映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

美人より不美人に注目する映画

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女王陛下のお気に入り

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

18世紀の初め、フランスと戦争中のイングランド。国内外の情勢が厳しさを増すなか、女王アンは、側近のサラに公私の境なく支えられていた。政治顧問で幼馴染でもあるサラは、女王を意のままに操り、国家の実権をほぼ握っている状態だった。

そんなサラの元に、従姉妹で没落貴族のアビゲイルが職を求めてくる。初めは召使の仕事しか与えられなかったアビゲイルだが、女王のために薬草を集めてきたことでサラから認められ、侍女に昇格する。直接、女王にお目通りがかなうようになったアビゲイルは、貴族に戻る野心を抱くようになっていた。

サラは、夫のモールバラ公爵が総指揮官である戦争を継続させるため、政治的手腕をふるい続ける。その裏でアビゲイルは、講和派のハーリーの後ろ盾も得ながら、少しずつ女王のお気に入りへと登り詰めて行くのだが。

わたくし的見解

実は、「聖なる鹿殺し」のヨルゴス・ランティモス監督の新作というだけで、劇場へ足を運びました。決して、エマ・ストーンのおっぱいが目的ではありません。

今回はコスチュームプレイ。これまでの作品群からみると意外でしたが、それがかえって興味をそそられました。

そのため、一体どの時代のどこの女王様なのか、私は初め分かっていませんでした。しかし、事前情報をきちんと把握していなくても楽しめる、日本の時代劇にもあるような、宮廷ドロドロ家政婦は見た的人間ドラマなのです。

女王のお気に入りの二人(サラとアビゲイル)は美しく、どちらも非常に賢く強い女性です。けれども女王のアンは、サラが言う通りアナグマ似で外見もパッしない。子供じみた我儘を振りかざす無能な権力者のような描かれ方。権力者と、それを利用しようとする者の、力量の逆転や対比が見事です。

その中で、女王アンとサラの関係は興味深いものでした。幼馴染のサラは、アンが権力を手にする前からの付き合いのせいか、女王に対してお世辞めいたことや綺麗事は一切言わず、むしろ厳しい言葉と態度で向き合います。

誰もが自分を持ち上げてくる権力の頂点にいるからこそ、女王はそのような存在を欲していて、サラは巧みにそこにつけ込んでいるとも受け取れます。ただ、この二人の場合は単純な利害関係に留まりません。

特に、サラは常にアンを操っているかに見えて、時折自分の出過ぎた振る舞いを詫びる様子は絶妙です。アメとムチの使い分けの上手さもありますが、それ以上に、二人のお互いへの支配欲や、ある種恋愛の駆け引きを仕掛けているところもある。

これと比べれば、女王とアビゲイルの関係は極めてシンプルで、つきつめると利害関係のみ。女王とサラ、女王とアビゲイル、それぞれの関係性やアプローチの違いも対照的です。

立ち回りが派手な、お気に入りの二人(サラとアビゲイル)と比べると、やや地味な印象のアン女王ですが、実は、この人物がしっかり物語の柱になっています。

女王アンは、知性ではサラに劣っているかに見えます。しかし、腐っても鯛。

精神的に不安定であるところは、おそらく病弱な体質に起因するもので、自分の置かれている立場を、良くも悪くも嫌になるほど把握している点に、この女性の芯の強さをうかがい知ることが出来ます。

時に周囲を困惑させる我儘な言動は、決して逃れることの出来ない女王としての責務や、そのくせ簡単に引きずり下ろされる可能性のある立場の危うさを、すべて理解した上でなされている。そこに、母として17人の子供を失い、愛する夫にも先立たれた哀しみまで、きちんと落とし込まれた人物像が、この作品では見事に確立していました。

アン女王を演じたオリヴィア・コールマンは、多くの映画賞において主演女優賞を総ナメにする勢いですが、納得の演技力。圧巻です。

作品全体としては、時代物でありながらも、衣装に現代的な素材を用いたり、台詞回しに従来の作品ではあまり見られない、Fワードの連呼があったりと、さり気なくポップな作り。ストーリー展開も小気味良く、コメディのような印象を受けます。

ただ本作では、市原悦子さんが狐とタヌキの化かし合いを暴露してくれませんし、名家をしっちゃかめっちゃかにした後、家政婦商会の仲間と談笑する場面もないので、ラストに向かうに従って突如、軽快さは失われます。

女王は、お気に入り達から、いいように利用されているだけの愚かな存在に見せながら、最終的には自らが絶対権力であることを誇示して幕を閉じる。そこには、権力者ゆえの孤独や虚しさが際立ちます。

はじめは少し唐突に感じたラストですが、この部分に最も、ヨルゴス・ランティモス監督らしさが出ていると感じました。ちょっと意地悪と言うか、皮肉が効いていると言うか。

ヨルゴス・ランティモスのクセの強さと、監督としての力量(映画を面白く撮れる)とのバランスが秀逸でした。次回作への期待も高まりましたし、前作と比べると、人にお勧めしやすい映画に仕上がっていたことが、最大の功だと言えるでしょう。

里帰りしたオカンに魔女がめっちゃ怒られる話

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サスペリア

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1977年のベルリン。スージーは、「マルコス・ダンス・カンパニー」の入団オーディションを受けるために、米国オハイオ州から単身でやって来た。

スージーは、カンパニーの代表作「民族(VOLK)」の作者であり振付師のマダム・ブランの目に留まり、一気に主役の座に登りつめる。

マダム・ブランの指導の下、スージーは舞踏にのめり込むあまり一時的な虚脱状態を引き起こす。時を同じくして、カンパニーで不可解な出来事が続く。

すでに退団したとされるダンサー、パトリシアの失踪を、主治医だったクレンペラー博士が警察に調査依頼するが、カンパニーは無関係を装う。しかし、姿を消したダンサーは、パトリシアだけではなかった。

団員のすべてが共同で生活を送っている名門カンパニーで、一体何が起こっているのか。

1977年制作、ダリオ・アルジェント監督によるイタリア・ホラー映画の金字塔「サスペリア」のリメイク作品。

わたくし的見解

私は、77年のオリジナル作品「サスペリア」を観たことがありません。76年生まれなのでリアルタイムでは無理ですが、後追いで鑑賞する機会はあったのに、ただ単純に好きではなかったのです。

若かりし頃の私は、血がいっぱい出てくる、いわゆるスプラッタホラーの類は、中身のないつまらない映画だと決めつけていました。それでも「決してひとりでは見ないでください」というキャッチコピーは印象的で、どのタイミングで目にしたのか耳にしたのか、不思議と記憶に残っています。

今回のリメイク作品でも同じキャッチコピーを採用していますが、作品の印象は旧作とはかなり違うと評判です。

実際、オリジナルを知らないながらも、ホラー映画としてはあまりに複雑な内容について色々調べていく中で、「リメイクではなく再構築だ」「トリビュートだ」というメディアのコメントに、私もまったく同感です。

とくに本作の肝は、オリジナルではまったく触れられていない、77年のドイツ、という舞台を前面に打ち出しているところです。カンパニーとクレンペラー博士の住まいは、西ドイツの西ベルリンにあります。

当時のドイツは東西に分かれており、ベルリンも壁によって分断されていました。カンパニーの目の前にベルリンの壁はそそり立ち、クレンペラー博士は東ベルリンにある別荘と頻繁に行き来する際、その都度税関のような場所で許可証やパスポートを提示する手続きを行います。

ストーリーは、カンパニーの内部で秘密裏に行われている残忍な魔女の儀式が軸ですが、その背景では、ドイツ赤軍が行なったハイジャック事件の報道が連日くり返され、一般市民の生活も脅かされている様子が描かれています。

ヒロインのスージーが、アメリカからベルリンへやって来た当日も、街で爆破事件が起きていたり、77年の後半は「ドイツの秋」と名付けられるほど、多くのテロ事件が勃発していました。

ベルリンの壁崩壊」以前の分断された時代のドイツの社会情勢について、実はあまり知りませんでした。しかし70年代は、ドイツに限らず世界中で、資本主義と共産主義の争いが水面下だけにとどまらず、内戦やテロなどの暴力に発展していたのも事実。

ハイジャックや赤軍と聞けば、日本でも「よど号事件」がすぐに連想されたりと、不穏な時代であったことは想像できます。暗い社会背景とカンパニーでの不可解な出来事は、相乗効果で観るものを不安にさせます。

しかしカンパニーの、特に運営側に立つマダムたちは、驚くほど世間に無関心であることが物語のポイントでもあるのです。表向きは舞踏団として生き残った彼女たちは、元来は「魔女」として世の中から迫害を受け、排除されてきた歴史があります。

自分たちを苦しめてきた世間が、東西の分断に苦しめられようとも、目の前に壁があろうとも、知らぬ存ぜぬの姿勢を貫くのは、それほど不思議なことではないのかもしれません。そんな事よりも、自分たちが生き残るため古いしきたりにのっとり、若いダンサーを犠牲にして禍々しい儀式を行うことが重要なのです。

そのカンパニーの中で、マダム・ブランは代表の座を争うほどのポジションにいるのに、少し違う方向性を模索している革新的な存在です。

舞踏団の存続が最重要事項であることは、他のマダム(魔女)と同じなのに、性急に儀式を執り行うことに抵抗を示します。しかし、カンパニーの代表はマダム・マルコスであり、選挙で選ばれた彼女の意向を覆すことは出来ません。

マダム・ブランの葛藤は、スージーが舞踏団に加わったことで、さらに強くなります。他のマダムにとって、スージーは恰好の生贄でしかないのに、マダム・ブランだけは彼女が何か特別な存在であることに気づいていました。

ヒロイン、スージーの設定も実に凝っています。オリジナルでも、世界的に有名なダンスカンパニーに憧れて、アメリカからやって来た設定ですが、旧作はニューヨーク出身なのに、本作ではあえてオハイオ出身であることを強調しています。

旧作のスージーは、魔女の儀式に巻き込まれる被害者的な立ち位置なのに対し、本作のスージーは、運命に引き寄せられ悪い魔女を粛清しに来た、ちょっとヒロイックな存在です。

オハイオ出身のスージーは、自身でもメノナイトであると明かしています。このことは彼女のルーツが元々ドイツにあることを示し、アメリカ生まれなのに、子供の頃から何故かベルリンへの執着が強かったスージーは、数世代ぶりに故郷に帰って来たという筋書きです。

帰郷の目的は、いつの間にか間違った方向に邁進する魔女たちの道を正すため。初めは自覚もなく、引き寄せられるようにやって来たスージーは、カンパニーのどの魔女よりも大きな力を持つ、始祖(母)であった。と言うオチなのですが、そんなの正直めっちゃ分かりにくいです。

オリジナル作品の持つ要素を、監督独自の視点で解釈し、かなり深く掘り下げ再構築しているため、とても複雑であらゆる情報が渋滞しています。ただ、それらの情報が、後出しジャンケンのような乱暴な詰め込み方ではなく、丁寧な散りばめ方をされている点は敬服しました。

初見で理解するのは簡単ではありませんが、複雑な要素を改めて紐解くのは、個人的には興味深い作業でした。難解でも気になってしまう感じは、「エヴァンゲリオン」に初めて遭遇した時に少し似ていて、作品の面白さを支えている部分でもあると思います。

実は鑑賞中の特に前半は、あまりの気味の悪さに後悔していました。ところが見終わってみると、案外悪くないと思えたのです。

コンテンポラリーダンスの演出は圧巻ですし、トム・ヨークの音楽は実に効果的に機能しています。同時に、この上なく不気味な美しさを放つ作品を支持したいけれど、このような賢しい作品が嫌われるのも理解できます。

ちなみに、ひとりではなく何人で見ようとも、おぞましさは変わりません。タランティーノがこの作品を観て涙したと言われていますが、つくづく変わってる人だなと思いました。

でも、ちょっと分かる気もします。

作品の中で、マザーと呼ばれている存在は、世の中の分断について無関心であることは恥で、罪悪感を抱くべきだと考えていました。また、すでにその事に心を痛めている人へは、その重荷を解き放ち去っていきます。やはり案外、悪くない物語なのです。

監督の、オリジナルへの思いの強さが裏目に出て、色々ぶち込み過ぎた感はありますが、なかなかの力作でした。ただし、広くおすすめはしません。狭いところ向けの作品です。

勝利依存症の女神

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女神の見えざる手

映画情報

こんな話(作品概要)

政治家や世論を動かし、マスコミをもコントロールするプロフェッショナル集団。それがロビイスト。彼らはクライアントに利益をもたらすために、あらゆる活動をします。ワシントンD.C.には、通称「Kストリート」と呼ばれる、ロビイストの会社が立ち並ぶエリアがあるそうです。

邦題の、“見えざる手”とは、あくまでクライアントのために、様々な戦略を巡らせ暗躍する(時に表舞台にも登場する)ロビイストの働きを指しており、“女神”とは、その業界において圧倒的勝率を誇るロビイスト、ヒロインのエリザベス・スローンのことに他なりません。

業界内のみならず、政治家からも畏れられるほど有能なロビイストであるスローンは、銃の規制(販売時の身分証確認を義務づける)法案の成立を阻止したいクライアントから指名されます。クライアントは共和党の大物議員であり、ライフル協会などの大きな支持母体が背後にあります。

しかし、法案の成立を是とするスローンは依頼を断り、それによって所属する最大手のロビイスト会社からも、これほど大きな依頼を引き受けないなら「お前はクビだ」とまで言われてしまいます。

その後、銃規制法案の成立に尽力しているシュミットからスカウトされたスローンは、何人もの部下を引き連れて移籍し、銃規制阻止派に立つ元いた大手ロビイスト会社と対決することに。

スローンは、時にモラルに抵触するような戦略を駆使し、圧倒的劣勢から見事な逆転劇を幾度も見せます。しかし不測の事態や、阻止派によるスキャンダラスな個人攻撃に襲われ、法案の成立も彼女自身も致命的なダメージを受けることになってしまうのですが。

わたくし的見解

ロビイストという、あまり馴染みのない職業を取り上げていることもあり、少し地味な印象のある作品ですが、大変に面白い社会派サスペンスです。

社会派サスペンスと聞くと、暗く重厚で静かな展開を辛抱強く見せられるイメージもありますが、この作品はテンポもよく展開もスリリングで、エンターテインメントとして優れた映画です。法廷ものやウォールストリートものなどの名作群に、十分に名を連ねることができるでしょう。

本作の中で戦っているのが、銃規制法案の成立を目指す小さなロビイスト会社(クライアントがNPO法人で資金も少なく、必然的に小さな会社にしか頼れない)と、廃案を目指す最大手のロビイスト会社(ライフル協会をはじめとする非常に大きな権力と資金力を持つクライアントなので当然、最も勝率の高い最大手の会社に依頼している)。

ヒロインのエリザベス・スローンが、最初に銃規制法案の廃案を依頼された際に明言していますが「廃案に持ち込むのは簡単」なのが、アメリカの現状です。

ドキュメンタリー映画ボウリング・フォー・コロンバイン」や、同じ銃乱射事件に着想を得たフィクション映画「エレファント」などの印象が強かったため、コロンバイン高校の銃乱射事件は、アメリカにおいてもセンセーショナルな事件なのだと、私はある時まで思い込んでいました。

日本ならば、そのような事件一つで銃の規制に向けて、政府も国民も大きく動くと思われますが、アメリカでは州によって法律が違うとは言え、大きく銃規制が進まずに事件以降の20年近くが過ぎています。

コロンバイン高校の事件は、実はそれほどセンセーショナルでは無かったのです。現在のアメリカで年間に発生している銃乱射事件は300件(←うろ覚えの数字です)を超えており、日常茶飯事と言っても過言ではありません。

件数に比例して被害者は増え続け、被害者の家族まで含めれば、とても無視できない数になるはずですが、このような悲劇の度に銃の規制を叫ぶ者と、それに対抗する勢力が声を上げます。

対抗する勢力の言い分が、これまた日本人にはまったくピンとこない「このような悲劇を生み出す、銃の暴力に対抗できるのは銃の所持しかない」というものです。

このあたりの丁々発止のやり取りは、映画の見所の一つです。

銃を手放したくない人たちにとって「アメリカという国は銃を持つ権利によって成り立っている」という信条、思想?信念?に支えられています。建国の父を支えたものが銃であり、アメリカ国民は銃を保持する権利が憲法で保障されている。

スローンは、銃規制を支持する立場ですから、憲法を作った頃とは時代が違うなどの指摘をメディアで放ちます。実はこの切り返しはアメリカではあまり効果的ではなく、どちらかと言えば、するべきではない反論のようですが、スローンはその後の展開のために、あえてこの下手を打って見せる。

このようなツイスト(逆転)の応酬は、ぜひ本編で楽しんで頂きたいのですが、日本人にとっても思うところの多い論争と言えないでしょうか。銃規制という、あまり私たちには縁のない極端なところを取り上げられることで、ちょっと冷静に考えられる部分があります。

憲法にあるからというだけで、本当に今、無条件に正しいと信じてよいのか?とか。国民を守るための銃(武力)によって国民が傷つけられることがあるなら、一体どうすればいいのか?とか。

さて、作品の屋台骨としてヒロインの人物像がよくできています。仕事の鬼で、超絶合理主義。ヒューマニズムに溺れず、必要であれば躊躇なく人の弱点を利用する。その態度は、仲間に対しても同じです。すべては勝利のため。

ハードな日々を乗りきるために睡眠薬ではなく、眠らないための薬を常用している。薬物依存と言うよりは、勝つまで眠らない、勝利依存症なのです。

他の物語のヒロインのように、プライベートを犠牲にしていることを思い悩むふしはありません。潔いほどの冷血漢の彼女が、自分の築き上げたキャリアを賭けて、なぜ極めて勝算の低い戦いに身を投じたのか。

スローンが周囲に自分の生い立ちやバックボーンを明かさないように、映画も彼女のその部分を語りはしない。語られないことで、とても好感度の低いヒロインなのに興味が湧き、様々な想像を膨らませることができます。

勝利のためにモラルの一線を超えてしまう、自他共に認める最低の人間なのに、銃規制実現のために、ここまで労力を惜しまないのは何故なのか。劇中で彼女が語るように、「『どんな異常者でも、店やネットで銃が買える』世の中を容認するべきではない」という単純な信条によるものなのか。

その意志を確固たるものにするようなストーリー(悲劇)が、本当はスローンの人生にあったのかも知れない。あるいは、ただ周囲から絶対に勝てないと言われている戦いに「勝利すること」だけが、彼女のモチベーションのすべてだったのかも知れない。

スローンを「いい人」として描かないことで、人間が複雑な生き物であるリアリティーが生まれているように思いました。フィクションであることが残念に思えるほど、かっこいいダークヒロインです。

ところで、アメリカでの銃乱射事件の増加は、銃大好きな共和党のトランプさんが大統領に当選した影響は否めないと、個人的に思っています。アメリカと銃社会への「?(はてな)」や、憲法改正というものをよそ事として流せない現在、様々な要素が旬に感じられる内容でした。

ちょっと取っ付きにくく小難しいような感じもしますが、弱小チームがメジャーリーガー引き抜いて、ジャイアントキリングを目指す、みたいなシンプルで熱い面白さもありますので、本当にお勧めの作品です。

121分 de 名著

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メアリーの総て

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

19世紀のイギリス。いつでも読書と創作に夢中のメアリーは、継母から家業の書店を手伝わないことを責められていた。メアリーを出産してすぐに亡くなった生母は、フェミニズム創始者として知られる女性だったが、伝統を重んじる継母から、実母を悪く言われたことでメアリーは思わず手を上げてしまう。

メアリーと継母を引き離すため、また思う存分創作活動に取り組めるようにと、父は古い友人の元へメアリーを送る。父もまた、無神論者、アナキズムの先駆者として有名なウィリアム・ゴドウィンだった。

メアリーは滞在先で開かれた読書会で、”異端の天才詩人”パーシー・シェリーと出会う。二人はすぐに惹かれあったが、パーシーにはすでに妻子があった。いつもメアリーに理解を示してくれる父にも反対され、二人は駆け落ちする。

ゴシックの古典的名作であり、初めてのSF小説とも謳われる「フランケンシュタイン」が、10代のうら若きメアリーから、どのようにして生み出されたのかを描く。

わたくし的見解

イギリスを代表する女性作家の一人として挙げられる、メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」を発刊するまでが描かれています。

1818年の初版では匿名で発行され、メアリー・シェリーの名前が著者として記されるのは改訂版以降。理由は、女性が書いた物語として内容がふさわしくないというもので、その当時、女性名義で発行される書籍が存在しなかった訳ではないようです。

しかし、1847年発行のエミリー・ブロンテ著「嵐が丘」も、1848年発行のシャーロット・ブロンテ著「ジェーン・エア」も、男性名義で出版されていることから、求められる女性像に見合わない内容だと出版にさえ辿り着けなかった。そういう時代だったことは間違いないでしょう。

ブロンテ姉妹やメアリー・シェリーより少し遡り、同じく代表的なイギリスの女性作家ジェーン・オースティンの作品は、貴族の女性が長閑な郊外で紆余曲折ありながらも、最後は素敵な結婚をしてエバーアフター幸せに暮らしました、的なキラキラした物語群のように見えます。

しかし、結婚することでしか身を立てる事が出来ない。ようするに結婚できなければ食べていくことまで難しい、当時の女性の苦労をそこかしこで見てとることができます。

現代の感覚で「なら働けばいい」とはいかず、身分のある女性には働く自由もほぼ無く、唯一生きていく術である結婚さえ、持参金無しには成立しない時代だったのです。

例えばヒロインの姉妹は、明言されていなくても行かず後家としての将来を予感せざるを得なかったり、事実ヒロインの親類のような女性には独り身で年老い、かろうじて生活を援助してくれていた身内もいなくなり、暮らしが立ち行かなくなるなどのエピソードが、当たり前のように描かれます。

そのような身分のある女性にさえ権利らしい権利も自由もない時代に、メアリーの母親は、男女同権や教育の機会均等を訴えた人物として名を残しています。

フェミニズムと聞くと、刈り込んだショートカットで言論のファイティングポーズをとり続ける女性を思い描きますが(それは私だけかも知れませんが)本来は、このようなところから来ているのだと自らの偏見を悔い改めるほどの感慨がありました。

「メアリーの総て」自体は、そう言った政治的に直接訴えるような内容のものではないところが魅力です。先駆的な精神を持った両親のもとで生まれ、当時の常識に囚われない自由な女性像と共に、ただ恋に落ち、若さゆえの愚かさが目立つ等身大のメアリーも見せてくれる。

初めは妻帯者であることにも気づかず恋をして、その熱に浮かれていただけの少女が、母になる喜びと子を失う悲しみを経験し、確実に成長する姿がとても丁寧に捉えてられており、その総てが創作の肥しになっていることを示唆しています。

メアリーの強さと弱さは、演じるエル・ファニングの少女から大人への過渡期に見られる危うさと共に、強く惹きつけられるものがありました。数年前のエル・ファニングでも数年後のエル・ファニングでも駄目で、ベストのタイミングで彼女を主演に据えることが出来たと思います。

また概要だけだと、今さらこんなベタなフェミニズム映画と一蹴したくなるのですが、ハイファ・アル=マンスール監督を起用したあたりが製作者サイドの思惑に見事にはまっていて、悔しいけれど見事でした。

ハイファ・アル=マンスールサウジアラビア出身の女性監督で、彼女の国では宗教的な問題で、未だ女性がこの映画に見られるような憂き目にあっている訳です。けれども、当事者である監督は案外さらりと作品に昇華させるものなのだと感心。

一人の女の子の成長を丁寧に描く。という切り口が、とても真摯に感じられ好感を持ちました。なんか、やっぱり刈り込んだショートカットの人たちとは違うんです。軽やかというか、爽やかというか。

映像に雰囲気もあり、コスチュームプレイとしても魅力的で、少しもフェミニズム映画ではないのだけれど、現代のフェミニズムのあり方をちょっと考えてしまった作品でした。

悪人のいない、よくできた落語みたいなのだ

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ラブ・アゲイン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

キャルは40代の冴えない男だが誠実で、良き夫であり良き父でもある。ある晩、夫婦水入らずでの外食の最中に、25年連れ添った妻エミリーから突然「離婚したい」と告白される。そして、会社の同僚デイヴィッド・リンハーゲンと浮気をしたことも。

10代で結婚し、妻一筋で生きてきたキャルはショックのあまり、反論や抵抗をまったく出来ずに離婚を受け入れ、家を出てしまう。

独りになったキャルは、地元のバーでヤケ酒を呑みながら、相手構わずに妻に浮気され捨てられた身の上話を繰り返していた。それを見かねた、バーの常連客でプレイボーイのジェイコブは、キャルを垢抜けたナイスミドルに変身させ、女性の口説き方を伝授する。

キャルは初めのうちは少しも乗り気ではなかったが、ほぼヤケクソでジェイコブの言う事を聞くうちに、バーから女性をお持ち帰り出来るほどになる。キャルとジェイコブの間には、いつの間にか不思議な師弟関係と友情が生まれていたのだが。

わたくし的見解

主演のスティーブ・カレルは、もともとTVで人気を博したコメディアンで、映画でもコメディ俳優として活躍しています。でも顔だけ見ていると、あまりコメディアンには見えないですよね。

ミスター七・三とあだ名を付けたくなるような、とても真面目に見える顔立ちだし、何気にハンサム。正直、ジョージ・クルーニーあたりのスタアと写真を並べても、誰も違和感を覚えないのではないでしょうか。

だから、どんな悪ふざけやバカをされるより、ハンサムが過ぎるところが、一番スティーブ・カレルの面白おかしいところだと思うのです。

本作もコメディではあるのですが、スティーブ・カレルはほとんどバカをしません。時々、我慢しきれずに悪ふざけしかけても、すぐにやめます。一見まともなのに何か含みのある「佇まいの可笑しみ」という彼の持ち味が、よく活かされた作品です。

主人公のキャルは、冴えない見た目の中年男性ですが、人から疎ましがられるようなキモ男ではありません。

ただセクシーとは程遠く、その年齢の多くの既婚者がそうであるように、マイホームパパらしい洒落っ気のない服装と髪型。幸せな父親らしく、会話は子供が起こす日常のささやかな事件や、深入りしない仕事の話。

子供たちもパパの帰りを待ちわびる、素晴らしい家庭人に他ならないのです。

キャルの場合「真面目な男はつまらなく、ちょっとワルな感じの方が女性にはモテる」というような定説に振り回される年齢でもありませんが、青天の霹靂、離婚のせいで、年下のジェイコブによるモテ男レクチャーを受けることになります。

おっさんながらも「マイ・フェア・レディ」よろしく、まず外見から変えるため、ショッピングモールで改造計画が始まります。その時、ジェイコブから指摘される「冴えない男あるある」が楽しい。

サイズの合わない服を着るな。スティーブ・ジョブズでもないのに、ニューバランスのスニーカーばかり履くな。それから買い物のあいだ、しばらくスルーされていましたが、最後に「ビリビリ(マジックテープ)の財布はやめろ」。

ところが、冴えないあるあるコンプリートのキャスに、ずっと恋している女性も登場する。この映画の、ただただ真面目な良い人(男性)に惹かれる女性もいるのだ、という視点に私は好感を持ちました。

物語全体としては、ラブコメ(ロマンチック・コメディ)と言うよりも、ハートウォーミングな群像劇の印象が強いです。

それでも、あえてラブコメを銘打っているのは、多くの登場人物が、恋心や愛情の矢をそれぞれ一方的に放っているから。ちぐはぐだった恋の(愛の)矛先は、最終的に「恋のから騒ぎ」さながら見事に収束します。

それぞれの恋や愛(片思い)に、歯が浮くような甘ったるさも、狂おしいほどの切なさもないところが個人的にとても好み。素直に、登場人物を祝福したり応援したり出来ました。

なんとも、ほっこりした気分になれるので、ふだんはラブコメなど観ない人も、落語の人情話のような感覚で楽しんでもらいたい作品です。

ちょっと余談ですが、「ラ・ラ・ランド」の二人がすでに、ここで共演していました。「ラ・ラ・ランド」でも本作でも、ライアン・ゴズリングエマ・ストーンの仲睦まじい様子は、実に微笑ましいのです。

エマ・ストーンに対する、ただの私のエコ贔屓なのかも知れませんが、彼女はイチャイチャするのがとても上手なんですね。恋人同士が「一緒に居ること」の楽しさを見せるのが、いつも巧い。

ライアン・ゴズリングエマ・ストーンもそれぞれ、プライベートではすでにパートナーがあるようですが、往年の三浦友和山口百恵のように、いずれ結婚してくれないだろうか、と思ってしまうほど相性の良さを感じます。

二人の相性の良さは、自他共に認めているから共演も重なるのだろうし、プライベートはさておき、トム・ハンクスメグ・ライアンみたいな、作品上のベストカップルに今後なってくれると嬉しい。

鑑賞を終えると、コメディとは思えない豪華なキャスティングにも納得の、構成のよくできた作品でもあります。

サスペンス要素はまったくないのに、序盤からうっすら気になっていたことが「なるほど、ここに繋がっていたのね」とスッキリするツイスト(どんでん返し、という程でもないのだけれどチョットかした種明かし)が心地よかった。

年末年始に、お家でゆっくり、ほっこり楽しめる作品としてお薦めします。

 

ミギー

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ヴェノム

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

カリフォルニア州サンフランシスコで、TV局の記者として活躍するエディ・ブロック。自身も出演する突撃取材番組は、決して批判を緩めない姿勢が好評で人気を博している。弁護士の恋人アンとの仲も順調だった。

エディは、かつて画期的なガンの治療薬を開発した、カールトン・ドレイクが代表を務める「ライフ財団」によって行なわれている人体実験が、非常に危険なものであるという情報を得た。

この疑惑について報道しようとした途端、財団からの圧力でTV局をクビになり、財団の訴訟に関わっていた恋人のアンも、弁護士事務所を解雇される。そして、この事が原因で、エディはアンから別れを告げられてしまう。

職も恋人も失い、半年間、自暴自棄に過ごしてきたエディの元に「ライフ財団」の研究職員であるドーラ・スカース博士が現れ、財団がホームレスを利用して行っている人体実験で死者を出している事実を、改めて公表して欲しいと願い出る。

エディは、証拠を掴むため「ライフ財団」の研究所に侵入。その際、知り合いのホームレスの女性マリアを見つけ、助け出そうとした時に何かに寄生されてしまう。

それは財団が宇宙探査で見つけてきた、“シンビオート”と呼ばれる地球外生命体で、財団は、ヒトが宇宙環境に適応できるようになるため、“シンビオート”をヒトに寄生させようと人体実験を行なっていたのだ。

実験は失敗を繰り返し、数多くのホームレスがすでに死んでいた。しかし、エディは奇跡的に“シンビオート”との共生に成功し、凄まじいパワーを手に入れる。

問題は、“シンビオート”が寄生した宿主も含めて、ヒトを喰らう生物であること。そして、地球に連れて来られたのではなく、地球を支配するために意図的に捕まり、やって来たという点だった。

わたくし的見解

「悪役」あるいは日本的な表現だと「敵役」の魅力が、作品の人気に左右すると言っても過言ではありません。ガンダムの(初代)主人公アムロに対してのシャア、ルパン三世と対なる銭形警部、世界的に有名な悪役(敵役)のダース・ベイダー

そのような役回りを、アメリカン・コミックではスーパーヴィランと呼ぶそうです。DCコミックスの「バットマン」にも、ジョーカーなど印象的なヴィランが多く存在します。

ヴェノムは、マーベル・コミックスの「スパイダーマン」にとって最大の宿敵とされている人気キャラクターで、映画でも2007年の「スパイダーマン3」(サム・ライミ監督、トビー・マグワイア主演のシリーズ)に登場しています。

そこではすでに、“シンビオート”なる地球外生命体は、生物スーツとして開発されており、悪意のある人間が着用したことでスパイダーマンと敵対する存在になっていました。

さて、本作においてのヴェノムは、まさに宇宙から地球にやってきたばかりで、生物スーツなどにはなっていない、生命体そのものの状態です。

うジュるうジュるした形態のせいか変幻自在で、強力なパワーを持っています。そのぶん食欲も旺盛。何でも食べてくれれば問題ないのですが、食べられるものが限られていて、数少ない食べられるものに、何故がヒトが含まれているので困りものです。

地球外生命体なので、当然、地球上の常識や倫理感などある訳もなく、生き抜くためにヒトを殺す、そして食べることに躊躇しません。ある程度は宿主の意思で制御できるものの、それにも限界があり、寄生された主人公エディの苦労する様子がしっかり描かれています。

寄生されてから、その異常事態をエディが理解するまで、そして共生関係が安定するまでで本作は終了してしまいます。アメコミものの映画化作品の多くは、だいたい三部作を想定して製作されるので、一作目はどうしてもイントロダクションにある程度の時間が裂かれるもの。

「ヴェノム」は主人公の紹介だけでなく、地球外生命体みたいな突飛なものが何処から来たかなどの説明が必要なせいか、他のアメコミ原作の映画作品よりも一層スロースタートな印象を受けました。

ただ、それよりも観ていて一番心配になったのは、この傍若無人な食人モンスターを、どのようにして正義のヒーローにするのやらという点。ここは結局、アンチ・ヒーローの王道的展開を見せてくれます。

悪魔と合体しながら人間の心を持つ「デビルマン」や、改造人間になりながら人間の側に立ち、自らと同じ境遇の怪人たちと闘う「仮面ライダー」のように、人ならぬモノと人間のハーフのような異質な存在で、人間を救うために闘う流れに「ヴェノム」も該当します。

しかし、昭和の日本のアンチヒーローたちと少々趣が異なるのは、ベースとなる人間(主人公)と融合する人ならぬモノ(ここでは“シンビオート”)との間で友情に似たものが芽生え、共存・共生のために、ある種の契約を交わした結果、正義のヒーローとして誕生するところです。

闘いが終結したあかつきには、自らも抹消しなければならない昭和のアンチヒーローの悲劇的な存在と比べると、「共に生きよう!」と高らかにぶちまけるアシタカ(「もののけ姫」に出てくる理想論を掲げる若者)のような、どのような状況でも希望を失わない性根の明るさを「ヴェノム」にも感じます。

私としては、地球外生命体から寄生される、それらはヒトを頭から喰らう、変幻自在な形態などは、昭和から平成(1988〜1995年)にかけて発表された日本の漫画作品「寄生獣」を思い出さずにいられません。(ちなみに、マーベル・コミックスに「ヴェノム」が初登場したのは1885年)

実はヴェノムも「寄生獣」のミギー同様に、自らヴェノムだと名乗ります。ミギーは右手に寄生した経緯から自分でそう名付けましたが、ヴェノムは元々そのような名前を持った個体だったようで、他の”シンビオート”にも名前があります。

うジュるうジュるしてるくせに生物として強靭で、しかも知的生命体なのですから、かなり厄介です。しかし、おそらくヒトより優れた地球外生命体の彼らの中では、ミギーもヴェノムも出来損ないや負け犬で、そんな劣等生達の抱く人間へのシンパシーのお陰で、いつも地球は救われるのですから世の中捨てたものではありません。

色々それらしく御託を並べておりますが、アメコミものの映画は大体において面白いんです。その中で、ベストとまでは申しませんが、ヴェノムの(モンスター的)映像表現だけでも一見の価値があります。ぜひ、楽しんで下さい。

ところで余談ですが「もののけ姫」と言えば、ヴェノムが途中からエディにヒトを食べていいか許可を得るくだりが、しきりにサンに「食べていい?」と聞く山神(デカい犬)みたいで可愛く思えました。

とんがった歯が一杯生えてて邪悪な形相のヴェノムですが、不思議と愛嬌があって憎めないギャップ萌えが、他のアメコミ作品にない魅力かも知れません。

 

スクラップ&ビルド

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雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

ある朝デイヴィスは、自動車事故に遭う。

助手席にいた自分は軽い怪我で済んだが、運転席の妻は担ぎ込まれた病院で亡くなっていた。デイヴィスは、突然の出来事を上手く飲み込めず、事実を頭では理解していても感情がついてこない。

妻の死に何も感じられないまま、葬儀の日を迎える。他人事のような感覚で葬儀に参列しながら、事故の日、病院の待合いで自販機が故障し、チョコレートを手に入れられなかった件についての苦情の手紙を書き始める。

デイヴィスは、苦情よりもチョコレートを買うに至った経緯など、自らの身の上を書くことに夢中になる。

交通事故で妻を失ったこと。車には自分も同乗していたこと。妻の父親が経営する投資会社に勤めていること。それなのに通勤電車で毎朝会う男性に、自分はマットレスのセールスマンだと嘘をついてしまったこと。

見ず知らずの、自動販売機メーカーの顧客担当に宛てて、とりとめもなく書き綴った手紙は、何枚にも何通にも至った。

ある晩、手紙の内容に感銘を受けたと、顧客担当の女性から電話がかかってくるのだが。

わたくし的見解

昨年公開された作品なので、すでにあちこちで突っ込まれているけれど、邦題で失敗していることは否めない。

この情感あふれる邦題に見合った内容ではないので、ちょっと紛らわしい。では、どのような内容かと言えば、主人公は原題(“Demolition”)どおり、劇中ほとんどの時間を「解体」あるいは「破壊」に費やしている。住宅の壁を壊すような大きなハンマーや、ブルドーザーを使って。

だからと言って、「解体」というタイトルの映画など、誰が観に行くものか。建設事業にまつわるドキュメンタリーか、シリアスなイラン映画ならまだ可能性はあるにしろ、観客動員よりも、まず上映館数が極端に減ってしまう。

物語は、妻や結婚生活に関心を失っている男が、突如妻を失った様子を描いている。制作年度や公開年度を見ても、本当に偶然としか言えないが、西川美和監督作品「永い言い訳」と設定がとても似ている。

どちらの作品の主人公も、周囲が期待するような形で、妻の死を悲しむことが出来ず困り果てている。涙が出るとか出ないとか、そんなのは表面的なことだから構わないとして、とにかく感情が湧き上がらず途方に暮れる。

妻の死後に知り合った親子との交流で、主人公が少しずつ、本来あるべきものを取り戻していく流れ。そして、悲しみのないことに罪悪感さえ抱いていたのに、物語の中盤で、亡き妻から手痛いしっぺ返しを食らうところまで、二つの作品は要約すると本当に同じような物語なのだ。

しかしながら、同じ食材でも違う料理が出来上がるように、単に日本とアメリカの違いにとどまらず、きちんと違う物語になっている。カレーと肉じゃがくらい、この二つの作品はちゃんと違うのだ。

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」は、序盤で主人公が言っているように、“すべてが、metaphorになった”作品だ。

物語の説明をする時に「これは一種のメタファーで」と述べるのは、いかにも中二病的で個人的にとても恥ずかしく、他に適当な表現はないものか大変迷うところなのだが、本作に関しては、もはや比喩であって比喩でないところが面白い。

手紙は、特定の誰か宛てでないからこそ、正直に自分の感情や結婚生活についてまで書き連ねることが出来たに違いない。これには、書くという行為で自分や自分の置かれた状況を客観視できる、心理学的効果が期待できる。

主人公は、苦情の手紙という体裁のものを書くことで、セルフセラピーを行なっている。映画に描かれていないだけで、本当はカウンセラーに勧められて書いたのかも知れない。

同じように、彼自身をとり戻す(再構築する)ために「解体」する必要があったのだけれど、比喩としての解体ではなく、実際に自宅も自宅以外の家も壊していく様子は見どころだ。

自販機メーカーの顧客担当として電話してきたのが、ナオミ・ワッツ演じる(美人で絶妙に幸薄そうな、現在の宮沢りえファンあたりには堪らない)シングルマザーなのに、ロマンス要素は少ない。

彼女は「何も感じない」と感じている主人公の長い手紙から、それは大き過ぎる喪失感によるものだと知っていて、それこそカウンセラーのような役割を果たしていく。いわゆる一線は超えないところも、まさにカウンセラーのようだ。

後半にいたっては、ほとんど彼女の息子との交流が中心になっていくのも、実にさっぱりとしている。テーマの割には、しんどい思いをせずに鑑賞できる、邦題とは真逆の、ドライで軽やかな作風が本作の魅力でもある。

作品全体を振り返っても、ふわふわしていると言うか、やはり全体的に象徴的と言うか、“すべてが、metaphorに”感じられる。主人公が再生する過程(解体と再構築)の、イメージを見せられているような映画だった。

失ってから、大切にするべきだったものを、ないがしろにしてきた自分に気付く。なんて、よくある喪失と再生の物語なのだけれど、誰の人生にも喪失は付きもの。でも自分の人生で、失ってから大切なものに気付くなんて、あんまりだ。

よくある物語は、きっと本当によくある事なのだろうから、つい忘れてしまわないように、時々は自分への戒めと思って観るべきなのかも知れない。