映画ザビエル

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議論の苦手な日本人

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12人の優しい日本人

 映画情報

 

だいたいこんな話(作品概要)

裁判員制度が導入される以前の日本に、もしも欧米のような陪審員制度があったら、という設定の中で繰り広げられるコメディ。

夜の国道でトラックにはねられ死亡した男性を、路上に突き飛ばしたとして男性の別れた妻は殺人の容疑をかけられた。

その裁判に無作為で選ばれたのは、事なかれ主義で会議の苦手な極めて日本人らしい12人の陪審員。被告人が若くて美人だったことから同情する意見が多く、概ね無罪に票が集まり審議はすぐ終わるかに見えた。ところが討論好きのサラリーマン陪審員2号が、無罪の根拠をひとりひとりに問いただしたことで、議論は二転三転していく。

その中で終始一貫して無罪を主張する2名は、よりによって論理的な説明が苦手で、ただ直感としてそれを譲ることを拒否し続ける。あわや評決不一致にもつれ込みそうになりながらも、満場一致の評決にたどり着こうと奮闘する陪審員たちの姿が描かれている。

映画「十二人の怒れる男」のパロディ作品であり、三谷幸喜が自らが主催する劇団、東京サンシャインボーイズのために書き下ろした同名戯曲の映画化。

 

わたくし的見解/論理的な偏見 VS. 言葉にできない感覚

12人の陪審員は、いかにも三谷幸喜脚本らしいコミカルなキャラクターに仕上がっていますが、同時に日本人は確かにこの12パターンで構成されているのかも知れないと思えるほど、「わかるわかる」「あるある」の集大成です。

例えば、ある意味、物語の中心とも言える、始めから終わりまで無罪を主張した、シニアに近いおばさんとおじさんに代表される、感覚を言語化できずに損する人。その対極にいる、社会的地位も高く自らの論理的思考に自負もあることで、そうではないタイプの人に高圧的な態度をとってしまう人。

他には、自ら考察を深めることが苦手で人の意見に流され続ける、付和雷同の凡例みたいな人。また、同様に考えられないことを誤魔化すために、多忙などを言い訳にして思考と議論を放棄する人。

そして作品のもう一つの核である、一貫して有罪を主張する陪審員2号は、しっかりと論拠を次々と積み上げながらも、実は結論ありきで思考停止の最たる形。議論の成立を拒むエセ議論好きを象徴するかのような存在です。

物語の終盤で、2号が本物の議論好きである(他者の意見に耳を傾けながら、自らの意見の方向を見定められる)他の陪審員から、「あなたは議論をしたいんじゃなくて、自分の意見を押しつけたいだけでしょ」と諭される一幕は、胸がすく思いでした。

論理的(ロジカル)であることの最大の落とし穴は、前提が間違っていると答えも間違ってしまうということ。本来はニュートラルな立ち位置から審議しなければいけないのに、陪審員2号は妻に裏切られた自分の境遇を被害者に重ねて、自分の不幸とは無関係の被告人を有罪と決めつけた「前提」で論理を組み立ててしまいます。

対して無罪を主張する2人は、裁判中の供述の中で「何かがおかしい」と気づき、決して根拠のない思い込みではないのに、それを上手く表現できずに苦悩します。最終的に、思わぬ人物が彼らに救いの手を差し伸べて、審議が急展開していく様子は愉快痛快。

久しぶりに鑑賞しても「ジンジャーエール!」のくだりから何から、とても楽しい作品だったのですが、若かりし頃には気づけなかった新たな発見もありました。

議論に不向きな2人を助けてくれる人の存在で「優しい日本人」のタイトルにふさわしい結末に落ち着きますが、対して現実はやはり厳しいものです。

「言葉にならない」が、まかり通るのは美しい歌声の小田和正だけで、言語化できる力は大切だと痛感しました。それによって自分を守れるだけでなく、誰かを助けることもできるのだと本作では見せつけられた気がします。

また、ロジカルであることも大事ですが、批判的思考(クリティカルシンキング)も忘れてはならないと実感しつつ、やっぱり裁判員のような役割は荷が重すぎて、避けられるものならば全力で避けて通りたいと、極めて日本人らしい私自身は思ったのでした。