映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

笑えない喜劇

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ジョーカー

 映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

バットマン」に登場する、スーパーヴィラン(悪役)ジョーカーが誕生するまでを描いた作品だが、近年の「バットマン」関連映画からは独立しており、原作のDCコミックスにもない、オリジナルストーリーで展開される。

コメディアンに憧れるアーサー・フレックは、独自のジョークをノートに書き留めながら、普段は道化師として生計を立てている。安アパートで、介助が必要な母と二人暮らし。自身も精神的な疾患を持つなかで、生活はギリギリのところにあった。

ピエロの姿でサンドウィッチマンとして街角に立った際、不良少年のグループから暴行を受けたアーサーを憐れみ、同僚が拳銃を渡したことから運命の歯車が狂い始めるのだが。

第76回ヴェネツィア国際映画祭、金獅子賞(最優秀作品賞)受賞作品

 

わたくし的見解/正しい資本主義を求める寓話

評判どおりの陰惨な物語である。しかも、終始徹底しているのだから、観ている方は何ら楽しくない。このような場合は大抵、賛否が割れるのだが意外にも興業収入は伸び続けているし、おしなべて高評価であるのは良くも悪くも興味深い現象だ。

実際に評価すべき点は多く、気持ちが晴れることはない展開の連続であっても一切退屈はしない。ホアキン・フェニックスについては完璧と言って良い。そもそも彼がジョーカーを演じる、その一点だけで劇場鑑賞を決めていたのだが、ほんの少しでも期待が裏切られることはなかった。

彼がアーサー・フレックという良心に満ちた社会的弱者から、凶悪なジョーカーに変貌するまでを観るだけで見事に成立している。作品全体もそれを余すところなく映し出しており、編集が素晴らしいのか、絵コンテの完成度が高いのか、いずれのシーンも一貫して構図が決まっていた点が私には響いた。決まり過ぎてプロモーションビデオのようでもあった。

アーサーは、本人の意図に反して笑い出して止まらなくなる精神的な障害(自身の説明では脳や神経に欠陥があることが原因)を抱えている。その部分の演技だけで秀逸なのだ。周囲に不快感さえ与えるその高笑いは、発作と呼ぶ方がふさわしいこと、その最中アーサー自身の心はまったく笑っていないことが、見事に伝わってくる。

竹中直人氏の「笑いながら怒る人」もチャレンジしてみると案外難しいのに、この症状の設定「笑いながら心はいつも泣いている」は「ガラスの仮面」で月影先生からヒロインに与えられる課題並みに難しい。けれどもホアキンは、まるで本来そうであるかのようにやってのける。もし月影先生に見せたなら、白目をむいて「おそろしい子」と呟くだろう。

ただ、いくらかの否定的な評価に見られるように、内容が弱い点は否めない。ジョーカーは悪党からさえ関わりたくないと明言される、狂犬のような男だ。そんな人物を誕生させるために本作では、これでもかという程の不幸が彼に振りかかるのだが、あまりにもステレオタイプ過ぎる気がして、鑑賞中から心に引っ掛かっていた。

人は理解できないものに対して本能的に、理解できる範囲に当てはめようとする。しかも、かなり強引に。分からない状態は恐怖とほど近いので、分かることに置き換え、一刻も早く不安を消し去りたいからだ。この作品は、そのような私達のいたってノーマルな精神構造に合わせてしまっている。ジョーカーの常軌を逸した行動の数々(本作では描かれていない、その後のジョーカーの姿)に、無理やり理解を示そうとしているようで居心地が悪い。

ジョーカーが悪の権化で、恐怖と混沌をもたらすものと仮定するならば、不幸な生い立ちが彼を狂わせた、などでは納得できない。「こんなに辛い目に遭ったのなら、ああなってしまうのも分かる気がする」なんて、そんなありきたりで良いのだろうか。理解の範疇を超えているから、このキャラクターはヒーローと対をなす存在になったのではないのか。

けれども、ホアキン・フェニックスの演技ばかりに寄っていた映像から、あえて離れて作品全体を俯瞰で捉えてみると少し印象が変わってくる。

舞台である架空の都市ゴッザムシティは明らかに、かつての荒みきっていたニューヨークをモデルにしている。その治安の悪さは世界中に知れ渡っており、本作に見られるような事件のほとんどは、70年代80年代のニューヨークで実際に起きていたことと大差はない。

アーサーは、ゴッサムシティで生まれ育った。もしジョーカーを一人のイカれた犯罪者ではなく街そのもの、そこに蔓延する病いの象徴なのだとすれば、貧困と負の連鎖、富める者の無関心による分断がそれを生み出したという流れは、決して安直なものではなくなる。

この物語はジョーカーの誕生秘話と銘打ちながら、ゴッサムシティの混乱と無秩序が臨界点に達した瞬間を描いている。そして、そうなるとアーサーはますます悲しきピエロだと言える。オープニングで道化師のメイクを施しながら涙を流し、クライマックスに自らの血で笑顔を描く姿が印象的だ。

ところで、ゴッサムシティのような分断は現実においても危険だ。持たざる者にルサンチマンを植え付けてしまうと確実に治安は悪化し、富を持つ者たちの暮らしも脅かされ、結局誰も幸せにならない。

バットマン」という物語は必ずここ(超絶リッチなブルース・ウェインが、弱者を救うシステムさえ機能していない腐敗しきったゴッサムシティのために立ち上がるところ)から始まるから面白い。幾ら裕福でも絶対的な安全は手に入らない。だから、富は再分配するべきで、それは結局「情けは人の為ならず」へと繋がる。ある意味、そんな寓話なのだ。

本作が富める者ではなく、それを持たざる者からの欝屈した視点で語られた点では「バットマン」の冠を掲げず「ジョーカー」としたことに納得しきりだ。そして確かに、バットマンが闘うべき悪しきもの、ゴッサムシティの暗黒面は、このようにして生まれたと言えるに違いない。

 

 

悪という重力に抗う

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ダークナイト

 映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

クリストファー・ノーラン監督が手掛けた「バットマン」の「ダークナイト」シリーズ2作目にあたる。同シリーズの前作、ブルース・ウェインバットマンになるまでを描いた「ダークナイトビギニング」と、最終章の「ダークナイトライジング」の間に配置されているものの、タイトルからも分かるようにシリーズを象徴した中核を担う作品。バットマンが暗黒の騎士、ダークナイトと呼ばれるに至った経緯が明かされる。

宿敵ジョーカーとの対決や、バットマンの正体を知る数少ない存在でもある幼馴染のレイチェルとの恋の行方。そして、バットマンのファンにとってはジョーカー同様に人気の高いヴィラントゥーフェイスの登場など盛り沢山な内容に加え、2000年代の映画の中でもトップ10に入る人気作品。

 

わたくし的見解/「トロッコ問題」子供に出すなら、掃除当番とかに置き換えるべき

現在公開中の「ジョーカー」とは、原作を同じにしているだけで関連性はないのですが、やはりジョーカーと言えば「ダークナイト」のヒース・レジャーの印象は強烈でした。

ティム・バートン監督によるシリーズでは、あのモンスター俳優ジャック・ニコルソンが演じ、近年ならば「スーサイド・スクワッド」のジャレッド・レトも悪くなかったのですが、遺作であるという贔屓目を取っ払っても「ダークナイト」のジョーカーは特別な存在として多くの人の記憶に刻まれています。そもそも物語自体が、バットマン以上にジョーカーのためにあるようなものでした。

アメリカン・コミック原作の映画とは思えない程、重厚なテーマを扱っている点でも異彩を放っていました。ここでのジョーカーは、実に純化された悪として登場します。銀行強盗のシーンから始まってはいるものの、金などには目もくれず、人々に恐怖を与えることで狂気を生み出し、混乱(カオス)に陥れることを目的に生きている、政治思想などもまるで持たない生粋のテロリストなのです。

治安の悪さに拍車をかけて、警察組織や司法に至るまで汚職まみれのゴッサム・シティにおいて、一縷の希望として登場した正義の検事、ハービー・デントまで悪に染めてしまうなど、実はジョーカーによって何手も先の展開が用意されていたことに痺れた観客も多いことでしょう。特に「トロッコ問題」を持ち出し、人の良心に揺さぶりをかける卑劣なやり口は、言葉たくみに信仰を棄てさせようとする悪魔の如しです。

「トロッコ問題」とは簡単に言うと、一人の命を救うために複数の命を犠牲にするか、あるいは複数のために一人を死なせるか、などを問う思考実験です。当然、理想を言えば全員を助ける解決法を模索するべきですが、(例え話ではなく現実ならば一層)大抵の場合、タイムリミットが存在し選択肢は極端に限られてしまいます。

作品においては(いくつかそれが出題されていましたが)最も分かりやすかったものとして、二隻のフェリーのいずれかを爆破すれば片方は助かるというものです。この場合、乗客の人数に大差はなく代わりに片方には一般市民が、もう一方には囚人が乗せられていて、船長の手元には自分達の乗っていない方のフェリーを爆破するスイッチが渡されているのでした。

ジョーカーは「自らが生き延びるために他者の命を奪わせること」を映画の冒頭から行っており、この一貫性にも憎らしい以上に鮮やかさを感じてしまいます。ジョーカーが、と言うよりも脚本の緻密さに感心せずにいられません。

しかし、そのようなアメコミ作品らしからぬシリアスな作風ばかりが取り沙汰されがちですが、実は超絶楽しい映画だったりします。

残念ながら「007」の新シリーズには参加出来なかったクリストファー・ノーラン監督ですが、スパイ映画への意欲は本物らしく(事実、次回作はスパイもの)そう思って見ると「ダークナイト」前半のバットマンは「ミッション・インポッシブル」のイーサン・ハントと見紛うド派手なアクションを展開。

さらに、終盤で見られるジョーカーによるナースのコスプレは、ヒース・レジャーが他界さえしなければ、おそらく「サタデー・ナイト・ライブ」を筆頭にあらゆるところでパロディされたであろう、映画史上に残る名シーンだと(かなり個人的に)位置づけています。

突き抜けたクールな悪党ぶりに、皆が心酔してしまうヒールというのはいるもので、たとえ看護婦の格好やスキップなどで滑稽に見せても、ジョーカーはまさにそういった存在でした。本作では、すっかり性格の良いシュナウザー(犬)みたいな顔をして、角の取れた演技をしているゲイリー・オールドマンも、かつては「レオン」で悪徳警官を演じ、そのキャラクターは凶悪であるのに憧れの的でもありました。

そのような事に思いを馳せるとヒース・レジャーにも、ジャック・ニコルソンゲイリー・オールドマンのように若い頃はキレッキレの演技でインパクトを残し、年齢を重ねてからまったく違う魅力を発揮して欲しかったと改めて惜しく感じます。

とは言え、将来有望な俳優の死とセットになってしまった「ダークナイト」も、そのショックから幾らか解放された今、再び鑑賞してみると人気の具材全部のせのスペシャル丼のごとく、エンターテインメントを極めた作品だったのだと認識できました。

 

 

リアルがちのスローライフ

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WOOD JOB!~神去なあなあ日常

 映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

大学受験に失敗した平野勇気は、付き合っていたガールフレンドにも振られてしまう。浪人する根気もなく適当に選んだ職業案内のパンフレットに心奪われ、実家を離れて林業の研修プログラムに参加する決意をした。そこに写っていた綺麗な女性と同じ職場で働けるのでは、と期待したのだ。

ところが、都会で育った勇気には山奥での不便な暮らしと林業の重労働は想像を絶するもので、研修中にこっそり逃げ出そうとする。その時、勇気は憧れていたパンフレットの女性と偶然対面できたのだが。

「なあなあ」とは、物語の舞台である三重県の神去(かむさり)地区で、ゆっくりのんびりいこう、小さなことにくよくよするな、などを意味する方言。

 

わたくし的見解/

かつて、仕事をしながらも熱心に英会話教室に通っていた友人に言わせると、「やっぱ語学の上達には下心が必要」らしい。日本人にありがちな、外国人に直面して臆してしまうような事はレッスンで場数を重ねるうちに克服できた。

さらに、その友人はもともと語学センスがない方ではないし、いかにもな欧米人のノリの良さにも対応できるタイプでもあった。そのため、これ以上のレベルを目指すには「もう特定の外国人の異性を好きになる他ない」との結論に至った。

「下心が必要」とすると極端に聞こえるが、要するにお尻に火が付く切迫した状況を作るには最も現実的で手っ取り早いという話。たとえば、英語しか通じない異国に一人放り込まれて長期間生活することを強いられる(ワーキングホリデーなどは不可。つい同じ境遇の人とつるんでしまうから)とか、突然日本語のまったく分からない欧米人が上司になる、などでも確実に上達するだろう。

ただ、そのような機会はなかなか得られないのに対して「好きになる」は、渡航しなくても外資系に転職しなくても手に入りそうなシチュエーションである。しかも追い込まれて苦しみながら学ぶのではなく、相手をもっと知りたい、より円滑にコミュニケーションを取りたい(口喧嘩できるくらいになりたい)など自発的で前向きなモチベーションが保てる効果もある。

なぜ、日本の林業を取り上げた映画なのに語学習得の秘策について語っているのか。

本作は矢口監督らしく、コミカルな作風ながらも厳しい現実もきちんと織り交ぜた、実に誠実な作品だ。その中で、間違いなくキツい林業の仕事に若者を取り込む突破口として「下心」を配した点に、感銘を受けたことが前置きの長さに繋がっている。そんなバカな! と思っても、下心の持つ原動力は侮れないよな、と妙に納得してしまったのだ。

いくら高校を出たてでウブだからと言って今時の子が、パンフレットに自分好みの美人が写っていたくらいで、よく知りもしない林業に従事してみようなどと思う訳はないのだが、まかり間違って思ってくれる人がいるから自衛隊にしろ業界各種にしろポスターなどには麗しい容貌の人を使っているに違いない。(もちろん、こんな素敵な異性と出会えるかも、ではなく自分もこんな爽やか男子や素敵女子になれるやも、という幻想を抱かせる目的もあるだろう)

とは言え、この導入部分には多少無理を感じなくもない。案の定、原作小説ではパンフレットのくだりはないようで(ただし、ある女性への下心ならぬ恋心は原作でも重要)映画として序盤で、観客を掴むための苦肉の策と言える。矢口監督のヒット作「ウォーターボーイズ」でも、廃部寸前の水泳部に転任したての若くて魅力的な女性教師が顧問になった途端、男子部員が30人増えるところから始まるので、それにあやかったのかも知れない。

映画全体にも同様の無理は垣間見える。動機の不純な高卒男子に1年の研修期間で、100年先を見据える林業の魅力が伝わったことを、たった2時間で描こうとすると、どうしても駆け足になってしまう。おそらく悠久の時を刻む山での暮らしぶりや、サブタイトルにある「なあなあ」をしっかり味わうには、三浦しをんさんの原作を読むに限るのだろう。

その代わり、この「WOOD JOB!」では監督のもう一つの代表作「ハッピーフライト」のように専門職の悲喜こもごもを愉快に紹介してくれる。田舎暮らしの良し悪しについてもフランクに知ることができる。さらに、良いところばかりを見せない姿勢に好感が持てる。(コンビニがなく携帯が繋がらないなどの表面的な部分だけでなく、コミュニティーとして閉鎖的な部分があることなど)

私が普段は積極的に鑑賞することのない、幅広い年齢層が楽しめる良作である(矢口監督の作品はいつもそうだ)。では、なぜ今回これに興味を抱いたのかと言うと、減少し続ける林業従事者に若年層を取り込むにはどうすれば良いか?と子供らに問う機会があったからだ。

子供達に考えさせておいて自分はノープランと言うわけにはいかない。自分の子供が相手ではないだけに、適当に煙に巻いて終わることも出来ない。何かヒントになればと思って鑑賞してみたものの、大人相手ならまだしも子供に向かって「やっぱ下心よ」などでは模範解答になるはずもなく、結局のところ困り果てている。人手不足は林業に限らないから難しい。

さて、冒頭で登場した友人とは別の友人に言わせると、ある程度までは下心で語学の上達は見込めるが、付き合いが長くなると会話のパターンが決まってきて伸び悩む時が来るらしい。日本人同士でも長く一緒にいればそうなるのだから当然かも知れない。また、そうなる(つうかあの仲になる)からリラックスした親しい関係だと言えるのだが。

それでも下心の持つ瞬発力や機動力は、さまざまな分野で役に立ちそうだ。長期的ビジョンについては、また改めて考えることにしよう。ひとまず「なあなあやで」ということでお開きに。

 

シネフィルの原風景

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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

 

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台は1969年のロサンゼルス、ハリウッド。かつて幾つものヒット作品に主演したTV西部劇のスター、リック・ダルトンは映画俳優への転向に失敗し行き詰まっていた。クリフ・ブースは長年リックのスタントを務め、私生活でも運転手と雑用を請け負っている。

古巣のTVドラマでは、すでに若手俳優に主演の座は奪われてしまった。全盛期を過ぎた現実に苛まれ些細なことで泣いてばかりのリックに対し、トレーラーハウスで愛犬と暮らすクリフはいつも穏やかで落ち着いている。そんな二人はビジネスパートナーである以上に無二の親友でもあった。

落ち目とは言えリックがハリウッドの高級住宅地で暮らしていると、隣家に映画監督のロマン・ポランスキーと、その若く美しい妻であり女優のシャロン・テートが越してきた。彼らは、旬を過ぎた中年俳優とは対照的な輝かしい新時代の寵児たちだった。まさにハリウッドの明暗が凝縮されたその場所で、実際に起きた殺人事件を下敷きにして描かれる、タランティーノ渾身の意欲作。

 

わたくし的見解/

1969年は主人公たちの人生だけでなく、世の中の流れ、アメリカの価値観そのものに変化が起きていた。ベトナム戦争が長期化するにつれ、街には「Love & Peace」を声高に叫ぶヒッピーが溢れていった。

映画の中でも、この時代の風景とでも言うようにそんな若者達が登場し、いつの間にか物語の中心に躍り出てくる。それまでのキラキラしていた古き良きアメリカにベトナム戦争のリアルは暗い影を落とし、平和主義=反体制のようなムーブメントが起きたことは自然なのだが、いかなる場合も集団が大きくなるとほころびが生まれてくる。

ヒッピー達は反キリスト教であったり、インド哲学にかぶれたり自然主義を謳ったり様々なコミューン(集団)を作っていて、中には過激な反体制を掲げる者たちもいた。思想は自由なのだから反体制でも別に構わないのだが、「戦争反対」「Love & Peace」と主張する割には暴力的な行為をする輩もいた。

最終的には思想も何もどこかに置いてけぼりで、取り憑かれたように破壊行動に没頭するカルト集団が出てきた。チャールズ・マンソン率いるマンソン・ファミリーだ。

この映画は、彼らが引き起こした「シャロン・テート殺害事件」をモチーフにしている。シャロンは当時妊娠中であったことや、彼女の家の前の住人が本来のターゲットであったことなどから、事件の悲劇性は群を抜いている。これは「あの出来事」だと分かって観るのとそうでないのとでは、作品の印象が全く変わってしまう。

ディカプリオ演じる、かつてのTVスターがプレッシャーに押し潰されそうになりながら七転八倒する姿さえコミカルに写し、160分の長尺の間ハンサムなオッサン二人が、男の友情よろしく楽しそうにダラダラだらだら呑んで過ごす様子を見せ続ける理由がきちんとある。

また、現在最もホットな存在と呼べるマーゴット・ロビーを配し、件のシャロン・テートをただただ無邪気で屈託なくチャーミングな女性として描いているのも同じ理由だ。

世界屈指の映画オタクであるタランティーノにとって、この時代は原風景であり特別なものだと想像する。映画業界も世相同様に転換期にあり、大きな制作会社による作品に陰りが見え活路を見出せずにいた。ニューシネマの到来である。そして、そんな中で起きたこの事件は幼少期のタラちゃんの心に人生初と言えるほどの衝撃を与えただろう。

事件を知らずに作品を観ると、映画のラストは取って付けたようにタランティーノの面目躍如である、悪ノリの過ぎるバイオレンスシーンが訪れる。しかし実は、このために冗長にひたすら何も起きない物語を紡いできたのだ。

出産を控えた美しい上に気取りのない、殺される必要など何一つない女性を襲った連中を返り討ちにするために。カルト集団の輩をメッタメタのギッタギタにやっつけ、さらにカリッカリのクリスプ状になるまで丸焼きにするために。

タランティーノは、いつも作品に大好きなものをギュウギュウに詰め込む。過去の人になったリックも、次世代のスター達が子供の頃に夢中になって見ていた紛れもないヒーローであり憧れだったのだ。タラちゃんには、そんな存在が幾らでもいるに違いない。本作では時代を切り口に宝物を凝縮し、積年の恨みを晴らし敵討ちまで果たした。

私は10代の頃に観た「パルプ・フィクション」の熱狂(劇場で得た興奮とサントラをCDなのに擦り切れるまで聴いていたこと)が、その後の映画人生を大きく変えた。

タラちゃんの69年への想い同様に、私にとっては90年代とタランティーノの登場は特別なものだった。そんなことを考えていたら、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は時間が経つほどに、じんわりとしみじみ沁みてきてしまう作品になった。

 

船越のいない崖

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羊の木

映画情報

 

だいたいこんな話(作品概要)

平和だが、さびれた印象の否めない港町・魚深(うおぶか)。市役所の職員、月末(つきすえ)は上司から新しい住民6名を受け入れる業務を任される。市はかねてから、I(アイ)ターン希望者を募っていたため、月末は特に疑問を抱くことなく6人を駅や空港に迎えに行き新しい住まいと仕事先に案内した。

しかし、男女を問わず新しい住民の様子がおかしい。月末が上司に問いただすと彼ら全員が元受刑者であることを明かされる。市は過疎化対策として、仮釈放を推進する国の政策を利用し元受刑者の身元を引き受けることにしたのだ。しかも、その事実は市民に明かされることはなく市役所内でさえ他に知るのは市長のみだと言う。

月末は動揺したが、新しい住民のうち年も近く魚深での暮らしに唯一前向きな姿勢を見せてくれた宮腰という男と、交流を深めていくのだが。山上たつひこ原作、いがらしみきお作画による同名漫画を原作とした実写映画。

 

わたくし的見解/火サスとは一味違う崖クライマックス

良い意味で期待はずれだった。言い換えると予想していた物語とは違ったものの、結果的にそれが面白さの要因になっていた。

吉田大八監督の新作だったので、本来は映画館に足を運ぶつもりでいた。何しろ原作からして大変に興味深い。犯罪歴のある人を再び社会に受け入れるというのは、その必要があるだけに実にヘビィだ。理想と現実がこの上なくせめぎ合う設定である。

私は当初、そのこと(元受刑者を自治体が意図的に受け入れたこと)が住民に知られてしまい、疑心暗鬼によって引き起こされる「田舎町パニックムービー」だと想像していた。ところが、集団パニックではなく主要な登場人物に焦点が当てられた個々の再生の物語だった。

架空の町を舞台としているし観る人によってはあまりにも突拍子のない設定かも知れない。しかし過疎の深刻さは、よそで暮らす人間には想像の及ばない部分も多い。事実、原発や核燃料廃棄物などを受け入れたりして、住民の暮らしを何とか維持している自治体も存在している。

本音を言えば、そんなものは無い方が良い。だが現状、世の中は「それありき」で機能していて完全に無くすことは難しい。そして我が町の人口は減る一方だが少ないながらも住民の生活を支えるには少なくない金が要る。厄介は承知の上で苦肉の策として、それらを引き受ける。この構造は本作と大きく変わらない。

そんな考え方次第では現実味のある設定に、ほんの少しファンタジー要素がおり込まれているのだが、そのバランスが絶妙だった。「羊の木」とは、スキタイの羊とも呼ばれる伝説上の植物。聖書で謳われている羊とは意味合いが少し異なるものの、やはり血肉を貪る狼と対照的な存在であり、本作では元受刑者の象徴だ。

劇中、栗本という女性が海岸で缶の蓋を拾い持ち帰る。その蓋には、枝分かれした木の先に、まるで実のなるように羊がぶら下がっているイラストが描かれている。スキタイの羊である。これは、かつては狼であった(全員人を死なせている)元受刑者たちが罪を償い真っ白な羊として生まれ変われるのか、という作品のテーマが暗示されている。

もう一つ、いかにも漁師町らしい古くからある守り神の伝説と、その祭りが物語を大きく展開させていく。それは結末において鑑賞者の溜飲を下げることにも一役買っている。

羊の木にしろ漁師町で祀られている神にしろ、実像はなくても所詮は人の心の生み出したもの。現実を生きる人々から生まれたものには、やはり少なからず現実世界の厳しさが投影されている。ファンタジー要素の上手い取り込み方だ。

加えて、主人公を含めた元々の住民も新たな住民もキャスティングが良かった。元受刑者のいずれもが見事に違和感をまとって現れるが、中でも松田龍平の登場は圧巻。エキセントリックな他の元受刑者たちとは違い、実は一番「普通の人」らしい様子に何故か末恐ろしさを感じずにはいられない。

松田龍平の、いつもどおりの飄々としているのに圧倒的な存在感もさることながら、対してジャニーズなのに極めてオーラや圧の弱い錦戸亮も、主人公のキャラクターにぴったりだった。

初めは、田舎の公務員にこんなハンサム居るかいな(居るわけないでしょ)と思っていたのだが、加瀬亮あたりが放つ「くたびれた感じ」を彼も持っており邦画によく馴染む。吉田大八監督の前作「美しい星」での亀梨和也は、この人じゃない方が良かったなと思ってしまったのだが、今回のジャニーズ枠は大成功だと感じた。

本作はサスペンス作品(ハラハラさせるもの)として高く評価できる。個人的には冒頭でも触れた理想と現実のジレンマが、やはり興味深いところだった。映画では焦点が当てられていないが、例えば住民たちの知る権利と元受刑者の人権がぶつかると(現実では最もネックになるはず)実に悩ましい。

この作品に限れば、住民に先入観がなかったことで事態はかなり上手くいっているのだが、栗本の拾った缶の蓋には羊が5匹しか描かれていない。町に来た元受刑者の数と合わない。フィクションとは言え、これも現実の厳しさだ。

何度か使ったファンタジーと言う表現に反して、映像には一貫して幻想や空想めいた部分はない。ちょっとしたマジックリアリズム作品と分類してもいいのかも知れない。邦画の地味さが退屈という先入観さえなければ、楽しめるサスペンス作品と言える。

 

スープラ・イズ・バック!

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ゴールデン・リバー

映画情報

 

だいたいこんな話(作品概要)

1851年、ゴールドラッシュに沸くアメリカ。オレゴンで、あたり一帯を取り仕切る「提督」に雇われてシスターズ兄弟はウォームという男を追っていた。

兄弟はいわゆる泣く子も黙る名の知れた殺し屋。標的のウォームは黄金を見分ける化学式を発見した人物だった。すでにウォームに接近し同行している連絡係のモリスからの情報を頼りに、兄弟は何日も馬に乗り山を越え、ようやく二人に追いつく。

化学式を聞き出した後ウォームを殺すはずが、モリスの裏切りによって逆に兄弟は捕らわれ銃も奪われてしまう。しかし、そこへ黄金に目の眩んだ別の追っ手が迫り、兄弟はウォームとモリスに加勢を申し出て4人は一時的に手を組むことに。

無事に追っ手を撃退した4人は、ウォームの化学薬品を用いて手に入れた黄金を山分けすることで合意した。兄弟は、それまでの暮らしでは知りようのなかったウォームとモリスの価値観や理想に感化され、彼らと絆を深めてゆくのだが。

 

わたくし的見解/

戦後、ハリウッドは西部劇の黄金期だった。そこにはアメリカ人の誇りと礎である、フロンティア・スピリッツが華々しく描かれていたからだ。ところが同時にそれは、あまりにも白人が主体で至上主義ともとれる差別的表現の宝庫でもあった。当然(多様性を認めるなどの)現代的な思想が一般化すると共に西部劇は過去のものとなってしまった。

2002年に生産終了したトヨタスープラが17年ぶりに復活、新型を発表した時の豊田章男社長のコメントを個人的に気に入っている。「かつてアメリカ開拓時代を支えた数多くの馬は現在、自動車にとって代わられた。しかし、競走馬は健在だ。今後、自動車が他の何かに代替されてもスポーツカーは残る」という説得力に満ちた詭弁(?!)で、実用性という観点では今、数多く流通している車とは真逆のベクトルに向かうスポーツカーを復活させた。

時代は変わっても西部劇だけは映画界に残り続ける、と話を続けたい訳ではない。ただ、西部劇のエッセンスはアメリカの精神に無関心な人間にとっても、捨て置くには惜しいものだと実感した。古い映画を観ていても、また本作でも、馬が駆け巡る姿の迫力と美しさは現代的なアクションに何ら引けを取らない。そして、いつの時代でもガンマンは間違いなく格好いい。

近年、西部劇の名作リメイクもあったが本作の特長は極めて渋いキャスティングに支えられた男臭さだ。むさ苦しさは印象だけにとどまらず実際にかなり臭そうな(何日も風呂に入っていないのが似合う)メンツだからこそ、最高に魅力的な西部劇に仕上がった。砂埃にまみれる筋骨隆々な馬の姿を見ていたら、頭の奥で「スープラ・イズ・バーック!」と章男の声がした。

作品のクライマックスと分岐点は、邦題の「ゴールデン・リバー」に表されているような黄金の獲得であることに間違いはない。しかし、本作の主軸は原題の「シスターズ兄弟」から分かるとおり家族の物語だ。

キーマンであるウォームの掲げる理想論とそれに心酔したモリスの存在は、粗野に生きてきた兄弟の未来像にも変化をもたらす。ウォームのキャラクターは面白い。知識人らしく腕っぷしは全く駄目だが登場人物を次々と懐柔していく様は、結局彼が一番の山師なのではと勘ぐりたくなるほどだ。

ウォームの場合は相手を騙すのではなく、ただ自分の命を守ることや理想の実現に向けて支援者を増やすための友好的な振る舞いであったが、その柔らかな物腰によって警戒心を捨てたモリスや兄弟は本音を語るようになる。

その中でエピソードは僅かなのに、いかに彼らにとって父親の存在が大きいかが見えてくる。それは登場人物が男ばかりだからで女性が主人公ならば母親の存在が浮き彫りになるに違いない。強く感じられたのは、性別や時代や文化に関わらず、ほとんどの人は親の影響から逃れられないという事だ。

親のようになりたいか、あるいは、なりたくないか。どちらに転んでも、その影響下にあることは間違いない。これがすべてだとは言えないが、これが根本にあることは否定できないはずだ。同様に親や兄弟との関係そのものも断ち切ることは極めて難しい。家族ゆえのしがらみに苦しむこともあれば、その愛情の深さに救われることもある。

ジャック・オーディアール監督の映画は、いつも主人公が絶望的なまでにボロボロになる。そして取って付けたように八方丸く収まって終わる。今回はお馴染みの唐突なハッピーエンドが、これまでよりも自然に思えた。映像もオープニングから惹きつけられる素晴らしいものだった。

ジョン・C・ライリー演じる見かけによらず繊細でロマンティストな兄と、ホアキン・フェニックスによる粗暴極まりない弟という対照的なキャラクターは完璧と言って良い。個人的には(もう7月だが)今年の上半期で、最もお勧めしたい作品となった。

 

地獄の沙汰

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ハウス・ジャック・ビルト

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1970年代のアメリカ、ワシントン州。エンジニアであるジャックの夢は、建築家になること。それを叶えるために、所有する土地に自ら設計した家を建てようとしていた。ある時、山道で車が故障し立ち往生していた女性との出会いから、殺人に没頭するようになる。

彼が5つのエピソードを通して案内人ヴァージに明かした、シリアルキラーとしての12年間の軌跡を辿る。煉瓦造りでも木造でも、納得が出来ずに途中で取り壊したジャックの家は、はたして完成するのか。

 

わたくし的見解/トリアー的シリアルキラー研究発表

主人公のジャックが、ヴァージなる人物の質問に答える形で、5つの殺人について回想していく。そのやりとりは、まるで死刑判決が確定した囚人に対して行われるセラピーや、精神分析の権威が論文ために凶悪犯をインタビューしているようでもある。

何故なら、ヴァージはジャックの犯したおぞましい殺人の数々について、さほど断罪する様子もなく淡々と「それで君はどういう人間なの」と問い続けていくからだ。声を荒らげたのは、その残忍性に対してではなく、ヴァージにとって最も崇高である「芸術」をジャックが引き合いに出してきた時だけだった。

5つのチャプターの間ヴァージの存在は声のみで、エピローグで初めて観客はその姿を目にすることとなる。語り草から想像したとおりの老紳士は精神科医というよりは(宗教の特定が出来ない)聖職者のような佇まいで、初対面であるはずのジャックも不思議と言われるがままに暗がりを進む他なかった。

ヴァージは地獄の案内人だった。「神曲」の中で、ダンテを地獄と煉獄に案内する詩人ウェルギリウスがモチーフになっている。ジャックはダンテのように天国を見ることはない。一通り地獄を案内され、行く先は最下層から二つ上の場所だと教えられる。

劇中でヴァージも口にしているが、殺人者は「意外にも」最下層ではないのだ。しかしジャックは些細な好奇心から、生前の罪で決まった場所とは別のところに行くことになる。なかなか興味深い展開だ。

アメリカでカットされた部分は子供が殺された場面で、(すべての殺害シーンがそもそも残忍すぎるので)他のシーンと比べて格別グロテスクな訳ではない。アメリカでは、大人がそのように殺される映像に規制はかからないが(年齢制限がされてもカットはされない)、子供の場合は途端にタブー視される。

このタブーへの意識が強い人たちが、おそらくカンヌ映画祭でも途中退場した人たちと同じなのだと思われる。彼らにとっては、いくら表現の自由を認めても受け容れ難いのが本作なのだろう。皮肉なものでラース・フォン・トリアー監督はタブーも含めた既成のものを、ひたすら壊していきたい人なので、認められないという反応も彼の思惑に収まるものだ。

私としては、度肝を抜かれるという点においては監督のこれまでの作品の方が圧倒的だったように思われた。この人の映画には今まで散々な目に遭ってきた。嫌な気分に陥らなかったことなどない。しかし、それだけでは終われないのだ。

つまり、鑑賞後かなりの時間それについて考えを巡らせることになってしまうからだ。自分が不快に感じた理由も含めて、この物語は一体何なのだ、と。その上どれほどの胸糞悪さも超越(帳消し?に)する程、必ず映像作品としての圧倒的なパワーがある。

本作でも、そのパワーは健在だ。ただ、物語については案外シンプルで頭から離れなくなるほど考えることはない。(衝撃映像が頭から離れなかった人は多いかも知れないが)。とは言え、監督の力量には相変わらず感心させられた。

二つ目のエピソードで、ジャックがターゲットの女性から信用を得て家に入るために初めは警察だと名乗る。女性は不審に思い手帳の提示を求めるが、当然そんなものを持っていないジャックの返しが素晴らしい。「手帳はない。私も見てみたい」たった、この一言で精神的な破綻が垣間見え不気味さは一気に加速する。

女性はさらに訝るが、その後も苦しい言い訳を繰り返し年金額が増える手続きをしてやるからという口実で、やっと家の中に入る。とにかく会話の支離滅裂さがジャックの異常性を際立たせていた。突如、態度が豹変し女性との力関係が逆転するくだりは傑作と言ってよい。

また、殺人を始めた頃のジャックは強迫性障害(例えば鍵をかけたか不安で何度も家に戻って確かめなければ気が済まず、それを繰り返すうちに、深刻化すると家から出られなくなるようなもの)が強く、かなり犯罪の足枷になる。

そのような障害を抱えながらも殺人衝動も抑えきれない葛藤などを観ていると、監督がいかにシリアルキラーについて調べ尽くしたかが窺える。強迫性障害については監督自身にも覚えがあるものなので、まるで「ドリフ大爆笑」のコント、もしもシリーズのように「この問題を抱えて殺人を犯すと、こんな風になるのでは」という経験者ゆえの茶化しが効いている。

ジャックの犯罪は常にスマートさに欠け、不謹慎ながら実に滑稽だった。幸運だけで12年間捕まることなく、それゆえに犯行はより大胆に大雑把になっていく。カウンセラーのごときヴァージによれば、ジャックが早く自分の罪を見つけて欲しい、誰か捕まえて欲しいと無意識に願っていたからではないかと分析する。

他にも様々なシリアルキラーへの考察が披露される。しかし、その再現性の高さが、監督らしい既成概念の破壊を緩めてしまったのではと感じられた。シリアルキラーもののジャンル映画としては、いくらか型破りかも知れない。エッジの効いた音楽とスタイリッシュな映像、反感を買うほどのグロテスクな殺害シーン。ところが連続殺人鬼の人物像は学術的なものと、ほぼ一致している。

決して新鮮味に欠けた訳ではない。もしかしたら、トリアーの作品に少し耐性が出来てしまったのかも知れない。残忍な部分だけでなく、息をのむ程美しい場面も含めて映像は衝撃的だった。それと比べると内容が弱く思えたのだが、では何が違ったのかなと結局考える羽目になっている。したがって、今後もこの人の映画から目が離せないと言う結論に至ってしまった。