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強力わかもと

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ブレードランナー2049

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

フィリップ・K・ディックの小説を原案に制作された、1982年のSF映画ブレードランナー」の30年後を描いた作品。

前作で監督を務めたリドリー・スコットは、製作総指揮に名を連ねている。前作の主人公であり、本作で重要人物として再び登場するリック・デッカード捜査官を、引き続きハリソン・フォードが演じている。

環境の悪化により、多くの人間は宇宙で暮らすようになっていた近未来の地球。人間はレプリカントに過酷な労働を強いることで、生活を成り立たせていた。

レプリカントは人工的に作られた人間であり、機械とは異なる。2018年、人間に反抗し反乱を起こしたレプリカント、ネクサス6型は処分対象に。危険なレプリカントを取り締まる捜査官は、ブレードランナーと呼ばれた。

その後、レプリカントの製造そのものが禁止された時代を経て、世界は改めて従順で理想的なレプリカントを開発し、2049年には労働力として再び利用するようになっていた。

自身もレプリカントであるブレードランナーの"K"は、旧式のレプリカントを解任(処分)する任務の中で、ある可能性に遭遇する。"K"は、その可能性について追求するうちに、30年前に失踪したブレードランナーのリック・デッカードを見つけなければならなくなる。

わたくし的見解

続編を作るごとに、味が薄くなっていくというのは映画ファンにとっての定説。

スプラッタホラー映画の「スクリーム」の二作目でも、あえて自虐ネタのように、劇中で「一作目を超える続編なんてあるか?」という話題で、高校生たちが盛り上がる場面がある。

「1」を超える「2」として挙げられる作品は、大抵の場合三部作。たとえば「スター・ウォーズ」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の二作目で、それではこのお題に当てはまらない、と劇中で突っ込まれる。

じゃあ「ターミネーター2」はどうだ。の発言に、スクリームの登場人物たちは唸るのだが、それほどまでに続編の面白さが初作を上回るのは難しいもの。

ヒットしたからって、取って付けたみたいな続編作りやがって、と何度となくファンをがっかりさせてきたもの。それが続編映画。

とくに近年、映画業界では一時期の不景気の煽りでポシャってきた企画が、景気の回復とともに再び実現化する動きが見られる。

その多くが人気作品のリメイクや、何十年ぶりの続編なのだけれど、前述したとおりの理由で「続編」作品は、個人的になるたけスルーしている。結論から言えば、本作は「あったりー!(当たり)」の続編だった。

ターミネーター」や「エイリアン」ほどの続編の傑作かと聞かれれば、そこまでの自信はないけれど(そのレベルの傑作の評価は、ある程度年月を経てからでないと出せないものだと思うし)ただ、かなり成功している続編である、とは言いきれる。

わたくしにとっては、1982年の「ブレードランナー」に大した思い入れがないことが、功を奏している。

いつだったか忘れたが、名作だと聞いたので観賞したものの、正直「なるほど」としか思わなかった。十分に面白かったのだが、名作と謳われているのだから、そんなの当たり前でしょ。「なるほど名作」と感心するにとどまる感じ。

小説も含むSF作品としての評価となると話は変わってくるが、数多ある映画の中で、何をおいてもこの作品!というような盛り上がりはなかった。加えて「続編」への眉ツバ感が、結果すべて良い方向へ転び、今回の新作をとても楽しめたのだと思う。

しかし私と違い、期待感を持って観賞した人の評価も決して悪くないようだ。作品そのものとは別に、今回面白かったのは観客の大半がおっさんだったことである。

82年の「ブレードランナー」に心酔した人が観に来ているのだから当然だけれど、昨今の映画館で見る客層とは明らかに違う。

客席の風景もいつもと異なりスーツ姿が多く、なんだか少し愉快だった。「スターウォーズ」のような万人受けする作品ではないところにも、思い入れの深さが伺える。おっさんになっても、中身はSFに萌えているのだ。

ブレードランナー2049」は原案とされている小説にはまったくないストーリー展開だが、とても丁寧に映画「ブレードランナー」を踏襲している。

ブレードランナー」と同様に、ずっと天候が悪い。これは舞台であるLA、なのに雨。加えて寒さの表現で、地球環境が現在とは明らかに違う状況であることを見せている。前作から30年の月日が流れている設定なので、本作ではさらなる環境の悪化を見てとれる場面もある。

ブレードランナー」では、感情を揺さぶる質問を繰り返すことでレプリカントか人間かを見分ける。

本作でも主人公のレプリカントが、ブレードランナーとして適正な状態にあるか(感情を揺さぶられずに、旧式のレプリカントを解任する任務が行えるか)をテストするために、前作と同様エモーショナルな質問が半ば拷問のような畳み掛け方で繰り返される。

このようなSF作品に一貫してあるのは、人間が自らの代替品を作った時、いつかそれらに反乱を起こされる恐怖だ。

たとえば機械や「ブレードランナー」なら人造人間。それらの精度を高めるのは人間で、その結果、代替品に自我が芽生えると想像することで生まれる物語。

レプリカントは前作ですでに自我が芽生え、今回の続編では、より人間に近づいたことに、人間もレプリカントも強い意義を感じている。

人間ではないものが、ヒューマニズムを得たり求めたりすることが、何故こんなにも切なく感じられるのか。うっかりしていたけれど、ライアン・ゴズリングが主演に据えられている時点で気づくべきだった。だいたい顔立ちが、すこぶる切ない。

ハリウッドらしからぬ、大変に暗く色調も地味な作品に思えたが、ひたすらに仰々しい音響は、実は極めて大作映画的な演出だ。心が弱っていたら病気になってしまうのでは、と心配になるほど不穏な音が鳴り響き、見事に物語を形成している。

無彩色に近い映像の中で繰り広げられる、実にエモい展開は前作からのDNAに他ならない。人間ではないものを通して、人間の求めている何かを見出そうとする。いつだってSFは無機質とは程遠く、エモいものなのである。