映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

変態ノーマライゼーション

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愛のむきだし

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

さまざまな理由で両親の愛を思うように得られず成長した少年少女が繰り広げる、壮絶な純愛物語。

主人公のユウは他界した母の言葉に従い、マリア様のような理想の女性を求めていたが、女性に全く性欲を持てずに成長した。敬虔なクリスチャンで聖職に就く父から日々、懺悔を強要されるようになり、父の要求に応えたいがために意図的に罪を犯すうち、ユウは盗撮を始めるようになる。監督自身が知り合った盗撮のプロの実話を基に制作されている。

わたくし的見解

変態とノーマルの境界線は曖昧だ。きほん、マイノリティーの性欲は変態呼ばわりされやすい。

たとえば盗撮。そこに淫靡な魅力を感じるのは案外マジョリティーなのではと、想像する。試しに好きな女の子をファインダー越しに覗いてみる。

彼女がカメラ目線でなければ尚のこと、なんかイイ、パンチラなんて皆無でもちょっとエロいと思えちゃう。ここまでなら、きっと変態にあらず。盗撮を犯罪行為と認識しながらも、どうしてもヤメラレナイ。自分をコントロール出来ない。こうなると、おそらく変態。

でもね盗撮という性衝動を抑えられない男性が、特定の女性に許可を得てそれを行うなら、第三者がとやかく言うことではない気もする。

その許可には金銭授受をともなうような契約の成立もあるだろうし、なかには幸運なことに「わたし撮られると興奮しちゃうんです」なんて利害の一致するパートナーと出会い、願ったり叶ったり。充実の性ライフを送っている稀有なリア充変態も探せばいるかも知れない。

そもそも“盗”撮なんだから、許可とか得て予定調和じゃ満足できないんだよってのが本来だろうけど、そんなずぶずぶのド変態やろうまで擁護するのが今回の目的ではないのよさ。

ただ、変態だっていいじゃないか。にんげんだもの。社会の一員としてどうにか折り合いをつけていこうと、たゆまぬ努力をしている変態だって沢山いると思うの。

そういう社会適合(を目指す)変態をつかまえて唾棄し弾圧することは、きっと社会に何かしらの歪みをもたらすと考えている私もまた変態なのか知らん。

まさか、ここまでの文脈でそんな読み間違いをする人はいないだろうと思うけど、念のため明記しておきます。盗撮も含めたあらゆる変態行為はすべて金銭で解決できる、などとは微塵も申しておりません。痴漢はアカン。by放課後電磁波クラブ

(カンクローのコラム『痴漢はアカン─尻にありったけの敬意を─』は文字数の制限上、省略いたします)

さて、まるで肛門期の子供がウンコチンコと連呼するかのごとく「愛のむきだし」では、やれ変態そら勃起。ボッキボッキ変態ボッキボッキ変態、ヘンタイ勃起ヘンタイ勃起、わっおー♪ わっおー♪ と繰り返されます。

それにしても、好きな女の子でしか勃起しないなんて変態というより、えーっ! 何それ超ファンタジー。

70年代の「女囚さそり」シリーズへのオマージュ(?)や、特殊な家庭環境によって愛や性について懐疑的であったり極端に偏っている少年少女、新興宗教までぶち込んでくる始末。

とにかく大騒ぎしてみせてくれますが、その実、物語はとどのつまりボーイミーツガールでしかありません。どれほどの純愛も、受け入れられなければ変態呼ばわりされるのは日常茶飯事。どうしようもない変態行為も、相手に受け入れられれば一転にわかに純愛と化す。

てゆー格別斬新でもない愛の永遠の真理をハイテンションで見せてくれた作品でした。

それなりに退屈せずオモチロク見ていられる4時間におよぶ変態お祭り騒ぎは、それでも疲労感が否めません。無駄なシーンも多いし、もっと短くても十分に成り立つように思えるのですが、ほぼ勢いだけに思える長尺を乗り切ったあとに用意されているカタルシスには一見の価値あり。

とは言え、他のいくつかの作品を観てもなお、園子温監督については懐疑的な私。青田買いの上手さと、俳優のポテンシャルあるいはそれ以上を引き出す能力に長けた監督だと思うけど(それだけでフツーは十分な気もするけど)粗削りな良さ、とゆーより粗削りを狙った良さが、あまり好みではありません。あえて洗練を嫌っているのもわかるし、そういった人間臭さが魅力の監督でもあるのですが。

てことで、変態の海を泳ぎきったかのような達成感、そして西島くんと満島ひかりちゃんに、すべての賞賛を捧げます。