映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

ヒャッハー! ってやつ

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マッドマックス 怒りのデス・ロード

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

核戦争後、文明の崩壊した世界。潤沢な地下水を支配する独裁者イモータン・ジョーによって、元警官マックスは、彼のマシンV8インターセプターと健康な血液を目的に捕らえられる。

マックスは、イモータン・ジョーの元から逃亡を図る5人の妻、そしてフュリオサ大隊長と行動を共にすることになるが。「マッドマックス」シリーズ第4弾。キネマ旬報2015年度外国映画ベストワン作品。

わたくし的見解

私にとって映画は近年ずっと、ボジョレーヌーボーばりに何かしらの当たり年で(7年に一度だの12年に一度だの、毎回巧みに出来の良さが表現されるアレ。「フレッシュでフルーティー」って年もあるけど、ぶどうジュースがちょっと発酵した状態なんだから超当たり前! と突っ込みつつ、あの苦肉の策感がもはやカワイイ領域のボジョレー評)2015年は、娯楽大作の豊作イヤーだったと満足しています。

上半期の時点で、「ミッション:インポッシブル」と「007」の新作が観られると知っただけで大ハシャギでしたが、それらに比べると思い入れもなく、ただ予告編のインパクトだけで観に行った「マッドマックス」で得られた映画体験は、2015年イチでした。

1979年から1985年にかけて公開された前3部作については、観たことがあるという程度で、固定ファンの多い作品ながら、私自身の「待っていました感」は皆無。

前述したとおり、劇場予告の映像の迫力、トム・ハーディメル・ギブソンに替わりマックスを演じるという点に強く惹かれて鑑賞し、本作に登場するウォーボーイズのごとく、ものの見事に、作品に熱狂し心酔してしまいました。

日本では「北斗の拳」に代表されるような、一度終わった世界の描かれ方は「マッドマックス」前3部作が源流にあるそうです。なぜかモヒカン半裸のバイカー達による暴力の台頭、水と燃料と食糧を求める日々。

「怒りのデス・ロード」は時系列的には前3部作以後に配置された物語で、特に「マッド・マックス2」の系譜にあると言ってよいでしょう。

ヒャッハー!です。世紀末救世主伝説です。千葉繁のハイテンションな次週予告です(私は未鑑賞ですが、吹替版では敵対するキャラクターの一人を千葉さんが演じてくれています。配給会社よく分かっていて偉いぞ)。

私が評価したいのは、鑑賞者のハイテンションを維持し続ける映画のハイテンションさ。作品と鑑賞する側のテンションは、悲しいかな案外ズレが生じるものですが、世界観の完成度の高さによって手に汗握る感はノンストップ。

ご覧になられた方は、ウォーボーイズのメタルスプレーによって、狂った世界観にまんまと引き摺り込まれたことでしょう。

また、まるで漫画のようなキャラクターやマシンであっても、ファンタジーにほど近い別の世界の物語のようであっても、きちんとリアリティーを失っていないのです。

水・食糧、武力を掌握した権力者が、暴力だけで人を支配するのではなく、思想や価値観(英雄として死を迎え蘇りを約束する宗教)を植え付けてシステムを安定させていること。

そしてすべてを手に入れた権力者が、自らも病に冒されている汚染された世界で最も欲しているのが健康な後継者であることも、マッドな物語に現実味を与えています。

これまでの「マッドマックス」に引き続き、驚異的に無口な主人公を演じるトム・ハーディの魅力(セクシー俳優のはずが、前半ほぼ滑稽なのが乙と言えば乙)もさることながら、本作ではやはり隻腕の女戦士フュリオサの格好よさが鼻血もの。

心拍数の上がる高槍部隊もろもろが登場するカーアクションと、美人すぎて何
も誰だか分からないシャーリーズ・セロンの存在は作品の二本柱(端正過ぎて毎回どの作品でもCMでも初見では誰? って思っちゃうんですよね。で、そう思ったから、きっとシャーリーズ・セロンだろうと山をはって、間違った試しがありません)。

実は、大騒ぎして行って帰ってくるだけのストーリーに、情緒やドラマを与えているシャーリーズ・セロン。オスカーを獲るほどの女優ですが、フュリオサ役は彼女以外のキャスティングが思い浮かばないという点で、今までで一番の当たり役ではないかと思います。

そして感想の最たるものは、ジョージ・ミラー頭おかしい、の一言に尽きます。前作から27年も経つなか、今さら感の跳ね返し方がハンパない。

監督自身の年齢が70を過ぎてなお、これほどまでにエッジの効いた禍々しい世界観を構築できるなんて、クリエーターの鑑! しかも、前作からの27年の間には人気のブタ映画「ベイブ」の続編や、踊るペンギン映画「ハッピーフィート」などを作っており、一体どーゆー人なんだ。やっぱマジで、おかしいでしょー。

しかし、ふと気づくのです。愛くるしいブタやペンギンの出てこない「怒りのデス・ロード」でも、醜い世紀末的世界で描かれているのは、希望なのでした。ある意味、一貫して希望を描き続けているジョージ・ミラースタンディング・オベーション

次回作も、ついて行きます。イモぉータン・ジョぉおーー!!(←ウォーボーイズのポーズで)

ぅう〜〜っ ワンッ!!

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めし

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

結婚5年目をむかえる岡本初之輔と妻の美千代。恋愛結婚した美男美女の夫婦として世間からは羨まれるほどだが、近頃は些細なことで揉めてばかりだった。時代は違えど、どこの夫婦にも覚えのあるような実に等身大の物語で、かつ秀逸なホームドラマ。

林芙美子原作の成瀬作品シリーズ第一作目にあたる。原作の同名小説は、新聞連載中に林芙美子が急逝したため未完の絶筆となってしまった。映画では、当時の大阪の風俗も伺える楽しみもある。

わたくし的見解

世間ではワンちゃんも召し上がらないと言われている、“夫婦喧嘩”の映画です。夫婦喧嘩のきっかけは「家出してきた」と言って突如現れた夫の姪。まるで台風の目。

お年頃で、何でも「縁談が気に入らない!」と飛び出してきたそうな。若くて綺麗なお嬢さんですが、どうにもだらしない。妻はそう感じてしまうのでした。

事実、少々非常識ではた迷惑な娘であることは確か。若くて綺麗だからいいようなものの、そうでなければ(私が同じことをしたら)きっと袋だたきに遭うことでしょう。しかし、夫は姪に優しくする。「ああ腹が立つ」ってことなのですが、これは所詮きっかけに過ぎません。

夫はそれなりに、妻にも気を配っているのです。姪と夫婦と三人で一緒に観光に行こう、つって。妻だって、本気で夫と姪の仲を疑ってヤキモチ妬いている訳ではない。

きっと、妻にとっては「夫婦喧嘩にもならなかった」のが一番決定的だったのでしょう。

あたくしっ、実家に帰らせていただきます! 前掛けをクルクルっと畳んで叩きつける嫁の図は、重要無形文化財として国から保護されています。もちろん嘘です。前掛けのシーンがあったかどうかは定かではありませんが、妻はそれまで内に秘めていた怒りを米を研ぐことであらわにします。

ザッ、ザッ、ザッ (何よっ 何よっ 何よっ!)
ザッ、ザッ、ザッ (私だって 私だって 私だって!)
ザッ、ザッ、ザッ (何なのよっ 何なのよっ 何なのよっ!)

永遠の聖女だとか処女だとかと名高い原節子さんが、この時ばかりは鬼の形相。小津映画の彼女しか知らなかった私には、驚きでした。原さんも生身の女性だったんですね。

しかし同時に、奥さん怒ったはるわ〜と、思わずケタケタ高笑いもしてしまうのです。その激おこプンプン丸ぶりが妙に微笑ましいのですね。

そして今後、私も夫婦間の問題で腹の虫がおさまらなくなったら、米を研ごうと思いました。だって怒って、たとえば洗い物などすると、よりにもよって(捨ててもいいと思っている皿に限って割れず)気に入ってる皿が割れたりするのです。

さらに怒りにまかせて割れ物を拾うと怪我をして、泣きっ面に蜂。ろくな目に遭いません。その点、洗米ならば(炊きあがりの良し悪しは別にして)ひとまず安全です。

ラストは妻のナレーションで幕を閉じるのですが、今回の夫婦の問題について、実は画期的な結論には至っていません。何しろ相手はワンちゃんも召し上がらないと評判の、夫婦の揉め事です。

あえて達観してみたり、分かった風なことを言わずして、観る側を安心・納得させる落としどころには脱帽。

映画のご夫婦はこの先も幾度となく、ワンちゃんが召し上がれないバトル(時には一人相撲)を繰り広げるに違いありません。それでも……

うーむ。夫婦って、ほんっとにムニャムニャムニャ、ですねぇ〜

※上記のムニャムニャには、ご自由に言葉を当てはめて下さいまし。

変態ノーマライゼーション

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愛のむきだし

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

さまざまな理由で両親の愛を思うように得られず成長した少年少女が繰り広げる、壮絶な純愛物語。

主人公のユウは他界した母の言葉に従い、マリア様のような理想の女性を求めていたが、女性に全く性欲を持てずに成長した。敬虔なクリスチャンで聖職に就く父から日々、懺悔を強要されるようになり、父の要求に応えたいがために意図的に罪を犯すうち、ユウは盗撮を始めるようになる。監督自身が知り合った盗撮のプロの実話を基に制作されている。

わたくし的見解

変態とノーマルの境界線は曖昧だ。きほん、マイノリティーの性欲は変態呼ばわりされやすい。

たとえば盗撮。そこに淫靡な魅力を感じるのは案外マジョリティーなのではと、想像する。試しに好きな女の子をファインダー越しに覗いてみる。

彼女がカメラ目線でなければ尚のこと、なんかイイ、パンチラなんて皆無でもちょっとエロいと思えちゃう。ここまでなら、きっと変態にあらず。盗撮を犯罪行為と認識しながらも、どうしてもヤメラレナイ。自分をコントロール出来ない。こうなると、おそらく変態。

でもね盗撮という性衝動を抑えられない男性が、特定の女性に許可を得てそれを行うなら、第三者がとやかく言うことではない気もする。

その許可には金銭授受をともなうような契約の成立もあるだろうし、なかには幸運なことに「わたし撮られると興奮しちゃうんです」なんて利害の一致するパートナーと出会い、願ったり叶ったり。充実の性ライフを送っている稀有なリア充変態も探せばいるかも知れない。

そもそも“盗”撮なんだから、許可とか得て予定調和じゃ満足できないんだよってのが本来だろうけど、そんなずぶずぶのド変態やろうまで擁護するのが今回の目的ではないのよさ。

ただ、変態だっていいじゃないか。にんげんだもの。社会の一員としてどうにか折り合いをつけていこうと、たゆまぬ努力をしている変態だって沢山いると思うの。

そういう社会適合(を目指す)変態をつかまえて唾棄し弾圧することは、きっと社会に何かしらの歪みをもたらすと考えている私もまた変態なのか知らん。

まさか、ここまでの文脈でそんな読み間違いをする人はいないだろうと思うけど、念のため明記しておきます。盗撮も含めたあらゆる変態行為はすべて金銭で解決できる、などとは微塵も申しておりません。痴漢はアカン。by放課後電磁波クラブ

(カンクローのコラム『痴漢はアカン─尻にありったけの敬意を─』は文字数の制限上、省略いたします)

さて、まるで肛門期の子供がウンコチンコと連呼するかのごとく「愛のむきだし」では、やれ変態そら勃起。ボッキボッキ変態ボッキボッキ変態、ヘンタイ勃起ヘンタイ勃起、わっおー♪ わっおー♪ と繰り返されます。

それにしても、好きな女の子でしか勃起しないなんて変態というより、えーっ! 何それ超ファンタジー。

70年代の「女囚さそり」シリーズへのオマージュ(?)や、特殊な家庭環境によって愛や性について懐疑的であったり極端に偏っている少年少女、新興宗教までぶち込んでくる始末。

とにかく大騒ぎしてみせてくれますが、その実、物語はとどのつまりボーイミーツガールでしかありません。どれほどの純愛も、受け入れられなければ変態呼ばわりされるのは日常茶飯事。どうしようもない変態行為も、相手に受け入れられれば一転にわかに純愛と化す。

てゆー格別斬新でもない愛の永遠の真理をハイテンションで見せてくれた作品でした。

それなりに退屈せずオモチロク見ていられる4時間におよぶ変態お祭り騒ぎは、それでも疲労感が否めません。無駄なシーンも多いし、もっと短くても十分に成り立つように思えるのですが、ほぼ勢いだけに思える長尺を乗り切ったあとに用意されているカタルシスには一見の価値あり。

とは言え、他のいくつかの作品を観てもなお、園子温監督については懐疑的な私。青田買いの上手さと、俳優のポテンシャルあるいはそれ以上を引き出す能力に長けた監督だと思うけど(それだけでフツーは十分な気もするけど)粗削りな良さ、とゆーより粗削りを狙った良さが、あまり好みではありません。あえて洗練を嫌っているのもわかるし、そういった人間臭さが魅力の監督でもあるのですが。

てことで、変態の海を泳ぎきったかのような達成感、そして西島くんと満島ひかりちゃんに、すべての賞賛を捧げます。

産むキカイ礼賛

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かぐや姫の物語

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

竹取物語」を原作とした、言わずと知れたスタジオジブリのアニメーション長編作品。手描き風のアニメーションにこだわり、制作期間は何と8年。日本最古の物語は、そのままでも驚くほどスペクタクルだが、独自の解釈も盛り込まれ新たな「かぐや姫」像が誕生している。高畑監督にとって14年ぶりの作品。

わたくし的見解

しばしば、ハゲ(ている場合もあれば、そうでない場合もありますが)の偉い政治家などが、女性を「産む機械」扱いしたために矢面に立たされます。

そんなハゲの政治家も実は大変な愛妻家で、自らの妻について子供を産んでくれたことに限らず、家族たらしめてくれたあらゆる事、つまり妻の存在そのものに深く感謝している可能性も十分あるのでしょう。

しかしハゲは政治家ですから、家族の存在で自身の人生が有意義で豊かになったことをアピールするよりも、国単位の豊かさについて公では言及しなければならず、国家の将来的な生産力を担う子供を増やしたいために、何しろベリーオーフンうっかり女性に対して失言してしまうのです。

少し本筋をそれますが、あまりにもハゲを連呼してしまった以上、お断りを入れておきたい。私は決して、ハゲを貶めることを目的に上記のような文章をつづったのではありませぬ。

個人的な見解ですが、ハゲそのものが男性的魅力を損なうものだと感じていないからです。しかし余談ついでに申し上げると、ハゲ「隠し」は如何なものか。それは、男性的魅力はおろか、人間的魅力をも損ないかねないと思うのです。

一種の偽装だからでしょうか。女性のブラジャーの中に、ミラクルやウルトラ的なお乳そのものとは別のものが入っている場合がありますが、いくらかの男性はその件について偽装と判断し不信感も抱いていることでしょう。

ミラクルやウルトラ的なブラジャーに比べれば、ハゲ隠し(ここではバーコードのような髪型を指しています。ヅラについては又いつか)は一目瞭然ですが、そこに向けられた不信感はもはや頭髪をすり抜けて人間性にまで到達しかねません。偽装と不信は、セット販売されやすいのですね。

引き続き脱線中。ミラクル乳バンドやバーコードのような髪型くらい、その涙ぐましい努力を汲んで、いじらしいと思って慈しむべきなのかも知れません。それくらいのこと、ヌルい笑顔で許せる懐の深い人間に私もなりたい。

さて、やっと映画のことを。実は「かぐや姫の物語」の劇場鑑賞後に、私は初めて「おもひでぽろぽろ」という1991年公開の高畑勲監督作品を観ました。

おもひでぽろぽろ」は、いわゆるバブル期に都会でOLをしている20代の女性がバケーションで田舎暮らしを体験する中で、自らの半生=おもひでをフラッシュバックさせ、これからの人生私はどうしていこうかなと思いを馳せる物語。

男女の雇用機会は均等に与えられるようになった時代だけど、人生には他にも様々なチャンス(機会)があるのだから、素直に素敵だなと思った男性と結婚する幸せもありまっせ。とゆーのが監督からのメッセージに思えました。

高畑監督のインテリの部類に入る学歴や年齢(世代)のせいか、一部の自立心の旺盛な女性には「おもひでぽろぽろ」や「かぐや姫の物語」は、女性を産む機械扱いしていて失敬だと感じられるそうです。

女性のはしくれの私が得た印象は、どちらの作品も「産む機会」が非常に価値あるものだと表現されていたように思います。だって、閉経後の女性が代理出産できる医療技術のある現代でさえ、未だ男性や性転換手術後の元男性でも子供を産むことは出来ませんものねぇ。

かぐや姫の物語」では、子供のころ読み聞かされた「かぐや姫」の昔話や、古文で習った「竹取物語」で広く知られているように、姫の美しさを伝え聞いた多くの男性が群がり縁談には事欠きません。

ところが、姫は誰とも幸せな結婚はしない。「おもひでぽろぽろ」との大きな違いは、女の子が幸せになるってどういうこと? から大きくスケールアップして、壮大な命の物語として描かれていることです。

命の素晴らしさ、その尊さが、翁が姫を初めて目にした瞬間から実に活き活きと瑞々しく表現されていて、アニメーションの語源である「命を与えて動かすこと」がこれほど実現されていることに、私は感動を通り越して感謝しました。

周知の物語の結末、姫は月に帰ってしまうのですが「月からお迎えがくる」という言葉に、昔の人は、月はあの世で、地球にいる間がこの世と考えていたのかも知れないなと感じました。

あの世(死後の世界)のことは分からないながらも、遠くに、しかし確かに見えている月にあると想像したのだろうと。強い仏教思想が根底に感じられる物語のなかで、ある種異質な存在の姫がこの世、現世至上主義であったことに何故だか救われました。

古い時代の価値観と現代的な思想とが混在していて、実に興味深い原作に着手している点にも感服。あらためて、つくづく不思議な物語です。

産む機械と見るか、機会と見るか、結局は自身の価値観が投影されてしまっているのではと感じています。優れた作品は、観る人の心を映す鏡にもなるのだと思います。あなたには、この作品がどのように映るでしょうか。

スペース☆ダンディ

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インターステラー

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

異常気象によって砂漠化が進み居住できる場所だけでなく、人類の存亡にかかわるほどの食糧不足に見舞われている近未来の地球。二人の子供の父親である、元宇宙飛行士のクーパーは、人類が、愛する家族が、生き残れる新たな惑星を探索するプロジェクトに参加する。

わたくし的見解

インターステラー」は、2014年公開作品ではピカイチの傑作であったと思います。もちろん、幅広い層の観客に楽しんでもらえる映画ではありませんが、少なくともクリストファー・ノーランの作品史上、最高の出来だと私は感じました。

正直、クリストファー・ノーランの新作が宇宙ものだと情報を得た時点では、違和感がありました。うそん、ホンマに大丈夫? などと劇場に赴くまでの間、思いをはりめぐらせるほどに。

しかし、はりめぐらせてみるものですね。比較的近年の作品「インセプション」での、眠りの深度に比例して時間の速さが異なる設定のなかで物語を進めていくアレ。

私は面白く鑑賞しましたが、少々込み入っていてややこしかったのも事実。時の流れの速度は異なる場所にありつつ、それぞれの場所での物語が同時に進んでいくという設定は、宇宙でやれば面倒な説明もかなり端折れるし。

クリストファー・ノーランといふ人は、そのようなことに余程興味があるのだなと納得しつつ映画を観始めたら「インターステラー」は、ものの見事に裏「インセプション」でした。と言うより「インターステラー」のダークサイドが「インセプション」であるような印象を持ちました。

さて、作品をご覧になった方は「スペース☆ダンディ」って何だよ。百歩譲ってもダンディじゃなくて、ダディだろ?! と、お思いかも知れません。

スペース☆ダンディ」は、2014年にTV放映されたアニメで、相対性理論は言わずもがな、様々な宇宙ネタをぶっ込んでくるけれども内容はないよぉ。みたいなノリの、悪く言えばフザけた、良く言えば遊び心満載の作品です。

インターステラー」を観て、往年のSF作品を想起された方が多いようですね。さすがに鈍い私も、モノリス型のロボットを見て「2001年」が頭をよぎったものの、記憶に新しいせいか、かつての傑作よりも「スペース☆ダンディ」のことばかりが思い出されてしまったのです。

スペース☆ダンディ」では、主人公の元カノに4次元宇宙の女性がいて、その元カノの前彼が2次元宇宙人で、4次元の彼女とヨリを戻すために宇宙ごとワープしてきたせいで、主人公たちの居る3次元宇宙が2次元宇宙に飲み込まれて、さあ大変! とゆー円城塔さん脚本のエピソードがありまして。「インターステラー」で、ワームホールがどーのと云ふくだりでは、このエピソードが私の頭を支配。

その他でも何かにつけて「ダンディ」が頭に浮かんでしまっていた私は、そのうち、にわかに紐がヒョロりと出てきて、アン・ハサウェイが「あ、何かついてますよ」と紐を引っ張ったら別の次元にすっ飛んで行ってしまうのでは、と結構ずっとハラハラしていました。

(これは「ダンディ」で何度か出てきたネタで、果たして「ひも理論」の紐ってそんな紐なのか? 絶対違う気がするけど、まぁいいや。このいい加減さが、まさしく「ダンディ」のノリなのです)

洋服の糸くずにしろ、人体に生える福毛にしろ「インターステラー」では、にわか出てきた紐を思わず引っ張ってしまうことなく物語は進み、ここまで大風呂敷を広げておいて、まさかの夢落ちで片付けられることもなく安心しました。

インセプション」の時は、階層が幾つもあったせいで盛り沢山だけど詰め込み過ぎ感が否めなかったですが、今回は、あっち(地球の娘)とこっち(宇宙の父)とゆーシンプルな構図のおかげでドラマも伝わりやすく、その点も大きく評価したい。なんか、いつもより明るくて良かったでしょ。

と同時に、クリストファー・ノーランは、時間の流れの違う場所でたった一人取り残されること、その絶対的孤独みたいなものに、どうしても関心があるのだなと、つくづく感じました。

いつもそこ(違う場所)に取り残された人を迎えに行こうとする物語で、それ自体はラブストーリーみたいになり得るのだけど、そこまでたどり着けない可能性の大きさに絶望したり希望を見出そうとしたり。

まあでも今回は、不可逆でもないじゃんよぉ。みたいな話だったから、希望でいいのかなと思いました。本当は有名な人の言葉なのかも知れませんが、解明も定義も出来なくても「愛は観測できる」って台詞にチョッチ感動。科学者っぽい、こじつけに萌えます。

「の映画」

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ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

アメリカIMFに所属するエージェント、イーサン・ハントが活躍するスパイ・アクション・ムービー「ミッション:インポッシブル」シリーズ第5弾。

CIA上層部によってIMFは存続の危機の中、イギリス諜報部MI6の思惑も交錯し、後ろ盾のないイーサンは存在の証明さえ不可能と思われる謎の秘密組織「シンジケート」を追う。

しきりに取り上げられる、トム・クルーズ自らスタントなしでこなした離陸する飛行機にしがみつくアクションは、映画の冒頭部分でいきなり使われるが、決して尻すぼみににはならない、CG依存度の低い、見どころたっぷりの痛快娯楽作品。

わたくし的見解

ホラーやサスペンス、映画ならばアクションも人気ジャンルのひとつに違いない。その中に、まことしやかに存在しているのが「トム・クルーズの映画」というジャンル。

それは淀川長治さんがご健在だった頃、日曜映画劇場で何かにつけて放映していたシュワルツネッガーの映画に近い。

SFだろうが、サスペンスだろうが、さらにアクションも加わる盛り沢山の娯楽映画で、とにかく掛け値なしに面白い。ハズレなしの安定感が、政治家に転身する前のシュワルツネッガーの映画にはあった。

現在、娯楽映画ここに極まれり、を担っているのがトム・クルーズの映画。シュワルツネッガーでは今ひとつピンとこなかった、ラブロマンスまでいける口である。

大人の俳優への転身を目指していた頃は、確実にオスカーを意識している出演作の選び方だったが、そんな時期を過ぎて以降のトム・クルーズは、何か吹っ切れたのか観客が喜ぶ映画作りにベクトルを向けている。実力派あるいは旬な監督や脚本家を起用する名プロデューサーでもある。

スタア俳優でありながら(監督こそ手がけはしないが)クリント・イーストウッドロバート・レッドフォードに続く、業界への貢献度の高い素晴らしい映画人と言えるだろう。

定期的に「アウトロー」「ワルキューレ」「コラテラル」などで非情な男を演じて見せつつも、ファンサービスに徹する娯楽映画の極みとして「ミッション:インポッシブル」シリーズは、まさにトム・クルーズ『の映画』なのである。

このシリーズの作品はいずれも面白い。作品ごとに違う監督の特色を見て取るのも楽しみのひとつだ。

私は、ピクサーアニメーションのブラッド・バードを監督に抜擢した前作「ゴースト・プロトコル」を特に気に入っている。そこでエージェント(現場のスパイ)に昇格して登場した、サイモン・ペッグ演じるベンジーが今回も活躍を見せている。

前作と比べると「ローグ・ネイション」はシリアスな仕上がりなので、お調子者ののベンジーの存在は丁度いい箸休めになっているのだが、そのベンジーが重要な役回りであるのは、今回は友情や信頼をテーマにしているためだ。

ヒロインの存在も、主人公イーサン・ハントとの初対面にして全幅の信頼を抱ける者同士として描かれている。

前作、前々作においてイーサンの最愛の女性ジュリアとのいきさつがあった後の作品なので、いきなりロマンスも不自然と考えての流れかもしれないが、魅力的な女性でありながらイーサンにとっては鏡に映った自分のような存在。諜報員としてのスキルの高さだけでなく、それを生業にして生きる者の悲哀を瞬時に感じ取ったとも言える。

前述したとおり作品は全体的にシリアスな印象が強く、騙し合いに次ぐ騙し合いの展開は、監督の出世作が名作B級サスペンス「ユージュアル・サスペクツ」(脚本を担当)であるというのが妙にうなずける。

しかしながら「ローグ・ネイション」は、シリーズのファンを十二分に満足させるほど、アクションのクオリティーも高い。

新作のたびに、トム・クルーズもさすがに老けたなと感じるのだけれど(どのみち老けた顔も老けた顔なりに格好がよろしく、このままカッケー爺さんになるに違いないが)そんな顔とは反比例するように、年々ムキムキに鍛えられていく体は一体どうした事か。

老いを感じさせないための手段であるにせよ、挑戦するアクションもどんどん過激というかアニメちっくというか、ほとんど「ルパン三世カリオストロの城」レベルまできていて、もしかすると、トム・クルーズは最後のジャッキー(チェン)イズムの継承者なのでは? と、この頃信じて疑わない。

あと何作このシリーズで、イーサン・ハントを演じるトム・クルーズを観ることができるのだろう、という一抹の寂しさと共に、いよいよ次回作ではエンドロールでアクションNG集を見られるかも、という期待も膨らんでしまうのだ。

怒鳴り芸の真骨頂

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セッション

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

ジャズドラムの演奏家を目指す若者と、彼が入学した名門音楽学院の教師とで繰り広げられる人間ドラマ。サンダンス映画祭を筆頭にあらゆる映画祭で高い評価を得た話題作。アカデミー賞ノミニーでもある。

アカデミー賞にはノミネートはされるが絶対に最優秀賞は獲得しない若手監督作品枠があるらしく、その暗黙の了解枠に本年度あたるのが、この作品。

原題の“whiplash”とは、鞭のひも、またはむち打ちの意だが、劇中演奏される楽曲のタイトル。タイトルの意味と物語の内容とがリンクしているのは製作者側の意図か、ただ楽曲タイトルを取り上げたことによる偶然の産物か。邦題の「セッション」も内容をよく捉えていて大変良いタイトルと言える。

わたくし的見解

世代的に、根性といふ言葉に少なからずアレルギーのある私でも、近頃は「しかし、登りつめたら根性論」と感じることがあります。

おそらくアレルギー反応を示していたのは、うさぎ跳びで階段を上るだとか、バテるから水は飲むなだとかの、今となっては利よりも害がハッキリ立証されてしまったエセ根性に対してで、実は必要なのではと思えてならない「根性」とは別ものだったのかも知れません。

たとえば、今の錦織圭選手が彼よりもランキング上位の選手と戦うとき。

持って生まれた体格差や完全には克服できていないウィークポイントがあったとして、しかし、まず負けるというほど実力差がある訳でもない場合には、とっさの判断力、スタミナなどと同等に、根性は試合中に必要な要素のひとつではないでしょうか。

今風の言い方をすれば、メンタルの強さ、と置き換えることも出来そうですが、最後まで勝つことを諦めない気持ちは「根性」と呼ぶ方がしっくりきます。

実際に根性が必要になるのは、何かを始めて三日坊主で終わらせないような事ではなくて、何かをやり尽くして出来る努力はすべてやった後なのかもと思ったりするのです。

さて、やっと映画の話。

この作品は、ドラ息子ならぬドラムする子とその指導者の物語で、非常にベタなスポ根青春ものの様相で始まります。定番の「若者の栄光と挫折」を、なかなか良い出来ではあるまいか、と安心して観ていたら、中盤からは若者と同格あるいはそれ以上に指導者を描きたかったのか?! と思うような展開へ。

この指導者のキャラクターが非常に立っていて、パイロット版から本作の俳優を起用していただけのことはあります(そのパイロット版の評判で出資を集め、無事に長編映画が完成したらしいので当然と言えば当然なのでしょう)。

トビー・マグワイアが主演をつとめた「スパイダーマン」前シリーズの、新聞社の編集長を演じていた俳優がその人です。怒鳴らせたら、もはやハリウッドいち。

主人公いわく、アメリカでトップの音楽学院の中で、さらにトップのバンドの指揮者が主役以上の準主役である指導者なのですが、いわゆるカリスマ的存在。学生バンドの指揮者とは言え、日本でも甲子園常連校の監督や某大学名門ラグビー部の監督などはプロも一目置く存在ですから、そのカリスマ性は想像容易いでしょう。

しかし、この作品のカリスマ教師はすさまじいスパルタ指導。暴君そのものです。おそらく現在の日本ならば、この指導方法の厳しさは確実にモンスターほにゃららと名付けられる人たちの餌食になるもの。

教育現場ならば確かに問題あるのでしょうが、この作品について言えば、演奏を楽しみたい、そのことで人生を豊かにしたいという次元ではなく、プロを目指している者への指導なので単純な批判はお門違いかもと私は感じました。

そうは言っても本作でも、ある事件をきっかけに、その指導方法が問題視され物語の方向性が変わります。

ところが、映画は厳しすぎる指導方法についての是非は問わず、ドラムを叩きまくる若者と指導者の怒鳴り声とのセッションを見せることでクライマックスまで持っていったところが、実に面白いところ。

指導者の厳しさの根底には、歴史に残る素晴らしい演奏の実現という極めて純粋な動機があることを示しつつも、決して「実は良い人」として描かれていない点も、個人的には好ましい部分でした。

唯一残念なのは、今回ご紹介した時点では劇場公開がほぼ終わってしまっていることです。

ジャズを取り上げているだけに、音楽シーンを含め全編とおして生のライブ感に通じる、手に汗握る緊張感が張りつめていて作品の醍醐味になっています。

これはリラックスした自宅鑑賞では、なかなか味わいにくいもの。劇場鑑賞ならでは緊張感が魅力の多くをしめる映画なので、リバイバルやアンコール上映の機会があれば見逃さないで頂きたい。

あるいは、スネ夫的お金持ちのお友達からシアタールームに招待されたあかつきには、是非この作品をリクエストして下さい。

スネ夫的お友達が、三人招待しておいて「シアタールームはボクのぶんも入れて三人分しか席がないんだ。のび太(あなた)は外で待っててよ」と言われてしまったら、一般の劇場での上映を待つしかありません。いやぁ、いろいろ残念ですね。