映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

万引きしない家族

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パラサイト 半地下の家族

 映画情報

  • 原題:Parasite
  • 公開年度:2019年
  • 制作国・地域:韓国
  • 上映時間:132分
  • 監督:ポン・ジュノ
  • 出演:チェ・ウシク、パク・ソダム、チョ・ヨジョン、ソン・ガンホ 

 

だいたいこんな話(作品概要)

窓からは通行人の足元ばかり見えるような、半地下の住宅で暮らすキム家。息子ギウは何度も大学受験に失敗し、娘ギジョンも美大への進学はあきらめ、ハンマー投げのメダリストだった母はその実績も生かせず、計画性のない父親を筆頭に家族全員が無職で貧困に喘いでいた。

ある時、ギウの友人が家庭教師のアルバイトを紹介してくれた。その生徒の父親はIT企業の社長のパク。かなり裕福で高台の高級住宅地に住んでいた。ギウは自らが大学生であるかのように書類を偽装し、見事に面接に合格した。さらに生徒と母親からも信頼を勝ち得たギウは、パク家の下の子の美術教師に、自分の妹ギジュンを赤の他人のふりをして推薦する。

同じような手口で、無職だったキム家は全員がパク家の運転手や家政婦として仕事を得たのだが。第72回カンヌ国際映画祭パルム・ドール(最高賞)受賞作品。

 

わたくし的見解/格差に寄生する

近ごろ流行りの「格差社会を鋭く斬る」タイプの映画です。昨年、当たりに当たった「ジョーカー」のような重苦しさはなく、皮肉がユーモアとしてきちんと機能したコメディになっています。正確には悲喜劇ですが、上映中は観客からしっかり笑いを取っていました。

本作と同様に、カンヌ映画祭で近年高い評価を得た「万引き家族」と比べても、大変わかりやすくシンプルで面白いです。貧乏一家が、様々な嘘を用いて金持ちファミリーのセレブな暮らしのご相伴に預かろうとする流れの中、王道パターンとして偽りの素性が明らかにならないようにドタバタ劇が繰り広げられますが、その様子は秀逸。

リアリズムを極めた「万引き家族」のそれと違い、あえて寓話的に、まるで絵本のワンシーンのように描かれたクライマックスシーンは「『パラサイト』観たよ」と言う人と是非とも語り合いたい。それをおかずにすれば白飯はお代わり必至、アテにしたならお酒も大いに進むでしょう。

リリー・フランキー(「万引き家族」の父役)の表情も絶妙な抜け感と雰囲気がありますが、本作のソン・ガンホの顔はさらにその上をいく味わいで、ポン・ジュノ監督が彼を使い続ける理由に納得しきりです。ソン・ガンホの存在によって物語は深刻になり過ぎずエンタメ性が保たれ、それでいてシリアスさもしっかり発揮できる稀有な俳優です。

おまけに「パラサイト」には、貧乏なパク家の妻や元々キム家に仕えていた家政婦など、ソン・ガンホと並ぶ座りのいい顔立ちが充実しており、冗談みたいに容姿端麗なキム夫妻との明確な(身分? 環境? あるいは立場? の)違いを見せつけます。

そのように外見は対照的な富裕層と貧困層の面々ですが(ただし若者は例外)、この作品の素晴らしさは、その二つを善玉と悪玉に分けて単純な勧善懲悪に集約させないところです。

終盤、まさか金持ちだけ悪者にして終わるのか?! と不安がよぎりましたが、展開として不可避な対立構造が生まれても、特にどちらか一方を断罪して終わらず、だからこそ生まれるやるせなさを見せるあたりが乙でした。

お金持ちも貧乏人も、どちらも聖人君子ではないものの、かと言って悪人でもありません。実際に、それほど互いが激しく忌み嫌いあっている訳でもない。けれども如何ともし難い、この隔たりは何なのか。この目に見えない怪物を可視化しようとする試みとして、本作のような映画があるのかも知れません。

人々が実は知っているのだけれど気づかないふりをしている、格差という問題について、目を背けさせまいとする一連の動き(このような作品への評価の高まり)は、果たして功を奏するのでしょうか。場合によっては、さらに格差を助長し分断を決定的にする可能性も秘めた、諸刃の剣であるように私は感じています。

 

現代版「クレイマー、クレイマー」

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マリッジ・ストーリー

 映画情報

 

だいたいこんな話(作品概要)

ニューヨークのオフブロードウェイで、一目置かれる存在の舞台監督チャーリーと常にその舞台の主演女優をつとめるニコールは十年来連れ添った夫婦。

チャーリーの劇団は初めのうちは、かつて映画に少し出演した経歴があるニコールの知名度で観客を集めていたが、現在では作品自体が評価されるようになり芸術文化を推進する助成金の対象にも選ばれるほどだ。いわば二人三脚で劇団を大成させたと夫婦は互いに感謝し評価し合っている。

二人には8歳になる息子ヘンリーがいて、チャーリーもニコールも子煩悩で家族仲は良い。にもかかわらず、夫婦間の些細なすれ違いから離婚を決めた。

当初は二人とも弁護士を立てる必要はまったくないと考え、円満に協議離婚が進むはずだった。ところがニコールがロスでの仕事を決めて、チャーリーを連れてニューヨークを離れたところから話がこじれ始め、離婚は高額の報酬を受け取る離婚弁護士をはさんだ醜い戦いに変わってしまう。

Netflix(ネットフリックス)配信作品。

 

わたくし的見解/輝きたい女と男の無頓着

前回は45年の夫婦生活が6日間で終焉してしまう話をご紹介したが、今回は結婚10年の男女が離婚する物語。ありがたいことに主演の二人は、まだまだセクシーだし夫婦の子供は可愛いしで、本作は大いに共感を得られそう。大変お勧めしやすい作品と言える。

現代版「クレイマー、クレイマー」と銘打ったのは、別れた(あるいは別れようとしている)夫婦が、それぞれ子供との暮らしのために不本意ながら裁判で争う羽目になる点が似ていたからだ。

1973年の映画「クレイマー、クレイマー」は、仕事人間で家庭を顧みなかった男が突然、妻に出て行かれてしまうところから始まる。妻は自らの人生を取り戻したいからと、幼い息子を残していった。

男は仕事と子育ての両立に七転八倒する日々の中で、それまでは多忙で距離のあった子供との絆は深まるが、仕事は疎かになり会社を解雇されてしまう。よりによって、そのタイミングで親権を放棄したはずの妻が、やはり子供と暮らしたいと訴訟を起こす。男は無職のままでは親権を得られないため必死に就職活動をするが、というような流れで一貫して夫目線で描かれる。

さらに主演はヒューマニズムの塊みたいなダスティン・ホフマンで、対して終盤にやっと顔を出す妻は薄ぅーい顔のクール・ビューティー若き日のメリル・ストリープなので、いかにも母性とか情とか希薄そうに見え、性別を問わず夫に肩入れして観てしまう映画かと思う。

その点は本作とは重ならず、「マリッジ・ストーリー」では夫と妻それぞれの視点や言い分について、かなりフェアな描かれ方をしていた。夫は舞台監督の仕事に情熱を傾けているが、同時に素晴らしい家庭人であり良き父親だ。

妻も「クレイマー、クレイマー」と同様に、自分のやりたい事のために離婚に踏み切るが、どの段階においても子供と離れて暮らす選択は一度もしていない。夫婦で互いに、その父親ぶり母親ぶりを賞賛している。

それなのに相手を尊重し評価する言動までもが離婚弁護士たちによって、それぞれを攻撃し傷つける事実として、裁判に利用されてしまう痛々しさが「クレイマー、クレイマー」を彷彿とさせた。親心を逆手にとった、えげつない離婚ビジネスである。

そのくだりとは対照的に、全体的にはとても明るく楽しい作品だ。家族っていいな、親子っていいな、人間っていいなと歌いたくるほど微笑ましいシーンの連続で、果たしてこの二人は何で離婚せなアカンのやろうと、最初から最後まで疑問に思っていた。

映画の中でも離婚を踏みとどまるタイミングが幾らでもあったのだが、今さら引っ込みがつかない、もう引き返せないというのも案外リアルなのかも知れない。覆水は盆に返せないものだ。

泥沼の裁判になる前、夫側についた勝ち負けよりも子供との人生を重んじる老齢の弁護士が「(親権、養育費の比率、共有財産の分配が)どのような結果になっても離婚後は、二人で協力してやっていかなければいけない」と嚙んで含めるように言い聞かせていたのが印象的だった。実際にそれはラストへの布石でもあったし、離婚する夫婦を描いているのに「マリッジ・ストーリー」とした所以のようにも感じた。

最後になったが主演の二人は最高だった。アダム・ドライバースカーレット・ヨハンソンも色っぽいと言うか、ある意味かなり眠たくなるリラックス効果抜群の声の持ち主なので、2時間半もある作品をうとうとせずに鑑賞できるか自信がなかった。しかしそんな心配はどこ吹く風、無駄に思える場面はなくテンポも軽妙で、かなり長回しの夫婦喧嘩もさらりと見事に演じきっていた。

アダム・ドライバーは「スター・ウォーズ」で、アホみたいなキャラクター(しかし大役)を演じているが、本作のようなドラマでの姿が真骨頂だと思う。スカーレット・ヨハンソンも外見は久しぶりにあどけない印象を与えながら、母性豊かな大人のキャラクターを確立していた。

続編は絶対に作らないで欲しいが、物語の二人には何とか復縁してもらいたいと切に願ってしまう、そんな作品だった。

 

 

「たられば」の呪い

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さざなみ

 映画情報

 

ほぼネタバレのあらすじ(作品概要)

イギリスの郊外で、リタイア後の人生を穏やかに送るケイトとジェフ夫妻は、週末に結婚45周年の記念パーティーを控えていた。月曜日の朝、ケイトは日課である愛犬との散歩から戻り、届いていた一通の手紙を夫のジェフに手渡した。

朝食の席で、開封した手紙の内容に動揺を隠しきれないジェフ。そこには山岳事故で亡くなったジェフのかつての恋人が、クレバスの中で当時の姿のまま凍結された状態で見つかったことが記されていた。

そのような手紙が、わざわざスイスからジェフの元に届いた理由は、当時の宿帳に配偶者として記録が残っていたためだった。ジェフは未婚の男女が一緒に宿泊できるような時代ではなかったからだと説明し、ケイトも結婚前の、さらに知り合う前の恋愛だからと軽く受け流していた。

しかしジェフはその日を境に、これまでと違う行動を取り始めた。普段は外出したがらないのに街まで出掛けたり、長年の禁煙もまるでなかったことのように煙草に火をつけ、屋根裏部屋で思い出の品に浸る。

初めは気にも止めなかったようなジェフの恋人の話の中に、ケイトは少しずつ引っかかりを感じるようになる。一度芽生えた不信感は日を追うごとに膨らみ、屋根裏で見つけたスライド写真によってジェフの恋人が当時妊娠していたことを知ったケイトの心の波紋は、もはや「さざなみ」にはとどまらず何かが決壊した。

金曜日、一人で黙って外出したジェフを追いかけて探し回るケイト。街でジェフを見つけることは出来なかったが、旅行代理店で彼がスイス旅行を考えていたことを知る。その夜、帰宅したジェフにケイトは不満をぶつけ、今はただ土曜日のパーティーだけ何事もなかったようにやり遂げたいと告げる。

そして、土曜日。ジェフはケイトよりも早く起きて朝食を用意し、一緒に犬の散歩に行こうと誘う。その夜のパーティーには多くの友人が集まり盛況の中、スピーチを求められたジェフはケイトへの感謝を涙ながらに述べるのだが。

 

わたくし的見解/さざなみどころやおまへん

かなりよく出来た心理劇であるため強くお勧めしたいのだが、同時に勧められる対象が極めて少ないことに参っちんぐ。身も蓋もない言い方をすると、永遠に若い女への嫉妬から逃れられない、老齢のシャーロット・ランプリングを眺める映画なので、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

そんな年齢になってまでジェラシーとかあるのかよ。とか、なんでこんなシニアのセックス・ライフを見せられるさ。とか、そもそもジジイとババアが何しようが知ったことか。みたいな心ない声がバンバン聞こえてきそうで怖い。

私だって「君の名は。」はそれなりに楽しんで鑑賞したものの、今まだ上映されている「天気の子」を観ようというモチベーションはないのだから、それも仕方がない。この年になってしまうと、若年層の惚れた腫れたに興味が示せないように、若者だって大人の男女の愛などには関心を持てなくて当然だと思う。その上、この作品は人生の締めくくりが視野に入っている夫婦の物語なのだから、若者はおろか30代のいい大人にさえ何が面白いのか分からないと言われる可能性も大きい。

でも、本当に良い。台詞で高らかに想いを述べる舞台演劇とも違って、まさに繊細な心の機微を表情から読み取れるところは映像作品ならでは。妻ケイトを演じるシャーロット・ランプリングの三白眼は本作でも輝きを放っているが、何気に夫側の演技も白眉だ。

しっかり者の妻に対して、夫のジェフは手紙の中身を知るまでは、どちらかと言えば呆け切ったご老体でしかなかった。そんな人が、50年近く前の恋人が若き日の姿のまま凍結されていると知っただけで、冗談みたいに気持ちだけ当時に戻ってしまう。その感覚と自身の現在の姿とのギャップを感じながら、それでも思いを馳せずにはいられない。

冷静に考えてみれば当然の反応だし「許してやったら? おばあちゃん」と自分が娘や孫の立場なら言ってしまいそうだが、妻の気持ちも分からなくもない。自分はこの何十年もの間、その恋人の代替品でしかなかったかも知れない。という疑念は生まれたが最後、決して拭い去ることは出来ない。夫婦に子供がいなかったこともケイトの心を深くさいなむ。

観る側にとっては、夫がかつての恋人を雪山登山で殺したのかと勘ぐってしまうほど、静かながらスリリングに展開していく。淡々と同じような一日のルーティンを月曜から週末のパーティーまで描いていく中で、邦題のとおり小さなさざなみ程度だったはずの動揺が、日増しに大きな波風として立っていく様は見事だ。

ふと、タル・ベーラ監督の「ニーチェの馬」というアート映画を思い出した。馬の飼い主である老いた男とその娘の質素な暮らしだけが映し出され、6日間で世界あるいは命の火が消える。

「さざなみ」も月曜日から土曜日までの、たった6日間で45年に及ぶ結婚生活が終焉する。神話や聖書になぞらえているからだが、どちらでも描かれていない7日目には新たなものが生まれるはずだ。そう思わなければ、やりきれない程のバッド・エンディングであることも、勧める当てが見つけづらい理由の一つである。

 

 

笑えない喜劇

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ジョーカー

 映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

バットマン」に登場する、スーパーヴィラン(悪役)ジョーカーが誕生するまでを描いた作品だが、近年の「バットマン」関連映画からは独立しており、原作のDCコミックスにもない、オリジナルストーリーで展開される。

コメディアンに憧れるアーサー・フレックは、独自のジョークをノートに書き留めながら、普段は道化師として生計を立てている。安アパートで、介助が必要な母と二人暮らし。自身も精神的な疾患を持つなかで、生活はギリギリのところにあった。

ピエロの姿でサンドウィッチマンとして街角に立った際、不良少年のグループから暴行を受けたアーサーを憐れみ、同僚が拳銃を渡したことから運命の歯車が狂い始めるのだが。

第76回ヴェネツィア国際映画祭、金獅子賞(最優秀作品賞)受賞作品

 

わたくし的見解/正しい資本主義を求める寓話

評判どおりの陰惨な物語である。しかも、終始徹底しているのだから、観ている方は何ら楽しくない。このような場合は大抵、賛否が割れるのだが意外にも興業収入は伸び続けているし、おしなべて高評価であるのは良くも悪くも興味深い現象だ。

実際に評価すべき点は多く、気持ちが晴れることはない展開の連続であっても一切退屈はしない。ホアキン・フェニックスについては完璧と言って良い。そもそも彼がジョーカーを演じる、その一点だけで劇場鑑賞を決めていたのだが、ほんの少しでも期待が裏切られることはなかった。

彼がアーサー・フレックという良心に満ちた社会的弱者から、凶悪なジョーカーに変貌するまでを観るだけで見事に成立している。作品全体もそれを余すところなく映し出しており、編集が素晴らしいのか、絵コンテの完成度が高いのか、いずれのシーンも一貫して構図が決まっていた点が私には響いた。決まり過ぎてプロモーションビデオのようでもあった。

アーサーは、本人の意図に反して笑い出して止まらなくなる精神的な障害(自身の説明では脳や神経に欠陥があることが原因)を抱えている。その部分の演技だけで秀逸なのだ。周囲に不快感さえ与えるその高笑いは、発作と呼ぶ方がふさわしいこと、その最中アーサー自身の心はまったく笑っていないことが、見事に伝わってくる。

竹中直人氏の「笑いながら怒る人」もチャレンジしてみると案外難しいのに、この症状の設定「笑いながら心はいつも泣いている」は「ガラスの仮面」で月影先生からヒロインに与えられる課題並みに難しい。けれどもホアキンは、まるで本来そうであるかのようにやってのける。もし月影先生に見せたなら、白目をむいて「おそろしい子」と呟くだろう。

ただ、いくらかの否定的な評価に見られるように、内容が弱い点は否めない。ジョーカーは悪党からさえ関わりたくないと明言される、狂犬のような男だ。そんな人物を誕生させるために本作では、これでもかという程の不幸が彼に振りかかるのだが、あまりにもステレオタイプ過ぎる気がして、鑑賞中から心に引っ掛かっていた。

人は理解できないものに対して本能的に、理解できる範囲に当てはめようとする。しかも、かなり強引に。分からない状態は恐怖とほど近いので、分かることに置き換え、一刻も早く不安を消し去りたいからだ。この作品は、そのような私達のいたってノーマルな精神構造に合わせてしまっている。ジョーカーの常軌を逸した行動の数々(本作では描かれていない、その後のジョーカーの姿)に、無理やり理解を示そうとしているようで居心地が悪い。

ジョーカーが悪の権化で、恐怖と混沌をもたらすものと仮定するならば、不幸な生い立ちが彼を狂わせた、などでは納得できない。「こんなに辛い目に遭ったのなら、ああなってしまうのも分かる気がする」なんて、そんなありきたりで良いのだろうか。理解の範疇を超えているから、このキャラクターはヒーローと対をなす存在になったのではないのか。

けれども、ホアキン・フェニックスの演技ばかりに寄っていた映像から、あえて離れて作品全体を俯瞰で捉えてみると少し印象が変わってくる。

舞台である架空の都市ゴッザムシティは明らかに、かつての荒みきっていたニューヨークをモデルにしている。その治安の悪さは世界中に知れ渡っており、本作に見られるような事件のほとんどは、70年代80年代のニューヨークで実際に起きていたことと大差はない。

アーサーは、ゴッサムシティで生まれ育った。もしジョーカーを一人のイカれた犯罪者ではなく街そのもの、そこに蔓延する病いの象徴なのだとすれば、貧困と負の連鎖、富める者の無関心による分断がそれを生み出したという流れは、決して安直なものではなくなる。

この物語はジョーカーの誕生秘話と銘打ちながら、ゴッサムシティの混乱と無秩序が臨界点に達した瞬間を描いている。そして、そうなるとアーサーはますます悲しきピエロだと言える。オープニングで道化師のメイクを施しながら涙を流し、クライマックスに自らの血で笑顔を描く姿が印象的だ。

ところで、ゴッサムシティのような分断は現実においても危険だ。持たざる者にルサンチマンを植え付けてしまうと確実に治安は悪化し、富を持つ者たちの暮らしも脅かされ、結局誰も幸せにならない。

バットマン」という物語は必ずここ(超絶リッチなブルース・ウェインが、弱者を救うシステムさえ機能していない腐敗しきったゴッサムシティのために立ち上がるところ)から始まるから面白い。幾ら裕福でも絶対的な安全は手に入らない。だから、富は再分配するべきで、それは結局「情けは人の為ならず」へと繋がる。ある意味、そんな寓話なのだ。

本作が富める者ではなく、それを持たざる者からの欝屈した視点で語られた点では「バットマン」の冠を掲げず「ジョーカー」としたことに納得しきりだ。そして確かに、バットマンが闘うべき悪しきもの、ゴッサムシティの暗黒面は、このようにして生まれたと言えるに違いない。

 

 

悪という重力に抗う

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ダークナイト

 映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

クリストファー・ノーラン監督が手掛けた「バットマン」の「ダークナイト」シリーズ2作目にあたる。同シリーズの前作、ブルース・ウェインバットマンになるまでを描いた「ダークナイトビギニング」と、最終章の「ダークナイトライジング」の間に配置されているものの、タイトルからも分かるようにシリーズを象徴した中核を担う作品。バットマンが暗黒の騎士、ダークナイトと呼ばれるに至った経緯が明かされる。

宿敵ジョーカーとの対決や、バットマンの正体を知る数少ない存在でもある幼馴染のレイチェルとの恋の行方。そして、バットマンのファンにとってはジョーカー同様に人気の高いヴィラントゥーフェイスの登場など盛り沢山な内容に加え、2000年代の映画の中でもトップ10に入る人気作品。

 

わたくし的見解/「トロッコ問題」子供に出すなら、掃除当番とかに置き換えるべき

現在公開中の「ジョーカー」とは、原作を同じにしているだけで関連性はないのですが、やはりジョーカーと言えば「ダークナイト」のヒース・レジャーの印象は強烈でした。

ティム・バートン監督によるシリーズでは、あのモンスター俳優ジャック・ニコルソンが演じ、近年ならば「スーサイド・スクワッド」のジャレッド・レトも悪くなかったのですが、遺作であるという贔屓目を取っ払っても「ダークナイト」のジョーカーは特別な存在として多くの人の記憶に刻まれています。そもそも物語自体が、バットマン以上にジョーカーのためにあるようなものでした。

アメリカン・コミック原作の映画とは思えない程、重厚なテーマを扱っている点でも異彩を放っていました。ここでのジョーカーは、実に純化された悪として登場します。銀行強盗のシーンから始まってはいるものの、金などには目もくれず、人々に恐怖を与えることで狂気を生み出し、混乱(カオス)に陥れることを目的に生きている、政治思想などもまるで持たない生粋のテロリストなのです。

治安の悪さに拍車をかけて、警察組織や司法に至るまで汚職まみれのゴッサム・シティにおいて、一縷の希望として登場した正義の検事、ハービー・デントまで悪に染めてしまうなど、実はジョーカーによって何手も先の展開が用意されていたことに痺れた観客も多いことでしょう。特に「トロッコ問題」を持ち出し、人の良心に揺さぶりをかける卑劣なやり口は、言葉たくみに信仰を棄てさせようとする悪魔の如しです。

「トロッコ問題」とは簡単に言うと、一人の命を救うために複数の命を犠牲にするか、あるいは複数のために一人を死なせるか、などを問う思考実験です。当然、理想を言えば全員を助ける解決法を模索するべきですが、(例え話ではなく現実ならば一層)大抵の場合、タイムリミットが存在し選択肢は極端に限られてしまいます。

作品においては(いくつかそれが出題されていましたが)最も分かりやすかったものとして、二隻のフェリーのいずれかを爆破すれば片方は助かるというものです。この場合、乗客の人数に大差はなく代わりに片方には一般市民が、もう一方には囚人が乗せられていて、船長の手元には自分達の乗っていない方のフェリーを爆破するスイッチが渡されているのでした。

ジョーカーは「自らが生き延びるために他者の命を奪わせること」を映画の冒頭から行っており、この一貫性にも憎らしい以上に鮮やかさを感じてしまいます。ジョーカーが、と言うよりも脚本の緻密さに感心せずにいられません。

しかし、そのようなアメコミ作品らしからぬシリアスな作風ばかりが取り沙汰されがちですが、実は超絶楽しい映画だったりします。

残念ながら「007」の新シリーズには参加出来なかったクリストファー・ノーラン監督ですが、スパイ映画への意欲は本物らしく(事実、次回作はスパイもの)そう思って見ると「ダークナイト」前半のバットマンは「ミッション・インポッシブル」のイーサン・ハントと見紛うド派手なアクションを展開。

さらに、終盤で見られるジョーカーによるナースのコスプレは、ヒース・レジャーが他界さえしなければ、おそらく「サタデー・ナイト・ライブ」を筆頭にあらゆるところでパロディされたであろう、映画史上に残る名シーンだと(かなり個人的に)位置づけています。

突き抜けたクールな悪党ぶりに、皆が心酔してしまうヒールというのはいるもので、たとえ看護婦の格好やスキップなどで滑稽に見せても、ジョーカーはまさにそういった存在でした。本作では、すっかり性格の良いシュナウザー(犬)みたいな顔をして、角の取れた演技をしているゲイリー・オールドマンも、かつては「レオン」で悪徳警官を演じ、そのキャラクターは凶悪であるのに憧れの的でもありました。

そのような事に思いを馳せるとヒース・レジャーにも、ジャック・ニコルソンゲイリー・オールドマンのように若い頃はキレッキレの演技でインパクトを残し、年齢を重ねてからまったく違う魅力を発揮して欲しかったと改めて惜しく感じます。

とは言え、将来有望な俳優の死とセットになってしまった「ダークナイト」も、そのショックから幾らか解放された今、再び鑑賞してみると人気の具材全部のせのスペシャル丼のごとく、エンターテインメントを極めた作品だったのだと認識できました。

 

 

リアルがちのスローライフ

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WOOD JOB!~神去なあなあ日常

 映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

大学受験に失敗した平野勇気は、付き合っていたガールフレンドにも振られてしまう。浪人する根気もなく適当に選んだ職業案内のパンフレットに心奪われ、実家を離れて林業の研修プログラムに参加する決意をした。そこに写っていた綺麗な女性と同じ職場で働けるのでは、と期待したのだ。

ところが、都会で育った勇気には山奥での不便な暮らしと林業の重労働は想像を絶するもので、研修中にこっそり逃げ出そうとする。その時、勇気は憧れていたパンフレットの女性と偶然対面できたのだが。

「なあなあ」とは、物語の舞台である三重県の神去(かむさり)地区で、ゆっくりのんびりいこう、小さなことにくよくよするな、などを意味する方言。

 

わたくし的見解/

かつて、仕事をしながらも熱心に英会話教室に通っていた友人に言わせると、「やっぱ語学の上達には下心が必要」らしい。日本人にありがちな、外国人に直面して臆してしまうような事はレッスンで場数を重ねるうちに克服できた。

さらに、その友人はもともと語学センスがない方ではないし、いかにもな欧米人のノリの良さにも対応できるタイプでもあった。そのため、これ以上のレベルを目指すには「もう特定の外国人の異性を好きになる他ない」との結論に至った。

「下心が必要」とすると極端に聞こえるが、要するにお尻に火が付く切迫した状況を作るには最も現実的で手っ取り早いという話。たとえば、英語しか通じない異国に一人放り込まれて長期間生活することを強いられる(ワーキングホリデーなどは不可。つい同じ境遇の人とつるんでしまうから)とか、突然日本語のまったく分からない欧米人が上司になる、などでも確実に上達するだろう。

ただ、そのような機会はなかなか得られないのに対して「好きになる」は、渡航しなくても外資系に転職しなくても手に入りそうなシチュエーションである。しかも追い込まれて苦しみながら学ぶのではなく、相手をもっと知りたい、より円滑にコミュニケーションを取りたい(口喧嘩できるくらいになりたい)など自発的で前向きなモチベーションが保てる効果もある。

なぜ、日本の林業を取り上げた映画なのに語学習得の秘策について語っているのか。

本作は矢口監督らしく、コミカルな作風ながらも厳しい現実もきちんと織り交ぜた、実に誠実な作品だ。その中で、間違いなくキツい林業の仕事に若者を取り込む突破口として「下心」を配した点に、感銘を受けたことが前置きの長さに繋がっている。そんなバカな! と思っても、下心の持つ原動力は侮れないよな、と妙に納得してしまったのだ。

いくら高校を出たてでウブだからと言って今時の子が、パンフレットに自分好みの美人が写っていたくらいで、よく知りもしない林業に従事してみようなどと思う訳はないのだが、まかり間違って思ってくれる人がいるから自衛隊にしろ業界各種にしろポスターなどには麗しい容貌の人を使っているに違いない。(もちろん、こんな素敵な異性と出会えるかも、ではなく自分もこんな爽やか男子や素敵女子になれるやも、という幻想を抱かせる目的もあるだろう)

とは言え、この導入部分には多少無理を感じなくもない。案の定、原作小説ではパンフレットのくだりはないようで(ただし、ある女性への下心ならぬ恋心は原作でも重要)映画として序盤で、観客を掴むための苦肉の策と言える。矢口監督のヒット作「ウォーターボーイズ」でも、廃部寸前の水泳部に転任したての若くて魅力的な女性教師が顧問になった途端、男子部員が30人増えるところから始まるので、それにあやかったのかも知れない。

映画全体にも同様の無理は垣間見える。動機の不純な高卒男子に1年の研修期間で、100年先を見据える林業の魅力が伝わったことを、たった2時間で描こうとすると、どうしても駆け足になってしまう。おそらく悠久の時を刻む山での暮らしぶりや、サブタイトルにある「なあなあ」をしっかり味わうには、三浦しをんさんの原作を読むに限るのだろう。

その代わり、この「WOOD JOB!」では監督のもう一つの代表作「ハッピーフライト」のように専門職の悲喜こもごもを愉快に紹介してくれる。田舎暮らしの良し悪しについてもフランクに知ることができる。さらに、良いところばかりを見せない姿勢に好感が持てる。(コンビニがなく携帯が繋がらないなどの表面的な部分だけでなく、コミュニティーとして閉鎖的な部分があることなど)

私が普段は積極的に鑑賞することのない、幅広い年齢層が楽しめる良作である(矢口監督の作品はいつもそうだ)。では、なぜ今回これに興味を抱いたのかと言うと、減少し続ける林業従事者に若年層を取り込むにはどうすれば良いか?と子供らに問う機会があったからだ。

子供達に考えさせておいて自分はノープランと言うわけにはいかない。自分の子供が相手ではないだけに、適当に煙に巻いて終わることも出来ない。何かヒントになればと思って鑑賞してみたものの、大人相手ならまだしも子供に向かって「やっぱ下心よ」などでは模範解答になるはずもなく、結局のところ困り果てている。人手不足は林業に限らないから難しい。

さて、冒頭で登場した友人とは別の友人に言わせると、ある程度までは下心で語学の上達は見込めるが、付き合いが長くなると会話のパターンが決まってきて伸び悩む時が来るらしい。日本人同士でも長く一緒にいればそうなるのだから当然かも知れない。また、そうなる(つうかあの仲になる)からリラックスした親しい関係だと言えるのだが。

それでも下心の持つ瞬発力や機動力は、さまざまな分野で役に立ちそうだ。長期的ビジョンについては、また改めて考えることにしよう。ひとまず「なあなあやで」ということでお開きに。

 

シネフィルの原風景

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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

 

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台は1969年のロサンゼルス、ハリウッド。かつて幾つものヒット作品に主演したTV西部劇のスター、リック・ダルトンは映画俳優への転向に失敗し行き詰まっていた。クリフ・ブースは長年リックのスタントを務め、私生活でも運転手と雑用を請け負っている。

古巣のTVドラマでは、すでに若手俳優に主演の座は奪われてしまった。全盛期を過ぎた現実に苛まれ些細なことで泣いてばかりのリックに対し、トレーラーハウスで愛犬と暮らすクリフはいつも穏やかで落ち着いている。そんな二人はビジネスパートナーである以上に無二の親友でもあった。

落ち目とは言えリックがハリウッドの高級住宅地で暮らしていると、隣家に映画監督のロマン・ポランスキーと、その若く美しい妻であり女優のシャロン・テートが越してきた。彼らは、旬を過ぎた中年俳優とは対照的な輝かしい新時代の寵児たちだった。まさにハリウッドの明暗が凝縮されたその場所で、実際に起きた殺人事件を下敷きにして描かれる、タランティーノ渾身の意欲作。

 

わたくし的見解/

1969年は主人公たちの人生だけでなく、世の中の流れ、アメリカの価値観そのものに変化が起きていた。ベトナム戦争が長期化するにつれ、街には「Love & Peace」を声高に叫ぶヒッピーが溢れていった。

映画の中でも、この時代の風景とでも言うようにそんな若者達が登場し、いつの間にか物語の中心に躍り出てくる。それまでのキラキラしていた古き良きアメリカにベトナム戦争のリアルは暗い影を落とし、平和主義=反体制のようなムーブメントが起きたことは自然なのだが、いかなる場合も集団が大きくなるとほころびが生まれてくる。

ヒッピー達は反キリスト教であったり、インド哲学にかぶれたり自然主義を謳ったり様々なコミューン(集団)を作っていて、中には過激な反体制を掲げる者たちもいた。思想は自由なのだから反体制でも別に構わないのだが、「戦争反対」「Love & Peace」と主張する割には暴力的な行為をする輩もいた。

最終的には思想も何もどこかに置いてけぼりで、取り憑かれたように破壊行動に没頭するカルト集団が出てきた。チャールズ・マンソン率いるマンソン・ファミリーだ。

この映画は、彼らが引き起こした「シャロン・テート殺害事件」をモチーフにしている。シャロンは当時妊娠中であったことや、彼女の家の前の住人が本来のターゲットであったことなどから、事件の悲劇性は群を抜いている。これは「あの出来事」だと分かって観るのとそうでないのとでは、作品の印象が全く変わってしまう。

ディカプリオ演じる、かつてのTVスターがプレッシャーに押し潰されそうになりながら七転八倒する姿さえコミカルに写し、160分の長尺の間ハンサムなオッサン二人が、男の友情よろしく楽しそうにダラダラだらだら呑んで過ごす様子を見せ続ける理由がきちんとある。

また、現在最もホットな存在と呼べるマーゴット・ロビーを配し、件のシャロン・テートをただただ無邪気で屈託なくチャーミングな女性として描いているのも同じ理由だ。

世界屈指の映画オタクであるタランティーノにとって、この時代は原風景であり特別なものだと想像する。映画業界も世相同様に転換期にあり、大きな制作会社による作品に陰りが見え活路を見出せずにいた。ニューシネマの到来である。そして、そんな中で起きたこの事件は幼少期のタラちゃんの心に人生初と言えるほどの衝撃を与えただろう。

事件を知らずに作品を観ると、映画のラストは取って付けたようにタランティーノの面目躍如である、悪ノリの過ぎるバイオレンスシーンが訪れる。しかし実は、このために冗長にひたすら何も起きない物語を紡いできたのだ。

出産を控えた美しい上に気取りのない、殺される必要など何一つない女性を襲った連中を返り討ちにするために。カルト集団の輩をメッタメタのギッタギタにやっつけ、さらにカリッカリのクリスプ状になるまで丸焼きにするために。

タランティーノは、いつも作品に大好きなものをギュウギュウに詰め込む。過去の人になったリックも、次世代のスター達が子供の頃に夢中になって見ていた紛れもないヒーローであり憧れだったのだ。タラちゃんには、そんな存在が幾らでもいるに違いない。本作では時代を切り口に宝物を凝縮し、積年の恨みを晴らし敵討ちまで果たした。

私は10代の頃に観た「パルプ・フィクション」の熱狂(劇場で得た興奮とサントラをCDなのに擦り切れるまで聴いていたこと)が、その後の映画人生を大きく変えた。

タラちゃんの69年への想い同様に、私にとっては90年代とタランティーノの登場は特別なものだった。そんなことを考えていたら、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は時間が経つほどに、じんわりとしみじみ沁みてきてしまう作品になった。