映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

禍福は糾える縄の如し

f:id:eigaxavier:20190401150800j:plain

 

午後8時の訪問者

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

女医ジェニーは、恩師が長年開業してきた小さな診療所の代診を務めていた。数日後には、大きな病院へ移ることが決まっている。

これから勤める病院の歓迎会に招かれた夜、診療所のドアベルが鳴らされた。ジェニーは診療時間を大きく過ぎていることを理由に、応答しようとした研修医を制してモニターさえ確認しなかった。

翌朝、近くで身元不明の少女の死体が見つかり、刑事が診療所に訪ねてきた。防犯カメラに何か写っていないか確認させて欲しいと言う。診療所のカメラには、亡くなる前の少女が助けを求める映像が残っていた。

それは昨夜ジェニーが、研修医に出る必要はないと注意した、あの時のドアベルの映像だった。

少女の死が、事故なのか事件性があるのかは未だ調査中だったが、ジェニーはドアベルを無視した事に責任を感じていた。死因がどちらにせよ少女を無縁仏にさせないために、彼女を知る人がいないかジェニーは独自の調査を始める。

しかし、少女が売春をしていたことなどから、実は彼女を知っていてもそれを明かさない人や、ジェニーの行動そのものを妨害しようとする者まで現れる。果たして、少女は誰で、その夜に何が起きたのか。

わたくし的見解

あの時、もしベルに応じてドアを開けていたら、少女を助けられたのでは。主人公のジェニーは自責の念にかられて、ひたすら少女の身元を探ります。

この映画は、とても小さな吉凶の連なりで出来ています。ドアベルに応じなかったのも些細なことからでした。

すでに医師であるジェニーは、そのとき一緒にいた研修医のジュリアンに先輩としてちょっとした忠告をしている最中でした。命を預かる仕事なので、それほど厳しいとは感じない指導でしたが、ジュリアンの態度は悪く、その後も無言のまま帰ってしまいます。

診療所では、ジュリアンと少し不穏な空気になってしまったものの、自らの歓迎会に足を運んだジェニーは、仲間から能力を高く評価され、暖かく迎えられている実感を得ます。急患の往診に向かうと、少年の患者とその家族から今までの感謝をサプライズで伝えられ、夜遅くに呼び出された疲れも吹き飛びます。

誰の人生も同じなのかも知れませんが、良い事ばかりは続かないし、悪い事についても同様です。作品の中では、それを計算されたタイミングと短いサイクルで見せられることで、いわゆる「フラグが立つ」ことに観客は敏感になっていきます。

ジェニーに、ささやかながら医師冥利に尽きるような心温まる出来事があれば、すぐにまた何か良からぬ事が起きるのだという予感が、物語全体に静かな緊張感を与えています。

劇場予告では、煽情的な音楽を合わせて実にスリリングな物語であるように見せていましたが、本編では一切のBGMを排しています。ダルデンヌ兄弟(監督)の作品の特徴でもあるのですが、それらしい音楽がなくとも見事にサスペンスフルに仕上がっているのです。

罪悪感を抱えているジェニーにとっては、劇中で何度も鳴るドアベル、さらには携帯の着信音に対しても「これを無視してはいけない」という緊張と義務感があり、観客にもそれが伝わります。ある意味、これらの音がBGMの代わりに効果的に作用していました。

主人公が事件の真相を突き止めようとする物語は多くある中で、この作品の個性を挙げるならば、ジェニーの一番の目的が犯人捜しではなく、ただ被害者の身元を明らかにしたいと言うところです。それはジェニーが、少女の亡くなった原因を自身にあると感じているためかも知れません。

しかし、取り憑かれたように捜索を続けるジェニーの姿は、とても危なっかしい。彼女は刑事などではなく、何よりも(腕力などにおいて)あまりにも普通の女性であることが見ている側に不安を与えます。もし、少女の死が殺人事件であったならば、被害者について聞いて回るジェニーの身に危険が及んでも不思議ではないのです。そして、この事も作品のサスペンス要素を支えているのでした。

ダルデンヌ兄弟は、カンヌ映画祭では常連の監督です。いかにもな作風ですが、彼らの作品には底意地の悪さや露悪的な部分はありません。

いつも、ベルギーのリエージュという工業都市を舞台に、決して楽ではない市井の人々の暮らしが描かれます。甘くない現実を少しも包み隠さず、しかも過度な演出をほどこさないので、どうしても厳しい印象は否めません。

本作では、少女の死の具体的な真相よりも「あの時、それを見過ごさなければ」という後悔がジェニーだけのものではなかったことが、私には重く感じられました。

日常にあふれる、ほんの些細な無関心によって、誰かが命を落とすことがある。ジェニーの患者たちのような、社会的弱者が置かれている少しずつの困難な状況とも、その無関心は繋がりがあるように見えてきます。

いずれにしても、楽しい映画ではないので好みの分かれる作風ですが、ちょうど前回ご紹介した作品では、長尺についてブツブツ言ったところなので、本作の、106分でここまで描けている点を高く評価したいと思いました。

ダルデンヌ兄弟の映画には、希望という光明も見えない代わりに、いつも可能性という微かな光を感じさせてくれます。絶望とも諦念とも違う独特の視点は、不都合から目をそらさない、厳しさと包容力があるように思えてなりません。このあたりが「いかにもカンヌ」たる所以です。