映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

シネフィルの原風景

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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

 

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台は1969年のロサンゼルス、ハリウッド。かつて幾つものヒット作品に主演したTV西部劇のスター、リック・ダルトンは映画俳優への転向に失敗し行き詰まっていた。クリフ・ブースは長年リックのスタントを務め、私生活でも運転手と雑用を請け負っている。

古巣のTVドラマでは、すでに若手俳優に主演の座は奪われてしまった。全盛期を過ぎた現実に苛まれ些細なことで泣いてばかりのリックに対し、トレーラーハウスで愛犬と暮らすクリフはいつも穏やかで落ち着いている。そんな二人はビジネスパートナーである以上に無二の親友でもあった。

落ち目とは言えリックがハリウッドの高級住宅地で暮らしていると、隣家に映画監督のロマン・ポランスキーと、その若く美しい妻であり女優のシャロン・テートが越してきた。彼らは、旬を過ぎた中年俳優とは対照的な輝かしい新時代の寵児たちだった。まさにハリウッドの明暗が凝縮されたその場所で、実際に起きた殺人事件を下敷きにして描かれる、タランティーノ渾身の意欲作。

 

わたくし的見解/

1969年は主人公たちの人生だけでなく、世の中の流れ、アメリカの価値観そのものに変化が起きていた。ベトナム戦争が長期化するにつれ、街には「Love & Peace」を声高に叫ぶヒッピーが溢れていった。

映画の中でも、この時代の風景とでも言うようにそんな若者達が登場し、いつの間にか物語の中心に躍り出てくる。それまでのキラキラしていた古き良きアメリカにベトナム戦争のリアルは暗い影を落とし、平和主義=反体制のようなムーブメントが起きたことは自然なのだが、いかなる場合も集団が大きくなるとほころびが生まれてくる。

ヒッピー達は反キリスト教であったり、インド哲学にかぶれたり自然主義を謳ったり様々なコミューン(集団)を作っていて、中には過激な反体制を掲げる者たちもいた。思想は自由なのだから反体制でも別に構わないのだが、「戦争反対」「Love & Peace」と主張する割には暴力的な行為をする輩もいた。

最終的には思想も何もどこかに置いてけぼりで、取り憑かれたように破壊行動に没頭するカルト集団が出てきた。チャールズ・マンソン率いるマンソン・ファミリーだ。

この映画は、彼らが引き起こした「シャロン・テート殺害事件」をモチーフにしている。シャロンは当時妊娠中であったことや、彼女の家の前の住人が本来のターゲットであったことなどから、事件の悲劇性は群を抜いている。これは「あの出来事」だと分かって観るのとそうでないのとでは、作品の印象が全く変わってしまう。

ディカプリオ演じる、かつてのTVスターがプレッシャーに押し潰されそうになりながら七転八倒する姿さえコミカルに写し、160分の長尺の間ハンサムなオッサン二人が、男の友情よろしく楽しそうにダラダラだらだら呑んで過ごす様子を見せ続ける理由がきちんとある。

また、現在最もホットな存在と呼べるマーゴット・ロビーを配し、件のシャロン・テートをただただ無邪気で屈託なくチャーミングな女性として描いているのも同じ理由だ。

世界屈指の映画オタクであるタランティーノにとって、この時代は原風景であり特別なものだと想像する。映画業界も世相同様に転換期にあり、大きな制作会社による作品に陰りが見え活路を見出せずにいた。ニューシネマの到来である。そして、そんな中で起きたこの事件は幼少期のタラちゃんの心に人生初と言えるほどの衝撃を与えただろう。

事件を知らずに作品を観ると、映画のラストは取って付けたようにタランティーノの面目躍如である、悪ノリの過ぎるバイオレンスシーンが訪れる。しかし実は、このために冗長にひたすら何も起きない物語を紡いできたのだ。

出産を控えた美しい上に気取りのない、殺される必要など何一つない女性を襲った連中を返り討ちにするために。カルト集団の輩をメッタメタのギッタギタにやっつけ、さらにカリッカリのクリスプ状になるまで丸焼きにするために。

タランティーノは、いつも作品に大好きなものをギュウギュウに詰め込む。過去の人になったリックも、次世代のスター達が子供の頃に夢中になって見ていた紛れもないヒーローであり憧れだったのだ。タラちゃんには、そんな存在が幾らでもいるに違いない。本作では時代を切り口に宝物を凝縮し、積年の恨みを晴らし敵討ちまで果たした。

私は10代の頃に観た「パルプ・フィクション」の熱狂(劇場で得た興奮とサントラをCDなのに擦り切れるまで聴いていたこと)が、その後の映画人生を大きく変えた。

タラちゃんの69年への想い同様に、私にとっては90年代とタランティーノの登場は特別なものだった。そんなことを考えていたら、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は時間が経つほどに、じんわりとしみじみ沁みてきてしまう作品になった。

 

船越のいない崖

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羊の木

映画情報

 

だいたいこんな話(作品概要)

平和だが、さびれた印象の否めない港町・魚深(うおぶか)。市役所の職員、月末(つきすえ)は上司から新しい住民6名を受け入れる業務を任される。市はかねてから、I(アイ)ターン希望者を募っていたため、月末は特に疑問を抱くことなく6人を駅や空港に迎えに行き新しい住まいと仕事先に案内した。

しかし、男女を問わず新しい住民の様子がおかしい。月末が上司に問いただすと彼ら全員が元受刑者であることを明かされる。市は過疎化対策として、仮釈放を推進する国の政策を利用し元受刑者の身元を引き受けることにしたのだ。しかも、その事実は市民に明かされることはなく市役所内でさえ他に知るのは市長のみだと言う。

月末は動揺したが、新しい住民のうち年も近く魚深での暮らしに唯一前向きな姿勢を見せてくれた宮腰という男と、交流を深めていくのだが。山上たつひこ原作、いがらしみきお作画による同名漫画を原作とした実写映画。

 

わたくし的見解/火サスとは一味違う崖クライマックス

良い意味で期待はずれだった。言い換えると予想していた物語とは違ったものの、結果的にそれが面白さの要因になっていた。

吉田大八監督の新作だったので、本来は映画館に足を運ぶつもりでいた。何しろ原作からして大変に興味深い。犯罪歴のある人を再び社会に受け入れるというのは、その必要があるだけに実にヘビィだ。理想と現実がこの上なくせめぎ合う設定である。

私は当初、そのこと(元受刑者を自治体が意図的に受け入れたこと)が住民に知られてしまい、疑心暗鬼によって引き起こされる「田舎町パニックムービー」だと想像していた。ところが、集団パニックではなく主要な登場人物に焦点が当てられた個々の再生の物語だった。

架空の町を舞台としているし観る人によってはあまりにも突拍子のない設定かも知れない。しかし過疎の深刻さは、よそで暮らす人間には想像の及ばない部分も多い。事実、原発や核燃料廃棄物などを受け入れたりして、住民の暮らしを何とか維持している自治体も存在している。

本音を言えば、そんなものは無い方が良い。だが現状、世の中は「それありき」で機能していて完全に無くすことは難しい。そして我が町の人口は減る一方だが少ないながらも住民の生活を支えるには少なくない金が要る。厄介は承知の上で苦肉の策として、それらを引き受ける。この構造は本作と大きく変わらない。

そんな考え方次第では現実味のある設定に、ほんの少しファンタジー要素がおり込まれているのだが、そのバランスが絶妙だった。「羊の木」とは、スキタイの羊とも呼ばれる伝説上の植物。聖書で謳われている羊とは意味合いが少し異なるものの、やはり血肉を貪る狼と対照的な存在であり、本作では元受刑者の象徴だ。

劇中、栗本という女性が海岸で缶の蓋を拾い持ち帰る。その蓋には、枝分かれした木の先に、まるで実のなるように羊がぶら下がっているイラストが描かれている。スキタイの羊である。これは、かつては狼であった(全員人を死なせている)元受刑者たちが罪を償い真っ白な羊として生まれ変われるのか、という作品のテーマが暗示されている。

もう一つ、いかにも漁師町らしい古くからある守り神の伝説と、その祭りが物語を大きく展開させていく。それは結末において鑑賞者の溜飲を下げることにも一役買っている。

羊の木にしろ漁師町で祀られている神にしろ、実像はなくても所詮は人の心の生み出したもの。現実を生きる人々から生まれたものには、やはり少なからず現実世界の厳しさが投影されている。ファンタジー要素の上手い取り込み方だ。

加えて、主人公を含めた元々の住民も新たな住民もキャスティングが良かった。元受刑者のいずれもが見事に違和感をまとって現れるが、中でも松田龍平の登場は圧巻。エキセントリックな他の元受刑者たちとは違い、実は一番「普通の人」らしい様子に何故か末恐ろしさを感じずにはいられない。

松田龍平の、いつもどおりの飄々としているのに圧倒的な存在感もさることながら、対してジャニーズなのに極めてオーラや圧の弱い錦戸亮も、主人公のキャラクターにぴったりだった。

初めは、田舎の公務員にこんなハンサム居るかいな(居るわけないでしょ)と思っていたのだが、加瀬亮あたりが放つ「くたびれた感じ」を彼も持っており邦画によく馴染む。吉田大八監督の前作「美しい星」での亀梨和也は、この人じゃない方が良かったなと思ってしまったのだが、今回のジャニーズ枠は大成功だと感じた。

本作はサスペンス作品(ハラハラさせるもの)として高く評価できる。個人的には冒頭でも触れた理想と現実のジレンマが、やはり興味深いところだった。映画では焦点が当てられていないが、例えば住民たちの知る権利と元受刑者の人権がぶつかると(現実では最もネックになるはず)実に悩ましい。

この作品に限れば、住民に先入観がなかったことで事態はかなり上手くいっているのだが、栗本の拾った缶の蓋には羊が5匹しか描かれていない。町に来た元受刑者の数と合わない。フィクションとは言え、これも現実の厳しさだ。

何度か使ったファンタジーと言う表現に反して、映像には一貫して幻想や空想めいた部分はない。ちょっとしたマジックリアリズム作品と分類してもいいのかも知れない。邦画の地味さが退屈という先入観さえなければ、楽しめるサスペンス作品と言える。

 

スープラ・イズ・バック!

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ゴールデン・リバー

映画情報

 

だいたいこんな話(作品概要)

1851年、ゴールドラッシュに沸くアメリカ。オレゴンで、あたり一帯を取り仕切る「提督」に雇われてシスターズ兄弟はウォームという男を追っていた。

兄弟はいわゆる泣く子も黙る名の知れた殺し屋。標的のウォームは黄金を見分ける化学式を発見した人物だった。すでにウォームに接近し同行している連絡係のモリスからの情報を頼りに、兄弟は何日も馬に乗り山を越え、ようやく二人に追いつく。

化学式を聞き出した後ウォームを殺すはずが、モリスの裏切りによって逆に兄弟は捕らわれ銃も奪われてしまう。しかし、そこへ黄金に目の眩んだ別の追っ手が迫り、兄弟はウォームとモリスに加勢を申し出て4人は一時的に手を組むことに。

無事に追っ手を撃退した4人は、ウォームの化学薬品を用いて手に入れた黄金を山分けすることで合意した。兄弟は、それまでの暮らしでは知りようのなかったウォームとモリスの価値観や理想に感化され、彼らと絆を深めてゆくのだが。

 

わたくし的見解/

戦後、ハリウッドは西部劇の黄金期だった。そこにはアメリカ人の誇りと礎である、フロンティア・スピリッツが華々しく描かれていたからだ。ところが同時にそれは、あまりにも白人が主体で至上主義ともとれる差別的表現の宝庫でもあった。当然(多様性を認めるなどの)現代的な思想が一般化すると共に西部劇は過去のものとなってしまった。

2002年に生産終了したトヨタスープラが17年ぶりに復活、新型を発表した時の豊田章男社長のコメントを個人的に気に入っている。「かつてアメリカ開拓時代を支えた数多くの馬は現在、自動車にとって代わられた。しかし、競走馬は健在だ。今後、自動車が他の何かに代替されてもスポーツカーは残る」という説得力に満ちた詭弁(?!)で、実用性という観点では今、数多く流通している車とは真逆のベクトルに向かうスポーツカーを復活させた。

時代は変わっても西部劇だけは映画界に残り続ける、と話を続けたい訳ではない。ただ、西部劇のエッセンスはアメリカの精神に無関心な人間にとっても、捨て置くには惜しいものだと実感した。古い映画を観ていても、また本作でも、馬が駆け巡る姿の迫力と美しさは現代的なアクションに何ら引けを取らない。そして、いつの時代でもガンマンは間違いなく格好いい。

近年、西部劇の名作リメイクもあったが本作の特長は極めて渋いキャスティングに支えられた男臭さだ。むさ苦しさは印象だけにとどまらず実際にかなり臭そうな(何日も風呂に入っていないのが似合う)メンツだからこそ、最高に魅力的な西部劇に仕上がった。砂埃にまみれる筋骨隆々な馬の姿を見ていたら、頭の奥で「スープラ・イズ・バーック!」と章男の声がした。

作品のクライマックスと分岐点は、邦題の「ゴールデン・リバー」に表されているような黄金の獲得であることに間違いはない。しかし、本作の主軸は原題の「シスターズ兄弟」から分かるとおり家族の物語だ。

キーマンであるウォームの掲げる理想論とそれに心酔したモリスの存在は、粗野に生きてきた兄弟の未来像にも変化をもたらす。ウォームのキャラクターは面白い。知識人らしく腕っぷしは全く駄目だが登場人物を次々と懐柔していく様は、結局彼が一番の山師なのではと勘ぐりたくなるほどだ。

ウォームの場合は相手を騙すのではなく、ただ自分の命を守ることや理想の実現に向けて支援者を増やすための友好的な振る舞いであったが、その柔らかな物腰によって警戒心を捨てたモリスや兄弟は本音を語るようになる。

その中でエピソードは僅かなのに、いかに彼らにとって父親の存在が大きいかが見えてくる。それは登場人物が男ばかりだからで女性が主人公ならば母親の存在が浮き彫りになるに違いない。強く感じられたのは、性別や時代や文化に関わらず、ほとんどの人は親の影響から逃れられないという事だ。

親のようになりたいか、あるいは、なりたくないか。どちらに転んでも、その影響下にあることは間違いない。これがすべてだとは言えないが、これが根本にあることは否定できないはずだ。同様に親や兄弟との関係そのものも断ち切ることは極めて難しい。家族ゆえのしがらみに苦しむこともあれば、その愛情の深さに救われることもある。

ジャック・オーディアール監督の映画は、いつも主人公が絶望的なまでにボロボロになる。そして取って付けたように八方丸く収まって終わる。今回はお馴染みの唐突なハッピーエンドが、これまでよりも自然に思えた。映像もオープニングから惹きつけられる素晴らしいものだった。

ジョン・C・ライリー演じる見かけによらず繊細でロマンティストな兄と、ホアキン・フェニックスによる粗暴極まりない弟という対照的なキャラクターは完璧と言って良い。個人的には(もう7月だが)今年の上半期で、最もお勧めしたい作品となった。

 

地獄の沙汰

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ハウス・ジャック・ビルト

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1970年代のアメリカ、ワシントン州。エンジニアであるジャックの夢は、建築家になること。それを叶えるために、所有する土地に自ら設計した家を建てようとしていた。ある時、山道で車が故障し立ち往生していた女性との出会いから、殺人に没頭するようになる。

彼が5つのエピソードを通して案内人ヴァージに明かした、シリアルキラーとしての12年間の軌跡を辿る。煉瓦造りでも木造でも、納得が出来ずに途中で取り壊したジャックの家は、はたして完成するのか。

 

わたくし的見解/トリアー的シリアルキラー研究発表

主人公のジャックが、ヴァージなる人物の質問に答える形で、5つの殺人について回想していく。そのやりとりは、まるで死刑判決が確定した囚人に対して行われるセラピーや、精神分析の権威が論文ために凶悪犯をインタビューしているようでもある。

何故なら、ヴァージはジャックの犯したおぞましい殺人の数々について、さほど断罪する様子もなく淡々と「それで君はどういう人間なの」と問い続けていくからだ。声を荒らげたのは、その残忍性に対してではなく、ヴァージにとって最も崇高である「芸術」をジャックが引き合いに出してきた時だけだった。

5つのチャプターの間ヴァージの存在は声のみで、エピローグで初めて観客はその姿を目にすることとなる。語り草から想像したとおりの老紳士は精神科医というよりは(宗教の特定が出来ない)聖職者のような佇まいで、初対面であるはずのジャックも不思議と言われるがままに暗がりを進む他なかった。

ヴァージは地獄の案内人だった。「神曲」の中で、ダンテを地獄と煉獄に案内する詩人ウェルギリウスがモチーフになっている。ジャックはダンテのように天国を見ることはない。一通り地獄を案内され、行く先は最下層から二つ上の場所だと教えられる。

劇中でヴァージも口にしているが、殺人者は「意外にも」最下層ではないのだ。しかしジャックは些細な好奇心から、生前の罪で決まった場所とは別のところに行くことになる。なかなか興味深い展開だ。

アメリカでカットされた部分は子供が殺された場面で、(すべての殺害シーンがそもそも残忍すぎるので)他のシーンと比べて格別グロテスクな訳ではない。アメリカでは、大人がそのように殺される映像に規制はかからないが(年齢制限がされてもカットはされない)、子供の場合は途端にタブー視される。

このタブーへの意識が強い人たちが、おそらくカンヌ映画祭でも途中退場した人たちと同じなのだと思われる。彼らにとっては、いくら表現の自由を認めても受け容れ難いのが本作なのだろう。皮肉なものでラース・フォン・トリアー監督はタブーも含めた既成のものを、ひたすら壊していきたい人なので、認められないという反応も彼の思惑に収まるものだ。

私としては、度肝を抜かれるという点においては監督のこれまでの作品の方が圧倒的だったように思われた。この人の映画には今まで散々な目に遭ってきた。嫌な気分に陥らなかったことなどない。しかし、それだけでは終われないのだ。

つまり、鑑賞後かなりの時間それについて考えを巡らせることになってしまうからだ。自分が不快に感じた理由も含めて、この物語は一体何なのだ、と。その上どれほどの胸糞悪さも超越(帳消し?に)する程、必ず映像作品としての圧倒的なパワーがある。

本作でも、そのパワーは健在だ。ただ、物語については案外シンプルで頭から離れなくなるほど考えることはない。(衝撃映像が頭から離れなかった人は多いかも知れないが)。とは言え、監督の力量には相変わらず感心させられた。

二つ目のエピソードで、ジャックがターゲットの女性から信用を得て家に入るために初めは警察だと名乗る。女性は不審に思い手帳の提示を求めるが、当然そんなものを持っていないジャックの返しが素晴らしい。「手帳はない。私も見てみたい」たった、この一言で精神的な破綻が垣間見え不気味さは一気に加速する。

女性はさらに訝るが、その後も苦しい言い訳を繰り返し年金額が増える手続きをしてやるからという口実で、やっと家の中に入る。とにかく会話の支離滅裂さがジャックの異常性を際立たせていた。突如、態度が豹変し女性との力関係が逆転するくだりは傑作と言ってよい。

また、殺人を始めた頃のジャックは強迫性障害(例えば鍵をかけたか不安で何度も家に戻って確かめなければ気が済まず、それを繰り返すうちに、深刻化すると家から出られなくなるようなもの)が強く、かなり犯罪の足枷になる。

そのような障害を抱えながらも殺人衝動も抑えきれない葛藤などを観ていると、監督がいかにシリアルキラーについて調べ尽くしたかが窺える。強迫性障害については監督自身にも覚えがあるものなので、まるで「ドリフ大爆笑」のコント、もしもシリーズのように「この問題を抱えて殺人を犯すと、こんな風になるのでは」という経験者ゆえの茶化しが効いている。

ジャックの犯罪は常にスマートさに欠け、不謹慎ながら実に滑稽だった。幸運だけで12年間捕まることなく、それゆえに犯行はより大胆に大雑把になっていく。カウンセラーのごときヴァージによれば、ジャックが早く自分の罪を見つけて欲しい、誰か捕まえて欲しいと無意識に願っていたからではないかと分析する。

他にも様々なシリアルキラーへの考察が披露される。しかし、その再現性の高さが、監督らしい既成概念の破壊を緩めてしまったのではと感じられた。シリアルキラーもののジャンル映画としては、いくらか型破りかも知れない。エッジの効いた音楽とスタイリッシュな映像、反感を買うほどのグロテスクな殺害シーン。ところが連続殺人鬼の人物像は学術的なものと、ほぼ一致している。

決して新鮮味に欠けた訳ではない。もしかしたら、トリアーの作品に少し耐性が出来てしまったのかも知れない。残忍な部分だけでなく、息をのむ程美しい場面も含めて映像は衝撃的だった。それと比べると内容が弱く思えたのだが、では何が違ったのかなと結局考える羽目になっている。したがって、今後もこの人の映画から目が離せないと言う結論に至ってしまった。

人間らしさのあり方

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いぬやしき

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

犬屋敷壱郎は、数年後には定年を迎えるサラリーマン。会社でも家庭でも疎ましがられるばかりの冴えない存在だった。新居購入の直後に末期ガンで余命わずかであると知り、夜の公園で途方に暮れていた。そこで突如、何かの墜落事故に巻き込まれる。

その時から犬屋敷は、地球では確立していない高度な技術によって無敵で万能な機械の体を手に入れた。意識や人格は以前の犬屋敷を引き継いでいるものの、生身の人間としての彼は死んでしまったようだった。しかし機械の体には、どれほど重度な疾患や怪我のある生物も治せる能力があると気づき、現代の医療では治療困難な人を探しては救う日々が始まった。

一方、同じ事故に遭った高校生の獅子神皓は、機械の体が持つ圧倒的な武力で無関係の人々を殺戮する行為を繰り返していた。

人智を超えた能力を手にした二人。それを真逆の目的で利用するうちに、殺人鬼と化した獅子神と人を救いたい犬屋敷とが、とうとう直接対面することになるのだが。

GANTZ」で人気を博した奥浩哉による人気コミックの実写映画化作品。

 

 

わたくし的見解/極端な例を持ち出した詭弁か否か

実写映画版の「いぬやしき」は、大変分かりやすい構図になっています。スーパーパワーを手に入れた、人を助ける者と殺す者を対比させ勧善懲悪の雛形に納めて終わります。

けた外れの攻撃力のみならず、ハッキングや(自動車や飛行機などあらゆる)機械類の遠隔操作、通信まで思いのままですし、その上に他者を治癒できるなど歴代ヒーローの中でもこれほど死角なしのオールマイティーな能力は初めてかもしれません(しかも動力は水のみとエコロジーかつエコノミー)。

個人的にがっかりしたのは、たとえばハリウッド映画に比べてCGやアクションが良いとか悪いとかではなく、原作の「いぬやしき」で最も興味深いと思われた部分が省かれてしまったことです。

それは敵役、獅子神の描かれ方。映画では、犬屋敷の明確な善に対して獅子神の悪も大変分かりやすいものです。しかし、原作の獅子神については凶悪と感じつつも、これもまた別の正義なのか?! という考えが頭をかすめます。

原作と映画、いずれでも変わらない犬屋敷の正義は多くの共感を得られるでしょう。徹底して人を殺さず、とにかく人を救いたい気持ちが原動力。これは犬屋敷の本質的な倫理観・道徳観に加えて、すでに生身の人間ではない自分が「人らしく」あるための唯一の手段だと信じているからです。

対して獅子神には「殺人は悪」という古今東西共通の掟が根本的に欠落していて、人間が社会的動物である以上、これに共感する訳にはいきません。

獅子神は、彼もすでに人間ではない(機械である)ことから自らを神格化して「人間のルールは当てはまらない」などと言い放ちます。しかし、彼の他人はどうなっても構わないが大切な人(家族や友人)は何としても守りぬこうとする姿勢は、世界で当たり前のように横行している価値観ではないでしょうか。

宗教間の戦争が分かりやすい例として挙げられます。それぞれの宗教の教義で「人を殺してはならない」と謳われているのに、どういう訳か殺し合っているのは自分たちの神を信仰していないものは人間ではないと判断している。あるいは、便宜上そうしていると言わざるを得ない。

獅子神が他人の命を顧みない様は、人間の所業とは思えない。ところが殺し合いこそしなくとも、幾らかの場面において多かれ少なかれ自分たちとそれ以外を分けている点では、獅子神の方が犬屋敷よりもずっと私たちに近い存在だと考えられます。

つまり、人でなしの獅子神の方が、犬屋敷よりも人間臭い(人間らしい)のでは? と。そんな風にモヤモヤ出来た部分が「いぬやしき」という物語の最たる面白さと認めていたので、単純明快な映画版は少し物足りなく感じてしまいました。

デスノート」や「進撃の巨人」に代表されるような日本のコミックの魅力は、一刀両断しづらい「悪」や行き過ぎた「正義」などダークな一面の描き方にあるので、スーパーヒーローアクションものとしてハリウッドのアメコミ映画と差別化するためにも、そういったグレーな部分は盛り込んで欲しかったです。

とは言え原作さえ知らなければ、見た目は初老なのに無敵のヒーローの活躍は目新しさもあって楽しめるはずです。実は、アニメ版の犬屋敷の声を俳優の小日向文世さんが演じておられて激烈にハマっていたので、実写も木梨さん以上にご老体然としたキャスティングでも面白かったのではと思ったり。あくまで欲を言えば、ですが。

 

よさこいみたいなもの

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アメリカン・アニマルズ

映画情報

  • 原題:American Animals
  • 公開年度:2018年
  • 制作国・地域:アメリカ、イギリス
  • 上映時間:116分
  • 監督:バート・レイトン
  • 出演:エヴァン・ピーターズ、バリー・コーガン、ジャレット・アブラハムソン、ブレイク・ジェナー

だいたいこんな話(作品概要)

アメリカ、ケンタッキー州トランシルヴァニア大学図書館に、時価1200万ドルのヴィンテージ本が所蔵されている。それは、ジョン・ジェームズ・オーデュボンの画集「アメリカの鳥類」で、近年までオークションに出品されるたび書籍の最高落札価格を更新してきた貴重本だ。

アートの才能を評価され大学へ進学したスペンサーは、高校時代からの親友で破天荒な性格のウォーレンに、その本を見学した話をした。たわいもない会話のつもりが、いつの間にか、それを盗み出す計画へと話が変わっていった。

本は図書館の特別室に展示されており、閲覧は完全予約制で担当司書が必ず同伴するシステムになっている。ウォーレンは展示室から持ち出すルートや闇の買取業者の確保など、計画を進めるほど他にも仲間が必要だと言い出した。

結果、FBIを目指す秀才のエリック、筋肉おたくだが家柄が良く既に実業家として成功していたチャズを加え、平凡な4人の大学生は熱に浮かされたように貴重本の強盗を実行に移すのだが。

2004年に実際に起きた事件の映画化作品。

 

わたくし的見解/恵まれているという事への劣等感

何故よさこいを踊るのか、私は不思議でならなかった。

高知県の人が、よさこい祭りで盛り上がるのは大いに結構。他の祭りでも、その地域の人々が熱く血をたぎらせることにはまったく抵抗がない。むしろ岸和田の人には、だんじりに命をかけていて欲しいし、徳島でも阿波踊りを踊りまくっていて欲しい。

しかし、神戸まつりのメインイベントが盛大なサンバ・パレードであることに、20年以上かけてようやく慣れた私にとって、ゆかりのない土地の何かに熱を上げる様子は理解できなかった。

そのような、高知のよさこい祭りから独立して発展している「よさこい」は、もはや昨今は「YOSAKOI」になっているらしく、すでに「祭り」ではなく「ダンス」だと解釈すべきなのかも知れない。日本人なのに、小学校の授業でヒップホップダンスを踊るのだ。YOSAKOIだって踊るだろうさ。

増え続けるYOSAKOI人口を尻目に、ふと、よさこい不登校や素行の悪い若年層の更生に一役買った美談を、TVショウで見た記憶が蘇った。その時、感じたのは「よさこい」に格別そういった悩める若者への特効薬的要素があった訳ではなく、成長過程のある時期には(あるいは、どの世代にとっても人間というものは)熱中できる何かが必要なのだということだった。

ここで、ようやく「アメリカン・アニマルズ」の話になる。1200万ドルの価値の本を盗み出して、人生を一変させたい若者たちが主人公なのだが、この子たち、一見大金に浮かれているようで実は違う。もちろん(取らぬ狸なのだけど)想像もできない巨万の富に心踊らせてはいる。しかし明らかに、犯罪という非日常に足を踏み入れれば必ず何かが変わるはず、という期待の方が大きい。

4人は高校の同級生で、それぞれ違う大学に進学している。逃走するための高度な運転技術が買われて、最後にメンバーに加えられたチャズは資金力もあてにされる上流階級の出身だが、他の3人も中流家庭の何不自由ない環境で育てられた幸せな若者たち。

リーダーのウォーレンは、アメリカの食料廃棄の多さに異議をとなえながら、廃棄を減らすためだとアルバイト先のスーパーでハムやら何やら盗み出したりしていたものの、それでも他の3人同様に、高校時代の恩師に言わせれば素行の良い問題のない生徒だった。

皆、それぞれの得意分野が認められて大学に入り、大きな挫折を味わう事もなく、このまま何となく上手くやっていけそうではある。けれども無難に上手くやっていく事に熱意を持てない。平凡な人生に何か起爆剤が欲しい。特別な何者かになりたい。という閉塞感が彼らを犯罪行為に没頭させていく。

本作は、オープニングで「This movie is based on a true story.(この話は、実話に基づいている)」というよくあるクレジットから、"based on"の文字がこぼれ落ち「This movieis a true story.」つまり、実話に基づいているのではなく、実話だと宣言して始まる。

犯人たち本人のインタビューと交互に、時には交錯しながら、俳優たちが演じた当時のエピソードが紹介されていく構成で、ドキュメンタリーとフィクションを合体させた作りだ。とは言え、もし全編ドキュメンタリーだとしても他者(制作側)の視点で編集が加えられた時点で、それは実話とは異なるようにも思える。

ところが、この映画はそれも想定内と言わんばかりに独自の真実を見せてくれる。事件当時のさまざまな出来事について、4人の犯人たち本人が語る真実に少しずつ食い違いが出てくるのだ。映像作品として、この部分の表現は巧みだった。

特に中心人物スペンサー本人が、親友ウォーレンとの記憶のズレについて語った「ウォーレンの語る真実を信じたいと思ったし、それを信じる事にした」という言葉は興味深い。

私たちの日常にも、そこにいる人それぞれの真実があって、時には他者の真実に知らず知らずのうちに、あるいは意図的におもねる事があるように思う。その意味では幾つかの視点による真実を見せようとするこの映画は、実話に基づいた物語よりも確かに実話なのだと私は感じた。

いかにも、ドキュメンタリー出身の監督らしい手法である。同時にドキュメンタリーとも一線を画すべく、しっかりエンターテインメント性を発揮した作品でもある。4人が強盗のシミュレーションをした時、参考にしたクライムムービー「レザボア・ドッグス」や「オーシャンズ11」さながらの華麗さで、鮮やかに盗み出す姿を夢想をするシーンは愉快だ。

残念ながら犯人達にとっては周到な計画も、若気の至りの多分にもれず短絡的で、お粗末なものだった。今時の子らしく「絶対に成功する強盗のやり方」とグーグル検索したり、犯罪に使用する連絡先をうっかり普段使っている自分の携帯やアドレスにしてしまったり。

ものの見事に失敗する様を見て、まざまざと「よさこい」の価値を実感した。若者(人生)に熱中するものが必要だとして、それは犯罪以外の何かにすべきだったのだ。それまで良い子で通ってきた4人だけに周囲の失望は大きく、その事が彼ら自身を最も後悔させていたのが印象的だった。

 

人間失格

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イノセント・ガーデン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

インディアは18歳の誕生日に、自宅の広大な庭園で何かを探していた。毎年、同じ色のリボンをかけられた父親からのプレゼントが、庭のどこかに隠されていたからだ。インディアの成長に合わせた革靴が入っているのが習わしだったが、見つけた箱を開けると中には謎めいた小さな鍵だけがあった。

その日、インディアの父は交通事故で帰らぬ人となる。唯一の理解者である父を失い、折り合いの悪い母と大きな屋敷に残されたインディアの元に、それまで音信不通だった伯父がやって来る。

父の弟だと名乗る伯父チャーリーは、若き日の父に似た整った容姿や穏やかな物腰と博識さで、母エヴィに取り入って屋敷に同居し始めた。ところが長年勤める家政婦、そして訪ねてきた大叔母が次々と姿を消し、インディアはチャーリーへの不信感を高めていく。

わたくし的見解

イノセント・ガーデン」の公開とほぼ同時期に、韓国映画界の奇才ポン・ジュノ監督も「スノーピアサー」という作品でハリウッドに進出しています。パク・チャヌク監督よりもポン・ジュノ監督の方がハリウッド向きだと予想していたのですが、意外にも「イノセント・ガーデン」の方が期待値を上回ったので今回はこちらをご紹介する事にしました。

ミア・ワシコウスカの個性的な顔立ちのせいで、(それに加えパク・チャヌク監督作品「渇き」のイメージもあり)本作はヴァンパイアの物語だと思い違いをして途中まで鑑賞していました。

負け惜しみではないのですが、ヒロインが最終的に殺人鬼として覚醒したのを見届け、これが吸血鬼に置き換わったとて成立する物語だなぁと一人で納得。

鋭すぎる感性のせいで(母親も含めて)他者との隔たりを強く感じていた少女が同じ属性の伯父と出会う事で、ある資質が開花する物語。

殺人鬼として覚醒するプロセスと性へ目覚める様子をリンクさせる必要があるのか無いのか、私にはさっぱり分かりません。しかし、ともすると簡単にC級あるいは三流スリラーに転落できる、このような陳腐なメタファーを見事に美しい映像叙事詩に昇華させたパク・チャヌク監督の手腕は天晴れと言うほかないでしょう。

さらに、この頃のミア・ワシコウスカの端正な美少女であるのに、まだ性を強く感じさせない独特の雰囲気は作品の屋台骨。少女から大人へと変貌を遂げる、過渡期ゆえの魅力は代え難いものがあります。この時期に、ミア・ワシコウスカの出演作が集中しているのも頷けます。

そしてニコール・キッドマンの演じる、世俗的で自分の女性性を主張したい未亡人。突然現れたハンサムな伯父。建築家だった父の残した、緑あふれるモダンな庭園など。必要十分なピースを備え、先程うっかり陳腐と評したエロスとタナトスの物語が、むしろラグジュアリーに仕上がっていました。

パク・チャヌク監督にしては、グロ控えめなのも功を奏しています。

個人的には、劇中のインディアとチャーリーによって演奏されるオリジナル・スコアのピアノ連弾曲が、とにかく素晴らしいこと。それから、伯父の存在はインディアがあるべき姿に変身するための、(これも陳腐な表現ですが)トリガーに過ぎなかったと言う展開は乙でした。

最終的に伯父をも超越して旅立ってしまうヒロイン像には、ある種の清々しささえ感じます。不道徳も不健全も極端に突き抜けると、何かしらの魅力を感じられるものです。

しかし、その感覚も既存のアブノーマルに対してなのだと気付くと、ついつい陳腐と思えてしまったのかも知れません。たとえ変態を描くにしても、新機軸を生み出すというのは簡単にはいかないものですね。