映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

ゾンビで人間を描きたい

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新感染 ファイナル・エクスプレス

映画情報

  • 原題:Train to Busan/釜山行
  • 製作年度:2016年
  • 制作国・地域:韓国
  • 上映時間:118分
  • 監督:ヨン・サンホ
  • 出演:コン・ユ、キム・スアン、チョン・ユミ、マ・ドンソク

だいたいこんな話(作品概要)

証券会社に勤めるソグは、多忙なあまり幼い娘スアンの誕生日に、かつて贈ったことのあるオモチャと同じものをプレゼントしてしまう。普段から娘に構ってやれない罪悪感から、スアンたっての願いを聞き入れ、離婚協議中の妻の元へ連れて行くことにした。

妻が暮らす釜山へ向かうため、ソウル発の高速鉄道KTXへ乗り込むソグとスアン。ソウル駅までの道中でも、何台もの緊急車両を目撃していた二人だったが、KTXがソウル駅を発車する時、駅で発生した異常な事態を目撃することになる。

KTXの車内では、駅だけなくあらゆる場所で起きている「暴動」についてのニュース映像が流れる。しかし、その暴動=異常事態の火種は、すでにKTX車内にも飛び火していた。ソグと娘のスアンは、無事に釜山まで辿り着けるのか。

わたくし的見解

春は、ゾンビの季節と言っても過言ではありません。ほんの虚言です。

今回は、韓国映画・オブ・ザ・デッド。ゾンビ大国アメリカが、リメイク権をすでに購入している作品で、大変に「らしい」映画です。

本作では走るタイプの(しかも、かなり速く走れる)ゾンビなので、ゾンビ映画の第一人者である、ジョージ・A・ロメロのセオリーに当てはまりません。

しかし、ゾンビの存在するシチュエーションで、結局のところ人間の本質や本性をあぶり出す作りは、ロメロ哲学に通じています。これが、ゾンビ映画「らしい」ところ。

他には、ホラー映画「らしい」、そして韓国映画「らしい」があります。

ホラー映画、特にスプラッタ系の作品では、主要な登場人物が順々に死んでいくのが王道のパターンです。鑑賞者へのファンサービスなのか、分かりやすく嫌な奴は、必ず死にます。

また、宗教的な影響と思われますが、罪や過ちを犯した人も死にます。これは法律で裁かれるような罪でなくても然りで、軽く人を欺くなどでも断罪されます。

それから、ホラー映画的には必要悪みたいなものですが、エッチなことをすると、この枠で目出たく(?)死ぬ人リストに入ってしまいます。

若い男女がイチャイチャするのは、絵面として映画に入れておきたい要素なので(華があるというか、あまりに色気がないと場が持たないんでしょうね)比較的ホラー映画の序盤にブチこまれるのが定番なのに、カップルはいずれ死ぬ要員でもある訳です。

本作では、アメリカ映画のように直接的なセクシー描写はまったくないものの、結婚前の男女が公衆の面前で、仲睦まじくしていたのがいけなかったのだと思われます。最終的に生き残った人を見て理由を考えた時に、ホラー映画「らしい」に帰結しました。

生き残った人、つまり罪のない人の選び方も含めて、何かしら韓国映画「らしい」と私は思ってしまいました。その人達を殺さない設定にするのは、とてもハリウッド映画的なのですが、その点も含めて韓国映画「らしい」のです。

韓国映画で特に今回のようなアクション要素のある作品に関しては、かねてよりハリウッド映画を彷彿とさせる作りで、この方向性においては日本映画は完全に負けています。

この世の映画のすべてが、ハリウッド映画を目指していく必要もなく、日本映画は別の方向性を目指せば良いと私は思っているのですが。

とにかく「ハリウッド的」であることについては、韓国映画はとても上手。そして、ハリウッド的であること自体が韓国映画「らしい」のです。同時に、ハリウッド的ではない韓国映画独自の特徴、極めてエモーショナルな作風が本作でも色濃く、その点でも実に韓国映画「らしい」。

このようなジャンル映画(ゾンビ、ホラー、サバイバル、パニックなど、シリアスな人間ドラマとは違う趣のもの)であるにもかかわらず、主要な登場人物をとてもエモーショナルでウェットに紹介するあたりが、本当に韓国映画「らしい」なと感じました。

主演の俳優は今とても人気のある人だそうで、確かにシュッとしてはります。以前、別の作品で見たときは、イノッチ(井ノ原快彦)に激似だぜと思いましたが、本作ではそんな柔和なイメージはほとんど無く、実に精悍な大人の男性と言った風貌。人気も納得です。

そんなこんなでゾンビ映画ながらも、決定的にグロテスクな映像もないため、ゾンビもホラーも韓国映画に興味のない方でも、逆に韓国作品にしか興味のないご婦人方まで、面白く鑑賞できる作品です。

とても「らしい」のに、その「らしさ」を求めていない人でも楽しめるところが、この作品最大の功績と言えるでしょう。

 

大泉洋が好きって言うとモテるらしい

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アイアムアヒーロー

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

漫画アシスタントをしている鈴木英雄は、35歳にして未だ漫画家として大成できずにいる。同棲している彼女も、そのうだつの上がらなさに愛想を尽かし、英雄を家から追い出してしまう。

そんな痴話喧嘩の背後では、多発する謎の「噛みつき事件」が、実は人をゾンビ化させるウイルスの蔓延という大災害へと発展していた。漫画にしか興味がなく、社会から断絶した環境で生きている英雄の日常にも、その悲劇は突如現れる。

勤め先の漫画家のアトリエでは、すでにゾンビ化した同僚たちが互いを襲い合い、仲直りを求める電話をかけてきた英雄の彼女も、自宅に戻ってみるとゾンビ化していた。英雄は趣味で免許を所有しているクレー射撃用の散弾銃を手に、パンデミック状態の東京から脱出する。

今まで社会の末端で、劣等感だけを抱いて生きてきた英雄は、ゾンビ化ウイルスによってパニックに陥った日本で、果たして名前のようにヒーローになれるのか。花沢健吾の人気コミックを原作にした、パニックホラー。

わたくし的見解

今回は、映画のご紹介と言うよりも(毎回あまり上手に紹介できていませんけれども、それはさておき)ゾンビもの全般について、とりとめもなく語る回となっております。あしからず、ご了承ください。

さて、いきなり原作コミックについてですが、ゾンビものとして、特に物語の前半については大変感心する出来栄えです。主人公の日常の背景で「それはすでに始まっている」感じの導入部分は、まるで「ドーン・オブ・ザ・デッド」。

しかも、2時間程度の長編映画作品では到底かなわない、とても丁寧な描かれ方です。あまりに丁寧すぎて、コミックの読み始めは、まさかゾンビものだと思っていませんでした。

漫画家や、漫画家を目指す人々の、ちっとも華々しくないリアルを綴った物語。病的な妄想癖がある主人公の英雄くんは、いつかヒーロー(漫画家)になれるのかな。

そんな心持ちで読み進めていくうちに、「おや? これはまさか。まさかゾンビ?」と不審に思い、改めて最初から読み直してみると、そこかしこに伏線があったという訳。この時の高揚感は、漫画作品に限らず近年屈指の盛り上がりでございました。

長期連載漫画だからこそ描ける、日常から非日常への切り替わり。超人気作品「ウォーキング・デッド」も、シーズン8に及ぶ長期間の連続ドラマですが、物語はアッと言う間に非日常へ切り替わるので、漫画「アイアムアヒーロー」の導入部分は、ゾンビものの中でも希少かつ貴重と言ってよいと思います。

さらに、長い物語の中で前半のクライマックスでもあるショッピングモールに辿り着いた時なんて、川平慈英くらいクゥーっと痺れました。この人(原作者)ゾンビものを良くわかっているな、と思ったものです。

原作コミックに限らず、映画も含めた本作の見どころの一つに「アメリカのような銃社会ではない地域でのゾンビとの闘い」があります。ゾンビと言えば、本場(?)はアメリカで、一般人もすぐ銃を手に出来るし、発砲にも何ら戸惑いがありません。

それこそ、ショッピングモールまで辿り着けば、銃も弾もわんさか手に入ってしまうアメリカ的状況下とは、まったく違う展開を見せるのが「アイアムアヒーロー」です。

先ほど少し触れた「ドーン・オブ・ザ・デッド」のパロディ、あるいはオマージュ作品である「ショーン・オブ・ザ・デッド」も、イギリスを舞台にしているため、銃の溢れかえるアメリカをやや皮肉ったような展開を見せ、面白い映画です。

ところで完全に余談。イギリスのゾンビものと言えば、「28日後…」、続編の「28週後…」という作品があります。

主人公が昏睡状態から目覚めるところから物語が動き出す序盤は、ゾンビものの王道の展開なのですが、この作品のゾンビは、えげつないほど全力疾走して襲いかかってくるので、銃の役割がどの程度の扱いだったかほとんど覚えていません。すぐ軍とか出てくるし。

さて、希少な「銃を持つ人」がポイントとなる「アイアムアヒーロー」は、一貫してシリアスな展開ですが、日本人的な、とくにその中でも際立ってアメリカ的ヒロイズムからかけ離れた主人公の奮闘が醍醐味。

殺伐とした物語の中で、ささやかな温かみや箸休め的おかしみも、冴えない超日本人的主人公から生まれています。

本作は、原作コミックの半分か三分の一あたりまでの物語を、長編映画の枠に収めているので、コミックの魅力である丁寧さは失われていますが、端折りながらも作品のエッセンスを上手くまとめている印象です。

漫画原作のアクション映画では安定して成功している監督。合コンで「好きなタレント」として名前を挙げると、男性ウケが良いらしい大泉洋。言わずと知れた若手人気女優、有村架純。ベテランの風格も感じられてきた美人女優、長澤まさみ

社会人なら体感して知ってる、人材は「1足す1は、2とは限らない」現実の中、ちゃんと、1足す1が、2以上の成果を上げている、まっとうな仕上がりの映画です。

バイオハザード」(映画)あたりは、べらぼうにお金のかかっている人気作品ですが、回を増すごとに大味な作りになっており、大して面白くありません。久しぶりに「バイオハザード(ゲーム)したいなぁ」と思いながら、惰性で観ている始末。(ゲームしたいなぁ、と思わせるための映画なのかも知れませんが)

そう考えると「アイアムアヒーロー」は、あえて「邦画のわりには」という意地悪な枕詞を外して、評価出来る作品だと思います。

ゾンビ映画は世界的に見ても、本来は低予算作品ですし、その中で頑張ってる感を慈しむジャンルだからです。ちなみに最後の余談ですが、私は大泉洋が好きです。(いや、決してモテようとしている訳ではなくて…)

 

神話的復讐譚

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聖なる鹿殺し

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

心臓外科医のスティーブンは、眼科医の美しい妻と、健康で将来有望な二人の子供に恵まれ暮らしていた。家族とは別に、時々会って話をするマーティンという16歳の少年がいる。彼はスティーブンのかつての患者の息子で、マーティンの父親が他界してから何かと気にかけていた。

スティーブンは、ある時マーティンを家族に紹介しようと自宅に招き入れた。マーティンはスティーブンの妻にも気に入られ、子供たちともすぐに打ち解けた。しかし、その時からマーティンは過剰に付きまとうようになり、スティーブンの家族にも異変が起きはじめる。

スティーブンはとうとうマーティンに対し、嫌がらせめいた付きまといを止めるように強く諭すが、マーティンから返ってきた答えは、これから行われる復讐の宣言だった。

第70回カンヌ映画祭において脚本賞を受賞したサスペンス・スリラー。

わたくし的見解

偏見は無知から生まれるが、ギリシャギリシャ人に対して無知な私は「あの人たちは根が暗い」という偏見を持っている。

近年デフォルトの危機に直面していたことを思うと、極めて楽観的な国民性とも考えられるが「ギリシャ悲劇」なんて言葉があるのだから、DNAに刻まれた根暗性質も大いにあり得る、と個人的に感じている。

楽観が過ぎるからデフォルトを起こすような悲劇に見舞われるのでは、と卵が先かニワトリが先かみたいな話はさておき、テオ・アンゲロプロスというギリシャ人映画監督の作品を観たときに「あゝギリシャ悲劇」と強く感じたことが、偏見の由来である。

アンゲロプロス作品は、物語が神話ではなく現実的な悲劇の場合でも、結末部分で神話や児童文学によく見られるようなファンタジーめいた展開を見せ、涙をさそう。これ見よがしな仰々しい音楽と、悲しい結末は情感たっぷりで、とくに昭和の頃ならば日本人に大変ウケそうな映画である。

本作のヨルゴス・ランティモス監督もギリシャ人で、かくある如し。なんてことないシーンで、ひたすら不穏な音楽の主張が強く、稲川淳二ばりに「嫌だなーやだなー」「怖いなーコワイなー」と煽る。たけしさん(ビートたけし北野武監督)も言っていたように、ただ歩いているシーンに悲しい音楽をつければ悲しい場面になり、楽しい音楽をつければ楽しい場面になるのが映画。

ちょっとクドいなぁと食傷気味になっていたところで、なんてことあるシーン、実際に事が起き始めた場面では、一転してBGMを廃し静けさを際立たせるような演出には感心した。

悲劇はマーティンの復讐によるものだが、彼は実際には何ら手を下さない。では一体どのようにして復讐が遂げられるのか、それは理解し難く受け入れ難い。しかし、ある意味で監督の術中にはまっている可能性が高い。その動揺は、真っ先に主人公が味わっているものだからだ。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のような作品(地球人が宇宙人たち、植物みたいなのやアライグマみたいなのと一緒に宇宙の危機を救う話)と比べると、アメリカで暮らす心臓外科医とその家族の物語は現実味を帯びていて、そのぶん突拍子もない展開に面食らう。

現実的であることに徹するなら、マーティンは良心の呵責につけ込み、言葉巧みにスティーブンを精神的に追い詰めたとも捉えられる。実際には何も起きていないのに、スティーブンや家族には予言どおりに悪いことが起きているように思え、マーティンの言葉に従わざるを得なくなる。

そもそも、実際に何か起きようが起きまいが、言葉が発せられた時点で、予言(呪い)というものは少なからず効力を発揮するものだ。

ところで、わたくしはこの作品を現代を舞台にした神話だと捉えている。

まず突如、下半身が麻痺し、次に食欲が失せ、第三に目から血を流し、最後には死に至る。スティーブンが犠牲者を選び命を奪わなければ、これが繰り返される。なんでマーティンにそんな復讐が出来るのさって、だって神話だから。

我を失って人を殺め、後悔して星座にしたりする神々の戯れと同じ。神の怒りに触れ、その怒りを収めるために生贄が必要になったのだ。ギリシャ神話のように、生贄に選ばれた者が悲しき運命を受け入れ従い、その姿を憐れんだ神は(自分が生贄を求めたくせに)その者ではなく鹿を生贄にする。

本作でも、そのような救いのある展開を期待して鑑賞していたけれど、観せられたのは、どうしても生贄には選ばれたくない、自己犠牲の精神など微塵もないスティーブンと家族たちのエゴだった。

ヨルゴス・ランティモス監督作品が日本であまり好かれないのは、この不快な作風のせいだと思う。監督は、この作品をコメディーだと言っているらしいが、ホラーやスリラーのつもりで鑑賞すると、なかなか見応えのある作品だ。

たまたま、前回ご紹介した「ビガイルド」とキャスティングがかぶっており、また同じ年度のカンヌ映画祭受賞作品でもある。色々ぼーぼーで濃ゆいコリン・ファレルと超涼しげ美人のニコール・キッドマンは、画面の中でのバランスが良いのかも知れない。

どちらも最高賞を逃していて、実際そんな感じの出来。鑑賞価値のある佳作だが最高賞には何かが不足している。

カンヌ映画祭が賞を与えるとき、次もぜひ頑張って下さいね、という奨励の意図が色濃い。カンヌは案外、面倒見が良くちょっとアットホームな側面があって面白い。アカデミー賞には違う面白味があるが、それはまた別の話。

 

たぶらかされたのは、男なのか女なのか

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The Beguiled /ビガイルド 欲望のめざめ

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台は南北戦争末期の1864年バージニア州。静かな森の中に、女子寄宿学校があった。学園長と教師、事情があって実家に戻れない生徒が数名、戦火を免れひっそりと暮らしている。

ある時、女生徒の一人がキノコを採りに出かけ、森の中で負傷兵と遭遇する。敵兵と分かり動揺しながらも、献身的に怪我の手当てをする学園の女性たち。

負傷兵は無事快方に向かうが、女性ばかりの学園にたった一人の男性が暮らしを共にするというだけで、学園内の秩序が狂いはじめる。

原作はトーマス・カリナンの小説「The Beguiled」、クリント・イーストウッド主演で1971年に「白い肌の異常な夜」として映像化もされている。

わたくし的見解

ソフィア・コッポラ作品の魅力は、良くも悪くも軽やかであることだと思う。

女性が魅力的である時に魅力的に写し、まるで後光が射して、ありがたみを感じるほど美しい映像。情念とか怨念とか、とにかく血文字の似合うような「念」は写さず、観ている側に強く深く突き刺さるような何かを残さない。

まさにマカロンみたいなものなのだ。キレイな色で丸っこくて可愛くて、たしかに美味しいけれど、もっと美味しいものを幾らでも挙げられそうな程度の美味しさ。少しディスっているみたいになってきたけど、決して違う。

初めの1、2作品だけならともかく、ソフィアは何だかんだで、この手の映画では唯一無二の存在になった。「どうせ父親の」などと言うは容易いが、兄のロマン・コッポラの映画は恐ろしいほど評価が低く、今では撮ってさえいない。すっかりプロデューサーとして偉そうに名前を連ねているだけだ。

ところで、蜷川実花が日本のソフィア・コッポラなどと謳われることがある。「日本の」という時点で格下扱いなのだから、目くじらを立てるようなことではないのだけれど、あんなものとソフィア・コッポラを比べてはいけない。

「女性による女性のための」っぽい作風と、親の実績と馬面気味であること以外に、大した共通点はないのだ。それだけあれば十分な気もするけど、映画をナメてる蜷川実花と、お嬢様なりに案外、映画に真摯に向き合っているソフィア・コッポラとを、同じ土俵にあげないで欲しいと個人的に思う。

さて本作については、やはり良くも悪くも軽やかで、テレビCMされているような昼ドラ的劣情や情念渦巻くドロドロの展開は、実はほとんどない。きっと思いのほか上品な作りに、がっかりした人もいただろう。

一人の男性を取り合う美しい女性たちは、相変わらずの映像美でフワフワしたまま結末へ向かう。

察しと思いやりの文化を持つ日本人ならまだしも、はっきり物言うことこそ美徳とするアメリカ人が、忖度しまくりの結論にたどり着く終盤は個人的に気に入っている。連体感が強くコミュニケーション能力が高い、女性だけの世界だからこそ成立する展開だろう。

今回、今までになく面白く思えたのは、ソフィアによるフワフワフィルターを外したら、きっと彼女たちの感情は(本当は)こんな感じなんだろうな、というところまで透けて見えたところだ。

あえて現実味を薄くしてきたフワフワフィルターは、一周回って、目の前の人の感情を測りきれない実生活の感覚に近くもある。軽やかさが、人間の真意に巧みにフィルターをかけ「で、結局のところ騙されたのはどっちなんだ」という心理サスペンスを生み出した点を評価したい。

タイトルの "beguiled"「騙される、たぶらかされる、紛らわせる」いずれの意味にせよ、たぶらかされたのは果たして唯一の男性なのか、それとも美しき女性たちなのか。

それにしても、71年当時のクリント・イーストウッドがワイルドでセクシーで、女性たちが彼を取り合うのは想像容易いが、なぜ本作ではその役がコリン・ファレルなのか。あの眉毛が、欧米ではワイルド&セクシーの象徴なのか。

そしてキルスティン・ダンストは、どうしていつも(あらゆる作品で)超イイ女扱いなのか。とくに本作においては、御歳50を迎えても明らかに造形として美しいニコール・キッドマンや、若くてピチピチのエル・ファニングがいるにもかかわらず、キルスティン・ダンストが一番の美女ポジションなのが解せない。

ソフィア・コッポラの映像美をもってしても、欧米人と日本人の感覚の違いは埋めることが出来ない。何だか話がおかしな方向に逸れてしまったけれど、格別思い入れがある訳ではないにも関わらず、彼女の作品が安定して評価されてきたことに、本作ではかなり納得できた。

流行りものだったマカロンが、今では定番化したような。フワフワのくせに安定している、それがソフィア・コッポラの映画なのである。決してナメてかかってはいけない。

 

 

おセンチなプロレタリア作品

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希望のかなた

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

内戦が激化するシリアから、一人の青年が逃れてきた。空爆で家族も住まいも失い、難民キャンプを渡り歩くうちに、唯一生き残っていた妹ともはぐれてしまった。

偶然の重なりあいで、フィンランドの港町ヘルシンキに辿り着いた彼は、妹を見つけたい一心で真っ直ぐに難民申請の手続きに向かう。しかし申請は却下され、シリアに強制送還されることになる。

保護施設で知り合った他の難民や職員の協力を得て、彼は不法滞在する形でヘルシンキに残る選択をするのだが。

わたくし的見解

アキ・カウリスマキ監督は、私の中では「ダメ男映画」世界三大巨匠の一人として輝く存在です。ちなみに、三大巨匠の他2名は、ジム・ジャームッシュ山下敦弘

とにかく、「オフビート」という都合の良い言葉で作品を紹介されながら、ただダメ男を描くのが好きな他2名の監督。すっかり商業監督になっても、山下監督に求められるのは基本、ダメ人間を描いたもの。ジム・ジャームッシュについても、晴れ時々ダメ男、といった作品群になっています。

対して、ダメ男というよりは不幸にもうだつの上がらない、社会的成功者と真逆の立場にある主人公に、温かな眼差しを向けてきたアキ・カウリスマキ。変わらず、本当はダメじゃないダメ男をクローズアップしています。

山下監督とジム・ジャームッシュ監督が描く人々は、ダメ人間だから成功していないのが明らかですが、カウリスマキ監督の主人公たちは、のっぴきならない事情と、どうしようもない不運の連続で敗者となっただけで、本質的にはダメじゃない人々。

本作の主人公の、難民という立場はまさに、これに当てはまります。むしろダメ男とは対照的な、勤勉で善良な市民であった青年カーリドは、度重なる空爆で命の危険にさらされ、妹と共に安全に暮らせる場所を求めて祖国シリアを離れます。

しかし、とめどなく増え続ける難民を受け入れる側のヨーロッパにおいて、カーリドは異なった外見、そして異なった言語と宗教と文化を持つ、危険分子のように見られる現実。

なんだか、とても覚悟の必要なチョットしんどい映画のように思えますが、これがカウリスマキ節によって、穏やかな気持ちで見守れる不思議な作品になっています。

ダメ男映画三大巨匠の、もうひとつの共通の特徴として挙げられるのが、ユーモア。爆笑ではなく、時にスベっているのではないかと思われるほどの、小さな笑い。そこはかとない可笑しみで、辛辣な現実やダメ男の救いようのない愚かさを包み込み、鑑賞者にそっと飲み込ませる手法は巧みです。

この手法は、テーマがシビアになればなるほど必要になってくるのですが、難民問題については言わずもがな。

シリア人難民のカーリドに対して、その身に起きた悲劇や苦労を察し、無償で手を差し伸べてくれる人もいれば、異質なものを排除したい(そうすることで安心したい)人間の根源的欲求に従って過剰な攻撃、暴力を用いる人もいる。

良いことばかりではないし、かと言って悪いことばかりでもない現実を、独特のユーモアでコーティングして提示するカウリスマキ

彼の映画の登場人物は皆、ほとんど無表情で淡々としています。それがかえって言動の滑稽さや、彼らの本質的な温かみを浮かび上がらせ、ボディーブローのように時間の経過とともにじわじわと効いてくるのです。

お洒落げなCMでも完コピされる、オフビートな世界観と独特な感性は、相変わらず健在ですが、あえて「難民三部作」と銘打たれた本作では、やはり一筋縄ではいかない難民問題について、決して楽観的ではない監督の視点が印象的でした。

いつもならば、ダメ男のレッテルを貼られた不幸続きの主人公に、やっと希望の光が差し込むような、ささやかなハッピーエンドが用意されているのですが、今回はタイトル(とくに原題)を示唆するような結末。希望の向こう側、反対側にあるものは何なのか。

希望の存在を信じながらも、それだけでは解決できない、乗り越えられない現実問題の難しさも隠さない。あらためて、アキ・カウリスマキの真摯で温かな眼差しを思い知る作品でした。可笑しみも辛辣さも、やはり後からじわじわと効いてきます。

スルメの三つ巴

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スリー・ビルボード

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台はアメリカ、ミズーリ州。田舎町の外れに、巨大な広告看板があった。誰も気にも留めない三枚の朽ちた看板に、広告を掲載したいと申し出る中年女性が現れる。彼女は田舎町の住人で、7か月前に娘を殺害されていた。

殺人事件の捜査が進展しないことに、業を煮やした中年女性ミルドレッドは、地元警察に対する抗議メッセージを広告に掲載する。

人望のあつい警察署長を擁護する住人から、ミルドレッドはあからさまな攻撃を受け、抗議の看板によって排他的な田舎町に不穏な波風が立つ。そして、事態は思わぬ急展開を見せるのだが。

わたくし的見解

当然、娘を無残に殺された母親、ミルドレッドが主人公ではあるものの、彼女の物語のようでいて彼女だけの物語ではない。また、7か月前の殺人事件が解決されることが、主軸でもない。心の置き所が難しい、何とも言えない居心地の悪さが特徴的ですが、とても素晴らしい作品です。

「(簡単には)解決しないこと」を丁寧に描いているため、面白くないという感想も一理あるでしょう。ただ、そのような事象を、間違いなく面白い映画として完成させています。ニクいね。

かつて、イギリス人であるサム・メンデス監督が颯爽とハリウッドに登場し、「アメリカン・ビューティー」という作品で、現代アメリカにおける理想的な中流家庭の闇を鮮やかに描ききったように、同じくイギリス人監督のマーティン・マクドナーも、エッジの効いた視点で理不尽な世界を見せつけてきた、という印象を受けました。

広告掲載から始まるミルドレッドの戦いは、理不尽な世界に対する怒りの感情が引き起こしたもの。娘を失った彼女の「悲しみ」については、田舎町の誰もが理解を示し同情的だけれど、「怒り」に対しては明確な反発が生まれます。

ところが、意識無意識にかかわらず弱まっていた事件への関心が、ミルドレッドの「怒り」によって嫌でも呼び起こされることに。

ミルドレッドはこの戦いを始めるとき、反発やそれ以上の何かが起きることは覚悟していたと見受けられます。けれども、それは「自分の身に何が起きても構わない」という覚悟であって、他の人がどのような傷つき方をしても当然の報いである、と思っている訳ではない。

ミルドレッドは人が傷つくことで自分も一層傷つきながらも、戦いをやめません。強い完璧な母親像を描いているのに、決して彼女を英雄に仕立て上げない。

ミルドレッドの怒りや悲しみは、もっともだ。しかし、必ずしも正しい道とは言えない。そんな、とてもフェアな視点によって作品への信頼感が増します。

行動の起点として「怒り」という感情は強い力を発揮するけれど、実際に行動する時には、判断力を鈍らせる厄介者になる。これは、ミルドレッド以外の中心人物を描くパートでも繰り返される、作品のテーマとも言えるでしょう。

また劇中で、看板の掲載について「良い一手だった」と褒めてくれる人がいます。確かに殺人事件の解決に向けて、大局を変える重要な一手になったと言えるのですが、だからと言ってミルドレッドを必勝に導く一手とは限らない。もしかしたら、彼女を大敗に導く一手だったのかも知れない。

怒りの感情の使いどころ同様に、そのような物事の二面性あるいは多面性を見せてくる作りも、本作の魅力のひとつです。

現実世界のままならなさを、わざわざ虚構の世界で見たくない人にはお勧めできませんが、2018年のまだ序盤ながら、本年度大本命の一作ではないかと静かに興奮しました。

個人的に、昔からサム・ロックウェルが好きなので、オスカー像(最優秀助演男優賞)を手にさせてあげたいなぁと願っています。アカデミー会員ではないので、願うことしか出来ないのですが。

麗しの三白眼

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ブルージャスミン

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

「『ブルームーン』、夫と出会った時にかかっていた曲よ!」と自らの夫について、とめどなく話し続ける。女性の名前はジャスミン。自分でつけた名前だが芸名ではないし、娼婦でもない。直前までニューヨークでは名うてのセレブで、何不自由ない贅沢な暮らしを満喫していた。

彼女が、のべつ幕なしに語り続ける自慢の夫の莫大な資産は、すべて詐欺で手に入れたものだった。夫はFBIによって逮捕され、獄中で自殺。ジャスミンのセレブ生活は、一気に破綻した。

大学在学中に、夫ハルと出会ったジャスミンは、学校を中退し結婚してしまったので、何ひとつキャリアを持たない。FBIによって彼女名義の財産も一切没収され無一文の状態で、ニューヨークから、疎遠になっていた妹の住むサンフランシスコにやって来たのだが。

わたくし的見解

ほぼほぼ、年一のペースで映画を撮っているウディ・アレンの作品は、だいたいにおいてコメディである。時折、思いついたように辛辣な作品を発表することがあり、それが近年では、この「ブルージャスミン」なのだ。

この作品も、各方面ではコメディと紹介されていて、実際コメディでもある。ただ、多くのウディ・アレンの映画が劇中どのような事が起こっても、大抵の場合は鑑賞後に多かれ少なかれ、ほっこり出来るのに対し、ここで辛辣と称している作品にはまったく救いがない。とんでもなく手厳しい時があるのだ。

唐突だが、ケイト・ブランシェットは紛うかたなき美人だ。こんな美人は他に見たことがない! かどうかは、個々の経験や特に「好み」で違うだろうが、間違いなく誰から見ても美人だと思う。そして、間違いなく「可愛く」はない。

「カワイイ」に圧倒的権力や市民権を与えている日本と違い、マチュア=セクシーであることを大きく評価するアメリカという場所でさえ、ハリウッドで人気を博してきた女優のいくらかは、可愛い。つまり、キュートだったりチャーミングだったりが、人気の理由となっている場合が少なくない。

少し古いけれど、分かりやすいところで言うと、メグ・ライアンとか。「ターミネーター2」では、ムッキムキで懸垂してたサラ・コナー(リンダ・ハミルトン)でさえ、一作目の「ターミネーター」を改めて観ると典型的なアメリカン・ガールで、たぶん向こうの人にとっては「可愛い」女優だった。

ケイト・ブランシェットの凄さは、「可愛い」という要素の魅力をまったく持たずして、ただただ美しいことだ。男は必要ない、私は国家と結婚する! と宣言するのが似合い過ぎる。ムキムキじゃないのに、片手でショットガンを装填しないのに、サラ・コナー級の威圧感。しかし神々しいほどに、いつでも美人である。

とはいえ、大変に表現力のある素晴らしい女優なので、作品によっては劇中の表情など可愛い時だってある。「エリザベス」なんて今観ると、設定上のエリザベスの年齢や、演じている当時のケイト・ブランシェットの若さもあって、十分に可愛い。しかし、それらもすべてケイト・ブランシェット「にしては」可愛いと言うだけだ。

何が言いたいかと言うと、非常に美しいが可愛いという印象がまずない、そんなケイト・ブランシェットのためにあるような役がジャスミンである。こんなにも、スノッブで中身がなく、思慮に欠け、ただ美しいだけで自分では何ひとつ出来ない上に超ヤバい女を、演じられる人なんて他にいない。

もう少し丁寧に言えば、こんな女性を見事に演じながらも、嫌悪感を与えたり同情を得るのではなく、ただフラットに哀しく見せることが出来る人はいない。

この役で重要なのは、見た目だけ魅力的で馬鹿な女では駄目だと言うこと。セックス・シンボルのイメージを求められた、マリリン・モンローのようなタイプではなく、上品であるような、知的であるような、一見すると複雑な「であるような」女性像でなければいけない。

しつこく申し上げてきたように、可愛くはなく、美しさと圧倒的演技力で今まで君臨し続けてきた、ケイト・ブランシェットの真骨頂を観ることができる作品だ。

ウディ・アレンの映画の主人公にはしばしば、多かれ少なかれアレン自身が投影されていて、今回も例外ではない。顔を出さなくてもウディ・アレンの存在感をひしひしと感じるのが、ある意味楽しみでもあるのだが、さすがはケイト・ブランシェットウディ・アレン臭は微かで、キャラクターの要素として感じられるレベルだ。

ケイトと見えないウディの存在感が、実に拮抗している。最終的にウディが、ケイトに敬意を表して、いつもの彼の映画というよりは、ケイト・ブランシェットの映画に仕立て上げた。そんな、大いに見どころのある作品である。