映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

スクラップ&ビルド

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雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

ある朝デイヴィスは、自動車事故に遭う。

助手席にいた自分は軽い怪我で済んだが、運転席の妻は担ぎ込まれた病院で亡くなっていた。デイヴィスは、突然の出来事を上手く飲み込めず、事実を頭では理解していても感情がついてこない。

妻の死に何も感じられないまま、葬儀の日を迎える。他人事のような感覚で葬儀に参列しながら、事故の日、病院の待合いで自販機が故障し、チョコレートを手に入れられなかった件についての苦情の手紙を書き始める。

デイヴィスは、苦情よりもチョコレートを買うに至った経緯など、自らの身の上を書くことに夢中になる。

交通事故で妻を失ったこと。車には自分も同乗していたこと。妻の父親が経営する投資会社に勤めていること。それなのに通勤電車で毎朝会う男性に、自分はマットレスのセールスマンだと嘘をついてしまったこと。

見ず知らずの、自動販売機メーカーの顧客担当に宛てて、とりとめもなく書き綴った手紙は、何枚にも何通にも至った。

ある晩、手紙の内容に感銘を受けたと、顧客担当の女性から電話がかかってくるのだが。

わたくし的見解

昨年公開された作品なので、すでにあちこちで突っ込まれているけれど、邦題で失敗していることは否めない。

この情感あふれる邦題に見合った内容ではないので、ちょっと紛らわしい。では、どのような内容かと言えば、主人公は原題(“Demolition”)どおり、劇中ほとんどの時間を「解体」あるいは「破壊」に費やしている。住宅の壁を壊すような大きなハンマーや、ブルドーザーを使って。

だからと言って、「解体」というタイトルの映画など、誰が観に行くものか。建設事業にまつわるドキュメンタリーか、シリアスなイラン映画ならまだ可能性はあるにしろ、観客動員よりも、まず上映館数が極端に減ってしまう。

物語は、妻や結婚生活に関心を失っている男が、突如妻を失った様子を描いている。制作年度や公開年度を見ても、本当に偶然としか言えないが、西川美和監督作品「永い言い訳」と設定がとても似ている。

どちらの作品の主人公も、周囲が期待するような形で、妻の死を悲しむことが出来ず困り果てている。涙が出るとか出ないとか、そんなのは表面的なことだから構わないとして、とにかく感情が湧き上がらず途方に暮れる。

妻の死後に知り合った親子との交流で、主人公が少しずつ、本来あるべきものを取り戻していく流れ。そして、悲しみのないことに罪悪感さえ抱いていたのに、物語の中盤で、亡き妻から手痛いしっぺ返しを食らうところまで、二つの作品は要約すると本当に同じような物語なのだ。

しかしながら、同じ食材でも違う料理が出来上がるように、単に日本とアメリカの違いにとどまらず、きちんと違う物語になっている。カレーと肉じゃがくらい、この二つの作品はちゃんと違うのだ。

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」は、序盤で主人公が言っているように、“すべてが、metaphorになった”作品だ。

物語の説明をする時に「これは一種のメタファーで」と述べるのは、いかにも中二病的で個人的にとても恥ずかしく、他に適当な表現はないものか大変迷うところなのだが、本作に関しては、もはや比喩であって比喩でないところが面白い。

手紙は、特定の誰か宛てでないからこそ、正直に自分の感情や結婚生活についてまで書き連ねることが出来たに違いない。これには、書くという行為で自分や自分の置かれた状況を客観視できる、心理学的効果が期待できる。

主人公は、苦情の手紙という体裁のものを書くことで、セルフセラピーを行なっている。映画に描かれていないだけで、本当はカウンセラーに勧められて書いたのかも知れない。

同じように、彼自身をとり戻す(再構築する)ために「解体」する必要があったのだけれど、比喩としての解体ではなく、実際に自宅も自宅以外の家も壊していく様子は見どころだ。

自販機メーカーの顧客担当として電話してきたのが、ナオミ・ワッツ演じる(美人で絶妙に幸薄そうな、現在の宮沢りえファンあたりには堪らない)シングルマザーなのに、ロマンス要素は少ない。

彼女は「何も感じない」と感じている主人公の長い手紙から、それは大き過ぎる喪失感によるものだと知っていて、それこそカウンセラーのような役割を果たしていく。いわゆる一線は超えないところも、まさにカウンセラーのようだ。

後半にいたっては、ほとんど彼女の息子との交流が中心になっていくのも、実にさっぱりとしている。テーマの割には、しんどい思いをせずに鑑賞できる、邦題とは真逆の、ドライで軽やかな作風が本作の魅力でもある。

作品全体を振り返っても、ふわふわしていると言うか、やはり全体的に象徴的と言うか、“すべてが、metaphorに”感じられる。主人公が再生する過程(解体と再構築)の、イメージを見せられているような映画だった。

失ってから、大切にするべきだったものを、ないがしろにしてきた自分に気付く。なんて、よくある喪失と再生の物語なのだけれど、誰の人生にも喪失は付きもの。でも自分の人生で、失ってから大切なものに気付くなんて、あんまりだ。

よくある物語は、きっと本当によくある事なのだろうから、つい忘れてしまわないように、時々は自分への戒めと思って観るべきなのかも知れない。

 

過去が追いかけてきて、追い抜いていく

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ノクターナル・アニマルズ

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

アートギャラリーのオーナーであるスーザンは、人並み外れた成功の中にあるように見えた。まるで外交官の公邸か小さな美術館のような豪奢な自宅、20年連れ添った夫は、容姿端麗な会社経営者。自ら主催した展覧会も成功を収めたと言って良い。

しかし実際には、夫の会社は苦境にあり破産寸前で、夫婦の関係も上辺を取り繕うばかりの冷めきった状態だった。そんな中、スーザンのギャラリーに上梓前の小説が届く。

それは、大学院生の頃ごく短期間結婚していた、前夫エドワードから送られてきたものだった。エドワードは当時小説家を志していたが、うまくいかず、現在は進学校の教師をしている。

その小説は春に刊行が決まっていて、現在は校正段階にあると言う。スーザンとの別れから着想を得た作品なので、目を通して感想を聞かせて欲しい、とメッセージが添えられていた。

作品は、スーザンの知る20年前のエドワードの小説とはまるで作風が異なり、暴力的でセンセーショナルだったが、力強く、惹きつけられるものがあった。

送られてきた小説「ノクターナル・アニマルズ」の虚構、そしてスーザンの現在と過去の現実が、密接に絡まり交錯していく。

わたくし的見解

ずっと、トム・フォードの映画を観てみたいと思っていた。

監督のトム・フォードは、本来ファッションデザイナーだ。20年ほど前、死に体に近かったグッチ、およびグッチグループの高級ブランドを復興させた人物、という印象を私は持っている。

現在、自身の名を冠するブランドを持って久しい彼だが、ファッションや高級ブランドにあまり興味のない人でも、近年の「007」のジェームズ・ボンドのスーツは「トム・フォード」のものだと言えば、雰囲気が伝わるだろうか。

と言いながらも、私は彼のブランドの愛好家でもファンでもない。古めかしく思えた頃のグッチも、現代的にスタイリッシュに復活した後のグッチも所有したことはないし、手にすることを憧れたこともない。

にもかかわらず、初めて監督した前作「シングルマン」(2009年の作品)の時から、とても気になっていた。「シングルマン」の時も、本作の劇場公開時も手が出せなかったのは、お洒落なだけの映画なら避けたいと思っていたからだ。

学生の頃なら、お洒落なだけの映画に時間を費やしても構わない。けれど年々、体感としての時間の経過速度が加速する一方なのに、そんな贅沢な時間の使い方はしていられない。

ノクターナル・アニマルズ」は、とても美しい映画だが、決してお洒落映画の枠にとどまらない。ヒロインの内面を丁寧に描いた、スリラー映画(恐怖映画という狭義よりも、ミステリーやサスペンスの要素が強い)として見事に確立している。

別れてから20年。スーザンから連絡しても、一方的に電話を切ってしまうような態度だった前夫エドワードが、「スーザンに捧ぐ」と記し、送りつけてきた小説。

その映画内小説「ノクターナル・アニマルズ」は、かつてスーザンが知っていた頃のエドワードの作品とは全く異なるものだった。あまりにも暴力的な内容に衝撃を受けるスーザン。しかし同時に、あの頃のエドワードが、どうしても書けなかった力強い作風に心奪われる。

小説では、ある男が妻と娘を連れた家族旅行の途中、深夜のハイウェイでチンピラにからまれ、妻子を奪われ無残にも殺されてしまう。一人残された男は、担当捜査官の協力を得て、最後には復讐を遂げる物語。

スーザンは、現在の夫が出張で留守の週末、広い豪邸でたった一人、送られてきた小説を手にとる。登場人物の名前もエピソードも、何ひとつ現実にあったものではないのに、物語のあまりの臨場感に、スーザンは度々いても立っても居られなくなる。

その都度、時には出張先の夫に、あるいは離れて暮らす娘に電話をかけるが、会話はわずかで終わり、改めて自らが置かれた孤独を思い知るだけだった。その中で、かつての夫エドワードと過ごした数年間を思い返すようになる。

小説を読み進めては、過去を振り返る。そして現在のスーザンの生活。この虚構と記憶と現実の繰り返しを見せられることで、鑑賞者はスーザンの心境と、小説で描かれているのはエドワードの物語であることが分かってくる。

20年前に妻子を失ったエドワードと、妻子を奪われた小説の主人公とがリンクしていく。

エドワードが自己を投影させた小説の中で、彼は著者として、明らかにスーザンを投影した妻を(他者によって奪われた形をとりながらも)殺し、それによって主人公も死に至る物語。

これは、自分を捨て去り打ちのめした、かつての妻への復讐に他ならない。スーザン自身も恐ろしい程そう感じているのに、それ以上に、これほど見事な小説として昇華させたエドワードを誇りにさえ思うのだ。

この映画のスリラー(サスペンス)要素は、映画内小説の展開にささえられている。

虚構である小説の部分が、最も現実味のある映像表現になっていて、スーザンほど動揺しないまでも、観ていると心がざわついてくる。ジェイク・ギレンホールの演技力によるところも大きいが、そこにある温度や湿度まで感じられるようなリアリティーがある。

対照的にスーザンの現在は、現代アート的な作り物のリアルのようで、徹底的に無機質で空虚。また、スーザンが思いを馳せる過去は、やはり彼女の記憶に頼るものなので、少し夢想的。現実の過去と現在は、違うタッチながらも、やや絵空事めいた描かれ方をしている。

リアルな虚構と、現実味に欠ける現実。

この三つの物語の見せ方に感心した。評論のいくつかに、イメージの近いものとして、デヴィット・リンチの名前が挙げられているのを見たが、あの恍惚感を保ちながら、もっとシンプルで分かりやすい親切さが、この映画にはある。

ずっと無彩色を身に纏っていたヒロインに、ラストで色味のあるドレスを着せるのは、ニクい演出だと思う。あえてフルメイクをやめて、エドワードに会いにいくスーザン。ジェイク・ギレンホールだけでなく、エイミー・アダムスも大変に巧い人で、退廃的な美しさがあった。

実は、ちょっと後悔している。

何年先になるか分からないが、今度トム・フォードが映画を撮った時には、必ず映画館へ足を運ぼうと思った。

 

A-Ha?

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パターソン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

アメリカ、ニュージャージー州の街に暮らすパターソンは、在来線のバスの運転手で、美しい妻と愛犬と共に規則正しい日々を過ごしている。

住む街も、彼の暮らしも、経済的物質的に格別豊かとは言えないが、パターソンに不満はない。日常の美しさに目を向け、詩を綴る彼の7日間を切りとった作品。

第69回カンヌ国際映画祭において、主人公の愛犬マーヴィンを演じたネリーが、パルム・ドッグ賞を受賞。

わたくし的見解

最近、白菜を切る夢をみた。

週末なのをいい事に、明るいうちから白ワインを頂き、ほろ酔いで洗濯ものを片付けてから午睡を貪っていたら、どういう訳だか白菜の夢である。

とくに好物でもないし、実家が白菜農家でもない。村上春樹のように「それは、しるしのようなものだ」とか言ってもいいけれど、正直そんな風には全く思えない。

夢占いや、夢による現在の精神状態の分析みたいなものを持ち出されても、つい私は眉に唾を塗ってしまうような人間なのである。つくづく可愛げがない。

私にとって夢は、得た情報を脳が処理(整理)する時の副産物だと信じている。

記憶の、どのステージに情報を配置するか、寝ている間に脳がせっせと作業している。すぐに取り出さなければいけないような情報は、記憶の浅いステージに。とくに重要ではなかったり緊急性の低い情報は、めったに思い出すことのない、記憶の深ぁーいステージに。

時々あるいは、ほとんどの夢が支離滅裂だったり極端に飛躍した展開になったりするのは、一体いつ得たのかさえ分からないような、些細な情報まで処理していくため、作業段階で複数の情報がザッピングしたようになっているに違いない。

白菜。

少しもそんな事は覚えていないけれど、どうせ私のことだから「涼しくなったし、そろそろ鍋も悪くないかな」とか思ったのだろう。

夢で見た白菜は、今までの人生で私の知る、どの白菜よりも美しかった。ちょうど半分に切ったところから覚えている。虫食いはおろか、しみのようなものも一切なく、繊維はきめ細やかで、切り口はとても瑞々しかった。

雪の下でしばらく保存していたような、ちょっとしたブランド白菜だろうか。こんなに白菜自身のポテンシャルがあるなら、雑多に鍋に放り込むよりも、豚バラ肉を一枚ずつ挟んでミルフィーユ仕立てにするべきではないのか。

とっさに夢だとは気づかなかった私は、半分から四分の一に、さらに切り分けていく間、とてもワクワクしていた。たかだか白菜で。


パターソンという名の街で暮らす、パターソンという名の主人公。彼の人生のうちの、それほどドラマティックでもない7日間を、まるで風景を眺めるように鑑賞する映画である。

パターソンは、運行前のバスの運転席や、滝を背景に臨む鉄橋が見えるお気に入りの場所、そして自宅の地下室兼書斎で毎日熱心に詩をしたためる。

妻や職場の同僚に、創作活動を遮られても意に介さず、そこに苛立ちみたいなものは全くない。かと言って、詩に対するスタンスが冷めている感じでもない。とても純粋に真摯に詩と向き合っていて、その上で完全に生活の一部となっている。

彼には詩を書くことが、好きなコーヒーや煙草で一服するような、いたって日常的なことなのだ。

バスの運転手であることも象徴的で、毎日ほぼ同じ時間に同じルートを走る。決して大きな都市ではないので、乗客も通勤や通学で見慣れた顔ぶれがほとんどだろう。車窓の景色も変わり映えはしない。

しかし、ささやかながら日々、季節は移ろい天気も変わる。耳にする乗客のたわいもない会話も毎日違う。目覚めた時に横にいる妻、悩み多き同僚の愚痴、一日の締めくくりに出かける愛犬との散歩と小さなジョッキのビール。

たとえ大きな変化がなくても、一日たりとも同じ日はないのだ。パターソンはそれらを慈しみ詩に綴る。

暮らしている街や、あるいは自分の人生について、特筆すべきことは何もないと感じるのは、見方が違うだけなのかも知れない。視点を変えれば、パターソンの街や彼のように、本当は何かがあるのかも。

そして、映画としてはあまりにも牧歌的に思えた7日間も、もしかしたらパターソンにとって、人生で最も劇的な一週間だったのではないか、とも思うのだ。

作品の後半で、パターソンと同様に秘密のノートにポエムを書き綴っている女の子が登場する。彼女は、自らの詩を誇らしそうに披露してくれるが、しきりに「でも韻は踏んでいないの」と繰り返す。

そんな彼女にパターソンは「韻を踏めているところもあったし、中間韻もあったよ」と励まし褒めてあげる場面が、とても印象的だった。実は映画全体も、詩のような構造をとっているようだ。

ウィリアム・カーソル・ウィリアムズという現代アメリカの詩人の名が、映画の中で何度か出てくる。パターソンが最も敬愛する詩人なので、妻がわざと名前を間違えて言ったりするのだ。

彼の作品にそれこそ「パターソン」という長編詩がある。当然、この映画の元になっている作品だが、興味深いのは小説からの映画化のように、ストーリーを中心に下敷きにするのではなく、構造を映像作品にしている点だと思う。

さらに重要なのは、映画の中に散りばめられた韻とかリフレインとか擬人化だとかを、全く気にしなくても、十分に楽しめる作品だと言うこと。登場するキャラクターは犬にいたるまでチャーミングだし、実に穏やかな物語なのに退屈させない。

しかも、今までの人生で私の知る、どの映画よりも美しかったと言っても良い。まるで夢で見た白菜のように。ほんの束の間の、とても幸せな午睡のように。

 

メタ表現マトリョーシカ

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カメラを止めるな!

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

とある山奥の廃墟で、ゾンビ映画を撮影する者たちがいた。それは低予算の自主制作映画で、制作費を借金してまで工面した監督の作品に賭ける情熱はひとしお。

本物が欲しい! と、主演女優に緊迫した表情を求めて、クライマックスシーンで42回もリテイクを出してしまう監督と、その他のスタッフや出演者との間には明らかに温度差が生じていた。

妥協を許さない監督が、ある儀式を行ったことで、撮影スタッフと出演者は本物のゾンビに次々と転化し、現場はパニック状態に。しかし監督だけは嬉々として「カメラを止めるな!」と撮影続行を指示するのだった。

わたくし的見解

まーた、ゾンビ映画を紹介するのかよ。いい加減にしてくれよな! と、思った方もいらっしゃるかも知れません。しかし、安心して下さい。「カメラを止めるな!」は、ゾンビ映画ではありません。ホラー映画でさえないのです。

作品の性質上、なるたけネタバレを回避した上で、これほどまで話題になり、ヒットした面白さを語るのは、なかなか至難のわざ。

作品の公式サイトを含めて、ウェブ上のあちこちで「37分ワンカットの怒涛のゾンビ映画」と謳われていたり、作品のキャッチコピー「この映画は二度はじまる」など、大っぴらに明らかにされている情報から出来るだけハミ出さないよう、細心の注意を払ってご紹介しなくっちゃ。

作品概要で触れているのは、映画内映画「ONE CUT OF THE DEAD」で、実際に37分ワンカット、ワンカメ撮影のため、映像が揺れまくり。私は完全に酔ってしまい、吐き気を覚えていました。

その「ONE CUT OF THE DEAD」のエンドクレジットを眺めながら、本作がここでは終わらないことも、そんなに長い上映時間でないことも知っていましたが、この先も手持ちカメラ映像を見せ続けられたら、私はどんな面白い作品でも極めて悪い印象と共に帰宅していたと思います。

ありがたい事に、その後は固定カメラの映像が中心になって、吐き気も徐々に収まると共に、作品に対する好感度も上昇。

「ONE CUT OF THE DEAD」は手持ちカメラ映像のせいもあって、「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」のようなモキュメンタリーを観せられている気分に。ところが、突然カメラ目線で放たれる「カメラを止めるな!」という台詞で、メタ表現めいた部分も出てくる。

どっちで行きたいんだろう。どっち付かずのところが、まさか画期的なのか? それにしたって、37分ワンカットの苦労は分かるけど、ちょっとグダグダ過ぎるよね。などなど、気になるところが満載。

あまり洗練されていない事まで折り込み済みの、モキュメンタリー風メタ実験的アドリブ護身術映画なのか?! 実はそんな「何か変な間」や「イマイチな演出」のすべてが伏線に。

「ONE CUT OF THE DEAD」に違和を感じれば感じる程、作品後半の展開をより楽しめる仕組みになっています。

語るにあたって、ネタバレ回避するべきタイプの映画なので、大変に悩ましいところではあるのですが。このままだと今回の記事自体が、ある種の生ける屍になりかねません。

ひとまず国内での先行上映から一年近く経つので「これ位は許して」的ネタバレへの抵触をさせて頂くと、「ONE CUT OF THE DEAD」は下手なメタ作品で、「カメラを止めるな!」は大変によく出来たメタ作品だと言うこと。

しかも「ONE CUT OF THE DEAD」と「カメラを止めるな!」も、入れ子構造になっている。

たとえば、このまま合わせ鏡のように無限にメタが続くと、それこそホラーですが、マトリョーシカより少なめの入れ子なので、可愛くまとまっています。この可愛さが、本作ヒットの要因かと思われます。

入れ子構造の映画が初体験の観客はとても楽しかっただろうし、この手の物語の構造をすで知っている人は、作品の可愛さ、ちょっと照れちゃう表現ですが「愛」とか「絆」に心打たれたはずです。

「ONE CUT OF THE DEAD」を観ても分かるように、入れ子構造だけでは高評価に繋がりません。マトリョーシカも、チープ感は味になりますが、あまりの出来の悪さは可愛さが半減します。

その意味では「カメラを止めるな!」の成功について十分に納得できましたし、素直に楽しい作品でした。

ところでまったくの余談ですが、私は芥川賞作家、羽田圭介さんの「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」という作品が以前から大変気になっています。あまねく「オブ・ザ・デッド」の中で、群を抜いてセンスの光るタイトルだと思いませんか。

しかし、安心して下さい。たとえ鑑賞しても小説なので、こちらで紹介することはありません。ゾンビ映画は、他にいくらでもありますしね。ふふふ。

 

絆ブームへのアンチテーゼ

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万引き家族

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

日雇い労働者の柴田治とクリーニング店にパート勤めしている妻の信代は、治の母、初枝の元に、息子の祥太、信代の妹の亜紀と共に転がり込んで暮らしている。治と信代夫婦の収入は不安定で、初枝の年金を当てに、足りない分は万引きして生計を立てていた。

いつものように、治と息子の祥太がタッグを組んでスーパーで万引きした帰り道、寒空の中、団地のベランダに出されて放置されている幼い女の子、ゆりを見つける。

ゆりを一時的に連れ帰り、温かいものを食べさせてから、家まで送って行った治と信代だが、日常的に虐待を受けている様子を知って、信代はゆりを自分の娘として育てることを決める。

ゆりの本物の両親は捜索願いを出さず、ゆりも全く元の家に帰りたがらなかったが、現実的には誘拐してきたことに変わりない。ゆりを家族に迎えたことで、治たちの暮らしに綻びが生じる。

家族であろうとして、取り繕えば取り繕うほど新たな綻びが生まれ、やがて治たちの手に負えなくなってしまう。

死亡している親の年金を不正受給していた家族の事件をきっかけに、是枝監督が「犯罪でしかつながれなかった」家族を描いた。第71回カンヌ国際映画祭、最高賞パルムドール受賞作品。

わたくし的見解

20年ほど前、当時小説「GO」が映画化され注目を浴びていた金城一紀さんが、何かしら雑誌の映画特集の中で「キューブリックとカンヌ(映画祭の受賞作品)が良いとか言う大人にはなりたくない」みたいな発言をされていた。

金城さんは近年では、映画化もされたTVドラマ「SP」など手がけられ、小説家でありながら映像作品に強い興味をもつ人である。「GO」の映画化は2001年、20代だった私もキューブリックとカンヌの良さはてんで分からず、その先わかりたいとも思っていなかった。

発言の趣旨としては「キューブリックとかカンヌとかを良い」と言って通ぶるオッサンにはなりたくないって事で、実際そのような玄人気取りの発言に酔いしれがちなのは、一部のオッサンが陥りやすい穴でもある。何も映画に限ったことではない。

おそろしいもので、オバハンになったわたくしも、あれほど忌み嫌っていたキューブリックとカンヌの良さがわかるようになってしまった。言い訳がましいが、映画研究会の大学生じゃあるまいし、決して通ぶっているのではない点をご理解願いたい。

LGBT同様に、映画についても多様性を認めるわたくしは、商業ベースに乗らない作品の良さや意義がわかるようになった。かつてディスっていたものを、やっぱ良いっすね、と掌を返せるようになった点も含めて、大人になったのだ。誰か褒めて欲しい。

さて長々とした前置きで最も重要な部分は、カンヌで評価されるものは、そもそも商業作品ではないと言う事だ。言い換えると、そこに分かりやすい面白さは、まず無いと考えてよい。

「アート作品気取り」「何が面白いのか分からない」

定型文でもあるのかな、と思うほどカンヌ受賞作品の低評価レビューは、概ねこんな感じ。気取っているのではなく、商業作品でない以上、事実アート寄りなのであるし、結果エンタメ的面白さは少ない。

さすが拒否反応を示しているだけあって、実に的を射た意見である。結局のところ、それが好きか嫌いか、ただそれだけの話なのだ。

一口に「読書します」と言っても、古くはシャーロック・ホームズ、昨今なら伊坂幸太郎作品のように伏線を回収しスッキリと終わるミステリーが好きな人もいれば、回収されない伏線がてんこ盛りのまま終わる純文学系が好きな人もいる。

決して、ミステリーが低俗な訳ではないし、純文学が高尚な訳でもない。カンヌ作品は、純文学的だと言える。カンヌ受賞作品の冠は、作品の傾向や性質をあらかじめ示してくれている事に他ならない。

気ぃ付けなはれや!と、親切にもポスターに書いてあるのだから、苦手、あるいは不快ならば観なければ良い。素直に「ミッション・インポッシブル」のチケットを買えばよいのだ。

万引き家族」もやはり純文学的作品で、回収されない伏線、つまり解決していない問題にもどかしさを覚えることになる。答えが作品の中にあるわけではない。

あえて言及することも憚られるが、万引きして家族を養う彼らを賛美してはいない。子供にまで犯罪の片棒を担がせているのだ。正しいはずがない。正しくない彼らが、それでも少しましに見えてしまう程、実の子供に居場所を与えていない家族の存在が提示される。

万引き家族の中で、父よりも母よりも真っ先に大人になったのは、息子の祥太だった。正しくないことに子供らしく、まっすぐ疑問を持った彼に引っ張られて、家族は変容する。彼の姿には希望が垣間見え、誇らしい。そして、いかなる場合でも成長には寂しさが付き物だ。

作品は答えを示しているのではなく、問題を提起している。家族って何なんだろう。血の繋がりは。いとも簡単に口にされる、絆とは何なのか。答えは、個々の鑑賞者の内にある。内にしかない。

さて、子供たちの演技が評価されがちだが、大人の俳優陣も実に素晴らしかった。ここ近年の是枝作品とは違い、本作はスタア不在で、それがかえってバランスの良いアンサンブルを奏でていた。

是枝作品初参加の若手実力派、松岡茉優さんも、個人的にプロのブスと賞賛している安藤サクラさんも、今後の作品に常連として呼ばれそうなしっくり感であったし、なにより是枝監督の心の母、樹木希林さんがご健在の間にパルムドールを受賞できたのが、きっと是枝組にとって一番喜ばしいことだったに違いない。

ところで、「万引き家族」も面白いが、「ミッション・インポッシブル」も面白い。オバハンになると、キューブリックの良さもスピルバーグの良さも分かるのである。大人になるって、案外いいものなのだ。

 

事件が、会議室で起こることもあるのだ

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キャビン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

失恋したばかりの女子大生デイナは、友達のジュールズに誘われ、湖畔近くの別荘に行くことになった。そこはジュールズの彼氏、カートの親戚が所有している山小屋(キャビン)で、デイナに紹介するためにジュールズとカートが連れてきたホールデン、共通の友人マーティンを含めた男女5人の若者は、週末を楽しく過ごす。

夜も更けお酒も入り、ますます盛上がる彼らは「告白か挑戦(Truth or Dare)」ゲームを始める。デイナは「挑戦」を選び、真っ暗な地下室へ一人で入って行くことに。地下室は暗いばかりでなく、古めかしく怪しげなアイテムの宝庫だった。あまりの怖ろしさに悲鳴をあげてしまい、デイナの「挑戦」は失敗に終わる。

悲鳴を聞き駆けつけた仲間たちは、結局全員で地下室を物色し始め、5人がそれぞれに不気味なアイテムに魅せられていく。デイナは、かつてここで暮らしていた一族の古い日記を見つけ、そこに書かれていたラテン語を声に出して読み上げた。

デイナの行動をきっかけに、呪われた一族は墓場からゾンビとして蘇り、山小屋の若者たちを次々と襲い始めるのだが。

わたくし的見解

こうも極端に暑い日が続くと、かしこまらずに観られる映画がいいなぁ。夏だし、ホラーでも観ようかな。という怠惰なノリで選びました。作品の鑑賞が目的ではなく、映画館へ行くことが目的の映画が世の中にはあるわけで。そんなポップコーンムービー、デートムービーの最たるものと言えるでしょう。

春はゾンビの季節だから、とか意味不明なことを言って、今度は夏だからホラーとこじつけて、こいつはゾンビ映画が好きなだけじゃあないのかと思われた方もいるかも知れません。たしかに私は「ウォーキング・デッド」シーズン9の放映を心待ちにしています。

しかし、安心して下さい。本作はゾンビ映画ではありません。ゾンビは、ほんの端役でしかないのです。

「だいたいこんな話(作品概要)」で、お気付きかも知れませんが、ホラー映画としては超お決まりの、ド定番な導入部分です。田舎暮らしに憧れて引っ越した古い屋敷や、人里離れた山荘で怖い目に遭うなんて作品は、掃いて捨てるほどあるのです。

とくに5人の若い男女が山小屋の地下室で見つけたものが、きっかけとなる展開は、ホラー映画の金字塔のひとつ、サム・ライミ監督の「死霊のはらわた」を明らかにイメージしたもの。

地下室で見つけた古い記録、本作では日記、「死霊のはらわた」ではテープがキーアイテムとなり、読み上げる、あるいは再生させる行為によって、若者たちの身に起こる惨劇のスタートボタンが押されてしまいます。

本作の場合は文章表現としてではなく、若者たちの動向を終始監視していた人間によって、実際に物理的に、惨劇スタートのボタンが押されるのです。

たまたまヒロインが日記を選び、きっかけとなる行為に至ったためゾンビが現れましたが、5人の若者それぞれが手にしたアイテムごとに付随するモンスターが、実は用意されていたのでした。

当然、若者たちは車で山小屋から逃げ出すも、失敗するくだりまで「死霊のはらわた」を踏襲しています。しかし「キャビン」は名作のリメイクではなく、天下のディズニーが、作り続けてきたプリンセスストーリーを自虐ネタで遊んだ「魔法にかけられて」のような、パロディ作品と言って良いでしょう。

また、ホラー映画あるあるを高らかに歌い、メタ表現で一線を画した「スクリーム」シリーズの類でもあります。

ホラー映画を観ていてよく感じるのは、事件とは違い、現場ではなく会議室で色々起こっているということ。

人気の「ファイナル・デッド」シリーズなどは、きっと毎回、既存のホラー作品では見た事のない「むごい死に方」「あんまりな死に様」のアイデアを、ホワイトボートに書き連ねているに違いありません。マニアが集まり嬉々として、そんな会議(チャットかも知れないけれど)を繰り広げているのです。

まともな大人から見れば不謹慎極まりない会議に思えますが、本作で映像化されているモンスターの数を見ると、馬鹿馬鹿しさを通り越して尊敬の念が芽生えそうです。思いつく限りのモンスターと、呼び起こすためのキーを書き尽くしたホワイトボードは、真っ黒になっていた事でしょう。

身も蓋もない言い方をすると、ホラー映画なんてものは5つ星で評価すれば、大抵は3つ星までです。しかし、時折スマッシュヒットを飛ばす作品があるため、気が抜けないジャンルでもあります。

スマッシュヒットを飛ばしたところで、せいぜい星は3.5から4つ程度なのですが、それくらいが丁度いい、鑑賞する側のコンディションもあるのです。

本作に登場する、ちょっとエロめの女の子なんて絶妙で、見た瞬間に真っ先に死ぬんだろうな、と直感。こんないい具合の(可愛いし綺麗なのに)なんとも安っぽい女の子、どこで見つけてくるんだろうと感心しつつ、今まさにホラー映画を見始めたのだなと安心しました。

最初に死ぬセクシーな金髪娘や、ゴタクを並べているうちに殺されるキャラクター、生き残りそうな処女など、ホラー映画の定石をイジリたおしていく作品なので、もともとこのジャンルが好きな人の方が楽しめそうです。

換骨奪胎や温故知新と呼べるほど立派なものではありませんが、好きこそ物の上手なれ。イノベーションを図ったアイデア意欲作として愛でてあげて下さい。マストではありませんが、ホラーでも観っかな、みたいなノリの時はご参考まで。さして涼しくはならない、納涼ホラー映画のすゝめでした。

 

床がキンキンに冷えてやがる

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殺人の告白

映画情報

  • 原題:Confession of Murder/내가 살인범이다
  • 公開年度:2012年
  • 制作国・地域:韓国
  • 上映時間:119分
  • 監督:チョン・ビョンギル
  • 出演:パク・シフ、チョン・ジェヨン、キム・ヨンエ

だいたいこんな話(作品概要)

15年前、世間を震撼させた連続殺人事件の「犯人は自分である」と名乗り出る男がいた。自称連続殺人犯のイ・ドゥソクは、事件の真相について告白本を出版し、そのビジュアルの美しさも相まって瞬く間に時の人となる。

マスコミの報道が白熱する中、イ・ドゥソクはテレビ番組に出演する。番組の生放送中に「私こそが真犯人だ」と電話してくる男が現れ、事態は急展開を見せる。

国史上、初めての連続殺人事件と言われている「華城連続殺人事件」をモチーフに作られた、サスペンスアクション。日本映画「22年目の告白─私が殺人犯です─」は、本作のリメイク作品。

わたくし的見解

韓国の人にとって「華城連続殺人事件」は、誰もが知っている猟奇殺人事件だと聞く。前述したように、韓国史上初の連続殺人であると同時に、未解決のまま時効を迎えてしまったからだ。

日本だと(日本史上初めてでもなければ未解決でもないけれど)まさに「酒鬼薔薇事件」が当てはまると思う。国内での認知度の高さや、加害者自身が18年後に告白本を出版したことなどは、不気味に映画とリンクする。

とにかく誰でも知っている、いまだに虫唾が走る事件が下敷きにあるため、それについての細かな説明は「殺人の告白」では見事に端折られている。ここが、日本でリメイクした「22年目の告白─私が殺人犯です─」(以下、「22年目の告白」)で、一番アレンジされていた部分と言ってよい。

「22年目の告白」では「華城連続殺人事件」がベースにない日本人のために、別の前提が用意されている。

実は本作「殺人の告白」を鑑賞したのは、先日地上波でTV放送されていた「22年目の告白」を見た事がきっかけになっている。日本版とも言える「22年目の告白」は、CMを見た時から気になっていたのだ。

美し過ぎる殺人犯、だとか、記者会見のシーンだとか。韓国映画のリメイクだと当初は知らなかったので、なんかどこかで聞いたこと、見たことあるような映画をやるのだな、という漠然とした無関心を払拭させたのは、日本の至宝、藤原竜也の存在である。

とにかく私は、藤原竜也が好きだ。

ビジュアルや演技力は申し分ない。往年の美少女タレント一色紗英と見紛う可愛らしいお顔立ち、美輪明宏と二大巨塔と言ってよい魅惑のビブラートボイス。しかし、そんな事よりも何よりも

「お、俺は死ぬのかぁ〜っ?!」「床が、キンキンに冷えてやがる!!」

藤原竜也の存在は、一俳優の枠を超え、もはや、プロの絶叫家として目が離せない。

ところが、そんな藤原竜也を満喫する以上に「22年目の告白」の作品としての出来が、思いのほか良かった。既視感は納得、韓国映画のリメイクだと知り、私が感心したプロットの面白さは、オリジナル由来なのか確認したくなった。

この二つの作品において、私がとくに気に入っているのは、オリジナルとリメイクの棲み分けが上手く出来ている点だ。

オリジナルの韓国作品は、まるで香港映画のようにエンタメ性が高くアクション満載で、リメイクの日本作品は韓国映画のような重厚なドラマに大きく舵をきっているところが、とても興味深い。

「殺人の告白」が悲劇の未解決事件をベースにしているにもかかわらず、ひんしゅくを買いかねないほど、軽いタッチの作風に振り切ったのは、同じ事件を基にした、2003年の「殺人の追憶」(ポン・ジュノ監督作品)の存在が大きいのではと想像している。

殺人の追憶」は、より未解決の部分のリアルさを描いた、それこそ重厚でシリアスなドラマで、実に素晴らしい作品だ。

映画祭などの賞レース向きの「殺人の追憶」に対して、本作「殺人の告白」は完全に大衆向けの商業作品であって、その意味合いでは大きく成功していると思う。

藤原竜也一色紗英的ラブリーフェイスも良いが、パク・シフのディーン・フジオカと若かりし頃の中井貴一を足して二で割ったようなクールビューティーも悪くない。パク・シフは絶叫してくれないが、代わりに物語全体がトゥーマッチで、サモ・ハン・キンポーの出てきそうなアクションを楽しめる。

悪くない、悪くない。オリジナルとリメイクと、どちらも違う良さがあり楽しめる。

ただ(作品とは無関係だが)残念なのは、この二作品とは違い「酒鬼薔薇事件」の告白本の出版は、フィクションでも何でもない。フィクションで描かれたとおりに(映画では、それを逆手に利用しているのだが)マスコミや大衆は、その内容とは無関係に、告白本へ過剰に興味を示してしまった。

何かこう、残念な現実を見せつけられてモヤモヤしてしまうけど、フィクションの風刺の切り口が、それだけ見事だとも言える。

外国映画のリメイクは、俳優と言語が違うだけで、ほぼほぼ同じ作りのものも沢山あるが、本作のリメイクについては、アレンジの仕方が丁寧でかつ違った毛色の作風に仕上がっているので、機会があれば二作品とも鑑賞し、ぜひ比べてみて欲しい。

さて、今回の映画には全く関係ないことだが、藤原竜也さんは「床がキンキン」と言ったことはないらしい。モノマネではなく、本人が言ってたような記憶があるのになぁ。残念。