映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

内祝いは、半返しだっ!!

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七つの会議

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だいたいこんな話(作品概要)

大手電機メーカーの子会社、東京建電に勤める八角民夫は社内で花形の営業一課に所属しているが、万年係長で「居眠り八角」と呼ばれるぐうたら社員。繁忙期であっても構わず有給休暇の申請を出す八角に、年下の上司である営業一課長の坂戸は手を焼いていた。

ところがある時、坂戸はささいなことで八角からパワハラだと訴えられた。営業成績が優秀な坂戸とは違い、穀潰しにしか見えない八角の主張など形ばかりの処理で済まされると誰もが思っていた矢先、坂戸に出世コースを大きく外れる異動処分が下される。

空いた営業一課長の席に収まったのは、一課とは反対にノルマを全く達成できずにいた営業二課の原島だった。その後も八角が部品の発注先を変えたことで、それまでにない高額なコストが発生していると抗議した経理部が、会社の上層部から厳しい叱責を受けた。八角を取り巻く会社の動きを不審に感じた原島は、八角がかつては優秀な社員であったことを突き止めるのだが。

 

わたくし的見解/やっぱりネジが好き

企業の不祥事を暴くミステリー要素ならば、2013年に放映されたNHKのドラマ版の方が楽しめたのかも知れない。けれども、7年ぶりの新シリーズが大反響を得たTBSの日曜劇場『半沢直樹』ロスを抱えた(実際には、さほどのロス感はないのだけれど)私にとっては、こちらの劇場版がちょうど気分に合っていて楽しかった。

何しろ、『半沢直樹』を始めとする『下町ロケット』『陸王』などの池井戸潤原作による日曜劇場のヒット作品と、監督からキャスティングまでほぼほぼ一緒で、これはもうファンサービス以外の何物でもない。

さすがに堺雅人阿部寛大泉洋などの主役は作品のイメージが強すぎるので登場しないが、とは言え、大衆演劇や歌舞伎のように馴染みの役者が出てきて「わぁー!」と歓喜の拍手をしてもらうためのオールスターキャストである。

こんな端役まで、と思うほど日曜劇場で見た人ばかりで出てきて笑っちゃうくらいだが、『半沢直樹』の演出によく表れているように古き良き娯楽作品の形をあえて踏襲しているのだろうと感じた。銀幕のスタアたちが演じる勧善懲悪の物語。言いたいことも言えない世の中にポイズンな日々の中、無意識下で抱えていたスッキリしたいという欲求を叶えてくれる往年の時代劇のようなドラマ。

本作のエンドロールでも主人公が一人語りしているが、勤めている会社に多くを捧げて働く人々の姿は、たしかに藩に尽くして生涯を終えていた侍と重なる部分が大きい。どうりで現代劇では異質にさえ見える誇張された大袈裟な演出がハマる訳である。大見得を切る歌舞伎役者たち。なかでも、香川照之の顔芸のオンパレードに喝采を送らずにはいられない。「よっ、カマキリ先生!!」

ところで、ストーリーも『半沢直樹』の第二部(『銀翼のイカロス』ベースにした部分)とかなり近いもので、まるで再放送を見ているかのようだった。『七つの会議』は2019年に公開されているので、劇場観賞した人にとってはドラマを目にした時に既視感を覚えたに違いない。

本作の主人公、八角が会社の不祥事をリークすると決めたとき、元妻を演じる吉田羊が「仕事なんていいじゃない。生きてさえいれば」と激励するシーンがある。まったく同じことを上戸彩にも言わせていたなぁ、としみじみした。

これは決して嫌味で取り上げているのではなく、原作の池井戸潤やドラマ・映画の製作陣の根底にある価値観なのだと感じた。弥勒菩薩のように懐の深い妻たち(女性像)は、所詮おじさんたちの理想や幻想に過ぎないと一蹴することはたやすい。しかし女性だからと限定せずに、このような度量の大きさを私も持ち合わせたいと思う。梵天丸もかくありたいし、サウイフモノニワタシハナリタイ。

さて、子供の頃いくつか好きな時代劇があった。どちらかと言えば、シリアスでシビアな展開を見せるものが好みで、いつも型通りに終わっていく『水戸黄門』は退屈でつまらないと思っていた。スケジュールとして決まっているかのように、毎回取り出される印籠。ひかえ、控えおろう、と言われて突然に誰も逆らわなくなり一件落着する流れ。

ところが本作では、そんな予定調和も心地よい時があるのだなと思い知らされた。決まりきった展開を楽しめることは、さらなる大人の階段を上っていることなのかも知れない。

 

モンスターの誕生

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CURE(キュア)

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だいたいこんな話(作品概要)

娼婦が惨殺された。現場に駆けつけた刑事の高部は、遺体の首元がX字型に切り裂かれているのを確認する。被害者がX字に切りつけられる事件は、すでに数件発生していたが全て別々の被疑者が逮捕されていた。今回の事件もすぐに容疑者は確保された。

この特徴的な殺人事件では、それぞれの犯人と被害者同士には一切の接点がなく、マスコミにも公表されていないことから、高部は事件の関連性の有無について頭を悩ませていた。友人の心理学者・佐久間に犯人の精神分析を依頼しても、この謎を解く手掛かりは何も見つからない。

同じころ、千葉の砂浜で若い男がさまよっていた。偶然近くにいた小学校の教師に助けられるが、記憶障害のあるその男はしきりに教師の身の上話を聞きたがり、教師は受け答えしているうちに自分の妻をXの字に切り裂いて殺してしまう。

教師の事情聴取に臨んだ高部は、これまでの被疑者と同様に第三者(若い男)の存在を聞き出すことは叶わなかったが、催眠術を用いた殺害教唆の可能性を疑い始めていた。

 

わたくし的見解/空っぽの伝道者

先日開催されたヴェネツィア国際映画祭で、『スパイの妻』という黒沢清監督の作品が銀獅子賞を受賞しました。本作は、そんな黒沢監督の出世作であり代表作の一つに挙げられるものです。その後、黒沢組の常連となる役所広司さんが初めてキャスティングされた映画でもあります。

かれこれ20年以上前の作品でも、黒沢監督的色調はすでに完成しており、ずっとどんよりした彩度の低い画面で、それが好きかと聞かれればちっとも好きではないものの、ストーリーとは見事にリンクしていました。

内容としては、潜在的にその素質(ここでは人を殺してしまう何か)を持っている人間に対してトリガーを仕込んでいく人物がいることで、連続していないように見える連続殺人が起きるというものです。この頃、この手の作品が流行っていた気もしますが、当時だけでなくサスペンスのひとつの形としても定番です。

例えば、本作が公開された後の、90年代後半には『ケイゾク』というTVドラマが人気を博しましたし、犯人を捕まえても捕まえても根っこにある悪を取り除けないという流れは、世紀末の雰囲気とマッチしていたのかも知れません。

また『CURE』における、根っこの悪である記憶障害の間宮という男が、静かな語り口で相手からパーソナルな話を引き出しながら、心の内に入り込んで支配してしまう様子は『羊たちの沈黙』のレクター博士を思い起こさせます。それをモデルにしたと言うよりは、単に心理学に精通する人のテクニックなのですが、間宮が「伝道者」と呼ばれていたのは妙にしっくりきました。

ただ、次々と捕まる殺人犯たちが皆、自らの犯した行為を受け入れられずに怯えている姿を見ると、伝道者が広げようとしている教義が何かは分からなくても、悪しきものとして映ります。

ところが、刑事の高部だけは、伝道者の間宮と対峙することで確実に癒しを得ていました。そのあたりを示す演出(ファミレスで全く食事に手をつけられずにいる場面と、数日のちに同じシチュエーションで勢いよく完食する姿)によって、映画的な文脈が散りばめられていることに気づき感心しました。

他にも、高部が収監されている間宮を訪れた場面は秀逸でした。本来は高部が間宮を取り調べするはずが、逆に間宮によって高部はある種のカウンセリングを受けているようになります。カメラはほぼ固定されたまま、2人の立ち位置が入れ替わることで、立場も逆転してしまっている様子がしっかり見て取れるのです。

最終的には、高部が伝道者に成り代わる展開もまた王道と言えるなか、本作における成功の要因は、やはり高部を演じる役所広司さんの存在感や演技力に尽きます。

間宮役の萩原聖人さんの柔和な物腰も伝道者としての説得力十分なのですが、その存在を超越してしまう高部の、いかにも刑事らしい信頼のおける風貌や、その裏側にひそむ底知れぬ闇の部分を体現できてしまうのは、役所さんならでは、だと感じました。

ところで、この役柄は2017年の是枝監督作品『三度目の殺人』に通じるものがあり、そちらで役所さんが演じる男の、空虚さゆえの恐ろしさも静かな迫力に満ちていて必見です。

 

またもや、ドリフ

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テネット

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だいたいこんな話(作品概要)

ウクライナのオペラハウスで、無差別テロが発生した。事件解決のために投入された特殊部隊に、一人のCIA工作員が紛れていた。彼の任務は、オペラハウス内にいる「プルトニウム241」を奪取したスパイを救出すること。

CIA工作員の名も無き男は、確保したケース内のプルトニウムが謎の物体であることに気付きながら、スパイの救出には成功したはずだった。だが、脱出の際にロシア人たちに捕らえられ、情報を引き出すための拷問にかけられる。

男は自決用の毒薬を飲む寸前に阻止されてしまったが、同じく拷問を受けていた仲間の薬を手に入れ、何とか服用に成功する。しかし毒薬は他の薬とすり替えられており、男が目を覚ますと、これまでの出来事はあるミッションに対する適性を試すものだったと明かされる。

新たなミッションとは、未来で開発された「時間の逆行」を可能にする技術によって起きる、第三次大戦よりも恐ろしい世界の消滅を防ぐことだった。

 

わたくし的見解/後ろ向きに歩いてみた

スパイ映画だと聞いていたのに、未来で開発された技術を駆使する、未来から来た敵と闘うという、ややこしい内容になっていました。(クリストファー・ノーラン監督はスパイ映画だと言いはっているようですが)。

ところで、人類はおろか地球全体を消滅に導くかも知れない未来の技術とは「時間の逆行」を可能にするもの。このツールの面白さは、従来のタイムトラベルものよりも仕組みが妙に泥臭い点です。その野暮ったさに、かえってリアリティーが生まれているかも知れません。

時間の逆行を可能にする装置を使うと、確かに過去に遡れるのですが、3日前に戻るには3日かかる、つまり10年前に行きたければ10年の月日を要する訳です。

劇中では、未来の技術を秘密裏に研究している人物から、主人公に対して時間の逆行についてのチュートリアルが実施されます。エントロピーがどうのこうのと小難しいことを説明してみたり、量子力学では逆行も起きるとか何とか、それらしいウンチクを並べておいて、白衣を着た研究者の女性は結局「考えないで、感じて」と、ブルース・リーみたいなことを主人公に伝授します。

これは同時に観客たる私たちに対して、この映画で何を楽しめば良いのかという解説でもあります。量子の世界では起こりうるって言ったって、そんなもん人間のサイズでは到底無理なんだけれども、映像なら逆再生で表現出来ますやん。せやから、やってみましてん。逆再生の映像って面白いじゃないですかぁ。ということなのだと思います。

YouTubeで「歌ってみた」とか「踊ってみた」とか沢山ありますが、予算もセンスもアイデアも実現力も全然違うとは言え、クリストファー・ノーランによる面白いと思ったから「やってみた」映像は、やはり桁違いの出来映えです。しかも、これまた泥臭いところが絶妙でした。

インセプション」の時も、カメラを逆さまにして天地が逆転するという古典的なカラクリを用いていたのですが、今回の逆再生も往年のドリフターズのコントを彷彿させます。

さらに単純な逆再生だけでなく、逆再生したような動きを演者にしてもらった映像を、さらに逆再生して順行しているように(つまり普通に動いているように)見せるなどで生まれる、独特のぎこちなさには何とも愛嬌がありました。

今どきのCG技術を用いれば、そんな面倒なことをする必要はないはずなのに、あえてアナログな手法で生まれる揺らぎであったり、ノイズのようなものがあることで、綺麗に整った映像よりも不思議と印象的なものになっていました。

何だか、さっぱり分からんなと感じながら、ぜひともオモシロ映像&スパイ映画的なド派手ロケーションで繰り広げられるアクションを楽しんで欲しいと思います。

また、いつも時間と空間など壮大なテーマに手を出して物語を展開するクリストファー・ノーラン作品ですが、映画「インターステラー」の中での「愛は証明できないけど、観測できるわ」という台詞のように、本作でも最終的にヒューマニズムに落とし込むという必殺技は健在です。間違いなく本年度イチオシの娯楽大作です。

 

議論の苦手な日本人

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12人の優しい日本人

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だいたいこんな話(作品概要)

裁判員制度が導入される以前の日本に、もしも欧米のような陪審員制度があったら、という設定の中で繰り広げられるコメディ。

夜の国道でトラックにはねられ死亡した男性を、路上に突き飛ばしたとして男性の別れた妻は殺人の容疑をかけられた。

その裁判に無作為で選ばれたのは、事なかれ主義で会議の苦手な極めて日本人らしい12人の陪審員。被告人が若くて美人だったことから同情する意見が多く、概ね無罪に票が集まり審議はすぐ終わるかに見えた。ところが討論好きのサラリーマン陪審員2号が、無罪の根拠をひとりひとりに問いただしたことで、議論は二転三転していく。

その中で終始一貫して無罪を主張する2名は、よりによって論理的な説明が苦手で、ただ直感としてそれを譲ることを拒否し続ける。あわや評決不一致にもつれ込みそうになりながらも、満場一致の評決にたどり着こうと奮闘する陪審員たちの姿が描かれている。

映画「十二人の怒れる男」のパロディ作品であり、三谷幸喜が自らが主催する劇団、東京サンシャインボーイズのために書き下ろした同名戯曲の映画化。

 

わたくし的見解/論理的な偏見 VS. 言葉にできない感覚

12人の陪審員は、いかにも三谷幸喜脚本らしいコミカルなキャラクターに仕上がっていますが、同時に日本人は確かにこの12パターンで構成されているのかも知れないと思えるほど、「わかるわかる」「あるある」の集大成です。

例えば、ある意味、物語の中心とも言える、始めから終わりまで無罪を主張した、シニアに近いおばさんとおじさんに代表される、感覚を言語化できずに損する人。その対極にいる、社会的地位も高く自らの論理的思考に自負もあることで、そうではないタイプの人に高圧的な態度をとってしまう人。

他には、自ら考察を深めることが苦手で人の意見に流され続ける、付和雷同の凡例みたいな人。また、同様に考えられないことを誤魔化すために、多忙などを言い訳にして思考と議論を放棄する人。

そして作品のもう一つの核である、一貫して有罪を主張する陪審員2号は、しっかりと論拠を次々と積み上げながらも、実は結論ありきで思考停止の最たる形。議論の成立を拒むエセ議論好きを象徴するかのような存在です。

物語の終盤で、2号が本物の議論好きである(他者の意見に耳を傾けながら、自らの意見の方向を見定められる)他の陪審員から、「あなたは議論をしたいんじゃなくて、自分の意見を押しつけたいだけでしょ」と諭される一幕は、胸がすく思いでした。

論理的(ロジカル)であることの最大の落とし穴は、前提が間違っていると答えも間違ってしまうということ。本来はニュートラルな立ち位置から審議しなければいけないのに、陪審員2号は妻に裏切られた自分の境遇を被害者に重ねて、自分の不幸とは無関係の被告人を有罪と決めつけた「前提」で論理を組み立ててしまいます。

対して無罪を主張する2人は、裁判中の供述の中で「何かがおかしい」と気づき、決して根拠のない思い込みではないのに、それを上手く表現できずに苦悩します。最終的に、思わぬ人物が彼らに救いの手を差し伸べて、審議が急展開していく様子は愉快痛快。

久しぶりに鑑賞しても「ジンジャーエール!」のくだりから何から、とても楽しい作品だったのですが、若かりし頃には気づけなかった新たな発見もありました。

議論に不向きな2人を助けてくれる人の存在で「優しい日本人」のタイトルにふさわしい結末に落ち着きますが、対して現実はやはり厳しいものです。

「言葉にならない」が、まかり通るのは美しい歌声の小田和正だけで、言語化できる力は大切だと痛感しました。それによって自分を守れるだけでなく、誰かを助けることもできるのだと本作では見せつけられた気がします。

また、ロジカルであることも大事ですが、批判的思考(クリティカルシンキング)も忘れてはならないと実感しつつ、やっぱり裁判員のような役割は荷が重すぎて、避けられるものならば全力で避けて通りたいと、極めて日本人らしい私自身は思ったのでした。

 

英国製サマータイムマシンブルース

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アバウト・タイム 愛おしい時間について

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だいたいこんな話(作品概要)

イギリス郊外のコーンウォールで、豊かな自然と温かい家族に囲まれ育ったティムは21歳の誕生日に、父親から自分たちの家系がタイムトラベル可能であることを知らされる。

ごく淡々と男児のみに与えられた能力であることや、その方法を伝授され、愉快な父親による冗談に違いないと自分の部屋に戻った。ところが、言われた通りにやってみると願った時間と場所にタイムトラベルは成功した。

未来には行くことが出来ない、自分が生まれる以前にも遡ることは不可能。ただし副作用などはなさそうだった。暗い小部屋、たとえばクローゼットやトイレなどで、拳を握り強く念じるだけでイメージした過去に戻れることが分かった。

まだ若いティムは、その夏に出会った麗しいシャーロットと付き合うために、タイムトラベルを駆使してチャレンジを重ねるのだが。

 

わたくし的見解/やはり一度きりの人生

夏になると、映画化もされた劇団ヨーロッパ企画の当たり作品「サマータイムマシン・ブルース」に思いを馳せてしまいます。真夏の部室で、エアコンのリモコンを壊してしまったことから、昨日のまだ壊れていないリモコンを取りに行くだけのために、学生たちは、せっかく手に入れた最強の道具タイムマシンを使ってしまうという、大変のどかな物語です。

いや、もっと有意義な使い道がいくらでもあるだろう。と思う反面、とっさに思いつく過去に戻ってやり直したいことなんて案外その程度のものかも知れないと、今年のような酷暑の中にあっては妙に納得してしまいます。本作「アバウトタイム」の主人公も、とても善良で幸せな青年で、まずは初恋を実らせるために夏の休暇を何度か繰り返してみるものの、結局上手くいきません。

おや、これはタイムマシンものの中でも運命論的なやつなのだろうか、と構えを改めながら観賞することになりました。運命論的なやつ、と私が呼んでいるのはタイムトラベル、タイムリープ等を取り扱ったものの中でも、過去を変えても未来がある程度しか動かせないオチに持っていくタイプの作品です。

つまり主人公の思惑どおりに多少は未来が修正されるものの、どうやっても変えられない決定された未来があるパターンのもの。「ターミネーター」は、続編などで何度か軌道修正を繰り返しても、審判の日は訪れてしまいます。

また「バタフライ・エフェクト」という作品も、大好きな女の子を救うために幾度も過去を修正するのですが、どんなにやり直しても自分と一緒に幸せになる未来が存在しない。そのため主人公は、彼女を助けることを何よりも優先させ、苦渋の決断で別々の将来を歩むを選択する、切ない映画でした。

本作も、やり直せるからって人生そんなに甘くないんだぜ系であることは間違いないのですが、上記の2作品と異なり、とにかく平和で爽やか。そしてノリは全く違っても「サマータイムマシン・ブルース」を彷彿とさせる何とも微笑ましい、サブタイトルどおり「愛おしい」作品だったのです。

主人公のティムは初恋を諦めたのちロンドンに移り、弁護士として忙しい日々を過ごし始めます。その中で、これは運命の女性ではと思える出会いが。ところが下宿させてもらっている父の古くからの友人のために、過去をやり直してしまった。そのせいで運命の彼女と知り合わなかったことになってしまったのです。

ここからのティムの、もう一度彼女と巡り合うための七転八倒は、いわゆるラブコメ。その先、全く趣の異なる展開をしていくところが作品の魅力でもあるけれど、あまり多くは語らないでおきましょう。

超絶美人でホットな初恋の女性を、今をときめくマーゴット・ロビーが、キュートな運命のお相手はレイチェル・マクアダムスが演じており、ヒロインたちは有名&キレイどころを押さえつつ、何よりも最高なのは父親役のビル・ナイ

タイムトラベルによって一体、人の何倍人生を謳歌してきたのだろうと、良い意味で勘ぐってしまう父親からの心温まる箴言の数々は、この夏の暑さにヘトヘトに疲れきっている私を潤し、癒してくれました。

リアルな日常においては、なかなか実感出来なくとも、人生って素晴らしい! と素直に感じられる作品は、やっぱり素敵です。

 

親になってもモラトリアム

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ワイルドライフ

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だいたいこんな話(作品概要)

1960年代、カナダとの国境が近いモンタナ州。14歳のジョーは、ゴルフ場でレッスンプロや雑用として働く父親のジェリー、専業主婦の母ジャネットと共に、この田舎町を新天地と決めて新しい学校にも馴染み始めていた。

ところがジェリーが解雇され、仲睦まじい姿を見せていた両親の仲に亀裂が入り始める。家計を支えるためにジャネットはパートを始めるが、ジェリーは一向に就職を決めてくる様子はない。その上、大規模な山火事を消す仕事に行くことを突然決めてしまった。

山火事の消防は命の危険が伴うだけでなく、その報酬はボランティアと見紛うほどで、ジャネットは強く反対したがジェリーは全く耳を傾けなかった。ジェリーが山に向かった後、ジャネットは途方に暮れ、生活の立て直しに奔走するのだが。

原作は、ピューリッァー賞作家リチャード・フォードが1990年に発表した「WILDLIFE」。個性派俳優ポール・ダノの初監督作品。

 

わたくし的見解/手に負えないのは、自分

一般的な価値観で家族と呼ばれているものが儚くも崩れさってしまう様を、14歳のジョーの目線で捉えた物語で、そのように紹介すると、繊細な少年の心の機微を取り上げた作品に違いないと想像されるのではないだろうか。

実際にジョーの心中に立つさざ波を丁寧にすくい上げているが、同時に母ジャネットや父ジェリーの中にあるアンバランスさと、それでもバランスを保とうと苦悶する様子も細やかに描かれていて、かなり純文学的な映画だと言える。なかでも子供以上に、親たちが傷ついている姿が印象的だった。

それもこれも主人公ジョーの物分かりが良く、しかも親たちの異常事態について率直にかつ穏やかに自分の不安や疑問をぶつけてくれるので、大人が大人気ない行動をとっていられるのだけれど。つまり、親が大人になりきれていない現実を見せつけられると、子供はどうしたって、しっかりせざるを得ないのだなと痛感した。

しかし「ワイルドライフ」での親たちが特別に、精神的に未熟な訳ではない。生活さえ安定していれば、努めて良き母であったし、極めて良い父親だった。子供から見れば唯一無二の父母であることに違いないが、彼らも(子供にそれが認められているように)それぞれに人格を持つ一個人である以上、自らの人生をどうしていくのか、また何を求めて生きていきたいのかと悩まされて当然なのだ。

とは言え、鑑賞している間ずっとジョー少年が不憫でならなかった。父親は蒸発に近い形で出ていくし、それに伴って母親は残された子供と生きるために自分たちを擁護してくれそうな異性を求めて、これまでに見せたことのないような振る舞いをするようになる。ジョーは察しが良いせいで、ひたすらショックを受け、傷つき続けるものだから、観ているこちらも大概つらい。

結果的に家族は通常とは違う形に変化するが、ジョーの達観ぶりについては、一貫して年齢以上の落ち着いた受け止め方をしていたので意外性は弱い。ところが、この静かな物語のともすると気付かれない、ささやかなどんでん返しは、少年ではなく親たちの成長にある。子供と比べれば、その伸びも残された伸びしろも取るに足らないが、少しはジョーに顔向けできる程度になっていて救われた。

ところで舞台になっている町は、山火事がそう珍しくもない自然豊かな場所であるため、当初は「ワイルドライフ」というタイトルに、文明から離れて野性味溢れる暮らしでも目指すのかと想像していた。けれども、どうやら口語表現で「手に負えない」ことを指しているようだった。

確かに、人生はままならず手に負えないことばかりだ。子供だけでなく親もそれ以外の大人も、誰しも皆、傷つきつつも自らの人生を少しでも良くするために、葛藤し続けているのだと改めて気付かされる、良い作品だった。個人的には、太宰治の「黄桃」の冒頭文が頭に浮かんだ。

 

メタ・ゾンビ

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デッド・ドント・ダイ

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だいたいこんな話(作品概要)

センターヴィルという田舎町で、農場からニワトリが消えた。農場主のフランクが、何十年も森の中で自活しているボブが盗んだと決めつけて通報してきたため、警察署長のクリフと巡査のロニーは仕方なく事実確認に向かった。世捨て人のボブは警官に向かって発砲してきたものの、署長のクリフは厳重注意にとどめ、ロニー巡査とパトロールに戻った。

警官が3人しかいない、のどかな町で起きた他愛もない事件のようだったが、それを皮切りにおかしな出来事が続いていく。あまりにも日没が遅くなり、ロニーの腕時計は止まり、警察無線は途切れ、携帯電話も使えなくなった。ニュースでは、ペットが次々と行方をくらましている不思議な現象を取り上げ始めた。

そして、翌朝。センターヴィル唯一のダイナーで、女性店員が内臓を食いちぎられた変死体となって見つかる。凄惨な現場を訪れた町の住人や警官は「何か獣による、しかも数匹の所業か……」と口々に感想を述べるなか、ロニー巡査は真面目な表情でゾンビの存在を主張するのだが。

 

わたくし的見解/おとぼけ最強コンビ

ものすごくあっさり「ゾンビだな」「頭を殺れ!(Kill The Head)」と展開していくところが、一番の可笑しみと言える。もちろん、登場人物の全てがその反応をする訳ではない。主人公の一人であるロニー巡査と雑貨店を営むホラーオタクの青年の判断は早く、それに従うことのできた主要人物たちは異常事態にひとまず対処していく。

ところがホラーの定石どおりには進まない。嫌われ者だからと言って真っ先に酷たらしい死に方をすることもないし、状況を把握できている主要なキャラクターであっても容赦なく惨劇に飲み込まれてしまう。おそらくジム・シャームッシュ監督は、ゾンビ映画に心酔して挑む他の監督たちとはノリが異なっているのだろう。

ただしゾンビ映画の原点、ジョージ・A・ロメロ監督の「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」を始めとする、その系譜については丁寧に踏襲している。セレーナ・ゴメス扮する、たまたま町に立ち寄った都会の若者の乗る旧車であったり、(近頃のゾンビものではあまり見かけない)墓場からそれが蘇って来る描写や、生前の執着に死後も囚われているくだりなど、他にも細かなディテールや設定を挙げればキリがない。

とにかく、A・ロメロの考えるゾンビ像に間違いなくオマージュを捧げている。と同時に、世の中に浸透しているゾンビものという型の中で、大いに楽しんでいるのが伝わってくる。キャストを見ても、ジム・ジャームッシュ作品にゆかりの人々の同窓会みたいだ。

心酔ではなく箱庭の中でのファン(fun)に思えたのは、本作でも重要なキャラクターを演じているティルダ・スウィントン主演のヴァンパイア映画「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」(ジム・ジャームッシュ監督作)との落差が印象的だったからだ。ゾンビあるいはヴァンパイアという、どちらもモンスターを描きながらも、後者の作品には頭がクラクラしてしまうほどの世界観やこだわりが、画面を埋め尽くしていた。

対して、今回のゾンビ映画はロメロ的社会風刺がありつつも徹底したコメディであり、ファンサービスと言うよりは、むしろ仲間とゾンビごっこを楽しむハロウィンの様相だ。そして、その遊びの数々が鑑賞者にとっても喜ばしいものである以上、そこに文句のつけようがない。

個人的には、ナタを振り回すアダム・ドライバーが、カイロ・レン(「スター・ウォーズ」の中心的人物)を演じている時よりもヒーロー然としていたところが、たまらなく気に入っている。そこにビル・マーレイの、居るだけで笑いを誘う佇まいがあるのだから敵わない。

ちょっと肩の力抜きすぎだろう、とツッコミたくなる出来映えではあるが、こういう時もあるから時折「パターソン」のような傑作がポロっと生まれるのかも知れないと思うと、やっぱり文句はつけられないのだ。