映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

よさこいみたいなもの

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アメリカン・アニマルズ

映画情報

  • 原題:American Animals
  • 公開年度:2018年
  • 制作国・地域:アメリカ、イギリス
  • 上映時間:116分
  • 監督:バート・レイトン
  • 出演:エヴァン・ピーターズ、バリー・コーガン、ジャレット・アブラハムソン、ブレイク・ジェナー

だいたいこんな話(作品概要)

アメリカ、ケンタッキー州トランシルヴァニア大学図書館に、時価1200万ドルのヴィンテージ本が所蔵されている。それは、ジョン・ジェームズ・オーデュボンの画集「アメリカの鳥類」で、近年までオークションに出品されるたび書籍の最高落札価格を更新してきた貴重本だ。

アートの才能を評価され大学へ進学したスペンサーは、高校時代からの親友で破天荒な性格のウォーレンに、その本を見学した話をした。たわいもない会話のつもりが、いつの間にか、それを盗み出す計画へと話が変わっていった。

本は図書館の特別室に展示されており、閲覧は完全予約制で担当司書が必ず同伴するシステムになっている。ウォーレンは展示室から持ち出すルートや闇の買取業者の確保など、計画を進めるほど他にも仲間が必要だと言い出した。

結果、FBIを目指す秀才のエリック、筋肉おたくだが家柄が良く既に実業家として成功していたチャズを加え、平凡な4人の大学生は熱に浮かされたように貴重本の強盗を実行に移すのだが。

2004年に実際に起きた事件の映画化作品。

 

わたくし的見解/恵まれているという事への劣等感

何故よさこいを踊るのか、私は不思議でならなかった。

高知県の人が、よさこい祭りで盛り上がるのは大いに結構。他の祭りでも、その地域の人々が熱く血をたぎらせることにはまったく抵抗がない。むしろ岸和田の人には、だんじりに命をかけていて欲しいし、徳島でも阿波踊りを踊りまくっていて欲しい。

しかし、神戸まつりのメインイベントが盛大なサンバ・パレードであることに、20年以上かけてようやく慣れた私にとって、ゆかりのない土地の何かに熱を上げる様子は理解できなかった。

そのような、高知のよさこい祭りから独立して発展している「よさこい」は、もはや昨今は「YOSAKOI」になっているらしく、すでに「祭り」ではなく「ダンス」だと解釈すべきなのかも知れない。日本人なのに、小学校の授業でヒップホップダンスを踊るのだ。YOSAKOIだって踊るだろうさ。

増え続けるYOSAKOI人口を尻目に、ふと、よさこい不登校や素行の悪い若年層の更生に一役買った美談を、TVショウで見た記憶が蘇った。その時、感じたのは「よさこい」に格別そういった悩める若者への特効薬的要素があった訳ではなく、成長過程のある時期には(あるいは、どの世代にとっても人間というものは)熱中できる何かが必要なのだということだった。

ここで、ようやく「アメリカン・アニマルズ」の話になる。1200万ドルの価値の本を盗み出して、人生を一変させたい若者たちが主人公なのだが、この子たち、一見大金に浮かれているようで実は違う。もちろん(取らぬ狸なのだけど)想像もできない巨万の富に心踊らせてはいる。しかし明らかに、犯罪という非日常に足を踏み入れれば必ず何かが変わるはず、という期待の方が大きい。

4人は高校の同級生で、それぞれ違う大学に進学している。逃走するための高度な運転技術が買われて、最後にメンバーに加えられたチャズは資金力もあてにされる上流階級の出身だが、他の3人も中流家庭の何不自由ない環境で育てられた幸せな若者たち。

リーダーのウォーレンは、アメリカの食料廃棄の多さに異議をとなえながら、廃棄を減らすためだとアルバイト先のスーパーでハムやら何やら盗み出したりしていたものの、それでも他の3人同様に、高校時代の恩師に言わせれば素行の良い問題のない生徒だった。

皆、それぞれの得意分野が認められて大学に入り、大きな挫折を味わう事もなく、このまま何となく上手くやっていけそうではある。けれども無難に上手くやっていく事に熱意を持てない。平凡な人生に何か起爆剤が欲しい。特別な何者かになりたい。という閉塞感が彼らを犯罪行為に没頭させていく。

本作は、オープニングで「This movie is based on a true story.(この話は、実話に基づいている)」というよくあるクレジットから、"based on"の文字がこぼれ落ち「This movieis a true story.」つまり、実話に基づいているのではなく、実話だと宣言して始まる。

犯人たち本人のインタビューと交互に、時には交錯しながら、俳優たちが演じた当時のエピソードが紹介されていく構成で、ドキュメンタリーとフィクションを合体させた作りだ。とは言え、もし全編ドキュメンタリーだとしても他者(制作側)の視点で編集が加えられた時点で、それは実話とは異なるようにも思える。

ところが、この映画はそれも想定内と言わんばかりに独自の真実を見せてくれる。事件当時のさまざまな出来事について、4人の犯人たち本人が語る真実に少しずつ食い違いが出てくるのだ。映像作品として、この部分の表現は巧みだった。

特に中心人物スペンサー本人が、親友ウォーレンとの記憶のズレについて語った「ウォーレンの語る真実を信じたいと思ったし、それを信じる事にした」という言葉は興味深い。

私たちの日常にも、そこにいる人それぞれの真実があって、時には他者の真実に知らず知らずのうちに、あるいは意図的におもねる事があるように思う。その意味では幾つかの視点による真実を見せようとするこの映画は、実話に基づいた物語よりも確かに実話なのだと私は感じた。

いかにも、ドキュメンタリー出身の監督らしい手法である。同時にドキュメンタリーとも一線を画すべく、しっかりエンターテインメント性を発揮した作品でもある。4人が強盗のシミュレーションをした時、参考にしたクライムムービー「レザボア・ドッグス」や「オーシャンズ11」さながらの華麗さで、鮮やかに盗み出す姿を夢想をするシーンは愉快だ。

残念ながら犯人達にとっては周到な計画も、若気の至りの多分にもれず短絡的で、お粗末なものだった。今時の子らしく「絶対に成功する強盗のやり方」とグーグル検索したり、犯罪に使用する連絡先をうっかり普段使っている自分の携帯やアドレスにしてしまったり。

ものの見事に失敗する様を見て、まざまざと「よさこい」の価値を実感した。若者(人生)に熱中するものが必要だとして、それは犯罪以外の何かにすべきだったのだ。それまで良い子で通ってきた4人だけに周囲の失望は大きく、その事が彼ら自身を最も後悔させていたのが印象的だった。

 

人間失格

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イノセント・ガーデン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

インディアは18歳の誕生日に、自宅の広大な庭園で何かを探していた。毎年、同じ色のリボンをかけられた父親からのプレゼントが、庭のどこかに隠されていたからだ。インディアの成長に合わせた革靴が入っているのが習わしだったが、見つけた箱を開けると中には謎めいた小さな鍵だけがあった。

その日、インディアの父は交通事故で帰らぬ人となる。唯一の理解者である父を失い、折り合いの悪い母と大きな屋敷に残されたインディアの元に、それまで音信不通だった伯父がやって来る。

父の弟だと名乗る伯父チャーリーは、若き日の父に似た整った容姿や穏やかな物腰と博識さで、母エヴィに取り入って屋敷に同居し始めた。ところが長年勤める家政婦、そして訪ねてきた大叔母が次々と姿を消し、インディアはチャーリーへの不信感を高めていく。

わたくし的見解

イノセント・ガーデン」の公開とほぼ同時期に、韓国映画界の奇才ポン・ジュノ監督も「スノーピアサー」という作品でハリウッドに進出しています。パク・チャヌク監督よりもポン・ジュノ監督の方がハリウッド向きだと予想していたのですが、意外にも「イノセント・ガーデン」の方が期待値を上回ったので今回はこちらをご紹介する事にしました。

ミア・ワシコウスカの個性的な顔立ちのせいで、(それに加えパク・チャヌク監督作品「渇き」のイメージもあり)本作はヴァンパイアの物語だと思い違いをして途中まで鑑賞していました。

負け惜しみではないのですが、ヒロインが最終的に殺人鬼として覚醒したのを見届け、これが吸血鬼に置き換わったとて成立する物語だなぁと一人で納得。

鋭すぎる感性のせいで(母親も含めて)他者との隔たりを強く感じていた少女が同じ属性の伯父と出会う事で、ある資質が開花する物語。

殺人鬼として覚醒するプロセスと性へ目覚める様子をリンクさせる必要があるのか無いのか、私にはさっぱり分かりません。しかし、ともすると簡単にC級あるいは三流スリラーに転落できる、このような陳腐なメタファーを見事に美しい映像叙事詩に昇華させたパク・チャヌク監督の手腕は天晴れと言うほかないでしょう。

さらに、この頃のミア・ワシコウスカの端正な美少女であるのに、まだ性を強く感じさせない独特の雰囲気は作品の屋台骨。少女から大人へと変貌を遂げる、過渡期ゆえの魅力は代え難いものがあります。この時期に、ミア・ワシコウスカの出演作が集中しているのも頷けます。

そしてニコール・キッドマンの演じる、世俗的で自分の女性性を主張したい未亡人。突然現れたハンサムな伯父。建築家だった父の残した、緑あふれるモダンな庭園など。必要十分なピースを備え、先程うっかり陳腐と評したエロスとタナトスの物語が、むしろラグジュアリーに仕上がっていました。

パク・チャヌク監督にしては、グロ控えめなのも功を奏しています。

個人的には、劇中のインディアとチャーリーによって演奏されるオリジナル・スコアのピアノ連弾曲が、とにかく素晴らしいこと。それから、伯父の存在はインディアがあるべき姿に変身するための、(これも陳腐な表現ですが)トリガーに過ぎなかったと言う展開は乙でした。

最終的に伯父をも超越して旅立ってしまうヒロイン像には、ある種の清々しささえ感じます。不道徳も不健全も極端に突き抜けると、何かしらの魅力を感じられるものです。

しかし、その感覚も既存のアブノーマルに対してなのだと気付くと、ついつい陳腐と思えてしまったのかも知れません。たとえ変態を描くにしても、新機軸を生み出すというのは簡単にはいかないものですね。

 

キアヌ無双

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ジョン・ウィック
ジョン・ウィック:チャプター2

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

裏社会では知らぬ者がいないほどの殺し屋、ジョン・ウィック。「1本の鉛筆で3人の男を殺した」など、伝説のように語り継がれるエピソードの持ち主だが、愛する妻ヘレンとの生活のために完全に足を洗って久しかった。

ところが、ヘレンは長い闘病生活の末に亡くなってしまう。失意の中にいたジョンの元に、生前のヘレンが一人残されたジョンのために手配していた仔犬が届けられる。妻の想いに報いるためにも、ジョンは仔犬デイジーと共に穏やかな暮らしを取り戻しつつあった。

そんなある日、ロシアンマフィアのトップであるヴィゴ・タラソフの息子、ヨセフがジョンの愛車69年式フォードマスタングに目を付けた。ジョンが何者かを知らないヨセフは、自宅に押し入り、その際に吠えてきたデイジーを蹴り殺してマスタングも奪って行った。

妻との最後の繋がりともいえるデイジーまで殺されたジョンは、復讐の鬼と化し、タラソフ一家へ襲いかかるのだが。

わたくし的見解

監督のチャド・スタエルスキは、アクションやスタントコーディネーターとして名を馳せていており、それこそ「マトリックス」シリーズや「Mr.&Mrs.スミス」に携わるなどの実績の持ち主です。いわゆる、サモ・ハン・キンポーみたいな人ですね。

ジョン・ウィック」シリーズは、キアヌ・リーブスが制作を手がけているので、監督以外にも「マトリックス」で培われた人脈が活かされています。

派手なところでは「チャプター2」で登場するローレンス・フィッシュバーンマトリックスの主要人物モーフィアスを演じた)や、地味で乙なキャストとしては闇社会御用達のもぐりの医者が、「マトリックス」でキー・メーカーを演じているなど、ファンには嬉しいサプライズがちらほら。

マトリックス」とは全く違う世界観の物語ながら、作品の人気を支えたアクション要素に特化して出来たのが、この「ジョン・ウィック」シリーズと見ても良いでしょう。キアヌの無敵感を満喫する映画と言えます。

ただし「マトリックス」のアクションと大きく違う点は、仮想現実の闘いを映像化していた、あの無重力感やワイヤーアクションによる浮遊感は使わず、重力感たっぷりでリアル・ガチの「しばき合い」が見られるところです。

いつの頃からか、このようなアクションが主流になってきましたが、「ジェイソン・ボーン」シリーズなどと同様に、主人公はべらぼうに強い前提がありつつも、ともすれば地味でリアルな気がするけど、実は計算し尽くされたクールな殺陣。そして、とにかく痛そうなアクションが、それを期待する層の人気を獲得するポイントなのかも知れません。

ジョン・ウィック」シリーズは、監督の十八番、真骨頂である洗練された見事な殺陣を鑑賞する作品です。しかも、それが往年の時代劇のように「百人斬り」的長尺でこれでもかと魅せてくれる。そのため、ストーリーはアホみたいです。

1作目では、まだ復讐の動機が丁寧に描かれていますが、2作目ともなると何をそんなにムキになって闘っているのか、ストーリーに全く説得力がありません。それでも良いのです。多くの人が期待する通りの、キアヌ無双が「チャプター2」でも披露できたのでしょう。こんなに中身が無いのに、すでに3作目の公開が決まっているという勢いは評価に値します。

大抵のシリーズ作品に倣って、続編ができるごとに内容が薄くなっていますが、私は3作目も必ず観るでしょう。何しろ次回作では、キアヌは世界中の殺し屋から命を狙われるのです。

かつて「マトリックス」で、エージェント・スミスがわらわら増殖してネオに襲いかかったように、またキアヌが多勢に無勢の敵をバッタバッタと斬り倒す姿を楽しみたいと思います。

たまには、馬鹿みたいな映画が観たくなった時に是非どうぞ。その系統の作品としては、かなりのお薦めです。

 

 

「正しいことをやりたければ偉くなれ」みたいな話

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ブラック・クランズマン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1970年代半ば、アメリカのコロラド州コロラドスプリングス警察署で、ロン・ストールワースは黒人初の刑事として採用された。はじめは資料室に配属され退屈な日々を過ごしていたが、転属希望が叶い情報部で働くことに。

過激な活動の火種がないか日々の新聞をチェックする中で、白人至上主義団体KKKクー・クラックス・クラン〉のメンバー募集広告に目が止まる。ロンはKKKに電話し黒人差別発言を繰り返して団体の幹部に気に入られ、見事に入団面接の約束を取り付けた。

以降、電話でのやり取りはロンが、実際に対面するのは同僚の白人刑事フィリップが担当し、二人で一人の人物を演じて団体の活動を探ることになった。

この頃のKKKは、公には黒人差別発言を一切しない新しいリーダーのもと、暴力行為もタブーとする団体となっていた。しかし潜入捜査が進むなかで、ロン達は一部の過激なメンバーによる不穏な動きを察知するのだが。

わたくし的見解

主人公のロン・ストールワースは実在の人物で、実際に1978年にコロラドスプリングス初の黒人刑事として採用されています。映画は彼の回顧録「ブラック・クランズマン」を原作としていて、KKKへの潜入捜査も最高幹部デビッド・デュークの護衛を務めたことも事実のようです。

とは言え、スパイク・リー監督によって、かなりの脚色が加えられています。

スパイク・リー監督のストレートで強いメッセージ性を具現化するために、意図的に旬なキーワードが作品内に散りばめられている一方で、奇遇にも約40年前から放たれている言葉が、現在の世相とリンクしている点には驚かされます。

“America First”や、“Make America great again”などは、KKKの(現在では元)最高幹部デビッド・デュークが1970年代から自身の演説やラジオにおいて、繰り返してきたフレーズのようです。ここ数年、私たちもアメリカ大統領の決め台詞として、ニュースで何度も耳にしていますね。

このデビット・デュークという人物は、映画でも触れられているように、古典的なKKKのイメージを払拭し、三角の覆面は被らずスーツ姿で政界に打って出ます。70年代以降は、あくまで合法的に人種間の分離を目指して活動しており、現在は違うものの一時期は議員まで務めています。

実は、映画で描かれている70年代のKKKは衰退期。その後しばらくは、団体が細分化してしまったことや、時代の価値観の変化によって低迷期が続きます。ところが、2000年代に入って再び存在感を表しつつある。トランプ大統領の当選以降は、言うまでもありません。

この映画はしっかり娯楽作品でありながら、冒頭から包み隠さず徹底的にトランプ大統領を批判しています。面白いのは、これほど真っ向から批判しているのに、少しも暗い作品ではないところでしょうか。

終盤では、現在の白人至上主義者とそれに反対する人々が対立して起きた暴動のニュース映像などが流れて、リアルタイムの現実に緊張感が走ります。と同時に、映画の物語部分では、主人公が劇中で悪さをした白人を一通りやり込めて一件落着として、作品全体のバランスを取っています。

映画で描かれている70年代にあった差別が、現在でも横行している厳しい現実と、それでも諦めずに世の中を良くしていこうとする人々が、黒人にも白人にもいるという希望と。これは、20年以上前のスパイク・リー監督作品「マルコムX」では、決して描かれなかった部分です。

主人公が潜入捜査の中で、いい感じになる友達以上のガールフレンドが登場します。彼女はブラックパンサー党の中心人物の一人で、黒人の権利獲得を目指し、黒人自らがその価値に気付くべきだと熱く訴える女性です。

主人公のロンは彼女に強い思いを寄せていて、黒人の権利獲得についても大いに同意していますが、彼女達の考えもまた偏っていると指摘するのです。彼女にとって、いつも黒人を不当に扱う警察は悪であり、自分達がいつもされるように警察の人間のことを必ず蔑称で呼びます。

ロンは、それでは同じことの繰り返し(互いに差別し続けるだけ)だと気づいていて、「踊る大捜査線」の青島くんと室井さんよろしく、自分は警察の内部からそれを正しい方へ導いてみせると断言します。(あるいは、かが屋の年金コントみたいでもあります)

この姿勢によって、軽妙なニューヒーローと、作品で取り上げられている問題への光明が生まれていると私は感じました。

実は先ほど少し触れた、スパイク・リー監督の1992年の作品「マルコムX」で一躍スターダムにのし上がった、デンゼル・ワシントンの息子が本作の主人公を演じています。

スパイク・リー監督の作品を観るのは久しぶりだなぁ」なんて呑気に構えていた私は、この記事を書くにあたって初めて主演俳優についての詳細を知り、個人的にはかなりの衝撃を受けました。監督や制作側としては狙いにねらったキャストのはずですが、ぼんやりしている者にとっては「どうりで私も年を取るはずだ」の一言に尽きます。

マルコムX」のデンゼル・ワシントンは、カリスマそのもので実にスマートでクールな存在でした。比べるとロン役のジョン・デヴィッド・ワシントンは、どちらかと言えばチャーミングなタイプで、それも本作には上手くハマっていると思います。

作品背景の70年代と変わらず、一部の警官が、いまだに黒人だというだけで不当に扱い過剰な暴力をふるっている事実は存在し、由々しき問題です。それでも、少しずつは何かが変わっていると思うのは都合が良すぎるでしょうか。

真面目なことを言い出すとキリがありませんが、本作自体は前半にお伝えした通り娯楽作品なので、何も考えずとも潜入捜査のドキドキハラハラを味わえるものになっています。登場人物も魅力的ですし、トランプ氏を好きでも嫌いでも問題なく楽しめます。ぜひ安心してご鑑賞ください。

 

 

禍福は糾える縄の如し

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午後8時の訪問者

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

女医ジェニーは、恩師が長年開業してきた小さな診療所の代診を務めていた。数日後には、大きな病院へ移ることが決まっている。

これから勤める病院の歓迎会に招かれた夜、診療所のドアベルが鳴らされた。ジェニーは診療時間を大きく過ぎていることを理由に、応答しようとした研修医を制してモニターさえ確認しなかった。

翌朝、近くで身元不明の少女の死体が見つかり、刑事が診療所に訪ねてきた。防犯カメラに何か写っていないか確認させて欲しいと言う。診療所のカメラには、亡くなる前の少女が助けを求める映像が残っていた。

それは昨夜ジェニーが、研修医に出る必要はないと注意した、あの時のドアベルの映像だった。

少女の死が、事故なのか事件性があるのかは未だ調査中だったが、ジェニーはドアベルを無視した事に責任を感じていた。死因がどちらにせよ少女を無縁仏にさせないために、彼女を知る人がいないかジェニーは独自の調査を始める。

しかし、少女が売春をしていたことなどから、実は彼女を知っていてもそれを明かさない人や、ジェニーの行動そのものを妨害しようとする者まで現れる。果たして、少女は誰で、その夜に何が起きたのか。

わたくし的見解

あの時、もしベルに応じてドアを開けていたら、少女を助けられたのでは。主人公のジェニーは自責の念にかられて、ひたすら少女の身元を探ります。

この映画は、とても小さな吉凶の連なりで出来ています。ドアベルに応じなかったのも些細なことからでした。

すでに医師であるジェニーは、そのとき一緒にいた研修医のジュリアンに先輩としてちょっとした忠告をしている最中でした。命を預かる仕事なので、それほど厳しいとは感じない指導でしたが、ジュリアンの態度は悪く、その後も無言のまま帰ってしまいます。

診療所では、ジュリアンと少し不穏な空気になってしまったものの、自らの歓迎会に足を運んだジェニーは、仲間から能力を高く評価され、暖かく迎えられている実感を得ます。急患の往診に向かうと、少年の患者とその家族から今までの感謝をサプライズで伝えられ、夜遅くに呼び出された疲れも吹き飛びます。

誰の人生も同じなのかも知れませんが、良い事ばかりは続かないし、悪い事についても同様です。作品の中では、それを計算されたタイミングと短いサイクルで見せられることで、いわゆる「フラグが立つ」ことに観客は敏感になっていきます。

ジェニーに、ささやかながら医師冥利に尽きるような心温まる出来事があれば、すぐにまた何か良からぬ事が起きるのだという予感が、物語全体に静かな緊張感を与えています。

劇場予告では、煽情的な音楽を合わせて実にスリリングな物語であるように見せていましたが、本編では一切のBGMを排しています。ダルデンヌ兄弟(監督)の作品の特徴でもあるのですが、それらしい音楽がなくとも見事にサスペンスフルに仕上がっているのです。

罪悪感を抱えているジェニーにとっては、劇中で何度も鳴るドアベル、さらには携帯の着信音に対しても「これを無視してはいけない」という緊張と義務感があり、観客にもそれが伝わります。ある意味、これらの音がBGMの代わりに効果的に作用していました。

主人公が事件の真相を突き止めようとする物語は多くある中で、この作品の個性を挙げるならば、ジェニーの一番の目的が犯人捜しではなく、ただ被害者の身元を明らかにしたいと言うところです。それはジェニーが、少女の亡くなった原因を自身にあると感じているためかも知れません。

しかし、取り憑かれたように捜索を続けるジェニーの姿は、とても危なっかしい。彼女は刑事などではなく、何よりも(腕力などにおいて)あまりにも普通の女性であることが見ている側に不安を与えます。もし、少女の死が殺人事件であったならば、被害者について聞いて回るジェニーの身に危険が及んでも不思議ではないのです。そして、この事も作品のサスペンス要素を支えているのでした。

ダルデンヌ兄弟は、カンヌ映画祭では常連の監督です。いかにもな作風ですが、彼らの作品には底意地の悪さや露悪的な部分はありません。

いつも、ベルギーのリエージュという工業都市を舞台に、決して楽ではない市井の人々の暮らしが描かれます。甘くない現実を少しも包み隠さず、しかも過度な演出をほどこさないので、どうしても厳しい印象は否めません。

本作では、少女の死の具体的な真相よりも「あの時、それを見過ごさなければ」という後悔がジェニーだけのものではなかったことが、私には重く感じられました。

日常にあふれる、ほんの些細な無関心によって、誰かが命を落とすことがある。ジェニーの患者たちのような、社会的弱者が置かれている少しずつの困難な状況とも、その無関心は繋がりがあるように見えてきます。

いずれにしても、楽しい映画ではないので好みの分かれる作風ですが、ちょうど前回ご紹介した作品では、長尺についてブツブツ言ったところなので、本作の、106分でここまで描けている点を高く評価したいと思いました。

ダルデンヌ兄弟の映画には、希望という光明も見えない代わりに、いつも可能性という微かな光を感じさせてくれます。絶望とも諦念とも違う独特の視点は、不都合から目をそらさない、厳しさと包容力があるように思えてなりません。このあたりが「いかにもカンヌ」たる所以です。

 

 

人の振り見て何とやら

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ザ・スクエア 思いやりの聖域

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

クリスティアンは、スウェーデン王立現代美術館のキュレーターで、常に洗練されたファッションに身を包み、美術館の実質的な責任者としての地位もある。

彼は、次の展覧会に「ザ・スクエア」という作品を展示する準備をしていた。それは地面に正方形を描いた作品で、そのスクエアの中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」「思いやりの聖域」であるという参加型アートだった。

クリスティアンは、この作品のテーマを通して、現代社会のエゴや経済的格差について問題提起するつもりでいた。

ある日、クリスティアンは多くの人が行き交う街中で、何者かから逃げ惑う女性を助けるが、その直後、自分の財布と携帯がないことに気づく。「助けて」と叫んでいた女性が、実はスリだったのだ。

彼は携帯のGPS機能を利用して、奪われた財布と携帯を取り戻そうと画策する。しかし、この一連の出来事がきっかけとなり、クリスティアンは思いも寄らぬ事態に巻き込まれていく。

わたくし的見解

テーマはとても面白い(興味深い)のですが、あまり、面白い映画ではありません。

私の場合、意地悪な映画を好んで見るところがあるので、それが理由で評価を辛くしているのではありません。個人的には、社会風刺にせよ痛烈な批判精神に基づいているにせよ、そういったものならば一層、惹きつける見せ方をして欲しいのです。

この内容なら、151分も要らないなぁと思ってしまいました。120分にまとめてくれていたら、テーマのみならず「面白い映画」だと評価していたし、100分を切っていたら、きっと人に強く勧められる作品になっていたと思います。

さて、すでにキーワードを挙げてしまいましたが、痛烈な批判精神に基づいた社会風刺と問題提起が、映画の内容のすべてです。アレルギー反応を示す人の多い、カンヌ映画祭パルムドール作品らしいテーマですが、評価すべきは「あなた(達)って、こうでしょ?」ではなく「私(達)って、こうじゃないですか?」という目線にあります。

まず、特に大きく取り上げられている風刺の一つは、「私達はいとも簡単に傍観者に陥ってしまう」という指摘です。

予告編でも使われている、猿のリアルな物真似をするパフォーマンスの中で、女性客が襲われるシーンがあります。パフォーマーによる行き過ぎた演出ですが、女性は本当に怯えています。しかし、ほとんどの観客がその光景を見て見ぬ振りし、誰も彼女を助けようとしない。

ここは尺が長いのが玉に瑕ですが、実に分かりやすい場面でもあります。女性客の味わっている緊迫感や恐怖は、相当なものであることが、よく伝わってきます。けれども一番の肝は、映画の鑑賞者が、きっと自分もあの状況では女性を助けたりできないだろう、と思い知らされることです。とても意地悪な見せ方であり、そのために大変効果的だと思いました。

特筆すべき点は、このような指摘をするにあたって、決して青臭い正義感を振りかざして終わらないところです。誰かが助けを求めている時は、手を差し伸べるべきだ! と豪語し、観客に説教するスタンスではありません。

映画の序盤、主人公のクリスティアンが、街で女性の「助けて」の声を耳にした時、はじめ彼は傍観者に甘んじようとしていました。しかし、近くにいた男性に、その女性を助けるために「君も手伝ってくれ」と頼まれて、仕方なくかかわります。

クリスティアンは、女性を助けた直後は人助けをした達成感で、もう一人の男性にハイタッチを求めるほどテンションも上がり、笑顔を見せてくれます。ところが残念なことに、それは人助けをする人の善意につけ込んだ犯罪(スリ)だった訳です。

このように、困っている人に手を差し伸べたけれど、結果的に酷い目に遭ってしまう。というのも、現代社会の中で否定できないリスクであり、その部分も取り上げるあたりに、大人の批判精神を感じました。単純に、傍観者を断罪することが映画の目的ではないようです。

もう一つの大きな風刺の軸は、主人公のクリスティアンハイソサエティーに属する人であることに、強く関わっています。彼が、財布と共に盗まれた携帯のGPS機能を利用して、犯人の所在地を特定する場面があります。

そこは、低所得者層のための集合住宅でした。クリスティアンはマップを確認した時点で、そのことに気付いているようでした。

そして、いつもパリッとしたスーツを着て高級車(テスラ)に乗る主人公が、その集合住宅の全世帯に「財布を返せ、さもないと」と書いた脅迫状をばら撒いてしまう。この行動がスリに遭ったことよりも、実質的なトラブルの始まりでした。

自分が被害者だからと言って、犯人であるなしに関わらず、そこの住人をまとめて泥棒呼ばわりする手段をとってしまったのは、彼らへの誤解や偏見があったからだ。と、映画の終盤で主人公自身が告白しています。

福祉大国のスウェーデンとは言え、物乞いが人目につくところで小銭を要求してくる。移民はたとえ物乞いまでしていなくても、貧困層の多くを占めている。そして、それ以外の人間の無意識下に差別意識が存在する現実も、主人公を通して浮き彫りにしています。

他に、「ザ・スクエア」の展覧会に注目を集めたいがために、意図的に過激なPR動画を製作し、炎上を狙うなど。映画の中の出来事というよりは、今の世の中そのものとも言えるでしょう。

そういった笑い飛ばせない大きな問題提起の隙間に、クスッと笑える小さな風刺を差し込んで構成されています。

砂を円錐状に盛り付けた現代アート作品を、清掃員が掃除してしまって、美術館スタッフが慌てるくだりは、私もクスッとさせて貰いました。どうやらアートも、本作では揶揄されているようです。

作品内での「ザ・スクエア」が参加型アートであるように、この映画自体も参加型、ちょっとした社会実験だと考えてよいと思います。

冒頭でお伝えした通り、他の皮肉を利かせた作品と比べても、それほど面白いものだとは思いませんでしたが、他の人と語り合う題材としては、とても興味深い映画だと言えます。

個人的には、この作品を観て登場人物をただ批判する人よりも、「これは自分にもあてはまるな」とか「明日は我が身だな」と感じた人と、仲良くしていきたい。生意気にも、そう思ってしまいました。

美人より不美人に注目する映画

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女王陛下のお気に入り

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

18世紀の初め、フランスと戦争中のイングランド。国内外の情勢が厳しさを増すなか、女王アンは、側近のサラに公私の境なく支えられていた。政治顧問で幼馴染でもあるサラは、女王を意のままに操り、国家の実権をほぼ握っている状態だった。

そんなサラの元に、従姉妹で没落貴族のアビゲイルが職を求めてくる。初めは召使の仕事しか与えられなかったアビゲイルだが、女王のために薬草を集めてきたことでサラから認められ、侍女に昇格する。直接、女王にお目通りがかなうようになったアビゲイルは、貴族に戻る野心を抱くようになっていた。

サラは、夫のモールバラ公爵が総指揮官である戦争を継続させるため、政治的手腕をふるい続ける。その裏でアビゲイルは、講和派のハーリーの後ろ盾も得ながら、少しずつ女王のお気に入りへと登り詰めて行くのだが。

わたくし的見解

実は、「聖なる鹿殺し」のヨルゴス・ランティモス監督の新作というだけで、劇場へ足を運びました。決して、エマ・ストーンのおっぱいが目的ではありません。

今回はコスチュームプレイ。これまでの作品群からみると意外でしたが、それがかえって興味をそそられました。

そのため、一体どの時代のどこの女王様なのか、私は初め分かっていませんでした。しかし、事前情報をきちんと把握していなくても楽しめる、日本の時代劇にもあるような、宮廷ドロドロ家政婦は見た的人間ドラマなのです。

女王のお気に入りの二人(サラとアビゲイル)は美しく、どちらも非常に賢く強い女性です。けれども女王のアンは、サラが言う通りアナグマ似で外見もパッしない。子供じみた我儘を振りかざす無能な権力者のような描かれ方。権力者と、それを利用しようとする者の、力量の逆転や対比が見事です。

その中で、女王アンとサラの関係は興味深いものでした。幼馴染のサラは、アンが権力を手にする前からの付き合いのせいか、女王に対してお世辞めいたことや綺麗事は一切言わず、むしろ厳しい言葉と態度で向き合います。

誰もが自分を持ち上げてくる権力の頂点にいるからこそ、女王はそのような存在を欲していて、サラは巧みにそこにつけ込んでいるとも受け取れます。ただ、この二人の場合は単純な利害関係に留まりません。

特に、サラは常にアンを操っているかに見えて、時折自分の出過ぎた振る舞いを詫びる様子は絶妙です。アメとムチの使い分けの上手さもありますが、それ以上に、二人のお互いへの支配欲や、ある種恋愛の駆け引きを仕掛けているところもある。

これと比べれば、女王とアビゲイルの関係は極めてシンプルで、つきつめると利害関係のみ。女王とサラ、女王とアビゲイル、それぞれの関係性やアプローチの違いも対照的です。

立ち回りが派手な、お気に入りの二人(サラとアビゲイル)と比べると、やや地味な印象のアン女王ですが、実は、この人物がしっかり物語の柱になっています。

女王アンは、知性ではサラに劣っているかに見えます。しかし、腐っても鯛。

精神的に不安定であるところは、おそらく病弱な体質に起因するもので、自分の置かれている立場を、良くも悪くも嫌になるほど把握している点に、この女性の芯の強さをうかがい知ることが出来ます。

時に周囲を困惑させる我儘な言動は、決して逃れることの出来ない女王としての責務や、そのくせ簡単に引きずり下ろされる可能性のある立場の危うさを、すべて理解した上でなされている。そこに、母として17人の子供を失い、愛する夫にも先立たれた哀しみまで、きちんと落とし込まれた人物像が、この作品では見事に確立していました。

アン女王を演じたオリヴィア・コールマンは、多くの映画賞において主演女優賞を総ナメにする勢いですが、納得の演技力。圧巻です。

作品全体としては、時代物でありながらも、衣装に現代的な素材を用いたり、台詞回しに従来の作品ではあまり見られない、Fワードの連呼があったりと、さり気なくポップな作り。ストーリー展開も小気味良く、コメディのような印象を受けます。

ただ本作では、市原悦子さんが狐とタヌキの化かし合いを暴露してくれませんし、名家をしっちゃかめっちゃかにした後、家政婦商会の仲間と談笑する場面もないので、ラストに向かうに従って突如、軽快さは失われます。

女王は、お気に入り達から、いいように利用されているだけの愚かな存在に見せながら、最終的には自らが絶対権力であることを誇示して幕を閉じる。そこには、権力者ゆえの孤独や虚しさが際立ちます。

はじめは少し唐突に感じたラストですが、この部分に最も、ヨルゴス・ランティモス監督らしさが出ていると感じました。ちょっと意地悪と言うか、皮肉が効いていると言うか。

ヨルゴス・ランティモスのクセの強さと、監督としての力量(映画を面白く撮れる)とのバランスが秀逸でした。次回作への期待も高まりましたし、前作と比べると、人にお勧めしやすい映画に仕上がっていたことが、最大の功だと言えるでしょう。