映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

禍福は糾える縄の如し

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午後8時の訪問者

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

女医ジェニーは、恩師が長年開業してきた小さな診療所の代診を務めていた。数日後には、大きな病院へ移ることが決まっている。

これから勤める病院の歓迎会に招かれた夜、診療所のドアベルが鳴らされた。ジェニーは診療時間を大きく過ぎていることを理由に、応答しようとした研修医を制してモニターさえ確認しなかった。

翌朝、近くで身元不明の少女の死体が見つかり、刑事が診療所に訪ねてきた。防犯カメラに何か写っていないか確認させて欲しいと言う。診療所のカメラには、亡くなる前の少女が助けを求める映像が残っていた。

それは昨夜ジェニーが、研修医に出る必要はないと注意した、あの時のドアベルの映像だった。

少女の死が、事故なのか事件性があるのかは未だ調査中だったが、ジェニーはドアベルを無視した事に責任を感じていた。死因がどちらにせよ少女を無縁仏にさせないために、彼女を知る人がいないかジェニーは独自の調査を始める。

しかし、少女が売春をしていたことなどから、実は彼女を知っていてもそれを明かさない人や、ジェニーの行動そのものを妨害しようとする者まで現れる。果たして、少女は誰で、その夜に何が起きたのか。

わたくし的見解

あの時、もしベルに応じてドアを開けていたら、少女を助けられたのでは。主人公のジェニーは自責の念にかられて、ひたすら少女の身元を探ります。

この映画は、とても小さな吉凶の連なりで出来ています。ドアベルに応じなかったのも些細なことからでした。

すでに医師であるジェニーは、そのとき一緒にいた研修医のジュリアンに先輩としてちょっとした忠告をしている最中でした。命を預かる仕事なので、それほど厳しいとは感じない指導でしたが、ジュリアンの態度は悪く、その後も無言のまま帰ってしまいます。

診療所では、ジュリアンと少し不穏な空気になってしまったものの、自らの歓迎会に足を運んだジェニーは、仲間から能力を高く評価され、暖かく迎えられている実感を得ます。急患の往診に向かうと、少年の患者とその家族から今までの感謝をサプライズで伝えられ、夜遅くに呼び出された疲れも吹き飛びます。

誰の人生も同じなのかも知れませんが、良い事ばかりは続かないし、悪い事についても同様です。作品の中では、それを計算されたタイミングと短いサイクルで見せられることで、いわゆる「フラグが立つ」ことに観客は敏感になっていきます。

ジェニーに、ささやかながら医師冥利に尽きるような心温まる出来事があれば、すぐにまた何か良からぬ事が起きるのだという予感が、物語全体に静かな緊張感を与えています。

劇場予告では、煽情的な音楽を合わせて実にスリリングな物語であるように見せていましたが、本編では一切のBGMを排しています。ダルデンヌ兄弟(監督)の作品の特徴でもあるのですが、それらしい音楽がなくとも見事にサスペンスフルに仕上がっているのです。

罪悪感を抱えているジェニーにとっては、劇中で何度も鳴るドアベル、さらには携帯の着信音に対しても「これを無視してはいけない」という緊張と義務感があり、観客にもそれが伝わります。ある意味、これらの音がBGMの代わりに効果的に作用していました。

主人公が事件の真相を突き止めようとする物語は多くある中で、この作品の個性を挙げるならば、ジェニーの一番の目的が犯人捜しではなく、ただ被害者の身元を明らかにしたいと言うところです。それはジェニーが、少女の亡くなった原因を自身にあると感じているためかも知れません。

しかし、取り憑かれたように捜索を続けるジェニーの姿は、とても危なっかしい。彼女は刑事などではなく、何よりも(腕力などにおいて)あまりにも普通の女性であることが見ている側に不安を与えます。もし、少女の死が殺人事件であったならば、被害者について聞いて回るジェニーの身に危険が及んでも不思議ではないのです。そして、この事も作品のサスペンス要素を支えているのでした。

ダルデンヌ兄弟は、カンヌ映画祭では常連の監督です。いかにもな作風ですが、彼らの作品には底意地の悪さや露悪的な部分はありません。

いつも、ベルギーのリエージュという工業都市を舞台に、決して楽ではない市井の人々の暮らしが描かれます。甘くない現実を少しも包み隠さず、しかも過度な演出をほどこさないので、どうしても厳しい印象は否めません。

本作では、少女の死の具体的な真相よりも「あの時、それを見過ごさなければ」という後悔がジェニーだけのものではなかったことが、私には重く感じられました。

日常にあふれる、ほんの些細な無関心によって、誰かが命を落とすことがある。ジェニーの患者たちのような、社会的弱者が置かれている少しずつの困難な状況とも、その無関心は繋がりがあるように見えてきます。

いずれにしても、楽しい映画ではないので好みの分かれる作風ですが、ちょうど前回ご紹介した作品では、長尺についてブツブツ言ったところなので、本作の、106分でここまで描けている点を高く評価したいと思いました。

ダルデンヌ兄弟の映画には、希望という光明も見えない代わりに、いつも可能性という微かな光を感じさせてくれます。絶望とも諦念とも違う独特の視点は、不都合から目をそらさない、厳しさと包容力があるように思えてなりません。このあたりが「いかにもカンヌ」たる所以です。

 

 

人の振り見て何とやら

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ザ・スクエア 思いやりの聖域

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

クリスティアンは、スウェーデン王立現代美術館のキュレーターで、常に洗練されたファッションに身を包み、美術館の実質的な責任者としての地位もある。

彼は、次の展覧会に「ザ・スクエア」という作品を展示する準備をしていた。それは地面に正方形を描いた作品で、そのスクエアの中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」「思いやりの聖域」であるという参加型アートだった。

クリスティアンは、この作品のテーマを通して、現代社会のエゴや経済的格差について問題提起するつもりでいた。

ある日、クリスティアンは多くの人が行き交う街中で、何者かから逃げ惑う女性を助けるが、その直後、自分の財布と携帯がないことに気づく。「助けて」と叫んでいた女性が、実はスリだったのだ。

彼は携帯のGPS機能を利用して、奪われた財布と携帯を取り戻そうと画策する。しかし、この一連の出来事がきっかけとなり、クリスティアンは思いも寄らぬ事態に巻き込まれていく。

わたくし的見解

テーマはとても面白い(興味深い)のですが、あまり、面白い映画ではありません。

私の場合、意地悪な映画を好んで見るところがあるので、それが理由で評価を辛くしているのではありません。個人的には、社会風刺にせよ痛烈な批判精神に基づいているにせよ、そういったものならば一層、惹きつける見せ方をして欲しいのです。

この内容なら、151分も要らないなぁと思ってしまいました。120分にまとめてくれていたら、テーマのみならず「面白い映画」だと評価していたし、100分を切っていたら、きっと人に強く勧められる作品になっていたと思います。

さて、すでにキーワードを挙げてしまいましたが、痛烈な批判精神に基づいた社会風刺と問題提起が、映画の内容のすべてです。アレルギー反応を示す人の多い、カンヌ映画祭パルムドール作品らしいテーマですが、評価すべきは「あなた(達)って、こうでしょ?」ではなく「私(達)って、こうじゃないですか?」という目線にあります。

まず、特に大きく取り上げられている風刺の一つは、「私達はいとも簡単に傍観者に陥ってしまう」という指摘です。

予告編でも使われている、猿のリアルな物真似をするパフォーマンスの中で、女性客が襲われるシーンがあります。パフォーマーによる行き過ぎた演出ですが、女性は本当に怯えています。しかし、ほとんどの観客がその光景を見て見ぬ振りし、誰も彼女を助けようとしない。

ここは尺が長いのが玉に瑕ですが、実に分かりやすい場面でもあります。女性客の味わっている緊迫感や恐怖は、相当なものであることが、よく伝わってきます。けれども一番の肝は、映画の鑑賞者が、きっと自分もあの状況では女性を助けたりできないだろう、と思い知らされることです。とても意地悪な見せ方であり、そのために大変効果的だと思いました。

特筆すべき点は、このような指摘をするにあたって、決して青臭い正義感を振りかざして終わらないところです。誰かが助けを求めている時は、手を差し伸べるべきだ! と豪語し、観客に説教するスタンスではありません。

映画の序盤、主人公のクリスティアンが、街で女性の「助けて」の声を耳にした時、はじめ彼は傍観者に甘んじようとしていました。しかし、近くにいた男性に、その女性を助けるために「君も手伝ってくれ」と頼まれて、仕方なくかかわります。

クリスティアンは、女性を助けた直後は人助けをした達成感で、もう一人の男性にハイタッチを求めるほどテンションも上がり、笑顔を見せてくれます。ところが残念なことに、それは人助けをする人の善意につけ込んだ犯罪(スリ)だった訳です。

このように、困っている人に手を差し伸べたけれど、結果的に酷い目に遭ってしまう。というのも、現代社会の中で否定できないリスクであり、その部分も取り上げるあたりに、大人の批判精神を感じました。単純に、傍観者を断罪することが映画の目的ではないようです。

もう一つの大きな風刺の軸は、主人公のクリスティアンハイソサエティーに属する人であることに、強く関わっています。彼が、財布と共に盗まれた携帯のGPS機能を利用して、犯人の所在地を特定する場面があります。

そこは、低所得者層のための集合住宅でした。クリスティアンはマップを確認した時点で、そのことに気付いているようでした。

そして、いつもパリッとしたスーツを着て高級車(テスラ)に乗る主人公が、その集合住宅の全世帯に「財布を返せ、さもないと」と書いた脅迫状をばら撒いてしまう。この行動がスリに遭ったことよりも、実質的なトラブルの始まりでした。

自分が被害者だからと言って、犯人であるなしに関わらず、そこの住人をまとめて泥棒呼ばわりする手段をとってしまったのは、彼らへの誤解や偏見があったからだ。と、映画の終盤で主人公自身が告白しています。

福祉大国のスウェーデンとは言え、物乞いが人目につくところで小銭を要求してくる。移民はたとえ物乞いまでしていなくても、貧困層の多くを占めている。そして、それ以外の人間の無意識下に差別意識が存在する現実も、主人公を通して浮き彫りにしています。

他に、「ザ・スクエア」の展覧会に注目を集めたいがために、意図的に過激なPR動画を製作し、炎上を狙うなど。映画の中の出来事というよりは、今の世の中そのものとも言えるでしょう。

そういった笑い飛ばせない大きな問題提起の隙間に、クスッと笑える小さな風刺を差し込んで構成されています。

砂を円錐状に盛り付けた現代アート作品を、清掃員が掃除してしまって、美術館スタッフが慌てるくだりは、私もクスッとさせて貰いました。どうやらアートも、本作では揶揄されているようです。

作品内での「ザ・スクエア」が参加型アートであるように、この映画自体も参加型、ちょっとした社会実験だと考えてよいと思います。

冒頭でお伝えした通り、他の皮肉を利かせた作品と比べても、それほど面白いものだとは思いませんでしたが、他の人と語り合う題材としては、とても興味深い映画だと言えます。

個人的には、この作品を観て登場人物をただ批判する人よりも、「これは自分にもあてはまるな」とか「明日は我が身だな」と感じた人と、仲良くしていきたい。生意気にも、そう思ってしまいました。

美人より不美人に注目する映画

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女王陛下のお気に入り

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

18世紀の初め、フランスと戦争中のイングランド。国内外の情勢が厳しさを増すなか、女王アンは、側近のサラに公私の境なく支えられていた。政治顧問で幼馴染でもあるサラは、女王を意のままに操り、国家の実権をほぼ握っている状態だった。

そんなサラの元に、従姉妹で没落貴族のアビゲイルが職を求めてくる。初めは召使の仕事しか与えられなかったアビゲイルだが、女王のために薬草を集めてきたことでサラから認められ、侍女に昇格する。直接、女王にお目通りがかなうようになったアビゲイルは、貴族に戻る野心を抱くようになっていた。

サラは、夫のモールバラ公爵が総指揮官である戦争を継続させるため、政治的手腕をふるい続ける。その裏でアビゲイルは、講和派のハーリーの後ろ盾も得ながら、少しずつ女王のお気に入りへと登り詰めて行くのだが。

わたくし的見解

実は、「聖なる鹿殺し」のヨルゴス・ランティモス監督の新作というだけで、劇場へ足を運びました。決して、エマ・ストーンのおっぱいが目的ではありません。

今回はコスチュームプレイ。これまでの作品群からみると意外でしたが、それがかえって興味をそそられました。

そのため、一体どの時代のどこの女王様なのか、私は初め分かっていませんでした。しかし、事前情報をきちんと把握していなくても楽しめる、日本の時代劇にもあるような、宮廷ドロドロ家政婦は見た的人間ドラマなのです。

女王のお気に入りの二人(サラとアビゲイル)は美しく、どちらも非常に賢く強い女性です。けれども女王のアンは、サラが言う通りアナグマ似で外見もパッしない。子供じみた我儘を振りかざす無能な権力者のような描かれ方。権力者と、それを利用しようとする者の、力量の逆転や対比が見事です。

その中で、女王アンとサラの関係は興味深いものでした。幼馴染のサラは、アンが権力を手にする前からの付き合いのせいか、女王に対してお世辞めいたことや綺麗事は一切言わず、むしろ厳しい言葉と態度で向き合います。

誰もが自分を持ち上げてくる権力の頂点にいるからこそ、女王はそのような存在を欲していて、サラは巧みにそこにつけ込んでいるとも受け取れます。ただ、この二人の場合は単純な利害関係に留まりません。

特に、サラは常にアンを操っているかに見えて、時折自分の出過ぎた振る舞いを詫びる様子は絶妙です。アメとムチの使い分けの上手さもありますが、それ以上に、二人のお互いへの支配欲や、ある種恋愛の駆け引きを仕掛けているところもある。

これと比べれば、女王とアビゲイルの関係は極めてシンプルで、つきつめると利害関係のみ。女王とサラ、女王とアビゲイル、それぞれの関係性やアプローチの違いも対照的です。

立ち回りが派手な、お気に入りの二人(サラとアビゲイル)と比べると、やや地味な印象のアン女王ですが、実は、この人物がしっかり物語の柱になっています。

女王アンは、知性ではサラに劣っているかに見えます。しかし、腐っても鯛。

精神的に不安定であるところは、おそらく病弱な体質に起因するもので、自分の置かれている立場を、良くも悪くも嫌になるほど把握している点に、この女性の芯の強さをうかがい知ることが出来ます。

時に周囲を困惑させる我儘な言動は、決して逃れることの出来ない女王としての責務や、そのくせ簡単に引きずり下ろされる可能性のある立場の危うさを、すべて理解した上でなされている。そこに、母として17人の子供を失い、愛する夫にも先立たれた哀しみまで、きちんと落とし込まれた人物像が、この作品では見事に確立していました。

アン女王を演じたオリヴィア・コールマンは、多くの映画賞において主演女優賞を総ナメにする勢いですが、納得の演技力。圧巻です。

作品全体としては、時代物でありながらも、衣装に現代的な素材を用いたり、台詞回しに従来の作品ではあまり見られない、Fワードの連呼があったりと、さり気なくポップな作り。ストーリー展開も小気味良く、コメディのような印象を受けます。

ただ本作では、市原悦子さんが狐とタヌキの化かし合いを暴露してくれませんし、名家をしっちゃかめっちゃかにした後、家政婦商会の仲間と談笑する場面もないので、ラストに向かうに従って突如、軽快さは失われます。

女王は、お気に入り達から、いいように利用されているだけの愚かな存在に見せながら、最終的には自らが絶対権力であることを誇示して幕を閉じる。そこには、権力者ゆえの孤独や虚しさが際立ちます。

はじめは少し唐突に感じたラストですが、この部分に最も、ヨルゴス・ランティモス監督らしさが出ていると感じました。ちょっと意地悪と言うか、皮肉が効いていると言うか。

ヨルゴス・ランティモスのクセの強さと、監督としての力量(映画を面白く撮れる)とのバランスが秀逸でした。次回作への期待も高まりましたし、前作と比べると、人にお勧めしやすい映画に仕上がっていたことが、最大の功だと言えるでしょう。

里帰りしたオカンに魔女がめっちゃ怒られる話

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サスペリア

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1977年のベルリン。スージーは、「マルコス・ダンス・カンパニー」の入団オーディションを受けるために、米国オハイオ州から単身でやって来た。

スージーは、カンパニーの代表作「民族(VOLK)」の作者であり振付師のマダム・ブランの目に留まり、一気に主役の座に登りつめる。

マダム・ブランの指導の下、スージーは舞踏にのめり込むあまり一時的な虚脱状態を引き起こす。時を同じくして、カンパニーで不可解な出来事が続く。

すでに退団したとされるダンサー、パトリシアの失踪を、主治医だったクレンペラー博士が警察に調査依頼するが、カンパニーは無関係を装う。しかし、姿を消したダンサーは、パトリシアだけではなかった。

団員のすべてが共同で生活を送っている名門カンパニーで、一体何が起こっているのか。

1977年制作、ダリオ・アルジェント監督によるイタリア・ホラー映画の金字塔「サスペリア」のリメイク作品。

わたくし的見解

私は、77年のオリジナル作品「サスペリア」を観たことがありません。76年生まれなのでリアルタイムでは無理ですが、後追いで鑑賞する機会はあったのに、ただ単純に好きではなかったのです。

若かりし頃の私は、血がいっぱい出てくる、いわゆるスプラッタホラーの類は、中身のないつまらない映画だと決めつけていました。それでも「決してひとりでは見ないでください」というキャッチコピーは印象的で、どのタイミングで目にしたのか耳にしたのか、不思議と記憶に残っています。

今回のリメイク作品でも同じキャッチコピーを採用していますが、作品の印象は旧作とはかなり違うと評判です。

実際、オリジナルを知らないながらも、ホラー映画としてはあまりに複雑な内容について色々調べていく中で、「リメイクではなく再構築だ」「トリビュートだ」というメディアのコメントに、私もまったく同感です。

とくに本作の肝は、オリジナルではまったく触れられていない、77年のドイツ、という舞台を前面に打ち出しているところです。カンパニーとクレンペラー博士の住まいは、西ドイツの西ベルリンにあります。

当時のドイツは東西に分かれており、ベルリンも壁によって分断されていました。カンパニーの目の前にベルリンの壁はそそり立ち、クレンペラー博士は東ベルリンにある別荘と頻繁に行き来する際、その都度税関のような場所で許可証やパスポートを提示する手続きを行います。

ストーリーは、カンパニーの内部で秘密裏に行われている残忍な魔女の儀式が軸ですが、その背景では、ドイツ赤軍が行なったハイジャック事件の報道が連日くり返され、一般市民の生活も脅かされている様子が描かれています。

ヒロインのスージーが、アメリカからベルリンへやって来た当日も、街で爆破事件が起きていたり、77年の後半は「ドイツの秋」と名付けられるほど、多くのテロ事件が勃発していました。

ベルリンの壁崩壊」以前の分断された時代のドイツの社会情勢について、実はあまり知りませんでした。しかし70年代は、ドイツに限らず世界中で、資本主義と共産主義の争いが水面下だけにとどまらず、内戦やテロなどの暴力に発展していたのも事実。

ハイジャックや赤軍と聞けば、日本でも「よど号事件」がすぐに連想されたりと、不穏な時代であったことは想像できます。暗い社会背景とカンパニーでの不可解な出来事は、相乗効果で観るものを不安にさせます。

しかしカンパニーの、特に運営側に立つマダムたちは、驚くほど世間に無関心であることが物語のポイントでもあるのです。表向きは舞踏団として生き残った彼女たちは、元来は「魔女」として世の中から迫害を受け、排除されてきた歴史があります。

自分たちを苦しめてきた世間が、東西の分断に苦しめられようとも、目の前に壁があろうとも、知らぬ存ぜぬの姿勢を貫くのは、それほど不思議なことではないのかもしれません。そんな事よりも、自分たちが生き残るため古いしきたりにのっとり、若いダンサーを犠牲にして禍々しい儀式を行うことが重要なのです。

そのカンパニーの中で、マダム・ブランは代表の座を争うほどのポジションにいるのに、少し違う方向性を模索している革新的な存在です。

舞踏団の存続が最重要事項であることは、他のマダム(魔女)と同じなのに、性急に儀式を執り行うことに抵抗を示します。しかし、カンパニーの代表はマダム・マルコスであり、選挙で選ばれた彼女の意向を覆すことは出来ません。

マダム・ブランの葛藤は、スージーが舞踏団に加わったことで、さらに強くなります。他のマダムにとって、スージーは恰好の生贄でしかないのに、マダム・ブランだけは彼女が何か特別な存在であることに気づいていました。

ヒロイン、スージーの設定も実に凝っています。オリジナルでも、世界的に有名なダンスカンパニーに憧れて、アメリカからやって来た設定ですが、旧作はニューヨーク出身なのに、本作ではあえてオハイオ出身であることを強調しています。

旧作のスージーは、魔女の儀式に巻き込まれる被害者的な立ち位置なのに対し、本作のスージーは、運命に引き寄せられ悪い魔女を粛清しに来た、ちょっとヒロイックな存在です。

オハイオ出身のスージーは、自身でもメノナイトであると明かしています。このことは彼女のルーツが元々ドイツにあることを示し、アメリカ生まれなのに、子供の頃から何故かベルリンへの執着が強かったスージーは、数世代ぶりに故郷に帰って来たという筋書きです。

帰郷の目的は、いつの間にか間違った方向に邁進する魔女たちの道を正すため。初めは自覚もなく、引き寄せられるようにやって来たスージーは、カンパニーのどの魔女よりも大きな力を持つ、始祖(母)であった。と言うオチなのですが、そんなの正直めっちゃ分かりにくいです。

オリジナル作品の持つ要素を、監督独自の視点で解釈し、かなり深く掘り下げ再構築しているため、とても複雑であらゆる情報が渋滞しています。ただ、それらの情報が、後出しジャンケンのような乱暴な詰め込み方ではなく、丁寧な散りばめ方をされている点は敬服しました。

初見で理解するのは簡単ではありませんが、複雑な要素を改めて紐解くのは、個人的には興味深い作業でした。難解でも気になってしまう感じは、「エヴァンゲリオン」に初めて遭遇した時に少し似ていて、作品の面白さを支えている部分でもあると思います。

実は鑑賞中の特に前半は、あまりの気味の悪さに後悔していました。ところが見終わってみると、案外悪くないと思えたのです。

コンテンポラリーダンスの演出は圧巻ですし、トム・ヨークの音楽は実に効果的に機能しています。同時に、この上なく不気味な美しさを放つ作品を支持したいけれど、このような賢しい作品が嫌われるのも理解できます。

ちなみに、ひとりではなく何人で見ようとも、おぞましさは変わりません。タランティーノがこの作品を観て涙したと言われていますが、つくづく変わってる人だなと思いました。

でも、ちょっと分かる気もします。

作品の中で、マザーと呼ばれている存在は、世の中の分断について無関心であることは恥で、罪悪感を抱くべきだと考えていました。また、すでにその事に心を痛めている人へは、その重荷を解き放ち去っていきます。やはり案外、悪くない物語なのです。

監督の、オリジナルへの思いの強さが裏目に出て、色々ぶち込み過ぎた感はありますが、なかなかの力作でした。ただし、広くおすすめはしません。狭いところ向けの作品です。

勝利依存症の女神

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女神の見えざる手

映画情報

こんな話(作品概要)

政治家や世論を動かし、マスコミをもコントロールするプロフェッショナル集団。それがロビイスト。彼らはクライアントに利益をもたらすために、あらゆる活動をします。ワシントンD.C.には、通称「Kストリート」と呼ばれる、ロビイストの会社が立ち並ぶエリアがあるそうです。

邦題の、“見えざる手”とは、あくまでクライアントのために、様々な戦略を巡らせ暗躍する(時に表舞台にも登場する)ロビイストの働きを指しており、“女神”とは、その業界において圧倒的勝率を誇るロビイスト、ヒロインのエリザベス・スローンのことに他なりません。

業界内のみならず、政治家からも畏れられるほど有能なロビイストであるスローンは、銃の規制(販売時の身分証確認を義務づける)法案の成立を阻止したいクライアントから指名されます。クライアントは共和党の大物議員であり、ライフル協会などの大きな支持母体が背後にあります。

しかし、法案の成立を是とするスローンは依頼を断り、それによって所属する最大手のロビイスト会社からも、これほど大きな依頼を引き受けないなら「お前はクビだ」とまで言われてしまいます。

その後、銃規制法案の成立に尽力しているシュミットからスカウトされたスローンは、何人もの部下を引き連れて移籍し、銃規制阻止派に立つ元いた大手ロビイスト会社と対決することに。

スローンは、時にモラルに抵触するような戦略を駆使し、圧倒的劣勢から見事な逆転劇を幾度も見せます。しかし不測の事態や、阻止派によるスキャンダラスな個人攻撃に襲われ、法案の成立も彼女自身も致命的なダメージを受けることになってしまうのですが。

わたくし的見解

ロビイストという、あまり馴染みのない職業を取り上げていることもあり、少し地味な印象のある作品ですが、大変に面白い社会派サスペンスです。

社会派サスペンスと聞くと、暗く重厚で静かな展開を辛抱強く見せられるイメージもありますが、この作品はテンポもよく展開もスリリングで、エンターテインメントとして優れた映画です。法廷ものやウォールストリートものなどの名作群に、十分に名を連ねることができるでしょう。

本作の中で戦っているのが、銃規制法案の成立を目指す小さなロビイスト会社(クライアントがNPO法人で資金も少なく、必然的に小さな会社にしか頼れない)と、廃案を目指す最大手のロビイスト会社(ライフル協会をはじめとする非常に大きな権力と資金力を持つクライアントなので当然、最も勝率の高い最大手の会社に依頼している)。

ヒロインのエリザベス・スローンが、最初に銃規制法案の廃案を依頼された際に明言していますが「廃案に持ち込むのは簡単」なのが、アメリカの現状です。

ドキュメンタリー映画ボウリング・フォー・コロンバイン」や、同じ銃乱射事件に着想を得たフィクション映画「エレファント」などの印象が強かったため、コロンバイン高校の銃乱射事件は、アメリカにおいてもセンセーショナルな事件なのだと、私はある時まで思い込んでいました。

日本ならば、そのような事件一つで銃の規制に向けて、政府も国民も大きく動くと思われますが、アメリカでは州によって法律が違うとは言え、大きく銃規制が進まずに事件以降の20年近くが過ぎています。

コロンバイン高校の事件は、実はそれほどセンセーショナルでは無かったのです。現在のアメリカで年間に発生している銃乱射事件は300件(←うろ覚えの数字です)を超えており、日常茶飯事と言っても過言ではありません。

件数に比例して被害者は増え続け、被害者の家族まで含めれば、とても無視できない数になるはずですが、このような悲劇の度に銃の規制を叫ぶ者と、それに対抗する勢力が声を上げます。

対抗する勢力の言い分が、これまた日本人にはまったくピンとこない「このような悲劇を生み出す、銃の暴力に対抗できるのは銃の所持しかない」というものです。

このあたりの丁々発止のやり取りは、映画の見所の一つです。

銃を手放したくない人たちにとって「アメリカという国は銃を持つ権利によって成り立っている」という信条、思想?信念?に支えられています。建国の父を支えたものが銃であり、アメリカ国民は銃を保持する権利が憲法で保障されている。

スローンは、銃規制を支持する立場ですから、憲法を作った頃とは時代が違うなどの指摘をメディアで放ちます。実はこの切り返しはアメリカではあまり効果的ではなく、どちらかと言えば、するべきではない反論のようですが、スローンはその後の展開のために、あえてこの下手を打って見せる。

このようなツイスト(逆転)の応酬は、ぜひ本編で楽しんで頂きたいのですが、日本人にとっても思うところの多い論争と言えないでしょうか。銃規制という、あまり私たちには縁のない極端なところを取り上げられることで、ちょっと冷静に考えられる部分があります。

憲法にあるからというだけで、本当に今、無条件に正しいと信じてよいのか?とか。国民を守るための銃(武力)によって国民が傷つけられることがあるなら、一体どうすればいいのか?とか。

さて、作品の屋台骨としてヒロインの人物像がよくできています。仕事の鬼で、超絶合理主義。ヒューマニズムに溺れず、必要であれば躊躇なく人の弱点を利用する。その態度は、仲間に対しても同じです。すべては勝利のため。

ハードな日々を乗りきるために睡眠薬ではなく、眠らないための薬を常用している。薬物依存と言うよりは、勝つまで眠らない、勝利依存症なのです。

他の物語のヒロインのように、プライベートを犠牲にしていることを思い悩むふしはありません。潔いほどの冷血漢の彼女が、自分の築き上げたキャリアを賭けて、なぜ極めて勝算の低い戦いに身を投じたのか。

スローンが周囲に自分の生い立ちやバックボーンを明かさないように、映画も彼女のその部分を語りはしない。語られないことで、とても好感度の低いヒロインなのに興味が湧き、様々な想像を膨らませることができます。

勝利のためにモラルの一線を超えてしまう、自他共に認める最低の人間なのに、銃規制実現のために、ここまで労力を惜しまないのは何故なのか。劇中で彼女が語るように、「『どんな異常者でも、店やネットで銃が買える』世の中を容認するべきではない」という単純な信条によるものなのか。

その意志を確固たるものにするようなストーリー(悲劇)が、本当はスローンの人生にあったのかも知れない。あるいは、ただ周囲から絶対に勝てないと言われている戦いに「勝利すること」だけが、彼女のモチベーションのすべてだったのかも知れない。

スローンを「いい人」として描かないことで、人間が複雑な生き物であるリアリティーが生まれているように思いました。フィクションであることが残念に思えるほど、かっこいいダークヒロインです。

ところで、アメリカでの銃乱射事件の増加は、銃大好きな共和党のトランプさんが大統領に当選した影響は否めないと、個人的に思っています。アメリカと銃社会への「?(はてな)」や、憲法改正というものをよそ事として流せない現在、様々な要素が旬に感じられる内容でした。

ちょっと取っ付きにくく小難しいような感じもしますが、弱小チームがメジャーリーガー引き抜いて、ジャイアントキリングを目指す、みたいなシンプルで熱い面白さもありますので、本当にお勧めの作品です。

121分 de 名著

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メアリーの総て

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

19世紀のイギリス。いつでも読書と創作に夢中のメアリーは、継母から家業の書店を手伝わないことを責められていた。メアリーを出産してすぐに亡くなった生母は、フェミニズム創始者として知られる女性だったが、伝統を重んじる継母から、実母を悪く言われたことでメアリーは思わず手を上げてしまう。

メアリーと継母を引き離すため、また思う存分創作活動に取り組めるようにと、父は古い友人の元へメアリーを送る。父もまた、無神論者、アナキズムの先駆者として有名なウィリアム・ゴドウィンだった。

メアリーは滞在先で開かれた読書会で、”異端の天才詩人”パーシー・シェリーと出会う。二人はすぐに惹かれあったが、パーシーにはすでに妻子があった。いつもメアリーに理解を示してくれる父にも反対され、二人は駆け落ちする。

ゴシックの古典的名作であり、初めてのSF小説とも謳われる「フランケンシュタイン」が、10代のうら若きメアリーから、どのようにして生み出されたのかを描く。

わたくし的見解

イギリスを代表する女性作家の一人として挙げられる、メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」を発刊するまでが描かれています。

1818年の初版では匿名で発行され、メアリー・シェリーの名前が著者として記されるのは改訂版以降。理由は、女性が書いた物語として内容がふさわしくないというもので、その当時、女性名義で発行される書籍が存在しなかった訳ではないようです。

しかし、1847年発行のエミリー・ブロンテ著「嵐が丘」も、1848年発行のシャーロット・ブロンテ著「ジェーン・エア」も、男性名義で出版されていることから、求められる女性像に見合わない内容だと出版にさえ辿り着けなかった。そういう時代だったことは間違いないでしょう。

ブロンテ姉妹やメアリー・シェリーより少し遡り、同じく代表的なイギリスの女性作家ジェーン・オースティンの作品は、貴族の女性が長閑な郊外で紆余曲折ありながらも、最後は素敵な結婚をしてエバーアフター幸せに暮らしました、的なキラキラした物語群のように見えます。

しかし、結婚することでしか身を立てる事が出来ない。ようするに結婚できなければ食べていくことまで難しい、当時の女性の苦労をそこかしこで見てとることができます。

現代の感覚で「なら働けばいい」とはいかず、身分のある女性には働く自由もほぼ無く、唯一生きていく術である結婚さえ、持参金無しには成立しない時代だったのです。

例えばヒロインの姉妹は、明言されていなくても行かず後家としての将来を予感せざるを得なかったり、事実ヒロインの親類のような女性には独り身で年老い、かろうじて生活を援助してくれていた身内もいなくなり、暮らしが立ち行かなくなるなどのエピソードが、当たり前のように描かれます。

そのような身分のある女性にさえ権利らしい権利も自由もない時代に、メアリーの母親は、男女同権や教育の機会均等を訴えた人物として名を残しています。

フェミニズムと聞くと、刈り込んだショートカットで言論のファイティングポーズをとり続ける女性を思い描きますが(それは私だけかも知れませんが)本来は、このようなところから来ているのだと自らの偏見を悔い改めるほどの感慨がありました。

「メアリーの総て」自体は、そう言った政治的に直接訴えるような内容のものではないところが魅力です。先駆的な精神を持った両親のもとで生まれ、当時の常識に囚われない自由な女性像と共に、ただ恋に落ち、若さゆえの愚かさが目立つ等身大のメアリーも見せてくれる。

初めは妻帯者であることにも気づかず恋をして、その熱に浮かれていただけの少女が、母になる喜びと子を失う悲しみを経験し、確実に成長する姿がとても丁寧に捉えてられており、その総てが創作の肥しになっていることを示唆しています。

メアリーの強さと弱さは、演じるエル・ファニングの少女から大人への過渡期に見られる危うさと共に、強く惹きつけられるものがありました。数年前のエル・ファニングでも数年後のエル・ファニングでも駄目で、ベストのタイミングで彼女を主演に据えることが出来たと思います。

また概要だけだと、今さらこんなベタなフェミニズム映画と一蹴したくなるのですが、ハイファ・アル=マンスール監督を起用したあたりが製作者サイドの思惑に見事にはまっていて、悔しいけれど見事でした。

ハイファ・アル=マンスールサウジアラビア出身の女性監督で、彼女の国では宗教的な問題で、未だ女性がこの映画に見られるような憂き目にあっている訳です。けれども、当事者である監督は案外さらりと作品に昇華させるものなのだと感心。

一人の女の子の成長を丁寧に描く。という切り口が、とても真摯に感じられ好感を持ちました。なんか、やっぱり刈り込んだショートカットの人たちとは違うんです。軽やかというか、爽やかというか。

映像に雰囲気もあり、コスチュームプレイとしても魅力的で、少しもフェミニズム映画ではないのだけれど、現代のフェミニズムのあり方をちょっと考えてしまった作品でした。

悪人のいない、よくできた落語みたいなのだ

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ラブ・アゲイン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

キャルは40代の冴えない男だが誠実で、良き夫であり良き父でもある。ある晩、夫婦水入らずでの外食の最中に、25年連れ添った妻エミリーから突然「離婚したい」と告白される。そして、会社の同僚デイヴィッド・リンハーゲンと浮気をしたことも。

10代で結婚し、妻一筋で生きてきたキャルはショックのあまり、反論や抵抗をまったく出来ずに離婚を受け入れ、家を出てしまう。

独りになったキャルは、地元のバーでヤケ酒を呑みながら、相手構わずに妻に浮気され捨てられた身の上話を繰り返していた。それを見かねた、バーの常連客でプレイボーイのジェイコブは、キャルを垢抜けたナイスミドルに変身させ、女性の口説き方を伝授する。

キャルは初めのうちは少しも乗り気ではなかったが、ほぼヤケクソでジェイコブの言う事を聞くうちに、バーから女性をお持ち帰り出来るほどになる。キャルとジェイコブの間には、いつの間にか不思議な師弟関係と友情が生まれていたのだが。

わたくし的見解

主演のスティーブ・カレルは、もともとTVで人気を博したコメディアンで、映画でもコメディ俳優として活躍しています。でも顔だけ見ていると、あまりコメディアンには見えないですよね。

ミスター七・三とあだ名を付けたくなるような、とても真面目に見える顔立ちだし、何気にハンサム。正直、ジョージ・クルーニーあたりのスタアと写真を並べても、誰も違和感を覚えないのではないでしょうか。

だから、どんな悪ふざけやバカをされるより、ハンサムが過ぎるところが、一番スティーブ・カレルの面白おかしいところだと思うのです。

本作もコメディではあるのですが、スティーブ・カレルはほとんどバカをしません。時々、我慢しきれずに悪ふざけしかけても、すぐにやめます。一見まともなのに何か含みのある「佇まいの可笑しみ」という彼の持ち味が、よく活かされた作品です。

主人公のキャルは、冴えない見た目の中年男性ですが、人から疎ましがられるようなキモ男ではありません。

ただセクシーとは程遠く、その年齢の多くの既婚者がそうであるように、マイホームパパらしい洒落っ気のない服装と髪型。幸せな父親らしく、会話は子供が起こす日常のささやかな事件や、深入りしない仕事の話。

子供たちもパパの帰りを待ちわびる、素晴らしい家庭人に他ならないのです。

キャルの場合「真面目な男はつまらなく、ちょっとワルな感じの方が女性にはモテる」というような定説に振り回される年齢でもありませんが、青天の霹靂、離婚のせいで、年下のジェイコブによるモテ男レクチャーを受けることになります。

おっさんながらも「マイ・フェア・レディ」よろしく、まず外見から変えるため、ショッピングモールで改造計画が始まります。その時、ジェイコブから指摘される「冴えない男あるある」が楽しい。

サイズの合わない服を着るな。スティーブ・ジョブズでもないのに、ニューバランスのスニーカーばかり履くな。それから買い物のあいだ、しばらくスルーされていましたが、最後に「ビリビリ(マジックテープ)の財布はやめろ」。

ところが、冴えないあるあるコンプリートのキャスに、ずっと恋している女性も登場する。この映画の、ただただ真面目な良い人(男性)に惹かれる女性もいるのだ、という視点に私は好感を持ちました。

物語全体としては、ラブコメ(ロマンチック・コメディ)と言うよりも、ハートウォーミングな群像劇の印象が強いです。

それでも、あえてラブコメを銘打っているのは、多くの登場人物が、恋心や愛情の矢をそれぞれ一方的に放っているから。ちぐはぐだった恋の(愛の)矛先は、最終的に「恋のから騒ぎ」さながら見事に収束します。

それぞれの恋や愛(片思い)に、歯が浮くような甘ったるさも、狂おしいほどの切なさもないところが個人的にとても好み。素直に、登場人物を祝福したり応援したり出来ました。

なんとも、ほっこりした気分になれるので、ふだんはラブコメなど観ない人も、落語の人情話のような感覚で楽しんでもらいたい作品です。

ちょっと余談ですが、「ラ・ラ・ランド」の二人がすでに、ここで共演していました。「ラ・ラ・ランド」でも本作でも、ライアン・ゴズリングエマ・ストーンの仲睦まじい様子は、実に微笑ましいのです。

エマ・ストーンに対する、ただの私のエコ贔屓なのかも知れませんが、彼女はイチャイチャするのがとても上手なんですね。恋人同士が「一緒に居ること」の楽しさを見せるのが、いつも巧い。

ライアン・ゴズリングエマ・ストーンもそれぞれ、プライベートではすでにパートナーがあるようですが、往年の三浦友和山口百恵のように、いずれ結婚してくれないだろうか、と思ってしまうほど相性の良さを感じます。

二人の相性の良さは、自他共に認めているから共演も重なるのだろうし、プライベートはさておき、トム・ハンクスメグ・ライアンみたいな、作品上のベストカップルに今後なってくれると嬉しい。

鑑賞を終えると、コメディとは思えない豪華なキャスティングにも納得の、構成のよくできた作品でもあります。

サスペンス要素はまったくないのに、序盤からうっすら気になっていたことが「なるほど、ここに繋がっていたのね」とスッキリするツイスト(どんでん返し、という程でもないのだけれどチョットかした種明かし)が心地よかった。

年末年始に、お家でゆっくり、ほっこり楽しめる作品としてお薦めします。