映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

メタ表現マトリョーシカ

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カメラを止めるな!

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

とある山奥の廃墟で、ゾンビ映画を撮影する者たちがいた。それは低予算の自主制作映画で、制作費を借金してまで工面した監督の作品に賭ける情熱はひとしお。

本物が欲しい! と、主演女優に緊迫した表情を求めて、クライマックスシーンで42回もリテイクを出してしまう監督と、その他のスタッフや出演者との間には明らかに温度差が生じていた。

妥協を許さない監督が、ある儀式を行ったことで、撮影スタッフと出演者は本物のゾンビに次々と転化し、現場はパニック状態に。しかし監督だけは嬉々として「カメラを止めるな!」と撮影続行を指示するのだった。

わたくし的見解

まーた、ゾンビ映画を紹介するのかよ。いい加減にしてくれよな! と、思った方もいらっしゃるかも知れません。しかし、安心して下さい。「カメラを止めるな!」は、ゾンビ映画ではありません。ホラー映画でさえないのです。

作品の性質上、なるたけネタバレを回避した上で、これほどまで話題になり、ヒットした面白さを語るのは、なかなか至難のわざ。

作品の公式サイトを含めて、ウェブ上のあちこちで「37分ワンカットの怒涛のゾンビ映画」と謳われていたり、作品のキャッチコピー「この映画は二度はじまる」など、大っぴらに明らかにされている情報から出来るだけハミ出さないよう、細心の注意を払ってご紹介しなくっちゃ。

作品概要で触れているのは、映画内映画「ONE CUT OF THE DEAD」で、実際に37分ワンカット、ワンカメ撮影のため、映像が揺れまくり。私は完全に酔ってしまい、吐き気を覚えていました。

その「ONE CUT OF THE DEAD」のエンドクレジットを眺めながら、本作がここでは終わらないことも、そんなに長い上映時間でないことも知っていましたが、この先も手持ちカメラ映像を見せ続けられたら、私はどんな面白い作品でも極めて悪い印象と共に帰宅していたと思います。

ありがたい事に、その後は固定カメラの映像が中心になって、吐き気も徐々に収まると共に、作品に対する好感度も上昇。

「ONE CUT OF THE DEAD」は手持ちカメラ映像のせいもあって、「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」のようなモキュメンタリーを観せられている気分に。ところが、突然カメラ目線で放たれる「カメラを止めるな!」という台詞で、メタ表現めいた部分も出てくる。

どっちで行きたいんだろう。どっち付かずのところが、まさか画期的なのか? それにしたって、37分ワンカットの苦労は分かるけど、ちょっとグダグダ過ぎるよね。などなど、気になるところが満載。

あまり洗練されていない事まで折り込み済みの、モキュメンタリー風メタ実験的アドリブ護身術映画なのか?! 実はそんな「何か変な間」や「イマイチな演出」のすべてが伏線に。

「ONE CUT OF THE DEAD」に違和を感じれば感じる程、作品後半の展開をより楽しめる仕組みになっています。

語るにあたって、ネタバレ回避するべきタイプの映画なので、大変に悩ましいところではあるのですが。このままだと今回の記事自体が、ある種の生ける屍になりかねません。

ひとまず国内での先行上映から一年近く経つので「これ位は許して」的ネタバレへの抵触をさせて頂くと、「ONE CUT OF THE DEAD」は下手なメタ作品で、「カメラを止めるな!」は大変によく出来たメタ作品だと言うこと。

しかも「ONE CUT OF THE DEAD」と「カメラを止めるな!」も、入れ子構造になっている。

たとえば、このまま合わせ鏡のように無限にメタが続くと、それこそホラーですが、マトリョーシカより少なめの入れ子なので、可愛くまとまっています。この可愛さが、本作ヒットの要因かと思われます。

入れ子構造の映画が初体験の観客はとても楽しかっただろうし、この手の物語の構造をすで知っている人は、作品の可愛さ、ちょっと照れちゃう表現ですが「愛」とか「絆」に心打たれたはずです。

「ONE CUT OF THE DEAD」を観ても分かるように、入れ子構造だけでは高評価に繋がりません。マトリョーシカも、チープ感は味になりますが、あまりの出来の悪さは可愛さが半減します。

その意味では「カメラを止めるな!」の成功について十分に納得できましたし、素直に楽しい作品でした。

ところでまったくの余談ですが、私は芥川賞作家、羽田圭介さんの「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」という作品が以前から大変気になっています。あまねく「オブ・ザ・デッド」の中で、群を抜いてセンスの光るタイトルだと思いませんか。

しかし、安心して下さい。たとえ鑑賞しても小説なので、こちらで紹介することはありません。ゾンビ映画は、他にいくらでもありますしね。ふふふ。

 

絆ブームへのアンチテーゼ

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万引き家族

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

日雇い労働者の柴田治とクリーニング店にパート勤めしている妻の信代は、治の母、初枝の元に、息子の祥太、信代の妹の亜紀と共に転がり込んで暮らしている。治と信代夫婦の収入は不安定で、初枝の年金を当てに、足りない分は万引きして生計を立てていた。

いつものように、治と息子の祥太がタッグを組んでスーパーで万引きした帰り道、寒空の中、団地のベランダに出されて放置されている幼い女の子、ゆりを見つける。

ゆりを一時的に連れ帰り、温かいものを食べさせてから、家まで送って行った治と信代だが、日常的に虐待を受けている様子を知って、信代はゆりを自分の娘として育てることを決める。

ゆりの本物の両親は捜索願いを出さず、ゆりも全く元の家に帰りたがらなかったが、現実的には誘拐してきたことに変わりない。ゆりを家族に迎えたことで、治たちの暮らしに綻びが生じる。

家族であろうとして、取り繕えば取り繕うほど新たな綻びが生まれ、やがて治たちの手に負えなくなってしまう。

死亡している親の年金を不正受給していた家族の事件をきっかけに、是枝監督が「犯罪でしかつながれなかった」家族を描いた。第71回カンヌ国際映画祭、最高賞パルムドール受賞作品。

わたくし的見解

20年ほど前、当時小説「GO」が映画化され注目を浴びていた金城一紀さんが、何かしら雑誌の映画特集の中で「キューブリックとカンヌ(映画祭の受賞作品)が良いとか言う大人にはなりたくない」みたいな発言をされていた。

金城さんは近年では、映画化もされたTVドラマ「SP」など手がけられ、小説家でありながら映像作品に強い興味をもつ人である。「GO」の映画化は2001年、20代だった私もキューブリックとカンヌの良さはてんで分からず、その先わかりたいとも思っていなかった。

発言の趣旨としては「キューブリックとかカンヌとかを良い」と言って通ぶるオッサンにはなりたくないって事で、実際そのような玄人気取りの発言に酔いしれがちなのは、一部のオッサンが陥りやすい穴でもある。何も映画に限ったことではない。

おそろしいもので、オバハンになったわたくしも、あれほど忌み嫌っていたキューブリックとカンヌの良さがわかるようになってしまった。言い訳がましいが、映画研究会の大学生じゃあるまいし、決して通ぶっているのではない点をご理解願いたい。

LGBT同様に、映画についても多様性を認めるわたくしは、商業ベースに乗らない作品の良さや意義がわかるようになった。かつてディスっていたものを、やっぱ良いっすね、と掌を返せるようになった点も含めて、大人になったのだ。誰か褒めて欲しい。

さて長々とした前置きで最も重要な部分は、カンヌで評価されるものは、そもそも商業作品ではないと言う事だ。言い換えると、そこに分かりやすい面白さは、まず無いと考えてよい。

「アート作品気取り」「何が面白いのか分からない」

定型文でもあるのかな、と思うほどカンヌ受賞作品の低評価レビューは、概ねこんな感じ。気取っているのではなく、商業作品でない以上、事実アート寄りなのであるし、結果エンタメ的面白さは少ない。

さすが拒否反応を示しているだけあって、実に的を射た意見である。結局のところ、それが好きか嫌いか、ただそれだけの話なのだ。

一口に「読書します」と言っても、古くはシャーロック・ホームズ、昨今なら伊坂幸太郎作品のように伏線を回収しスッキリと終わるミステリーが好きな人もいれば、回収されない伏線がてんこ盛りのまま終わる純文学系が好きな人もいる。

決して、ミステリーが低俗な訳ではないし、純文学が高尚な訳でもない。カンヌ作品は、純文学的だと言える。カンヌ受賞作品の冠は、作品の傾向や性質をあらかじめ示してくれている事に他ならない。

気ぃ付けなはれや!と、親切にもポスターに書いてあるのだから、苦手、あるいは不快ならば観なければ良い。素直に「ミッション・インポッシブル」のチケットを買えばよいのだ。

万引き家族」もやはり純文学的作品で、回収されない伏線、つまり解決していない問題にもどかしさを覚えることになる。答えが作品の中にあるわけではない。

あえて言及することも憚られるが、万引きして家族を養う彼らを賛美してはいない。子供にまで犯罪の片棒を担がせているのだ。正しいはずがない。正しくない彼らが、それでも少しましに見えてしまう程、実の子供に居場所を与えていない家族の存在が提示される。

万引き家族の中で、父よりも母よりも真っ先に大人になったのは、息子の祥太だった。正しくないことに子供らしく、まっすぐ疑問を持った彼に引っ張られて、家族は変容する。彼の姿には希望が垣間見え、誇らしい。そして、いかなる場合でも成長には寂しさが付き物だ。

作品は答えを示しているのではなく、問題を提起している。家族って何なんだろう。血の繋がりは。いとも簡単に口にされる、絆とは何なのか。答えは、個々の鑑賞者の内にある。内にしかない。

さて、子供たちの演技が評価されがちだが、大人の俳優陣も実に素晴らしかった。ここ近年の是枝作品とは違い、本作はスタア不在で、それがかえってバランスの良いアンサンブルを奏でていた。

是枝作品初参加の若手実力派、松岡茉優さんも、個人的にプロのブスと賞賛している安藤サクラさんも、今後の作品に常連として呼ばれそうなしっくり感であったし、なにより是枝監督の心の母、樹木希林さんがご健在の間にパルムドールを受賞できたのが、きっと是枝組にとって一番喜ばしいことだったに違いない。

ところで、「万引き家族」も面白いが、「ミッション・インポッシブル」も面白い。オバハンになると、キューブリックの良さもスピルバーグの良さも分かるのである。大人になるって、案外いいものなのだ。

 

事件が、会議室で起こることもあるのだ

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キャビン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

失恋したばかりの女子大生デイナは、友達のジュールズに誘われ、湖畔近くの別荘に行くことになった。そこはジュールズの彼氏、カートの親戚が所有している山小屋(キャビン)で、デイナに紹介するためにジュールズとカートが連れてきたホールデン、共通の友人マーティンを含めた男女5人の若者は、週末を楽しく過ごす。

夜も更けお酒も入り、ますます盛上がる彼らは「告白か挑戦(Truth or Dare)」ゲームを始める。デイナは「挑戦」を選び、真っ暗な地下室へ一人で入って行くことに。地下室は暗いばかりでなく、古めかしく怪しげなアイテムの宝庫だった。あまりの怖ろしさに悲鳴をあげてしまい、デイナの「挑戦」は失敗に終わる。

悲鳴を聞き駆けつけた仲間たちは、結局全員で地下室を物色し始め、5人がそれぞれに不気味なアイテムに魅せられていく。デイナは、かつてここで暮らしていた一族の古い日記を見つけ、そこに書かれていたラテン語を声に出して読み上げた。

デイナの行動をきっかけに、呪われた一族は墓場からゾンビとして蘇り、山小屋の若者たちを次々と襲い始めるのだが。

わたくし的見解

こうも極端に暑い日が続くと、かしこまらずに観られる映画がいいなぁ。夏だし、ホラーでも観ようかな。という怠惰なノリで選びました。作品の鑑賞が目的ではなく、映画館へ行くことが目的の映画が世の中にはあるわけで。そんなポップコーンムービー、デートムービーの最たるものと言えるでしょう。

春はゾンビの季節だから、とか意味不明なことを言って、今度は夏だからホラーとこじつけて、こいつはゾンビ映画が好きなだけじゃあないのかと思われた方もいるかも知れません。たしかに私は「ウォーキング・デッド」シーズン9の放映を心待ちにしています。

しかし、安心して下さい。本作はゾンビ映画ではありません。ゾンビは、ほんの端役でしかないのです。

「だいたいこんな話(作品概要)」で、お気付きかも知れませんが、ホラー映画としては超お決まりの、ド定番な導入部分です。田舎暮らしに憧れて引っ越した古い屋敷や、人里離れた山荘で怖い目に遭うなんて作品は、掃いて捨てるほどあるのです。

とくに5人の若い男女が山小屋の地下室で見つけたものが、きっかけとなる展開は、ホラー映画の金字塔のひとつ、サム・ライミ監督の「死霊のはらわた」を明らかにイメージしたもの。

地下室で見つけた古い記録、本作では日記、「死霊のはらわた」ではテープがキーアイテムとなり、読み上げる、あるいは再生させる行為によって、若者たちの身に起こる惨劇のスタートボタンが押されてしまいます。

本作の場合は文章表現としてではなく、若者たちの動向を終始監視していた人間によって、実際に物理的に、惨劇スタートのボタンが押されるのです。

たまたまヒロインが日記を選び、きっかけとなる行為に至ったためゾンビが現れましたが、5人の若者それぞれが手にしたアイテムごとに付随するモンスターが、実は用意されていたのでした。

当然、若者たちは車で山小屋から逃げ出すも、失敗するくだりまで「死霊のはらわた」を踏襲しています。しかし「キャビン」は名作のリメイクではなく、天下のディズニーが、作り続けてきたプリンセスストーリーを自虐ネタで遊んだ「魔法にかけられて」のような、パロディ作品と言って良いでしょう。

また、ホラー映画あるあるを高らかに歌い、メタ表現で一線を画した「スクリーム」シリーズの類でもあります。

ホラー映画を観ていてよく感じるのは、事件とは違い、現場ではなく会議室で色々起こっているということ。

人気の「ファイナル・デッド」シリーズなどは、きっと毎回、既存のホラー作品では見た事のない「むごい死に方」「あんまりな死に様」のアイデアを、ホワイトボートに書き連ねているに違いありません。マニアが集まり嬉々として、そんな会議(チャットかも知れないけれど)を繰り広げているのです。

まともな大人から見れば不謹慎極まりない会議に思えますが、本作で映像化されているモンスターの数を見ると、馬鹿馬鹿しさを通り越して尊敬の念が芽生えそうです。思いつく限りのモンスターと、呼び起こすためのキーを書き尽くしたホワイトボードは、真っ黒になっていた事でしょう。

身も蓋もない言い方をすると、ホラー映画なんてものは5つ星で評価すれば、大抵は3つ星までです。しかし、時折スマッシュヒットを飛ばす作品があるため、気が抜けないジャンルでもあります。

スマッシュヒットを飛ばしたところで、せいぜい星は3.5から4つ程度なのですが、それくらいが丁度いい、鑑賞する側のコンディションもあるのです。

本作に登場する、ちょっとエロめの女の子なんて絶妙で、見た瞬間に真っ先に死ぬんだろうな、と直感。こんないい具合の(可愛いし綺麗なのに)なんとも安っぽい女の子、どこで見つけてくるんだろうと感心しつつ、今まさにホラー映画を見始めたのだなと安心しました。

最初に死ぬセクシーな金髪娘や、ゴタクを並べているうちに殺されるキャラクター、生き残りそうな処女など、ホラー映画の定石をイジリたおしていく作品なので、もともとこのジャンルが好きな人の方が楽しめそうです。

換骨奪胎や温故知新と呼べるほど立派なものではありませんが、好きこそ物の上手なれ。イノベーションを図ったアイデア意欲作として愛でてあげて下さい。マストではありませんが、ホラーでも観っかな、みたいなノリの時はご参考まで。さして涼しくはならない、納涼ホラー映画のすゝめでした。

 

床がキンキンに冷えてやがる

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殺人の告白

映画情報

  • 原題:Confession of Murder/내가 살인범이다
  • 公開年度:2012年
  • 制作国・地域:韓国
  • 上映時間:119分
  • 監督:チョン・ビョンギル
  • 出演:パク・シフ、チョン・ジェヨン、キム・ヨンエ

だいたいこんな話(作品概要)

15年前、世間を震撼させた連続殺人事件の「犯人は自分である」と名乗り出る男がいた。自称連続殺人犯のイ・ドゥソクは、事件の真相について告白本を出版し、そのビジュアルの美しさも相まって瞬く間に時の人となる。

マスコミの報道が白熱する中、イ・ドゥソクはテレビ番組に出演する。番組の生放送中に「私こそが真犯人だ」と電話してくる男が現れ、事態は急展開を見せる。

国史上、初めての連続殺人事件と言われている「華城連続殺人事件」をモチーフに作られた、サスペンスアクション。日本映画「22年目の告白─私が殺人犯です─」は、本作のリメイク作品。

わたくし的見解

韓国の人にとって「華城連続殺人事件」は、誰もが知っている猟奇殺人事件だと聞く。前述したように、韓国史上初の連続殺人であると同時に、未解決のまま時効を迎えてしまったからだ。

日本だと(日本史上初めてでもなければ未解決でもないけれど)まさに「酒鬼薔薇事件」が当てはまると思う。国内での認知度の高さや、加害者自身が18年後に告白本を出版したことなどは、不気味に映画とリンクする。

とにかく誰でも知っている、いまだに虫唾が走る事件が下敷きにあるため、それについての細かな説明は「殺人の告白」では見事に端折られている。ここが、日本でリメイクした「22年目の告白─私が殺人犯です─」(以下、「22年目の告白」)で、一番アレンジされていた部分と言ってよい。

「22年目の告白」では「華城連続殺人事件」がベースにない日本人のために、別の前提が用意されている。

実は本作「殺人の告白」を鑑賞したのは、先日地上波でTV放送されていた「22年目の告白」を見た事がきっかけになっている。日本版とも言える「22年目の告白」は、CMを見た時から気になっていたのだ。

美し過ぎる殺人犯、だとか、記者会見のシーンだとか。韓国映画のリメイクだと当初は知らなかったので、なんかどこかで聞いたこと、見たことあるような映画をやるのだな、という漠然とした無関心を払拭させたのは、日本の至宝、藤原竜也の存在である。

とにかく私は、藤原竜也が好きだ。

ビジュアルや演技力は申し分ない。往年の美少女タレント一色紗英と見紛う可愛らしいお顔立ち、美輪明宏と二大巨塔と言ってよい魅惑のビブラートボイス。しかし、そんな事よりも何よりも

「お、俺は死ぬのかぁ〜っ?!」「床が、キンキンに冷えてやがる!!」

藤原竜也の存在は、一俳優の枠を超え、もはや、プロの絶叫家として目が離せない。

ところが、そんな藤原竜也を満喫する以上に「22年目の告白」の作品としての出来が、思いのほか良かった。既視感は納得、韓国映画のリメイクだと知り、私が感心したプロットの面白さは、オリジナル由来なのか確認したくなった。

この二つの作品において、私がとくに気に入っているのは、オリジナルとリメイクの棲み分けが上手く出来ている点だ。

オリジナルの韓国作品は、まるで香港映画のようにエンタメ性が高くアクション満載で、リメイクの日本作品は韓国映画のような重厚なドラマに大きく舵をきっているところが、とても興味深い。

「殺人の告白」が悲劇の未解決事件をベースにしているにもかかわらず、ひんしゅくを買いかねないほど、軽いタッチの作風に振り切ったのは、同じ事件を基にした、2003年の「殺人の追憶」(ポン・ジュノ監督作品)の存在が大きいのではと想像している。

殺人の追憶」は、より未解決の部分のリアルさを描いた、それこそ重厚でシリアスなドラマで、実に素晴らしい作品だ。

映画祭などの賞レース向きの「殺人の追憶」に対して、本作「殺人の告白」は完全に大衆向けの商業作品であって、その意味合いでは大きく成功していると思う。

藤原竜也一色紗英的ラブリーフェイスも良いが、パク・シフのディーン・フジオカと若かりし頃の中井貴一を足して二で割ったようなクールビューティーも悪くない。パク・シフは絶叫してくれないが、代わりに物語全体がトゥーマッチで、サモ・ハン・キンポーの出てきそうなアクションを楽しめる。

悪くない、悪くない。オリジナルとリメイクと、どちらも違う良さがあり楽しめる。

ただ(作品とは無関係だが)残念なのは、この二作品とは違い「酒鬼薔薇事件」の告白本の出版は、フィクションでも何でもない。フィクションで描かれたとおりに(映画では、それを逆手に利用しているのだが)マスコミや大衆は、その内容とは無関係に、告白本へ過剰に興味を示してしまった。

何かこう、残念な現実を見せつけられてモヤモヤしてしまうけど、フィクションの風刺の切り口が、それだけ見事だとも言える。

外国映画のリメイクは、俳優と言語が違うだけで、ほぼほぼ同じ作りのものも沢山あるが、本作のリメイクについては、アレンジの仕方が丁寧でかつ違った毛色の作風に仕上がっているので、機会があれば二作品とも鑑賞し、ぜひ比べてみて欲しい。

さて、今回の映画には全く関係ないことだが、藤原竜也さんは「床がキンキン」と言ったことはないらしい。モノマネではなく、本人が言ってたような記憶があるのになぁ。残念。

 

ダニエル、おそろしい子!

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ファントム・スレッド

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1950年代のロンドン。社交界から圧倒的支持を得るオートクチュール(高級仕立服)ブランドを率いる、レイノルズ。彼がデザインし仕立てたドレスは、王室に至るまで女性たちの憧れだった。

レイノルズは常に、創作意欲の源となる女性(ミューズ)を傍に置いて仕事をしていた。ある時、レイノルズはウェイトレスのアルマと出会い惹かれ合う。それまでと同様に、アルマを自宅兼仕事場のメゾンにミューズとして迎え入れ、ドレス作りに没頭するレイノルズ。

しかしアルマは、今までのミューズと違い、レイノルズとより深い関係を築くことを求める。仕事にすべてを捧げ、常に静寂を愛してきたレイノルズの人生は、アルマの存在によって翻弄されることになる。

わたくし的見解

主演のダニエル・デイ=ルイスが、本作をもって引退するらしい。彼は、アカデミー主演男優賞を3度も受賞している言わずと知れた名優で、私も特に演技の巧い俳優だと認識している。

ただ彼の場合、演技の巧さもさる事ながら、わたくし個人としては、役者バカと言うか(「○○バカ」って、今は使ってはいけない表現らしいですねぇ)、とにかく「ガラスの仮面」のヒロイン北島マヤに程近い、芝居狂いのイメージがある。

ロバート・デ・ニーロの徹底した役作りは有名だが、ダニエル・デイ=ルイスも負けてはいない。そのストイックぶりに、私はいつも変態性さえ感じていた。「ファントム・スレッド」は、その変態性が色濃く反映されていると思う。

ダニエル・デイ=ルイスのいつもの演技、役柄に合わせて時にはアクセントまで変わってしまう喋り方や、一分の隙もないレイノルズとしての佇まいをスクリーンで目の当たりにしながら、レイノルズを演じる彼は、ある意味まるで彼自身を演じているようだと感じてしまった。

ハンサムで、美しいオートクチュールドレスを作るレイノルズは、当然女性からモテる。歴代のミューズたちと、何度か男女の関係になった事もあるだろう。ヒロインのアルマと一夜を共にした演出もある。

しかしレイノルズは、ミューズたちを始め数多くの顧客も含めて、あらゆる女性に、極端に言えばあらゆる人間に、それ以上の繋がりを求めることはない。むしろ、人として当然の繋がりを拒絶して生きていた。そういった繋がりは、亡霊に求めるのみで、彼の現世のすべては美しいドレス作りに捧げていた。

それは、ありきたりな表現をするならば、美しいドレスのために悪魔に魂を売った男と言えるし、その様子はドレスを作ることに支配され、呪われているかのようだ。

対してヒロインのアルマは、郊外のレストランでウェイトレスをしていた、ごくごく平凡な田舎娘。レイノルズと共に、彼の作ったドレスをこよなく愛すると同時に、時には仕事から解放されるべきだと、いたって常識的な主張をする。ところがアルマもまた、レイノルズの愛を欲するあまり、常軌を逸していく。

恋愛感情は多くの人を、平常ではあり得ないような過ぎた行動に走らせるものだが、アルマの恋心は強い支配欲に変貌し、物語は仕事の鬼と独占欲の権化という変態同士の対決へと向かっていく。その様子は、静謐な物語に緊張感を与える。

ところで、ヒロインのアルマの容姿は「この女性なくしてドレスを作ることが出来ない」というような創作の女神、ミューズとして違和感がある。作品を観る前はポスターを眺めながら、なんでこんなに素朴な外見なのだろうと、不思議に思っていた。

欧米人にしては小作りな顔立ちで、不美人ではないけれども、おおよそ華やかさのない地味な女性だ。ドレス作りに不可欠な存在なのだから、素晴らしいプロポーションの持ち主なのかと思えば、劇中でも表現されるように、胸は小さいのに肩幅は広く、お腹はぽっこりと丸みを帯びている。

そんなアルマが何故、レイノルズにとって完璧なスタイルの持ち主なのかは、映画の中で明かされていく。しかも、それはレイノルズの呪縛とも深く関係しており、華々しい絶世の美女でないことが、物語の肝でもあったのだ。

レイノルズをがんじがらめにしてきた見えない糸を、アルマの献身的な愛が解きほぐすことが出来るのか。作品の公式サイトでは「この愛のかたちは、歪んでいるのか? それとも純愛なのか?」と問うている。

確かに見方によっては、アルマは猟奇的な彼女で、毎度おなじみの身も蓋もない言い方をすれば、究極の変態カップルの誕生とも言える。とは言えストーキングのような犯罪行為も受け入れられれば、一転にわかに純愛と化すのも事実。変態も、純愛も、「究極」であることは一致している。

私としては作品の描く愛の形の是非よりも、ダニエル・デイ=ルイスが「悲しみに襲われたから」と村上春樹みたいな、ちょっとよく分からない理由で引退を表明したことが感慨深い。

何が悲しいのかは、本当にさっぱり分からない(本人にも分からないらしい)が、そのように思い至るのに、あまりにも相応しい作品に思えた。引退云々のくだりを映画鑑賞時はまったく知らなかったけれど、ストイック過ぎる役作りを長年続けてきた結果、彼自身にあまりにもリンクする人物像を演じたことで、役柄に侵食されてしまったのではないか。シンクロ率が高過ぎると、そちらに取り込まれたりする事もある。

ダニエル・デイ=ルイスは、深淵を覗くのが似合うし、深淵から覗きこまれるのもよく似合う。

何でも、引退後はドレスを作るらしい。だいたい、一時期は俳優業を中断してまで、靴職人をやっていたような人である。昨今は田舎に引きこもって木工していたとか。いずれは、自分の作ったものでセレクトショップでもやるのだろうか。

とにかく、ダニエル・デイ=ルイスの変な人ぶりが、今まで以上にたっぷり味わえる作品だ。いつも何かしら過剰で好きにはなれない俳優だったが、私にとっては数少ない、心底尊敬する変態の一人であることに今後も変わりはない。

 

泥の中に咲く花

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女が階段を上る時

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

銀座のバー、現代では高級クラブと呼ばれる夜の店「ライラック」で、ママとして働く圭子。ライラックには外国人オーナーがいて、圭子はいわゆる雇われママだった。

売れっ子ホステスだったユリが独立して店を持ったことで、ライラックの客は目に見えて減り、圭子はオーナーから売上不振を責められる。

圭子は美しく上客もついているが、水商売だからと言って、客に必要以上に媚びる営業活動はどうしてもしたくなかった。

営業方針に口を出されずに済む、自らがオーナーの店を持つために、圭子は出資を募る決意をしたのだが。

わたくし的見解

以前は、自分の中では「高峰」と言えば、子供の頃に見た国鉄(現JR)のCMのせいか、高峰三枝子さんの名前が出てきた。市川崑監督の「金田一シリーズ」への出演も、私には印象的だったし。

国鉄て、と我ながらツッコミたくなる古い話だが、そんなババアの私でさえ、成瀬監督の映画を観るまで「高峰秀子」という女優を知らなかった。

それも、当然と言えば当然。本作品のヒロインを演じる高峰秀子さんは、三枝子さんが金田一シリーズの「女王蜂」(1978年)に出演した頃には、ほぼほぼ映画出演は引退していたのである。

とは言え、デコちゃんこと高峰秀子さんは、子役から活動しているのでキャリアはとても長い。豊富なキャリアの中でも、木下恵介監督、成瀬巳喜男監督の作品には、ほとんど出演しているという。

デコちゃんの代表作と言えば、ファンそれぞれに思い入れのある作品があるだろうが、逆に木下、成瀬映画と言えば、それはイコール高峰秀子と言って過言ではないだろう。

ところで、いくらババアの私でも、格別なデコちゃんフォロワーでもないので、成瀬作品での彼女しか知らない。

成瀬映画の彼女はいつも、泥の中で咲く蓮の花のような存在だ。紆余曲折あって、落ちぶれた女性をはすっぱに演じても、どこか品が漂う。そんな不幸な境遇でなければ、本質的には上品な女性に違いないと想像させる。

ババアの私が言うのも可笑しいが、高峰秀子ほど男性の庇護欲をそそる、女性の強がりや、やせ我慢、いじらしさを演じられる人はいない。もはや叶わぬ願いだが、太宰治「斜陽」のヒロインを、ぜひ演じて欲しかった。

本作の彼女も、まさにと言った感じ。

ヒロイン圭子の店で、かつてホステスだったユリが華々しく独立し、しかもユリの店は順調そのものに見えていた。しかし実情は火の車で、たとえ一時逃れでも借金から免れようと自殺してしまう。ユリの死は、ユリを食いものにする男の存在を浮かび上がらせた。

圭子は改めて、男に完全に依存するような形で自分の店を持つことを強く警戒する。特定の男性と深い関係になることを拒否し続けてきた圭子だが、彼女の母や兄は、銀座で働く彼女の収入をあてにして、なにかにつけて援助を求めてくる。

無理が祟って体を壊した時、30という年齢を前にして、平凡な妻の座におさまる選択も頭をよぎる。1960年の夜の銀座は、やはり今とは趣きが違うけれど、女性の迷いや苦悩は大きく変わらない。とくに働く現代女性にとっては水商売と無縁であっても、ヒロインの憤りや諦め、そして決意に強く共感できるのではないだろうか。

女が階段を上る時

それはヒロインが様々な想いを心の奥にしまい込んで、ママとして店に立つ時。いつだって何事もなかったように。今日も、笑顔で客に挨拶するために。短い階段を上りながら、どんな事を思うのだろう。健気なデコちゃんを、どうしたって応援したくなる映画なのだ。

 

猫にかまけて

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犬ヶ島

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台は、20年後の日本の都市。ドッグ病(犬特有の伝染病)が蔓延し、メガ崎市長はすべての犬を「犬ヶ島」(離島のゴミ処理場)へ追放する条例を施行した。

しかし、メガ崎市長のやり方は、ドッグ病が人間にも感染するかのようなプロパガンダや、ワクチンによる治癒の可能性の隠蔽など、強引そのもの。

すっかり「犬ヶ島」が、ドッグ病に冒され人間との絆を失った犬たちの絶望の場所となった時、たった一人の少年が愛犬を救うため、小型飛行機で「犬ヶ島」へ向かう。その少年アタリは、なんとメガ崎市長の養子だった。

果たしてアタリは、無事に愛犬スポッツと再会し、「犬ヶ島」の犬達を行政処分から救うことが出来るのか。ストップモーション・アニメーションで織り成す、冒険活劇。

わたくし的見解

まったくの私事ですが、子猫を家に迎えることになりまして、猫が来る前に「犬ヶ島」観とかなきゃ、と思った次第。

「ニャんで、『犬』ヶ島とか観るのニャ!」とか言って、妬きもち焼くじゃないですかぁ、猫って。

実際は、外で本物の犬と戯れようが、ただただ匂いを嗅がれるだけで、我関せずって顔されるだけなんですけど。ほんと猫ってヤツは。

さて、広く一般的な評価については、いつものウェス・アンダーソンの映画と同様に「そこそこ」かなと思われます。ところが私個人に限って言えば、今年一になり得る出来映えでした。近年作品のベストにも入りそうな勢いです。

ウェス・アンダーソンの映画は、近頃はあまり聞かない、いわゆる「単館系」の作品。好きな私でさえ、どれが一番メジャーな作品なのか、よく分かりません。賞レースに多少からんだという点では「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」「ムーンライズ・キングダム」あたりが比較的メジャーでしょうか。

そんな感じなので、好きな人だけが鑑賞するタイプの作風かと。特にファンではない人が観た場合、エンターテイメント性はあるので退屈はしないけれど、薄ーくクセを感じるはず。

23時以降に放映される日本のTVドラマのノリが、ほど近いかも知れません。バブル世代には、何故か嫌われるサブカル感。

同じニオイのする、日本の深夜ドラマとウェス・アンダーソン映画。相違点を挙げるならば、ウェス作品には貧乏臭さがない。深夜ドラマも低予算の割に、キャスティングが豪華なのが定番ですが、ウェス作品はキャストのみならず、製作費も手間暇も惜しみない。サブカル臭と何故かラグジュアリー感が両立する、不思議な作風です。

本作は、監督にとって2作目のストップモーション・アニメーション映画です。もともと実写映画の時も、箱庭の中で物語が起こっているようなウェス作品。ストップモーション・アニメーションでは、より一層その感覚が際立ちます。

箱庭的物語はスケールが小さくなりますが、そのぶん限定された世界観に緻密さが増します。きめ細かなディテールの集大成として「犬ヶ島」は、ウェス・アンダーソンの真骨頂と言えるでしょう。

そして本作の魅力を支える、もう一つの柱は、犬映画としての完成度の高さです。ふとした時の犬の仕草が、とても犬らしくて愛おしい。

犬がどんな事を考え、犬同士でどんな事を話しているかは、フィクションの極み。あえて劇中では基本、人間と犬が言葉では通じ合っていないのも、ファンタジー色を濃くし過ぎないちょうどよい設定でした。

作品の中では、日本語と英語が混在しているし、外国人によって描かれる近未来の日本は絶妙なキワモノ感があって、ディテールにこだわっているだけに、かなり混沌としています。

けれども、言葉は通じなくても、少年と犬は想い合っている。という、ベタでハートフルな部分が、雑然とした作品の中で効いてくる。

ところで、犬を排除しようとするメガ崎市長側の悪者たちは、皆わかりやすく猫を抱いているのも、実にベタで私は好きです。

だいたいの動物映画において、犬は正義で猫は悪なのです。確かに、実際の犬の真摯な眼差しや、どんなにゴロゴロ喉を鳴らしても、心までは抱かれないと言っている猫の冷たい視線を見れば、ステレオタイプな動物映画に文句を言う気もなくなります。

今さら文句はありませんが、犬も猫も愛すべき存在であることには変わりません。「犬ヶ島」は、とても犬愛を感じられる映画。こんな猫映画も是非、観てみたい。

猫人気の中、さまざまな猫作品があれど、やはり人と猫には相思相愛感が弱いせいか、犬映画みたいにはならないですね。ここで一句。
猫が好きマゾヒスト的片想い

さて本題の「犬ヶ島」は、大人の絵本のような作品としてお楽しみ下さい。あるいは、アートブックみたいな映画です。