映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

人の振り見て何とやら

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ザ・スクエア 思いやりの聖域

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

クリスティアンは、スウェーデン王立現代美術館のキュレーターで、常に洗練されたファッションに身を包み、美術館の実質的な責任者としての地位もある。

彼は、次の展覧会に「ザ・スクエア」という作品を展示する準備をしていた。それは地面に正方形を描いた作品で、そのスクエアの中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」「思いやりの聖域」であるという参加型アートだった。

クリスティアンは、この作品のテーマを通して、現代社会のエゴや経済的格差について問題提起するつもりでいた。

ある日、クリスティアンは多くの人が行き交う街中で、何者かから逃げ惑う女性を助けるが、その直後、自分の財布と携帯がないことに気づく。「助けて」と叫んでいた女性が、実はスリだったのだ。

彼は携帯のGPS機能を利用して、奪われた財布と携帯を取り戻そうと画策する。しかし、この一連の出来事がきっかけとなり、クリスティアンは思いも寄らぬ事態に巻き込まれていく。

わたくし的見解

テーマはとても面白い(興味深い)のですが、あまり、面白い映画ではありません。

私の場合、意地悪な映画を好んで見るところがあるので、それが理由で評価を辛くしているのではありません。個人的には、社会風刺にせよ痛烈な批判精神に基づいているにせよ、そういったものならば一層、惹きつける見せ方をして欲しいのです。

この内容なら、151分も要らないなぁと思ってしまいました。120分にまとめてくれていたら、テーマのみならず「面白い映画」だと評価していたし、100分を切っていたら、きっと人に強く勧められる作品になっていたと思います。

さて、すでにキーワードを挙げてしまいましたが、痛烈な批判精神に基づいた社会風刺と問題提起が、映画の内容のすべてです。アレルギー反応を示す人の多い、カンヌ映画祭パルムドール作品らしいテーマですが、評価すべきは「あなた(達)って、こうでしょ?」ではなく「私(達)って、こうじゃないですか?」という目線にあります。

まず、特に大きく取り上げられている風刺の一つは、「私達はいとも簡単に傍観者に陥ってしまう」という指摘です。

予告編でも使われている、猿のリアルな物真似をするパフォーマンスの中で、女性客が襲われるシーンがあります。パフォーマーによる行き過ぎた演出ですが、女性は本当に怯えています。しかし、ほとんどの観客がその光景を見て見ぬ振りし、誰も彼女を助けようとしない。

ここは尺が長いのが玉に瑕ですが、実に分かりやすい場面でもあります。女性客の味わっている緊迫感や恐怖は、相当なものであることが、よく伝わってきます。けれども一番の肝は、映画の鑑賞者が、きっと自分もあの状況では女性を助けたりできないだろう、と思い知らされることです。とても意地悪な見せ方であり、そのために大変効果的だと思いました。

特筆すべき点は、このような指摘をするにあたって、決して青臭い正義感を振りかざして終わらないところです。誰かが助けを求めている時は、手を差し伸べるべきだ! と豪語し、観客に説教するスタンスではありません。

映画の序盤、主人公のクリスティアンが、街で女性の「助けて」の声を耳にした時、はじめ彼は傍観者に甘んじようとしていました。しかし、近くにいた男性に、その女性を助けるために「君も手伝ってくれ」と頼まれて、仕方なくかかわります。

クリスティアンは、女性を助けた直後は人助けをした達成感で、もう一人の男性にハイタッチを求めるほどテンションも上がり、笑顔を見せてくれます。ところが残念なことに、それは人助けをする人の善意につけ込んだ犯罪(スリ)だった訳です。

このように、困っている人に手を差し伸べたけれど、結果的に酷い目に遭ってしまう。というのも、現代社会の中で否定できないリスクであり、その部分も取り上げるあたりに、大人の批判精神を感じました。単純に、傍観者を断罪することが映画の目的ではないようです。

もう一つの大きな風刺の軸は、主人公のクリスティアンハイソサエティーに属する人であることに、強く関わっています。彼が、財布と共に盗まれた携帯のGPS機能を利用して、犯人の所在地を特定する場面があります。

そこは、低所得者層のための集合住宅でした。クリスティアンはマップを確認した時点で、そのことに気付いているようでした。

そして、いつもパリッとしたスーツを着て高級車(テスラ)に乗る主人公が、その集合住宅の全世帯に「財布を返せ、さもないと」と書いた脅迫状をばら撒いてしまう。この行動がスリに遭ったことよりも、実質的なトラブルの始まりでした。

自分が被害者だからと言って、犯人であるなしに関わらず、そこの住人をまとめて泥棒呼ばわりする手段をとってしまったのは、彼らへの誤解や偏見があったからだ。と、映画の終盤で主人公自身が告白しています。

福祉大国のスウェーデンとは言え、物乞いが人目につくところで小銭を要求してくる。移民はたとえ物乞いまでしていなくても、貧困層の多くを占めている。そして、それ以外の人間の無意識下に差別意識が存在する現実も、主人公を通して浮き彫りにしています。

他に、「ザ・スクエア」の展覧会に注目を集めたいがために、意図的に過激なPR動画を製作し、炎上を狙うなど。映画の中の出来事というよりは、今の世の中そのものとも言えるでしょう。

そういった笑い飛ばせない大きな問題提起の隙間に、クスッと笑える小さな風刺を差し込んで構成されています。

砂を円錐状に盛り付けた現代アート作品を、清掃員が掃除してしまって、美術館スタッフが慌てるくだりは、私もクスッとさせて貰いました。どうやらアートも、本作では揶揄されているようです。

作品内での「ザ・スクエア」が参加型アートであるように、この映画自体も参加型、ちょっとした社会実験だと考えてよいと思います。

冒頭でお伝えした通り、他の皮肉を利かせた作品と比べても、それほど面白いものだとは思いませんでしたが、他の人と語り合う題材としては、とても興味深い映画だと言えます。

個人的には、この作品を観て登場人物をただ批判する人よりも、「これは自分にもあてはまるな」とか「明日は我が身だな」と感じた人と、仲良くしていきたい。生意気にも、そう思ってしまいました。