映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

ダニエル、おそろしい子!

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ファントム・スレッド

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1950年代のロンドン。社交界から圧倒的支持を得るオートクチュール(高級仕立服)ブランドを率いる、レイノルズ。彼がデザインし仕立てたドレスは、王室に至るまで女性たちの憧れだった。

レイノルズは常に、創作意欲の源となる女性(ミューズ)を傍に置いて仕事をしていた。ある時、レイノルズはウェイトレスのアルマと出会い惹かれ合う。それまでと同様に、アルマを自宅兼仕事場のメゾンにミューズとして迎え入れ、ドレス作りに没頭するレイノルズ。

しかしアルマは、今までのミューズと違い、レイノルズとより深い関係を築くことを求める。仕事にすべてを捧げ、常に静寂を愛してきたレイノルズの人生は、アルマの存在によって翻弄されることになる。

わたくし的見解

主演のダニエル・デイ=ルイスが、本作をもって引退するらしい。彼は、アカデミー主演男優賞を3度も受賞している言わずと知れた名優で、私も特に演技の巧い俳優だと認識している。

ただ彼の場合、演技の巧さもさる事ながら、わたくし個人としては、役者バカと言うか(「○○バカ」って、今は使ってはいけない表現らしいですねぇ)、とにかく「ガラスの仮面」のヒロイン北島マヤに程近い、芝居狂いのイメージがある。

ロバート・デ・ニーロの徹底した役作りは有名だが、ダニエル・デイ=ルイスも負けてはいない。そのストイックぶりに、私はいつも変態性さえ感じていた。「ファントム・スレッド」は、その変態性が色濃く反映されていると思う。

ダニエル・デイ=ルイスのいつもの演技、役柄に合わせて時にはアクセントまで変わってしまう喋り方や、一分の隙もないレイノルズとしての佇まいをスクリーンで目の当たりにしながら、レイノルズを演じる彼は、ある意味まるで彼自身を演じているようだと感じてしまった。

ハンサムで、美しいオートクチュールドレスを作るレイノルズは、当然女性からモテる。歴代のミューズたちと、何度か男女の関係になった事もあるだろう。ヒロインのアルマと一夜を共にした演出もある。

しかしレイノルズは、ミューズたちを始め数多くの顧客も含めて、あらゆる女性に、極端に言えばあらゆる人間に、それ以上の繋がりを求めることはない。むしろ、人として当然の繋がりを拒絶して生きていた。そういった繋がりは、亡霊に求めるのみで、彼の現世のすべては美しいドレス作りに捧げていた。

それは、ありきたりな表現をするならば、美しいドレスのために悪魔に魂を売った男と言えるし、その様子はドレスを作ることに支配され、呪われているかのようだ。

対してヒロインのアルマは、郊外のレストランでウェイトレスをしていた、ごくごく平凡な田舎娘。レイノルズと共に、彼の作ったドレスをこよなく愛すると同時に、時には仕事から解放されるべきだと、いたって常識的な主張をする。ところがアルマもまた、レイノルズの愛を欲するあまり、常軌を逸していく。

恋愛感情は多くの人を、平常ではあり得ないような過ぎた行動に走らせるものだが、アルマの恋心は強い支配欲に変貌し、物語は仕事の鬼と独占欲の権化という変態同士の対決へと向かっていく。その様子は、静謐な物語に緊張感を与える。

ところで、ヒロインのアルマの容姿は「この女性なくしてドレスを作ることが出来ない」というような創作の女神、ミューズとして違和感がある。作品を観る前はポスターを眺めながら、なんでこんなに素朴な外見なのだろうと、不思議に思っていた。

欧米人にしては小作りな顔立ちで、不美人ではないけれども、おおよそ華やかさのない地味な女性だ。ドレス作りに不可欠な存在なのだから、素晴らしいプロポーションの持ち主なのかと思えば、劇中でも表現されるように、胸は小さいのに肩幅は広く、お腹はぽっこりと丸みを帯びている。

そんなアルマが何故、レイノルズにとって完璧なスタイルの持ち主なのかは、映画の中で明かされていく。しかも、それはレイノルズの呪縛とも深く関係しており、華々しい絶世の美女でないことが、物語の肝でもあったのだ。

レイノルズをがんじがらめにしてきた見えない糸を、アルマの献身的な愛が解きほぐすことが出来るのか。作品の公式サイトでは「この愛のかたちは、歪んでいるのか? それとも純愛なのか?」と問うている。

確かに見方によっては、アルマは猟奇的な彼女で、毎度おなじみの身も蓋もない言い方をすれば、究極の変態カップルの誕生とも言える。とは言えストーキングのような犯罪行為も受け入れられれば、一転にわかに純愛と化すのも事実。変態も、純愛も、「究極」であることは一致している。

私としては作品の描く愛の形の是非よりも、ダニエル・デイ=ルイスが「悲しみに襲われたから」と村上春樹みたいな、ちょっとよく分からない理由で引退を表明したことが感慨深い。

何が悲しいのかは、本当にさっぱり分からない(本人にも分からないらしい)が、そのように思い至るのに、あまりにも相応しい作品に思えた。引退云々のくだりを映画鑑賞時はまったく知らなかったけれど、ストイック過ぎる役作りを長年続けてきた結果、彼自身にあまりにもリンクする人物像を演じたことで、役柄に侵食されてしまったのではないか。シンクロ率が高過ぎると、そちらに取り込まれたりする事もある。

ダニエル・デイ=ルイスは、深淵を覗くのが似合うし、深淵から覗きこまれるのもよく似合う。

何でも、引退後はドレスを作るらしい。だいたい、一時期は俳優業を中断してまで、靴職人をやっていたような人である。昨今は田舎に引きこもって木工していたとか。いずれは、自分の作ったものでセレクトショップでもやるのだろうか。

とにかく、ダニエル・デイ=ルイスの変な人ぶりが、今まで以上にたっぷり味わえる作品だ。いつも何かしら過剰で好きにはなれない俳優だったが、私にとっては数少ない、心底尊敬する変態の一人であることに今後も変わりはない。

 

泥の中に咲く花

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女が階段を上る時

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

銀座のバー、現代では高級クラブと呼ばれる夜の店「ライラック」で、ママとして働く圭子。ライラックには外国人オーナーがいて、圭子はいわゆる雇われママだった。

売れっ子ホステスだったユリが独立して店を持ったことで、ライラックの客は目に見えて減り、圭子はオーナーから売上不振を責められる。

圭子は美しく上客もついているが、水商売だからと言って、客に必要以上に媚びる営業活動はどうしてもしたくなかった。

営業方針に口を出されずに済む、自らがオーナーの店を持つために、圭子は出資を募る決意をしたのだが。

わたくし的見解

以前は、自分の中では「高峰」と言えば、子供の頃に見た国鉄(現JR)のCMのせいか、高峰三枝子さんの名前が出てきた。市川崑監督の「金田一シリーズ」への出演も、私には印象的だったし。

国鉄て、と我ながらツッコミたくなる古い話だが、そんなババアの私でさえ、成瀬監督の映画を観るまで「高峰秀子」という女優を知らなかった。

それも、当然と言えば当然。本作品のヒロインを演じる高峰秀子さんは、三枝子さんが金田一シリーズの「女王蜂」(1978年)に出演した頃には、ほぼほぼ映画出演は引退していたのである。

とは言え、デコちゃんこと高峰秀子さんは、子役から活動しているのでキャリアはとても長い。豊富なキャリアの中でも、木下恵介監督、成瀬巳喜男監督の作品には、ほとんど出演しているという。

デコちゃんの代表作と言えば、ファンそれぞれに思い入れのある作品があるだろうが、逆に木下、成瀬映画と言えば、それはイコール高峰秀子と言って過言ではないだろう。

ところで、いくらババアの私でも、格別なデコちゃんフォロワーでもないので、成瀬作品での彼女しか知らない。

成瀬映画の彼女はいつも、泥の中で咲く蓮の花のような存在だ。紆余曲折あって、落ちぶれた女性をはすっぱに演じても、どこか品が漂う。そんな不幸な境遇でなければ、本質的には上品な女性に違いないと想像させる。

ババアの私が言うのも可笑しいが、高峰秀子ほど男性の庇護欲をそそる、女性の強がりや、やせ我慢、いじらしさを演じられる人はいない。もはや叶わぬ願いだが、太宰治「斜陽」のヒロインを、ぜひ演じて欲しかった。

本作の彼女も、まさにと言った感じ。

ヒロイン圭子の店で、かつてホステスだったユリが華々しく独立し、しかもユリの店は順調そのものに見えていた。しかし実情は火の車で、たとえ一時逃れでも借金から免れようと自殺してしまう。ユリの死は、ユリを食いものにする男の存在を浮かび上がらせた。

圭子は改めて、男に完全に依存するような形で自分の店を持つことを強く警戒する。特定の男性と深い関係になることを拒否し続けてきた圭子だが、彼女の母や兄は、銀座で働く彼女の収入をあてにして、なにかにつけて援助を求めてくる。

無理が祟って体を壊した時、30という年齢を前にして、平凡な妻の座におさまる選択も頭をよぎる。1960年の夜の銀座は、やはり今とは趣きが違うけれど、女性の迷いや苦悩は大きく変わらない。とくに働く現代女性にとっては水商売と無縁であっても、ヒロインの憤りや諦め、そして決意に強く共感できるのではないだろうか。

女が階段を上る時

それはヒロインが様々な想いを心の奥にしまい込んで、ママとして店に立つ時。いつだって何事もなかったように。今日も、笑顔で客に挨拶するために。短い階段を上りながら、どんな事を思うのだろう。健気なデコちゃんを、どうしたって応援したくなる映画なのだ。

 

猫にかまけて

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犬ヶ島

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台は、20年後の日本の都市。ドッグ病(犬特有の伝染病)が蔓延し、メガ崎市長はすべての犬を「犬ヶ島」(離島のゴミ処理場)へ追放する条例を施行した。

しかし、メガ崎市長のやり方は、ドッグ病が人間にも感染するかのようなプロパガンダや、ワクチンによる治癒の可能性の隠蔽など、強引そのもの。

すっかり「犬ヶ島」が、ドッグ病に冒され人間との絆を失った犬たちの絶望の場所となった時、たった一人の少年が愛犬を救うため、小型飛行機で「犬ヶ島」へ向かう。その少年アタリは、なんとメガ崎市長の養子だった。

果たしてアタリは、無事に愛犬スポッツと再会し、「犬ヶ島」の犬達を行政処分から救うことが出来るのか。ストップモーション・アニメーションで織り成す、冒険活劇。

わたくし的見解

まったくの私事ですが、子猫を家に迎えることになりまして、猫が来る前に「犬ヶ島」観とかなきゃ、と思った次第。

「ニャんで、『犬』ヶ島とか観るのニャ!」とか言って、妬きもち焼くじゃないですかぁ、猫って。

実際は、外で本物の犬と戯れようが、ただただ匂いを嗅がれるだけで、我関せずって顔されるだけなんですけど。ほんと猫ってヤツは。

さて、広く一般的な評価については、いつものウェス・アンダーソンの映画と同様に「そこそこ」かなと思われます。ところが私個人に限って言えば、今年一になり得る出来映えでした。近年作品のベストにも入りそうな勢いです。

ウェス・アンダーソンの映画は、近頃はあまり聞かない、いわゆる「単館系」の作品。好きな私でさえ、どれが一番メジャーな作品なのか、よく分かりません。賞レースに多少からんだという点では「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」「ムーンライズ・キングダム」あたりが比較的メジャーでしょうか。

そんな感じなので、好きな人だけが鑑賞するタイプの作風かと。特にファンではない人が観た場合、エンターテイメント性はあるので退屈はしないけれど、薄ーくクセを感じるはず。

23時以降に放映される日本のTVドラマのノリが、ほど近いかも知れません。バブル世代には、何故か嫌われるサブカル感。

同じニオイのする、日本の深夜ドラマとウェス・アンダーソン映画。相違点を挙げるならば、ウェス作品には貧乏臭さがない。深夜ドラマも低予算の割に、キャスティングが豪華なのが定番ですが、ウェス作品はキャストのみならず、製作費も手間暇も惜しみない。サブカル臭と何故かラグジュアリー感が両立する、不思議な作風です。

本作は、監督にとって2作目のストップモーション・アニメーション映画です。もともと実写映画の時も、箱庭の中で物語が起こっているようなウェス作品。ストップモーション・アニメーションでは、より一層その感覚が際立ちます。

箱庭的物語はスケールが小さくなりますが、そのぶん限定された世界観に緻密さが増します。きめ細かなディテールの集大成として「犬ヶ島」は、ウェス・アンダーソンの真骨頂と言えるでしょう。

そして本作の魅力を支える、もう一つの柱は、犬映画としての完成度の高さです。ふとした時の犬の仕草が、とても犬らしくて愛おしい。

犬がどんな事を考え、犬同士でどんな事を話しているかは、フィクションの極み。あえて劇中では基本、人間と犬が言葉では通じ合っていないのも、ファンタジー色を濃くし過ぎないちょうどよい設定でした。

作品の中では、日本語と英語が混在しているし、外国人によって描かれる近未来の日本は絶妙なキワモノ感があって、ディテールにこだわっているだけに、かなり混沌としています。

けれども、言葉は通じなくても、少年と犬は想い合っている。という、ベタでハートフルな部分が、雑然とした作品の中で効いてくる。

ところで、犬を排除しようとするメガ崎市長側の悪者たちは、皆わかりやすく猫を抱いているのも、実にベタで私は好きです。

だいたいの動物映画において、犬は正義で猫は悪なのです。確かに、実際の犬の真摯な眼差しや、どんなにゴロゴロ喉を鳴らしても、心までは抱かれないと言っている猫の冷たい視線を見れば、ステレオタイプな動物映画に文句を言う気もなくなります。

今さら文句はありませんが、犬も猫も愛すべき存在であることには変わりません。「犬ヶ島」は、とても犬愛を感じられる映画。こんな猫映画も是非、観てみたい。

猫人気の中、さまざまな猫作品があれど、やはり人と猫には相思相愛感が弱いせいか、犬映画みたいにはならないですね。ここで一句。
猫が好きマゾヒスト的片想い

さて本題の「犬ヶ島」は、大人の絵本のような作品としてお楽しみ下さい。あるいは、アートブックみたいな映画です。

 

ゾンビで人間を描きたい

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新感染 ファイナル・エクスプレス

映画情報

  • 原題:Train to Busan/釜山行
  • 製作年度:2016年
  • 制作国・地域:韓国
  • 上映時間:118分
  • 監督:ヨン・サンホ
  • 出演:コン・ユ、キム・スアン、チョン・ユミ、マ・ドンソク

だいたいこんな話(作品概要)

証券会社に勤めるソグは、多忙なあまり幼い娘スアンの誕生日に、かつて贈ったことのあるオモチャと同じものをプレゼントしてしまう。普段から娘に構ってやれない罪悪感から、スアンたっての願いを聞き入れ、離婚協議中の妻の元へ連れて行くことにした。

妻が暮らす釜山へ向かうため、ソウル発の高速鉄道KTXへ乗り込むソグとスアン。ソウル駅までの道中でも、何台もの緊急車両を目撃していた二人だったが、KTXがソウル駅を発車する時、駅で発生した異常な事態を目撃することになる。

KTXの車内では、駅だけなくあらゆる場所で起きている「暴動」についてのニュース映像が流れる。しかし、その暴動=異常事態の火種は、すでにKTX車内にも飛び火していた。ソグと娘のスアンは、無事に釜山まで辿り着けるのか。

わたくし的見解

春は、ゾンビの季節と言っても過言ではありません。ほんの虚言です。

今回は、韓国映画・オブ・ザ・デッド。ゾンビ大国アメリカが、リメイク権をすでに購入している作品で、大変に「らしい」映画です。

本作では走るタイプの(しかも、かなり速く走れる)ゾンビなので、ゾンビ映画の第一人者である、ジョージ・A・ロメロのセオリーに当てはまりません。

しかし、ゾンビの存在するシチュエーションで、結局のところ人間の本質や本性をあぶり出す作りは、ロメロ哲学に通じています。これが、ゾンビ映画「らしい」ところ。

他には、ホラー映画「らしい」、そして韓国映画「らしい」があります。

ホラー映画、特にスプラッタ系の作品では、主要な登場人物が順々に死んでいくのが王道のパターンです。鑑賞者へのファンサービスなのか、分かりやすく嫌な奴は、必ず死にます。

また、宗教的な影響と思われますが、罪や過ちを犯した人も死にます。これは法律で裁かれるような罪でなくても然りで、軽く人を欺くなどでも断罪されます。

それから、ホラー映画的には必要悪みたいなものですが、エッチなことをすると、この枠で目出たく(?)死ぬ人リストに入ってしまいます。

若い男女がイチャイチャするのは、絵面として映画に入れておきたい要素なので(華があるというか、あまりに色気がないと場が持たないんでしょうね)比較的ホラー映画の序盤にブチこまれるのが定番なのに、カップルはいずれ死ぬ要員でもある訳です。

本作では、アメリカ映画のように直接的なセクシー描写はまったくないものの、結婚前の男女が公衆の面前で、仲睦まじくしていたのがいけなかったのだと思われます。最終的に生き残った人を見て理由を考えた時に、ホラー映画「らしい」に帰結しました。

生き残った人、つまり罪のない人の選び方も含めて、何かしら韓国映画「らしい」と私は思ってしまいました。その人達を殺さない設定にするのは、とてもハリウッド映画的なのですが、その点も含めて韓国映画「らしい」のです。

韓国映画で特に今回のようなアクション要素のある作品に関しては、かねてよりハリウッド映画を彷彿とさせる作りで、この方向性においては日本映画は完全に負けています。

この世の映画のすべてが、ハリウッド映画を目指していく必要もなく、日本映画は別の方向性を目指せば良いと私は思っているのですが。

とにかく「ハリウッド的」であることについては、韓国映画はとても上手。そして、ハリウッド的であること自体が韓国映画「らしい」のです。同時に、ハリウッド的ではない韓国映画独自の特徴、極めてエモーショナルな作風が本作でも色濃く、その点でも実に韓国映画「らしい」。

このようなジャンル映画(ゾンビ、ホラー、サバイバル、パニックなど、シリアスな人間ドラマとは違う趣のもの)であるにもかかわらず、主要な登場人物をとてもエモーショナルでウェットに紹介するあたりが、本当に韓国映画「らしい」なと感じました。

主演の俳優は今とても人気のある人だそうで、確かにシュッとしてはります。以前、別の作品で見たときは、イノッチ(井ノ原快彦)に激似だぜと思いましたが、本作ではそんな柔和なイメージはほとんど無く、実に精悍な大人の男性と言った風貌。人気も納得です。

そんなこんなでゾンビ映画ながらも、決定的にグロテスクな映像もないため、ゾンビもホラーも韓国映画に興味のない方でも、逆に韓国作品にしか興味のないご婦人方まで、面白く鑑賞できる作品です。

とても「らしい」のに、その「らしさ」を求めていない人でも楽しめるところが、この作品最大の功績と言えるでしょう。

 

大泉洋が好きって言うとモテるらしい

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アイアムアヒーロー

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

漫画アシスタントをしている鈴木英雄は、35歳にして未だ漫画家として大成できずにいる。同棲している彼女も、そのうだつの上がらなさに愛想を尽かし、英雄を家から追い出してしまう。

そんな痴話喧嘩の背後では、多発する謎の「噛みつき事件」が、実は人をゾンビ化させるウイルスの蔓延という大災害へと発展していた。漫画にしか興味がなく、社会から断絶した環境で生きている英雄の日常にも、その悲劇は突如現れる。

勤め先の漫画家のアトリエでは、すでにゾンビ化した同僚たちが互いを襲い合い、仲直りを求める電話をかけてきた英雄の彼女も、自宅に戻ってみるとゾンビ化していた。英雄は趣味で免許を所有しているクレー射撃用の散弾銃を手に、パンデミック状態の東京から脱出する。

今まで社会の末端で、劣等感だけを抱いて生きてきた英雄は、ゾンビ化ウイルスによってパニックに陥った日本で、果たして名前のようにヒーローになれるのか。花沢健吾の人気コミックを原作にした、パニックホラー。

わたくし的見解

今回は、映画のご紹介と言うよりも(毎回あまり上手に紹介できていませんけれども、それはさておき)ゾンビもの全般について、とりとめもなく語る回となっております。あしからず、ご了承ください。

さて、いきなり原作コミックについてですが、ゾンビものとして、特に物語の前半については大変感心する出来栄えです。主人公の日常の背景で「それはすでに始まっている」感じの導入部分は、まるで「ドーン・オブ・ザ・デッド」。

しかも、2時間程度の長編映画作品では到底かなわない、とても丁寧な描かれ方です。あまりに丁寧すぎて、コミックの読み始めは、まさかゾンビものだと思っていませんでした。

漫画家や、漫画家を目指す人々の、ちっとも華々しくないリアルを綴った物語。病的な妄想癖がある主人公の英雄くんは、いつかヒーロー(漫画家)になれるのかな。

そんな心持ちで読み進めていくうちに、「おや? これはまさか。まさかゾンビ?」と不審に思い、改めて最初から読み直してみると、そこかしこに伏線があったという訳。この時の高揚感は、漫画作品に限らず近年屈指の盛り上がりでございました。

長期連載漫画だからこそ描ける、日常から非日常への切り替わり。超人気作品「ウォーキング・デッド」も、シーズン8に及ぶ長期間の連続ドラマですが、物語はアッと言う間に非日常へ切り替わるので、漫画「アイアムアヒーロー」の導入部分は、ゾンビものの中でも希少かつ貴重と言ってよいと思います。

さらに、長い物語の中で前半のクライマックスでもあるショッピングモールに辿り着いた時なんて、川平慈英くらいクゥーっと痺れました。この人(原作者)ゾンビものを良くわかっているな、と思ったものです。

原作コミックに限らず、映画も含めた本作の見どころの一つに「アメリカのような銃社会ではない地域でのゾンビとの闘い」があります。ゾンビと言えば、本場(?)はアメリカで、一般人もすぐ銃を手に出来るし、発砲にも何ら戸惑いがありません。

それこそ、ショッピングモールまで辿り着けば、銃も弾もわんさか手に入ってしまうアメリカ的状況下とは、まったく違う展開を見せるのが「アイアムアヒーロー」です。

先ほど少し触れた「ドーン・オブ・ザ・デッド」のパロディ、あるいはオマージュ作品である「ショーン・オブ・ザ・デッド」も、イギリスを舞台にしているため、銃の溢れかえるアメリカをやや皮肉ったような展開を見せ、面白い映画です。

ところで完全に余談。イギリスのゾンビものと言えば、「28日後…」、続編の「28週後…」という作品があります。

主人公が昏睡状態から目覚めるところから物語が動き出す序盤は、ゾンビものの王道の展開なのですが、この作品のゾンビは、えげつないほど全力疾走して襲いかかってくるので、銃の役割がどの程度の扱いだったかほとんど覚えていません。すぐ軍とか出てくるし。

さて、希少な「銃を持つ人」がポイントとなる「アイアムアヒーロー」は、一貫してシリアスな展開ですが、日本人的な、とくにその中でも際立ってアメリカ的ヒロイズムからかけ離れた主人公の奮闘が醍醐味。

殺伐とした物語の中で、ささやかな温かみや箸休め的おかしみも、冴えない超日本人的主人公から生まれています。

本作は、原作コミックの半分か三分の一あたりまでの物語を、長編映画の枠に収めているので、コミックの魅力である丁寧さは失われていますが、端折りながらも作品のエッセンスを上手くまとめている印象です。

漫画原作のアクション映画では安定して成功している監督。合コンで「好きなタレント」として名前を挙げると、男性ウケが良いらしい大泉洋。言わずと知れた若手人気女優、有村架純。ベテランの風格も感じられてきた美人女優、長澤まさみ

社会人なら体感して知ってる、人材は「1足す1は、2とは限らない」現実の中、ちゃんと、1足す1が、2以上の成果を上げている、まっとうな仕上がりの映画です。

バイオハザード」(映画)あたりは、べらぼうにお金のかかっている人気作品ですが、回を増すごとに大味な作りになっており、大して面白くありません。久しぶりに「バイオハザード(ゲーム)したいなぁ」と思いながら、惰性で観ている始末。(ゲームしたいなぁ、と思わせるための映画なのかも知れませんが)

そう考えると「アイアムアヒーロー」は、あえて「邦画のわりには」という意地悪な枕詞を外して、評価出来る作品だと思います。

ゾンビ映画は世界的に見ても、本来は低予算作品ですし、その中で頑張ってる感を慈しむジャンルだからです。ちなみに最後の余談ですが、私は大泉洋が好きです。(いや、決してモテようとしている訳ではなくて…)

 

神話的復讐譚

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聖なる鹿殺し

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

心臓外科医のスティーブンは、眼科医の美しい妻と、健康で将来有望な二人の子供に恵まれ暮らしていた。家族とは別に、時々会って話をするマーティンという16歳の少年がいる。彼はスティーブンのかつての患者の息子で、マーティンの父親が他界してから何かと気にかけていた。

スティーブンは、ある時マーティンを家族に紹介しようと自宅に招き入れた。マーティンはスティーブンの妻にも気に入られ、子供たちともすぐに打ち解けた。しかし、その時からマーティンは過剰に付きまとうようになり、スティーブンの家族にも異変が起きはじめる。

スティーブンはとうとうマーティンに対し、嫌がらせめいた付きまといを止めるように強く諭すが、マーティンから返ってきた答えは、これから行われる復讐の宣言だった。

第70回カンヌ映画祭において脚本賞を受賞したサスペンス・スリラー。

わたくし的見解

偏見は無知から生まれるが、ギリシャギリシャ人に対して無知な私は「あの人たちは根が暗い」という偏見を持っている。

近年デフォルトの危機に直面していたことを思うと、極めて楽観的な国民性とも考えられるが「ギリシャ悲劇」なんて言葉があるのだから、DNAに刻まれた根暗性質も大いにあり得る、と個人的に感じている。

楽観が過ぎるからデフォルトを起こすような悲劇に見舞われるのでは、と卵が先かニワトリが先かみたいな話はさておき、テオ・アンゲロプロスというギリシャ人映画監督の作品を観たときに「あゝギリシャ悲劇」と強く感じたことが、偏見の由来である。

アンゲロプロス作品は、物語が神話ではなく現実的な悲劇の場合でも、結末部分で神話や児童文学によく見られるようなファンタジーめいた展開を見せ、涙をさそう。これ見よがしな仰々しい音楽と、悲しい結末は情感たっぷりで、とくに昭和の頃ならば日本人に大変ウケそうな映画である。

本作のヨルゴス・ランティモス監督もギリシャ人で、かくある如し。なんてことないシーンで、ひたすら不穏な音楽の主張が強く、稲川淳二ばりに「嫌だなーやだなー」「怖いなーコワイなー」と煽る。たけしさん(ビートたけし北野武監督)も言っていたように、ただ歩いているシーンに悲しい音楽をつければ悲しい場面になり、楽しい音楽をつければ楽しい場面になるのが映画。

ちょっとクドいなぁと食傷気味になっていたところで、なんてことあるシーン、実際に事が起き始めた場面では、一転してBGMを廃し静けさを際立たせるような演出には感心した。

悲劇はマーティンの復讐によるものだが、彼は実際には何ら手を下さない。では一体どのようにして復讐が遂げられるのか、それは理解し難く受け入れ難い。しかし、ある意味で監督の術中にはまっている可能性が高い。その動揺は、真っ先に主人公が味わっているものだからだ。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のような作品(地球人が宇宙人たち、植物みたいなのやアライグマみたいなのと一緒に宇宙の危機を救う話)と比べると、アメリカで暮らす心臓外科医とその家族の物語は現実味を帯びていて、そのぶん突拍子もない展開に面食らう。

現実的であることに徹するなら、マーティンは良心の呵責につけ込み、言葉巧みにスティーブンを精神的に追い詰めたとも捉えられる。実際には何も起きていないのに、スティーブンや家族には予言どおりに悪いことが起きているように思え、マーティンの言葉に従わざるを得なくなる。

そもそも、実際に何か起きようが起きまいが、言葉が発せられた時点で、予言(呪い)というものは少なからず効力を発揮するものだ。

ところで、わたくしはこの作品を現代を舞台にした神話だと捉えている。

まず突如、下半身が麻痺し、次に食欲が失せ、第三に目から血を流し、最後には死に至る。スティーブンが犠牲者を選び命を奪わなければ、これが繰り返される。なんでマーティンにそんな復讐が出来るのさって、だって神話だから。

我を失って人を殺め、後悔して星座にしたりする神々の戯れと同じ。神の怒りに触れ、その怒りを収めるために生贄が必要になったのだ。ギリシャ神話のように、生贄に選ばれた者が悲しき運命を受け入れ従い、その姿を憐れんだ神は(自分が生贄を求めたくせに)その者ではなく鹿を生贄にする。

本作でも、そのような救いのある展開を期待して鑑賞していたけれど、観せられたのは、どうしても生贄には選ばれたくない、自己犠牲の精神など微塵もないスティーブンと家族たちのエゴだった。

ヨルゴス・ランティモス監督作品が日本であまり好かれないのは、この不快な作風のせいだと思う。監督は、この作品をコメディーだと言っているらしいが、ホラーやスリラーのつもりで鑑賞すると、なかなか見応えのある作品だ。

たまたま、前回ご紹介した「ビガイルド」とキャスティングがかぶっており、また同じ年度のカンヌ映画祭受賞作品でもある。色々ぼーぼーで濃ゆいコリン・ファレルと超涼しげ美人のニコール・キッドマンは、画面の中でのバランスが良いのかも知れない。

どちらも最高賞を逃していて、実際そんな感じの出来。鑑賞価値のある佳作だが最高賞には何かが不足している。

カンヌ映画祭が賞を与えるとき、次もぜひ頑張って下さいね、という奨励の意図が色濃い。カンヌは案外、面倒見が良くちょっとアットホームな側面があって面白い。アカデミー賞には違う面白味があるが、それはまた別の話。

 

たぶらかされたのは、男なのか女なのか

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The Beguiled /ビガイルド 欲望のめざめ

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台は南北戦争末期の1864年バージニア州。静かな森の中に、女子寄宿学校があった。学園長と教師、事情があって実家に戻れない生徒が数名、戦火を免れひっそりと暮らしている。

ある時、女生徒の一人がキノコを採りに出かけ、森の中で負傷兵と遭遇する。敵兵と分かり動揺しながらも、献身的に怪我の手当てをする学園の女性たち。

負傷兵は無事快方に向かうが、女性ばかりの学園にたった一人の男性が暮らしを共にするというだけで、学園内の秩序が狂いはじめる。

原作はトーマス・カリナンの小説「The Beguiled」、クリント・イーストウッド主演で1971年に「白い肌の異常な夜」として映像化もされている。

わたくし的見解

ソフィア・コッポラ作品の魅力は、良くも悪くも軽やかであることだと思う。

女性が魅力的である時に魅力的に写し、まるで後光が射して、ありがたみを感じるほど美しい映像。情念とか怨念とか、とにかく血文字の似合うような「念」は写さず、観ている側に強く深く突き刺さるような何かを残さない。

まさにマカロンみたいなものなのだ。キレイな色で丸っこくて可愛くて、たしかに美味しいけれど、もっと美味しいものを幾らでも挙げられそうな程度の美味しさ。少しディスっているみたいになってきたけど、決して違う。

初めの1、2作品だけならともかく、ソフィアは何だかんだで、この手の映画では唯一無二の存在になった。「どうせ父親の」などと言うは容易いが、兄のロマン・コッポラの映画は恐ろしいほど評価が低く、今では撮ってさえいない。すっかりプロデューサーとして偉そうに名前を連ねているだけだ。

ところで、蜷川実花が日本のソフィア・コッポラなどと謳われることがある。「日本の」という時点で格下扱いなのだから、目くじらを立てるようなことではないのだけれど、あんなものとソフィア・コッポラを比べてはいけない。

「女性による女性のための」っぽい作風と、親の実績と馬面気味であること以外に、大した共通点はないのだ。それだけあれば十分な気もするけど、映画をナメてる蜷川実花と、お嬢様なりに案外、映画に真摯に向き合っているソフィア・コッポラとを、同じ土俵にあげないで欲しいと個人的に思う。

さて本作については、やはり良くも悪くも軽やかで、テレビCMされているような昼ドラ的劣情や情念渦巻くドロドロの展開は、実はほとんどない。きっと思いのほか上品な作りに、がっかりした人もいただろう。

一人の男性を取り合う美しい女性たちは、相変わらずの映像美でフワフワしたまま結末へ向かう。

察しと思いやりの文化を持つ日本人ならまだしも、はっきり物言うことこそ美徳とするアメリカ人が、忖度しまくりの結論にたどり着く終盤は個人的に気に入っている。連体感が強くコミュニケーション能力が高い、女性だけの世界だからこそ成立する展開だろう。

今回、今までになく面白く思えたのは、ソフィアによるフワフワフィルターを外したら、きっと彼女たちの感情は(本当は)こんな感じなんだろうな、というところまで透けて見えたところだ。

あえて現実味を薄くしてきたフワフワフィルターは、一周回って、目の前の人の感情を測りきれない実生活の感覚に近くもある。軽やかさが、人間の真意に巧みにフィルターをかけ「で、結局のところ騙されたのはどっちなんだ」という心理サスペンスを生み出した点を評価したい。

タイトルの "beguiled"「騙される、たぶらかされる、紛らわせる」いずれの意味にせよ、たぶらかされたのは果たして唯一の男性なのか、それとも美しき女性たちなのか。

それにしても、71年当時のクリント・イーストウッドがワイルドでセクシーで、女性たちが彼を取り合うのは想像容易いが、なぜ本作ではその役がコリン・ファレルなのか。あの眉毛が、欧米ではワイルド&セクシーの象徴なのか。

そしてキルスティン・ダンストは、どうしていつも(あらゆる作品で)超イイ女扱いなのか。とくに本作においては、御歳50を迎えても明らかに造形として美しいニコール・キッドマンや、若くてピチピチのエル・ファニングがいるにもかかわらず、キルスティン・ダンストが一番の美女ポジションなのが解せない。

ソフィア・コッポラの映像美をもってしても、欧米人と日本人の感覚の違いは埋めることが出来ない。何だか話がおかしな方向に逸れてしまったけれど、格別思い入れがある訳ではないにも関わらず、彼女の作品が安定して評価されてきたことに、本作ではかなり納得できた。

流行りものだったマカロンが、今では定番化したような。フワフワのくせに安定している、それがソフィア・コッポラの映画なのである。決してナメてかかってはいけない。