映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

人間らしさのあり方

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いぬやしき

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

犬屋敷壱郎は、数年後には定年を迎えるサラリーマン。会社でも家庭でも疎ましがられるばかりの冴えない存在だった。新居購入の直後に末期ガンで余命わずかであると知り、夜の公園で途方に暮れていた。そこで突如、何かの墜落事故に巻き込まれる。

その時から犬屋敷は、地球では確立していない高度な技術によって無敵で万能な機械の体を手に入れた。意識や人格は以前の犬屋敷を引き継いでいるものの、生身の人間としての彼は死んでしまったようだった。しかし機械の体には、どれほど重度な疾患や怪我のある生物も治せる能力があると気づき、現代の医療では治療困難な人を探しては救う日々が始まった。

一方、同じ事故に遭った高校生の獅子神皓は、機械の体が持つ圧倒的な武力で無関係の人々を殺戮する行為を繰り返していた。

人智を超えた能力を手にした二人。それを真逆の目的で利用するうちに、殺人鬼と化した獅子神と人を救いたい犬屋敷とが、とうとう直接対面することになるのだが。

GANTZ」で人気を博した奥浩哉による人気コミックの実写映画化作品。

 

 

わたくし的見解/極端な例を持ち出した詭弁か否か

実写映画版の「いぬやしき」は、大変分かりやすい構図になっています。スーパーパワーを手に入れた、人を助ける者と殺す者を対比させ勧善懲悪の雛形に納めて終わります。

けた外れの攻撃力のみならず、ハッキングや(自動車や飛行機などあらゆる)機械類の遠隔操作、通信まで思いのままですし、その上に他者を治癒できるなど歴代ヒーローの中でもこれほど死角なしのオールマイティーな能力は初めてかもしれません(しかも動力は水のみとエコロジーかつエコノミー)。

個人的にがっかりしたのは、たとえばハリウッド映画に比べてCGやアクションが良いとか悪いとかではなく、原作の「いぬやしき」で最も興味深いと思われた部分が省かれてしまったことです。

それは敵役、獅子神の描かれ方。映画では、犬屋敷の明確な善に対して獅子神の悪も大変分かりやすいものです。しかし、原作の獅子神については凶悪と感じつつも、これもまた別の正義なのか?! という考えが頭をかすめます。

原作と映画、いずれでも変わらない犬屋敷の正義は多くの共感を得られるでしょう。徹底して人を殺さず、とにかく人を救いたい気持ちが原動力。これは犬屋敷の本質的な倫理観・道徳観に加えて、すでに生身の人間ではない自分が「人らしく」あるための唯一の手段だと信じているからです。

対して獅子神には「殺人は悪」という古今東西共通の掟が根本的に欠落していて、人間が社会的動物である以上、これに共感する訳にはいきません。

獅子神は、彼もすでに人間ではない(機械である)ことから自らを神格化して「人間のルールは当てはまらない」などと言い放ちます。しかし、彼の他人はどうなっても構わないが大切な人(家族や友人)は何としても守りぬこうとする姿勢は、世界で当たり前のように横行している価値観ではないでしょうか。

宗教間の戦争が分かりやすい例として挙げられます。それぞれの宗教の教義で「人を殺してはならない」と謳われているのに、どういう訳か殺し合っているのは自分たちの神を信仰していないものは人間ではないと判断している。あるいは、便宜上そうしていると言わざるを得ない。

獅子神が他人の命を顧みない様は、人間の所業とは思えない。ところが殺し合いこそしなくとも、幾らかの場面において多かれ少なかれ自分たちとそれ以外を分けている点では、獅子神の方が犬屋敷よりもずっと私たちに近い存在だと考えられます。

つまり、人でなしの獅子神の方が、犬屋敷よりも人間臭い(人間らしい)のでは? と。そんな風にモヤモヤ出来た部分が「いぬやしき」という物語の最たる面白さと認めていたので、単純明快な映画版は少し物足りなく感じてしまいました。

デスノート」や「進撃の巨人」に代表されるような日本のコミックの魅力は、一刀両断しづらい「悪」や行き過ぎた「正義」などダークな一面の描き方にあるので、スーパーヒーローアクションものとしてハリウッドのアメコミ映画と差別化するためにも、そういったグレーな部分は盛り込んで欲しかったです。

とは言え原作さえ知らなければ、見た目は初老なのに無敵のヒーローの活躍は目新しさもあって楽しめるはずです。実は、アニメ版の犬屋敷の声を俳優の小日向文世さんが演じておられて激烈にハマっていたので、実写も木梨さん以上にご老体然としたキャスティングでも面白かったのではと思ったり。あくまで欲を言えば、ですが。