは斥候として単独で行動したおり、グリズリーに襲われ瀕死の重傷を負ってしまう。

わたくし的見解

作品を鑑賞した人の中には、1990年の映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」を思い出した人もいるようです。ダンス・ウィズ・ウルブス(狼と踊る男)とは、ある白人男性がネイティブアメリカンに与えられた名前。

「レヴェナント」の時代設定は「ダンス・ウィズ・ウルブス」よりも40年ほど早いので、どちらもネイティブアメリカンと交流の深かった白人が主人公ではあるものの、状況は随分と違います。

しかし「レヴェナント」の主人公が、物語の以降もネイティブと関わる人生であったなら、おそらく「熊と寝技で闘う男」と呼ばれ、一目置かれたことは間違いないでしょう。

タイトルに象徴されるように、主人公の男は何しろ驚異的に丈夫で、熊にやられてほぼ死に、どうにか生きていたが極寒の川を流れほぼ死に、とりあえず生きていたが傷が腐り、やはり死ぬみたい。と、繰り返し死にかけては蘇る物語と言っても過言ではありません。

あまりネタばれは好ましくないのですが、原作のタイトルに至っては「蘇った亡霊:ある復讐の物語」と全部言ってしまっているので、問題ないかな。

どのような作品も、要約してしまえば身も蓋もないもの。映画「レヴェナント」については、どのように男は蘇り、また蘇る力の原動力とも言える復讐を果たして遂げることが叶うのか、が見事な映像叙事詩として描かれているところを見てやって。

ひたすらアカデミー最優秀主演男優賞のお預けを食らってきたレオナルド・ディカプリオが、やっとオスカーを手にした作品ですが、10代の頃からすでに性格俳優だったディカプリオ。

ここにきて円熟味を増し、その演技力が頂点を迎えたことへの評価というよりは、正直「よくがんばったで賞」の扱いです。凄まじく過酷な環境での撮影だったことは疑いがなく、その甲斐あって実に素晴らしい映像作品に仕上がっています。

畏怖の念さえ抱く雄大な自然、みたいなものはBBC製作のドキュメンタリー映画でも拝めますが、この作品の特筆すべき点はエマニュエル・ルベツキなる人物の撮影手腕です。

カメラ位置や編集点の見えなさに驚かされる、スルスルと鮮やかな長回しに特徴のある人で、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の前作「バードマン」や、アルフォンソ・キュアロン監督の「ゼロ・グラビティ」の映像が記憶に新しいところです。

「レヴェナント」では特に序盤の、主人公が属する白人部隊がネイティブアメリカンの部族に襲撃される、かなり長めのアクションシーンが圧巻。

私が、エマニュエル・ルベツキの映像に初めて感銘を受けたのは「トゥモロー・ワールド」(2006年)で、作品については、つまらなくはないけれど面白い! とも言い切れず、そこはかとなく漂うB級感に評価のしづらさを感じていました。

しかし、中盤以降に展開される超長回しの妙に生々しいアクションシーンによって、突如、ゼロ年代を象徴する重要な作品として位置づけることに。

中心人物を追いかけているようで、次々とターゲットを移し動き回る視点は、死神のもののよう。観ていると、渦中に置かれているような緊迫感があり、心拍数が上がります。

ところが、カメラのレンズに飛ぶ血しぶきや、接写している生物の呼気によって画面が曇るなど、カメラがカメラとしてそこにあるメタ表現によって、とても不思議な心持ちになるのです。

私は、そのような映像表現が大変に好みなのですが、先日の日経新聞では「中途半端」と一刀両断されていて残念無念。

しかし、中途半端かどうかを確認しに行くだけの価値は十分ある作品です。インディアンに頭の皮を剥がされたせいで、禿げ散らかしているトム・ハーディも、個人的にはかなりのオススメ材料だったりします。