映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

感染症のいろは

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コンテイジョン

 映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

香港で仕事を済ませたベス・エムホフは、帰国してすぐに風邪の症状や倦怠感があったが、夫には海外出張の疲れだと伝えてベッドにもぐり込んだ。2日後、ベスは自宅でけいれんを起こして意識を失い、病院に搬送されたがほどなくして死んでしまう。

夫のミッチは、医師から死因が分からないと告げられ困惑するなかシッターから緊急の連絡が入る。ミッチが慌てて帰宅すると、息子のクラークがベスと同様の症状で、すでに死んでいた。ベスとクラークは正体不明の感染症による死亡と推定され、ミッチも感染の疑いから隔離されることになった。

CDC(疾病予防管理センター)のエリス・チーヴァーは、この病気の解明を部下のエリン・ミアーズに委ねる。エリンは症例の報告があった現地へ調査に赴き、感染拡大阻止に向けて奔走するが、自らも感染し死亡してしまう。

香港ではWHO(世界保健機関)の疫学者レオノーラ・オランテスが、ベスを初発症例だと突き止め本部へ戻ろうとしていた。その時、香港の政府職員のスンは自身の故郷の村に優先的にワクチンを入手するため、人質としてオランテスを拉致する。

感染による死亡者が増え続け、世界は混乱を極めていく中で、CDCではワクチンの開発が急がれるのだが。

わたくし的見解/ウイルス以上に感染していく恐怖

パンデミックを取り扱ったパニックムービーは少なくありませんが、中でも本作は比較的近年に起こった事例を丁寧に踏襲している点で、リアルな恐ろしさを覚える作品です。

制作年度からみると、2003年にWHOがグローバルアラートを出した「SARS重症急性呼吸器症候群)」をベースに、かなり徹底した取材を行い脚本が練られています。(MERSは2012年なので本作の公開以後に流行)

SARSやMERSは比較的、特定の地域で流行したため、日本で暮らす私にとっては知識も意識も不足していたことが今回よく分かりました。現在、世界全体が新型コロナウイルスと闘う中で、度々報道で取り上げられる「クラスター」や「実効再生産数」などの用語が、本作ではバンバン登場し、また「飛沫感染」「接触感染」とはどのように起こっているのかが、冒頭から伏線として意味ありげに映し出されます。

すでにご紹介したとおり、ジャンルとしてはパニックムービーあるいはディザスタームービーの枠であることに間違いありません。しかし、ゾンビ映画のようなゴテゴテに明確なフィクションではなく、実際あったし、これからも十分起こり得る現実的な恐怖の描き方として、とても誠実であると言えます。

今だからこそ、劇中の細かな描写の一つ一つ(例えば、主要人物が咳を手で覆い、その手で交通機関の手すりを触るなど)に、キャー! と悲鳴を上げたくなりますが、映画全体の演出としては過剰な部分は一切なく、その身近な危険の数々に背筋が凍ります。

スリラー映画の場合、フィクションばりばりのゾンビ映画でさえ「結局、生きてる人間が一番怖い」説を以前から個人的に提唱しているのですが、本作のような大真面目なものでも、それはやはり当てはまります。致死率が高く治療法の確立されていない感染症の蔓延で、人々が常軌を逸してパニックに陥り、人が人を攻撃するようになる様が地獄絵図なのです。

とくに非常事態の中でも自分だけ利益を上げ一人勝ちしようとする、WEBライター(自称ジャーナリスト)アランの存在は、なかなか治らない口内炎のような不快感があります。登場人物の中には、幾らかの不正を行う者もいますが、誰もが自分の家族の命を守りたくて陥る弱さであるのに対して、彼は金銭と自己顕示欲のためだけに特効薬のデマ情報を拡散します。

そういった映画の中で見せられる悪しき状況が、現在の世界と酷似している点に人間の業を感じずにはいられません。フィクションであっても他人事では済まされないのです。

ところで、本作で最も評価すべきは、パンデミックを真摯に取り扱いながらも、エンタメ性を失っていないことです。劇中の感染症の致死率を高く、潜伏期間を短く設定することで物語がテンポ良く展開し、さらに事の始まりをラストに提示することで、この厄災がループしているように見せる演出は、スリラー映画として定番の顛末ながらも見事でした。

さて、私たちの対峙している新型コロナウイルスですが、映画の感染症よりも致死率は低いものの潜伏期間が長い点で、個人的に非常に厄介だと感じています。感染することへの不安も大きいですが、それ以上に自身が無症状で他者を感染させてしまうかも知れない恐怖があります。当然、有効な治療薬の登場も望んでいますが、とにかく、一日も早くワクチンが完成することを祈るばかりです。

 

自由の代償

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サーミの血

 映画情報

  • 原題:Sameblod
  • 公開年度:2016年
  • 制作国・地域:スウェーデンノルウェーデンマーク
  • 上映時間:108分
  • 監督:アマンダ・シェーネル
  • 出演:レーネ=セシリア・スパルロク、ユリウス・フレイシャンデル、ハンナ・アルストロム、マイ=ドリス・リンピ

だいたいこんな話(作品概要)

1930年代のスウェーデン。北部ラップランド地方で、トナカイを放牧し暮らしていたサーミ人の少女エレ・マリャは、妹と共に寄宿学校に入学した。同じ年頃のサーミ人だけが集まる学校だったが、そこでは彼らの言葉を使うことは禁じられ、周辺のスウェーデン人達からはあからさまな差別を受けていた。

エレ・マリャは成績も良く進学を望むも、教師から「あなた達は知能が劣っていると研究結果が出ているので進学は不可能だ」と告げられる。しかし、サーミ人であることを隠して潜り込んだ夏祭りで出会った青年を頼りに、エレ・マリャは都会へ飛び出して行く。

わたくし的見解/「アナ雪2」の副教材

年老いた主人公が、妹の葬儀をきっかけに久しぶりに故郷を訪れたことから、サーミ人としての暮らしを捨てた少女時代を振り返る構成です。

葬儀に集まった人たちの反応を見る限り、ヒロインが戻ったのは故郷を離れて以降初めてのようで、彼女自身もこの機会にさえ帰ってくることに抵抗していた様子がうかがえます。

この作品とは全く趣きの異なる世界的メジャー作品の「アナと雪の女王2」では、一作目で他者との違いを「レリゴー(ありのままで〜)♪」と受け止めたエルサが、自分はなぜ皆と違うのか、とルーツを追求する旅に出る物語。対して、本作のヒロインは自らのルーツを断ち切ることに必死。

そんな嫌がるエレ・マリャを無理やり古巣に連れてきたのは彼女の息子でした。息子の方は、自身のルーツでもあるサーミ人の文化や風習に対して前向きなのに、ヒロインは言葉も音楽も、彼らの存在さえ忌み嫌っているかのような発言を繰り返すのでした。

エレ・マリャがそこまでサーミ人を認めたくないのは、信じられないような差別を受けた過去があったから。自分がサーミ人であることまで否定しなければ、ありふれた自由さえ手に入れられなかった時代を生きてきた彼女の苦労が伝わってきます。

息子や孫娘の生きる現代は価値観も大きく変わり、彼らは知らないなりに自分たちのルーツを大切にしたいと思っています。しかし、時代が変わってもサーミ人を蔑むような風潮はまだ存在していて、エレ・マリャがそれに同調して見せる場面では複雑な想いを抱かずにはいられません。

ヒロインの今回の帰郷に対する強い拒絶反応は、ルーツを否定してきた彼女の人生とは対照的に、サーミ人として生きて死んだ妹に対する負い目によるものでした。

作品の大半を占める少女時代のエレ・マリャの物語は、演じる少女の眼差しの強さや人を惹きつける佇まいから魅力的なものになっていました。ただ、利発な少女が教師になる夢を抱き、都会の青年に恋をして現実の壁にぶつかって、と青春映画らしく瑞々しい輝きを放ちながらも、そのようなタイプの他の作品(たとえば、NHKの朝ドラ)と異なり、決してハッピーエンドになり得ない厳しさが付きまとう点で、心の置き所が難しく結果的にカタルシスは少なかったと言えます。

また、冒頭とエンディングにおける老女のエレ・マリャからは、ルーツを捨てた選択への是非を問うことが難しく、作り手側のメッセージも定まっていないように感じられました。

自身もサーミ人をルーツに持つ監督としては、彼らのような虐げられた少数民族の存在を広く知ってもらいたいという想いはあるはずです。ところが、それ以上の何かを訴えるという点では良い意味でも悪い意味でも弱かった。おそらく、監督もヒロイン同様に正解と呼べるものを見つけられていないのでしょう。

個人的には、いずれの民族や地域においても伝統的な暮らしを続けることが全てではなく、それ自体が目的になることも本末転倒ではないかと感じています。しかし、だからと言って伝統を重んじることがナンセンスだとも思わない。守りたいもの守るべきもの(時には伝統、時には今を生きる当事者)について、常に考えながら選択していく必要があるのだろうと身につまされたものの、単体でお勧めできるほど印象的な作品ではありませんでした。

ただ、「アナ雪2」に登場するノーサルドラと呼ばれる精霊たちと関係の深い民族は、サーミ人をモデルとしているらしいので、興味のある方には副教材として最適です。

ちなみに私は「アナ雪2」は未見なのですが、このようなリアルなベースを用いるあたりが、さすが大作、さすがはディズニーと感心しきり。どうやらディズニーは本気でダイバーシティの先鋒となるつもりなのだと痛感しました。まさしく、レリゴー!を目指しているようです。

 

通行手形をめぐる歴史合戦絵巻

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翔んで埼玉

 映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

今は昔、埼玉県民は東京都民から酷い迫害を受けていた。都会指数が低いというだけで蔑まれ、通行手形なしに東京へ足を踏みれることも出来なかった。

そんな中、東京都知事を代々輩出している名門校白鵬堂学院に、アメリカ帰りで都会指数も極めて高く容姿端麗な麻実麗が転校してくる。都知事の息子で生徒会長でもある壇ノ浦百美は、麗への対抗意識から彼に全校生徒の前で「東京テイスティング」で自分と競うことを要求し、恥をかかせるつもりだったが逆に完敗してしまう。これを機に、百美は麗に強い恋心を抱くようになる。

ところが実は、麗は埼玉県出身で「埼玉解放戦線」の主要メンバーだった。麗に憧れ行動を共にしていた百美は、デパートで麗が埼玉出身の家政婦をかばったことで、その事実を知ってしまうのだが。

 

わたくし的見解/「パタリロ!」ってスゴくない?!

本作については当初、ご当地ものの成功例としてヒットの様子だけを傍観するに過ぎなかった。特に地元の扱い方として、東京近郊の各県にありがちな自虐を多分に用いて、該当する埼玉県民が大いに盛り上がったようだし、TVのバラエティー番組「秘密のケンミンSHOW」なるものの人気を鑑みても、さもありなんと言ったところで、結局あまり関心を持つことはなかった。

日本アカデミー賞の受賞には幾らか驚いたものの、ここまで評価されたのならば面白いに違いないから、機会があれば観てみようとは思っていた。

その割には、テレビ放映されたタイミングでも何となく見逃してしまっていたのだが、コロナウィルスの影響で4月に予定されていた「007」の新作は秋まで公開が延期してしまい、さてもさても困り果てた私は、Amazon primeで公開中の本作にとうとう飛びついたというのが今回の経緯である。

要するに本作については、何か話題になってるなぁと眺めていただけなので、鑑賞して兎にも角にも一番驚いたのは、原作が魔夜峰央であることだった。なるほど、だからGACKTなのか。とか、だからGACKTはあんな髪型なのか。さらに、だから後半は戦国時代の合戦のような異常な盛り上がりを見せているのか、と至極納得した。

何しろ魔夜氏の代表作「パタリロ!」は、「だーれが殺したクックロビン」と歌い踊るだけのナンセンスギャグ漫画のようで、時にMI6の諜報部員という設定のバンコランを中心にスパイアクションが繰り広げられたり、彼を探偵役に置いて本格ミステリーが展開したりと、唐突にスペクタクルな一面を見せてくる不思議な作品だった。

また、80年代にはアニメ化され、子供向けの時間帯であることなどお構いなしに平然と美少年同士の恋愛を映像化していた。今でこそ、田中圭さん主演のドラマの影響などで、BLみたいなものが一部の女性ファンにとどまらず一般的に受け入れらるようになったが、ふと当時の「パタリロ!」のことを何かの拍子で思い出して、随分と感心したものである。10年いや20年以上先を行っていたと言っても過言ではない。

まだ、BLという言葉もなく(当時は「やおい」と呼ばれていた)実際に現在のBLコミックとは趣きも違ったかも知れない。「パタリロ!」では少女漫画らしくロココ調の花々に囲まれながら、美少年同士が接吻して画面は切り替わる。それ以上の直接的な性描写はない。(喘ぎ声だけ聞こえるなどのニクい? 演出が施されているが)

主人公のパタリロと召使いのモブキャラ(玉ねぎみたいな人々)以外の主要な登場人物は全員見目麗しく、性別の見分けもほとんどつかなかったので、テレビアニメで件のキスシーンが映っていても、親から「そんなものを見るんじゃありません!」と叱られることはなかった。たぶん同性愛だとは気づいておらず「キャンディ・キャンディ」が、アルバートだかアンソニーだかとキスしているのと大差ないと思っていたのだろう。

「翔んで埼玉」でも、そのあたりの品位は保ち、主人公の少年は思いを寄せる相手と「もう一度キスを」とうっとりするばかりで、ある意味可愛らしい。また、その美少年の一人を二階堂ふみが演じることによって、BLファンの取り込みというよりは「パタリロ!」の踏襲を意識しているように感じた。

そうは言っても現代のニーズにも対応するためか、GACKT伊勢谷友介の濃厚なキスシーン(主人公の妄想に過ぎない)を用意してもいたが、他にセクシャルな表現と言えば、千葉のレジスタンスに捕まると穴という穴に落花生を詰められて地引網を引かされるという謎の拷問を描いたシーンくらいで、これも明らかにお笑いにベクトルが向いており全般的に、パタリロ!ism(主義)が徹底されていた点が、私には微笑ましく映った。

どうしようもない、くだらなさと自虐の中から垣間見える郷土愛という図式は大変に興味深いものだが、原作者が出身者ではなく一時期、埼玉に暮らしたことがあるだけというのも滑稽で良いと思う。映像配信のサブスクリプションが色々フリーになっているタイミングなので、お出かけ出来ない昨今、このような愉快で気楽な作品を鑑賞するのも一つの手ではとお勧めしたい。

おぞましくも、ある種のセラピー

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ミッドサマー

 映画情報

  • 原題:Midsommar
  • 公開年度:2019年
  • 制作国・地域:アメリカ、スウェーデン
  • 上映時間:147分
  • 監督:アリ・アスター
  • 出演:フローレンス・ピュー、ジャック・レイナー、ヴィルヘルム・ブロングレン、ウィリアム・ジャクソン・ハーパー

 

だいたいこんな話(作品概要)

親元から離れて大学生活を送るダニーの元に、妹テリーから不吉なメールが届く。双極性障害のテリーは、その日メールの文面通り、絶望から両親を巻き添えにして無理心中してしまった。

傷心のダニーを恋人のクリスチャンは放っておけず、大学の男友達と行くはずだった旅行に一緒に連れて行くことにした。行き先は、仲間の一人ペレの故郷スウェーデンの奥地で、これから90年に一度の祝祭が開かれると言う。

当初は男同士の気の置けない旅行のはずが、精神的に不安定なダニーが同行したことで、ぎくしゃくした空気になってしまうが、辿り着いた先には美しい自然が広がり、ペレの家族(コミューン)の人々にも歓迎される。

文化人類学を専攻するクリスチャンたちは、自分たちの論文のために、そこでの祝祭に興味を示すが、9日間に渡って繰り広げられる儀式は想像を絶するものだった。

 

わたくし的見解/白夜白昼夢悪夢

色とりどりの花が咲き誇る美しい草原と、その中で真っ白なワンピースを纏い、まばゆい金髪を花かんむりで飾った可憐な娘たちが輪になって踊る様子は、北欧の短い夏を満喫し明るい太陽に感謝する、伝統的な「夏至祭」というイメージにぴったり。

ところが、ジャンル分けするとフォークホラーと呼ばれるものに属するだけあって、明度の高い映像の中で惨劇が繰り広げられるため、注意が必要だ。確かに、ホラー映画としては毛色の変わった作品だが、一般的なそれよりも明瞭にグロテスクなビジュアルを目の当たりにすることになるので、そもそも苦手な人は避けて通るべきと言える。

それにしても昨年の「ジョーカー」といい、基本的には大衆受けしないはずの、後味の悪い作品がヒットする不思議な現象が続いている。監督のアリ・アスターは若手の注目株と評されるが、どちらかと言えば取っつきにくい作家性の強い作風なのに、これだけ興行的な成功を収めている点は興味深い。

確かにホラーは予算を抑えられるので、興行収入の面では(下品な言い方をすると)ボロいのだが、上映期間中にディレクターズ・カット版の上映も始まるのは異例と言える。

実は鑑賞直後は、私も年齢的にこういうのはもう無理だな。なんで、こんなもの(過剰なまでの残酷描写)を映画館まで足を運んで観てしまったのだろう。と後悔と言うよりは疲弊しきって感想も何も無かったのだが、時間が経ってみると、この監督の次回作は必ずチェックするに違いないと、すっかり心境が変化してしまった。

理由としては先に挙げた、作家性の強さにじわじわと気付かされたからだろう。初めは、儀式の一つとして行われた顔面粉砕の映像につくづく気分が悪くなり、もう嫌だ二度と嫌だ、とショックを引きずっていたのだが、比較的予定調和で進んでいくストーリーなのに、147分をあまり長く感じなかったのは何故だろうと考えていくうちに、アリ・アスターの上手さに感心してしまったのだ。

予定調和とすると悪く聞こえるが、とてもきめ細かく伏線が張り巡らされている点が見所の一つだ。とくに、ルーン文字を始めとする北欧に古く伝わる風習や信仰を散りばめ物語を展開させることで、深読みが大好きなタイプの鑑賞者の好奇心をくすぐりまくっている。これは制作サイドの狙いであることが明白で、公式サイトの中に「閲覧は必ず鑑賞後に」として、伏線回収のための豆知識がかなり丁寧にまとめられていることが、その証左である。

そういった、フォークホラーの「フォーク(ロア)=民俗」要素への神秘性だけでなく、ホラーとしての定石を踏んでいることも、ただ小難しいだけのマニアックな印象を払拭して、ポップな側面に繋がっている。つまり、セックスしたら死ぬ、品行が悪いと死ぬ、パニクって騒ぐと死ぬ、などのお約束を何気にしっかり押さえているのだ。

個人的に、監督の次回作へと期待を覚えたのは、古い風習や信仰に知識も持たず理解も示さないアメリカ人が、北欧のカルト集団に(文字通り)完膚なきまでにやっつけられるストーリーのようでいて、本当は極めてパーソナルなお話なのではと感じられた部分にある。

ヒロインが内心、面倒な存在だと感じていた妹が両親を道ずれに死んでしまったことへの後悔や苦しみ、また上辺では心配して見せても本心から寄り添うことはしてくれない恋人への不信感。それらから解放されるために、個人としての自分を捨て集団の一部になってしまう結末は、ヒロインにとって本当に良かったのか悪かったのか、判断つきかねる。

しかし、そんな精神科医やセラピストの前で告白するようなトラウマを、作品として成立させてしまうあたりが、この監督が注目される所以ではないかと推察する。

同じように、創作自体が自身への癒やし(セラピー)と言っても過言ではないラース・フォン・トリアーの映画を、しんどいなぁと愚痴りながら観てしまう者にとっては、本作のアリ・アスターは確かに目の離せない存在となった。

ワンシーン、ワンカットの功罪

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1917 命をかけた伝令

 映画情報

 

だいたいこんな話(作品概要)

第一次大戦の真っ只中にある、1917年4月。若きイギリス人兵士トム・ブレイクは上官から呼び出され、ある任務を遂行するために仲間を一人選ぶように告げられる。まだ命令の内容を知らないトムは、気心の知れたウィリアム・スコフィールドを指名し将軍の元へ赴いた。

与えられた任務は、西部戦線において撤退するドイツ軍を追撃し、勝利を収めようとしているデヴォンジャー連隊に、それがドイツの戦略的撤退でかつ罠だと知らせ、攻撃中止の伝令を届けることだった。この知らせが伝わらなければ、1600名の兵士の命が無駄になり、その中にはトムの兄、ジョセフ・ブレイク中尉も含まれている。

イムリミットはデヴォンジャー連隊の攻撃が開始される翌朝まで。移動距離を踏まえても時間に余裕があると考え、暗くなってからの行動を提案するスコフィールドに対して、兄の命が懸かっていることで気がはやるトムは耳を貸さずに塹壕を走り抜けていく。スコフィールドは何故こんな過酷な任務に自分を選んだのかとトムをなじりながらも、危険な区域では「年長者である自分が先に」と行動しながら、共に決死の覚悟で伝令を届けようとするのだが。

 

わたくし的見解/

「ワンシーン、ワンカット」の謳い文句に、つい近年のヒット作「カメラを止めるな!」(以下「カメ止め」)を思い起こしてしまい、余計な期待を膨らませてしまった。「カメ止め」では冒頭の37分、チープなゾンビ映画の部分がワンカット撮影で話題を呼んだ。何しろ長回しは、有名無名を問わず映画監督の夢なのである。

庶民派映像つまり低予算の中で奮闘した「カメ止め」と比べれば、本作はあらゆる分野にお金を投じることが可能だったはずで、実際に物凄い映像が撮られていた。ただただ、私が勝手に2時間丸々「ワンカット」だと思い込んでいたのがいけなかった。そんな訳ないじゃんねー。馬っ鹿じゃないの私。

ワンシーンごとにワンカットで撮り、それらを「全編とおしてワンカットに見える映像」に繋げて作り上げた、ということらしい。それは本編を観れば暗転などもあるため、すぐに分かった。

そこで改めて納得した上で思い返しても「ワンシーン、ワンカット」の効果は十分で臨場感や緊迫感が見事に演出されていた。そのため、フィクションである点がそれ程弱みとはならず(戦争映画でフィクションとなると訴求力が落ちて当然だが)、本作のような名も無き若い兵士達の、知られざる物語が幾らでもあったに違いないと感じられるリアリティーが生まれていた。

印象的だったのは、主人公が伝令を届ける途中で偶然出会い、手助けしてくれた他の部隊の上官による「マッケンジー大佐(伝令を届ける相手)の場合は、第三者が必要だ」「ときに軍人とは歯止めが効かないものと覚えておけ」という言葉だった。これはつまり、伝令を無事に届けても大佐の判断で握りつぶされ、攻撃が中止されない可能性を示唆している。

この序盤の前振りのお陰で「まぁ届けることは出来るんでしょ。だって、そうじゃないと物語が成立しないし」など、人生経験によって育まれた映画を心底楽しむにあたって大変邪魔になる、ヘソ曲がりの安心感を抑えることが出来た。伝令を届けても、まだ終わりではないのである。

終盤で、マッケンジー大佐がこれまで攻撃命令とその中止命令を、何度も何度も繰り返し受け取ってきたことが明かされる部分も、大変短いシーンだが重みがある。このようなエピソードは、おそらく第一次大戦で実際に伝令係をしていた監督の祖父によるもので、たとえ架空の人物の言動に置き換えられたとしても、戦争映画に求められるリアリティーを支えていた。

個人的には、サム・メンデス監督の映画というだけで劇場に足を運ぶことは必至だったため、最大の売りである「ワンシーン、ワンカット」については鑑賞後に知って、キャー凄い、何でそんなことしたのっ、変態! と嬉しい悲鳴を上げたかった。時は戻せないので、その分「カメ止め」の醍醐味である後半部分と同様の、ワンカットの裏側(本作ではメイキング映像)をたっぷり味わって帳尻合わせをしようと思う。

さておき、私が勝手に「ワンカット」について勘違いしていただけで、見応えは充分、メイキングまで含めるとむしろ二度おいしい、文句なしのお勧め作品なのだ。

ちょうど良い二流感

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コードネーム U.N.C.L.E.

 映画情報

 

だいたいこんな話(作品概要)

1960年代の東西冷戦下、アメリカのCIAに所属するナポレオン・ソロと、ソ連KGB工作員イリヤ・クリヤキンは、東ドイツで重要人物を確保するために敵対していた。

その人物とは、テロ組織によって核開発に利用されているウド・テラー博士の娘ギャビー。彼女を無事手中に収めたナポレオン・ソロは上司からの命令で、ベルリンでは敵だったイリヤ・クリヤキンと手を組み、核爆弾を完成させたテロ組織と闘うためにローマへ向かう。

プレイボーイで元泥棒のナポレオンに対し、女性に奥手で無骨なイリヤは、ことごとく対立しながらも互いにズバ抜けて優秀な工作員であることを認め合うようになる。しかし重要人物とは言え、ただのエンジニアだと思われたギャビーには裏の顔があり、ナポレオンとイリヤは窮地に立たされることになるのだが。

1960年代に、スパイものとして人気を博したTVシリーズ「0011 ナポレオン・ソロ」のリメイク映画。

 

わたくし的見解/シュッとしてはる人達

スパイ大作戦」のリメイク作品「ミッション:インポッシブル」シリーズが設定を現代に置き換えているのに対して、本作は時代設定を当時のままにファッションも車もスパイ道具までも、レトロ感を楽しめるものになっている。

とは言え「ミッション〜」シリーズも「007」シリーズも、スパイ道具に関しては、あえてのレトロ感を演出している部分がある。往年のスパイものへの憧憬であったりファンサービスなのだろう。

そういった「はい、ドバイ! 次は、アゼルバイジャンへっ」と世界を華々しく飛び回る王道のスタイルから、一時期、脱却を図る作品が主流になった頃があった。

ジェイソン・ボーン」シリーズなどの質実剛健タイプである。漫才コンビ金属バットのネタで、星のカービィー似の可愛い女の子が爪楊枝一本で戦車を倒せるというものがあるが、それと近い。ランボーはサバイバルナイフ一本から始まるが、それさえ持たず、ほぼ素手から銃器を携えた連中を制圧する卓越した技術(多くの場合、悲しい過去の中で訓練が行われている)を楽しむ系統の作品群だ。

総合格闘技のようなもので、時に地味だが特有の面白さがあり私も好きだ。しかし、年を重ねるうちにプロレスの良さも身にしみてきた。華々しく演出された少々わざとらしい格闘も一周回って楽しくて仕方がない。

往年のスパイものの系譜にある作品には、プロレス的な決まりきった展開への安心感と、エンターテインメントを享受できることへの満足感がある。本作はプロレス系で肩ひじ張らずに楽しめるものになっている。話も単純。俳優も演出も一流になりきれていない感じが、かえって心地よい。最高級の二流とでも言えようか。

かつての邦画黄金期に、トップスター石原裕次郎の主演映画と抱き合わせで上映するために作られた作品みたいだ。梅宮辰夫や菅原文太は、そういった二軍作品のスターだが思わぬヒットシリーズが生まれたりもした。

本作の監督ガイ・リッチーは、マドンナと結婚後しばらく迷走していたが(今はすでに離婚して久しい)元々は、俳優をとにかくセクシーに見せられる人だった。ジェイソン・ステイサムの映画、という男臭いがセクシーでアクション満載のジャンルを確立してしまった彼の出世作は、ガイ・リッチーによるものだった。本作では、その手腕を遺憾なく発揮しスタイリッシュなものに仕上げている。

よぉーし、今年はスパイ映画を楽しむぞぉ!とエンジンをかけるのに、つくづくちょうどいい作品だった。

 

As Himself

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ラッキー

 映画情報

 

だいたいこんな話(作品概要)

御年90歳のナイスガイ、通称ラッキーは朝起きて身支度を整え、軽い運動(自称5つのヨガポーズ)をこなし、馴染みのダイナーで店主と悪態をかわせば、ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーが運ばれてくる。多くの時間をクロスワードパズルに費やし、TVのクイズ番組をチェックして、夜には行きつけのバーで決まってブラッディ・マリアを飲む。

同じ柄のシャツを何枚もクローゼットに揃え、出掛ける時にはテンガロンハットを被り、生活からファッションにいたるまで一貫したスタイルで、ある種規則正しい生活を送っていた。

生涯未婚で家族のいない一人暮らしだが、知り合いや友人たちと適度な距離を保ち、孤独とは無縁の穏やかな日々の中で、ちょっとした出来事から初めて人生の終わりを意識し始める。町の人々は、いつもウィットに富んでいたラッキーが気難しくなっていく様子を、敏感に察知しながら注意深く見守るのだが。 

 

わたくし的見解/そして、受容へ

ラッキー、とは随分なキラキラネームだなと思っていたら、何のことはないニックネーム(愛称、呼び名)で、かれこれ太平洋戦争中に海軍で付けられたものという設定だった。

戦争から生きて帰って来られれば誰でも皆ラッキーだと言えそうだが、その中でも彼は海軍でコック(最も安全なポジション)に任命されたため、仲間からそう呼ばれるようになったらしい。

本作は、主演のハリー・ディーン・スタントンに当て書きしたものであり、ラッキーの語る過去には幾らか俳優自身の経験も盛り込まれているようだ。とくに終盤、ダイナーで退役軍人とラッキーが交わす大戦中のエピソードには、リンクしている部分が多いのかも知れない。

ハリー・ディーン・スタントンの遺作であることも含めて、ある意味ラッキーは彼自身であるかのような、とてもリアルなキャラクターとして存在していることが、映画全体を支えているし、価値そのものだと言っても良い。

90歳のご老体が、これまで死を意識したことがなかったなんて、ちょっと信じられない気もする。ところがラッキーのように健康で、身の回りの世話は自分でこなせていて、毎日出掛けて友人と会話を交わし何不自由ない暮らしが出来ていれば、もしかしたら、そういう事もあるのかも知れないと、眼光鋭いシワシワの顔を見ているうちに受け入れてしまった。

老いの延長上だけでなく、若くても生きることの先に「死」はあるのだけれど、当たり前だと分かっていても実感が持てない点は理解できる。例えば、それらが直結しないように無意識下で意識しているとか。何しろ、そうでもしなければ人間みたいに余計なことを考える動物は、毎日怖くて生きていられない可能性もある。

本作が私にとって大変好ましいのは、自他ともに認める健康爺さんが初めて理由もなく倒れて人生の終末を意識するにあたって、とにかく何も起こらないところだ。

まず、さすがのラッキー本人も倒れたことに驚き病院に行くも、余命宣告はおろか取り立てて何の病名も告知されない。医者からは「銀の弾丸か十字架の杭でも打ち込まない限り、今は死なない」と毒蝮三太夫ばりの愛ある皮肉を吐かれ、今さらタバコをやめる必要もないとまで言われる。

それでも、もともと思慮深いラッキーが「死」について真剣に考えた時、残りの人生でいきなり人助けを始めたり、豪遊したり、最後にひと花咲かせようなどと大それた欲求に囚われないところが良い。

どうしようもない死の恐怖と静かに対峙しながら自分なりの答えを見つけて、再びこれまでと変わらない日々のルーティンに戻る様は、潔く美しい。梵天丸もかくありたい!(伊達政宗ちゃうけど)

映画としては間違いなく地味だし、俳優ありきで出来上がっているため、展開も少し強引な印象は否めない。けれども愛すべき小品であり、この俳優のこの顔が残せるならば、まさに代え難い作品である。