映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

How cute she is!(感嘆文)

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ロッタちゃん はじめてのおつかい

映画情報

  • 原題:Lotta flyttar hemifrån
  • 公開年度:1993年
  • 制作国・地域:スウェーデン
  • 上映時間:86分
  • 監督:ヨハンナ・ハルド
  • 出演:グレテ・ハヴネショルド、ベアトリース・イェールオース、クラース・マルムベリー

だいたいこんな話(作品概要)

長くつ下のピッピ」で知られる、アストリッド・リンドグレーンの児童文学を原作とした作品。「ロッタちゃん」シリーズとしては、二作目。

両親、兄、姉と共に暮らす5歳の女の子、ロッタちゃんの織りなす日常のささやかな出来事を、季節の移ろいの中で描くハートフル・ドラマ。本作はクリスマスを中心とした、冬から春にかけての物語。

わたくし的見解

どレミふぁ ソ・ら・シど♪

てなテーマ曲とともに、ちびっ子が初めてのお使いに四苦八苦する姿を、大人が見て「おぅ! なんと、いたいけであることか」と感動し、むせび泣くTVショウがあったと思う。

この映画は日本のそれとは少々趣きが違って、何が違うって、やはり主人公のロッタちゃん。彼女だって、日本のTVショウの子供らと同じく、そりゃあもう「いたいけ」で「いたいけ」が服着て歩いてるのだから、それを可愛いと言わずに何と言う。

ただ、ロッタちゃんは乳歯抜けずして、すでにパンキッシュ。その反骨精神あふれる、しかめっ面が空前絶後にラブリーなのだ。超絶カッコイイとさえ感じてしまう。思わず、羨望のまなざし。

ついつい、しかめっ面を真似したくなるけれど、身の丈を知っているので我慢せねばならない。オバさんがしかめ面して歩いてたら、石投げられますからね。かと言って、あんまりヘラヘラしていたら通報されるし。生きるって、つらいことばかり。

パンク女児ロッタちゃんは、二ヒルでストイックでもある。奈良美智の描く女の子みたい。と思っていたら、日本での劇場公開時のポスター画は奈良美智作品なのだとか。当時の配給会社も、似てると思ったのだろう。

「冬冬の夏休み」という台湾映画を紹介した時にも同じ理由を述べたが、日本の映像作品やハリウッド映画の、例えば「ホーム・アローン」のような子供描写をしない点が、わたくしとしては大変に好もしく感じている。子供は可愛く演出などしなくても、放っておいても可愛いのだ。

加えて、このシリーズ作品の心地よさは、ロッタちゃんに対する両親たち大人の反応によるところも大きい。些細なことで、大人の女性顔負けの不機嫌ぶりを見せつけるロッタちゃんを相手に、余裕も余裕。パパやママが、とても大らかに振る舞う様子は、見ていてホッとする。

親サイドのイライラ感は見受けられない上に、かと言って子供を甘やかしている印象もまったくしない。日本でも今どきは、怒らない(叱らない?)しつけを実践しておられる親御さんを見ることも少なくないが、その方向の子育てとしては、この映画の感じがきっと理想なんだろうなと思う。

本作では、タイトルの「おつかい」をはじめとして、さまざまな日常的エピソードをオムニバスのような形で見せていき、ロッタちゃんの冬の物語はクリスマスを迎える。そして、彼女が天下無敵だと知ることとなる。

その昔「涙は女の武器じゃけぇ、マスカラは透明って決めとるんよ」と、知り合いの広島県民が言っていたが(ウォータープルーフでええがな、といふ噂もありけり)ロッタちゃんも5歳にして、すでに女の武器の威力を知り尽くしている。

しかし、バブぅっていう程ガキやない。くもん行くほど大人やない(byアキナ)いたいけな5歳の女児の、最強必殺技がきかぬ相手が登場する。ラスボス(最終にして最強の敵の意だが、この映画では最終ではなく中盤のクライマックスに登場する)は、彼女とは他人のよそ者のオッさん。

ロッタちゃんは最大のピンチをむかえるが、その時、不思議なことが起こった。安っぽい宗教家なら、それを奇跡と呼んだだろう。

どどめ色ハートの私は、その奇跡(神様のご都合主義)を前にして恥を知った。この、ご都合主義があまりに鮮やかで、美しいほどに見事だったから。

「こんな子おるおる」と言いたくなる、怖いもの知らずの末っ子パワー。ロッタちゃんの持つ根拠のない自信と、底抜けスーパーポジティブ・シンキングが巻き起こすラッキーの数々を、とくとご覧あれ。

一家団らんのクリスマスが過ぎイースターの春がやって来ると、ロッタちゃんは前歯が抜け、イヴにはツリーがないと大泣きしていた、ロッタちゃんのお兄ちゃんも声変わりしていて。

そんな子供らのありきたりの成長に、おほほんと笑みがこぼれてしまう、実に罪のない作品。クリスマスに、こんなんどうでっしゃろ?

強力わかもと

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ブレードランナー2049

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

フィリップ・K・ディックの小説を原案に制作された、1982年のSF映画ブレードランナー」の30年後を描いた作品。

前作で監督を務めたリドリー・スコットは、製作総指揮に名を連ねている。前作の主人公であり、本作で重要人物として再び登場するリック・デッカード捜査官を、引き続きハリソン・フォードが演じている。

環境の悪化により、多くの人間は宇宙で暮らすようになっていた近未来の地球。人間はレプリカントに過酷な労働を強いることで、生活を成り立たせていた。

レプリカントは人工的に作られた人間であり、機械とは異なる。2018年、人間に反抗し反乱を起こしたレプリカント、ネクサス6型は処分対象に。危険なレプリカントを取り締まる捜査官は、ブレードランナーと呼ばれた。

その後、レプリカントの製造そのものが禁止された時代を経て、世界は改めて従順で理想的なレプリカントを開発し、2049年には労働力として再び利用するようになっていた。

自身もレプリカントであるブレードランナーの"K"は、旧式のレプリカントを解任(処分)する任務の中で、ある可能性に遭遇する。"K"は、その可能性について追求するうちに、30年前に失踪したブレードランナーのリック・デッカードを見つけなければならなくなる。

わたくし的見解

続編を作るごとに、味が薄くなっていくというのは映画ファンにとっての定説。

スプラッタホラー映画の「スクリーム」の二作目でも、あえて自虐ネタのように、劇中で「一作目を超える続編なんてあるか?」という話題で、高校生たちが盛り上がる場面がある。

「1」を超える「2」として挙げられる作品は、大抵の場合三部作。たとえば「スター・ウォーズ」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の二作目で、それではこのお題に当てはまらない、と劇中で突っ込まれる。

じゃあ「ターミネーター2」はどうだ。の発言に、スクリームの登場人物たちは唸るのだが、それほどまでに続編の面白さが初作を上回るのは難しいもの。

ヒットしたからって、取って付けたみたいな続編作りやがって、と何度となくファンをがっかりさせてきたもの。それが続編映画。

とくに近年、映画業界では一時期の不景気の煽りでポシャってきた企画が、景気の回復とともに再び実現化する動きが見られる。

その多くが人気作品のリメイクや、何十年ぶりの続編なのだけれど、前述したとおりの理由で「続編」作品は、個人的になるたけスルーしている。結論から言えば、本作は「あったりー!(当たり)」の続編だった。

ターミネーター」や「エイリアン」ほどの続編の傑作かと聞かれれば、そこまでの自信はないけれど(そのレベルの傑作の評価は、ある程度年月を経てからでないと出せないものだと思うし)ただ、かなり成功している続編である、とは言いきれる。

わたくしにとっては、1982年の「ブレードランナー」に大した思い入れがないことが、功を奏している。

いつだったか忘れたが、名作だと聞いたので観賞したものの、正直「なるほど」としか思わなかった。十分に面白かったのだが、名作と謳われているのだから、そんなの当たり前でしょ。「なるほど名作」と感心するにとどまる感じ。

小説も含むSF作品としての評価となると話は変わってくるが、数多ある映画の中で、何をおいてもこの作品!というような盛り上がりはなかった。加えて「続編」への眉ツバ感が、結果すべて良い方向へ転び、今回の新作をとても楽しめたのだと思う。

しかし私と違い、期待感を持って観賞した人の評価も決して悪くないようだ。作品そのものとは別に、今回面白かったのは観客の大半がおっさんだったことである。

82年の「ブレードランナー」に心酔した人が観に来ているのだから当然だけれど、昨今の映画館で見る客層とは明らかに違う。

客席の風景もいつもと異なりスーツ姿が多く、なんだか少し愉快だった。「スターウォーズ」のような万人受けする作品ではないところにも、思い入れの深さが伺える。おっさんになっても、中身はSFに萌えているのだ。

ブレードランナー2049」は原案とされている小説にはまったくないストーリー展開だが、とても丁寧に映画「ブレードランナー」を踏襲している。

ブレードランナー」と同様に、ずっと天候が悪い。これは舞台であるLA、なのに雨。加えて寒さの表現で、地球環境が現在とは明らかに違う状況であることを見せている。前作から30年の月日が流れている設定なので、本作ではさらなる環境の悪化を見てとれる場面もある。

ブレードランナー」では、感情を揺さぶる質問を繰り返すことでレプリカントか人間かを見分ける。

本作でも主人公のレプリカントが、ブレードランナーとして適正な状態にあるか(感情を揺さぶられずに、旧式のレプリカントを解任する任務が行えるか)をテストするために、前作と同様エモーショナルな質問が半ば拷問のような畳み掛け方で繰り返される。

このようなSF作品に一貫してあるのは、人間が自らの代替品を作った時、いつかそれらに反乱を起こされる恐怖だ。

たとえば機械や「ブレードランナー」なら人造人間。それらの精度を高めるのは人間で、その結果、代替品に自我が芽生えると想像することで生まれる物語。

レプリカントは前作ですでに自我が芽生え、今回の続編では、より人間に近づいたことに、人間もレプリカントも強い意義を感じている。

人間ではないものが、ヒューマニズムを得たり求めたりすることが、何故こんなにも切なく感じられるのか。うっかりしていたけれど、ライアン・ゴズリングが主演に据えられている時点で気づくべきだった。だいたい顔立ちが、すこぶる切ない。

ハリウッドらしからぬ、大変に暗く色調も地味な作品に思えたが、ひたすらに仰々しい音響は、実は極めて大作映画的な演出だ。心が弱っていたら病気になってしまうのでは、と心配になるほど不穏な音が鳴り響き、見事に物語を形成している。

無彩色に近い映像の中で繰り広げられる、実にエモい展開は前作からのDNAに他ならない。人間ではないものを通して、人間の求めている何かを見出そうとする。いつだってSFは無機質とは程遠く、エモいものなのである。

せやかて、工藤

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犬神家の一族(1976年)

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

原作は、横溝正史による推理小説金田一耕助シリーズ」のひとつ。「八つ墓村」に次いで、映像化の多い作品。市川崑監督&石坂浩二主演による金田一シリーズの第一作でもあり、2006年に監督・主演を同じくしてリメイクもされている。

裸一貫から莫大な財をなした犬神佐兵衛が、終戦後しばらくして亡くなる。一度も正式な妻をめとらなかった佐兵衛には、母親の違う三人の娘がおり、それぞれが男児をもうけていた。

彼の遺言を巡り、不穏な気配を感じた担当弁護士の一人が探偵・金田一耕助を呼び寄せる。金田一が到着するとすぐ、犬神家にゆかりのある珠代が湖で溺れかける。乗っていたボートには穴が開けられていた。

その騒動の間に、金田一の依頼人である弁護士も殺害されてしまう。この殺人はすべての皮切りに過ぎなかった。

わたくし的見解

名探偵とは、一体いかなるものなのか。

探偵とつくものに(ポアロミス・マープル松田優作の工藤ちゃん、犬ホームズからヴェネディクト・カンバーバッチに至るまで)何かと飛びつきがちな自分であるが、しばしば「名探偵」なるものに疑いを抱いてきた。

とくに金田一シリーズのような長編映像作品は、多くが連続殺人事件で、だいたいにおいて犯人が殺したかった人物は全員死ぬ。一人目が殺されるのは、晴天の霹靂として仕方ない。二人目も、まあ良しとしましょう。三人目が殺される前には、これは連続殺人だと名探偵はすでに認識しているが、殺人を未然に防げた試しはない。

犯人にとっての唯一の誤算は、名探偵がその場に居合わせたこと。なのだろうけど、どうしても殺したい人間を計画どおりに全員殺せたのだから、警察に捕まろうが本望と言えそう。

松田優作じゃない方の工藤ちゃん。見た目は子供、頭脳はバーロー「名探偵コナン」にいたっては、連れ合いの少年探偵団(ガチの小学生)と行動すれば、ほぼほぼ凶悪犯罪が起きる世界屈指の犯罪都市、米花町で日々を過ごし、時折エセ名探偵の毛利小五郎に便乗し、地方へ行けば人が死ぬ。

事件を解決した功績よりも、縁起の悪さが気になっちゃう感じ。行く先々で、人が死ぬ。それが名探偵の定義であるかのよう。これは、莫大なエピソード数を誇る作品ゆえの弊害に違いない。

シャーロック・ホームズ」などは殺人事件以外のエピソードも豊富なので、難事件があってこそ名探偵に依頼がくる、というのが本来の図式と思われる。

しかし、本題の金田一耕助。この人に与えられた名探偵の肩書きが、子供の頃から謎だった。金田一はいつも、依頼人から「良からぬことが起きるから頼む」と仰せつかって現場にやってくる。そもそも、何か起きちゃうから呼ばれてるのだから、最初の殺人も晴天の霹靂とは言い難い。その後も、連続殺人の法則のようなものには気付き、名探偵らしさを見せはする。

ところが、見立て殺人に使われる俳句が書かれた短冊に気付きながらも「字が達筆すぎて読めない」とか(「獄門島」)同じく見立てに使われている手毬唄を知る婆さんが、唄の続きが思い出せないとか(「悪魔の手毬唄」)。

とにかくいつも、金田一がモタモタしているうちに次々と人は死に、犯人はミッション・コンプリート。しかも金田一シリーズは大抵の場合、犯人が自ら命を絶ち、それさえも名探偵は防ぐことが出来ずに終わる。「しまった!!」じゃねぇし。

金田一シリーズは、ついつい映像のおどろおどろしさを期待し、そちらにばかり目がいってしまう。子供の頃から何度となく、怖いもの見たさでイベントごとのように観ていた「犬神家の一族」であったが、改めてじっくり向き合ってみると、映画作品として感銘を受ける部分が多々あった。

もはやアイコンとも言うべき、かの有名な湖畔から下半身が逆さまに飛び出している映像は、インパクトが強過ぎて「斧(よき)」の見立てであるという印象が、全くわたくしの中に残っていないことに驚く。だいたい「犬神家」は、「斧、琴、菊」すべての見立てが、佐清(すけきよ)のゴム面ベリベリにかき消されていると言ってよい。

しかし、ゴム面ベリベリに飽きもせずヒャッと驚きながらも、今回の鑑賞でわたくしの心をグッと鷲掴みにしたのは、遺言の発表をするだ、しないだの中で繰り広げられる松子、竹子、梅子、三姉妹のやりとりである。

三姉妹と言っても、いずれも成人した男児のいるオバさんで、遺言が絡んだ時の欲のぶつかり合いや、身内どうしゆえの遠慮のなさの表現には目を見張るものがあった。

短いシーンながらも、そこにある会話のテンポの良さは完璧以上で、あの緊張感を意図的に作り出せているなんて。あれは、キング・オブ・コントの決勝にもいけるし、邦画史上屈指の名シーンと嘯きたい。

名探偵についてだが、実は本作のラストシーンで金田一自身が、どれかひとつでも殺人を未然に防げなった、不甲斐ない自分について語っている。しかし依頼人は、警察の通り一遍の捜査では「何故このような不幸な事件が起きたのか」分からず仕舞いだったに違いない。と金田一を評価し感謝する。

警察の捜査がずさんなのは戦後すぐという古い時代設定のせいもあるが、確かに現代でさえ、何故こんな事が起きてしまったのか、までは辿り着けないことも多いに違いない。

そんな時、親身になって調査し、真相をつまびらかにしてくれる存在は、きっと事件で傷ついた人達のささやかな救いになるのだろう。名探偵とは、その役割を担うものなのだなと、やっと納得できた。

石坂浩二さんの魅力もさることながら、悲惨な事件が続くなかで箸休め的役割というか、オアシスのような存在の、若き日の坂口良子さんが、べらぼうに可愛い。一大ブームを引き起こしたシリーズであることに納得づくし。他のシリーズ作品も真剣に再鑑賞してみたが、やはり一作目の「犬神家の一族」が抜きん出てキレッキレにエッジが効いていて、金字塔的作品に思えた。

あれは地球を救う。といふ話

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散歩する侵略者

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

数日間の行方不明の後に戻ってきた加瀬真治は、記憶を失い以前とはまるで別人。妻、鳴海の心配をよそに、散歩にばかり出かける真治。

問い詰めると、自分は地球を侵略するために来た宇宙人なのだと言う。真治の体を乗っ取り、地球人の概念を集めているのだと。

すでに夫婦が不仲だったことが幸いしたのか、たとえ夫が「侵略者」によって、ほとんど支配されたのだと知っても、再び夫婦としてやり直そうと奮闘する鳴海。前川知大主催、劇団イキウメの人気作品を映画化。

わたくし的見解

6月にご紹介した「美しい星」同様に、ワレワレハ宇宙人ダ、的な類のものは取扱いに大変注意を払う必要はあれど、あえて今回も取り上げてみました。

「美しい星」は興行的にきっと難しいに違いないと散々のたまいましたが、こちらの「散歩する侵略者」の方が、まだ広く一般に受け入れられそうな作品だけに、劇場での上映期間が驚くほど短かったことを残念に思います。

この作品の評価ポイントは、「宇宙人による侵略」がテーマではないというところです。そんなものを邦画で取扱ったら大火傷してしまいます。

そんなもの(って、とてつもなく酷いものみたいですが)は、天下のハリウッドに丸っとお任せしておけば良いのです。

宇宙人による侵略、みたいな非日常を巧みに利用して、ごくありきたりでフツーな地球人を描いてみせる。これが邦画(や日本の演劇)のあり方だと大胆にも言い切ってみようかなぁ。どうしようかなぁ。あんまり自信ないけど、とりあえずそういうことに。

映画の中でとても興味深いのが、侵略の準備として人間から概念を奪うという行為。これもとどのつまり、私たち地球人とは何なのか、を映画鑑賞者が改めて意識するために施された演出です。

あまりにも日常的過ぎて意識されない、あらゆること。「家族」とか「仕事」などについて、人間に具体的なイメージ(概念)を浮かべるよう指示し、それを奪う侵略者。奪われた概念は、その人間から抜け落ちてしまいます。

この過程の見せ方は、CG不要。演出の巧みさが際立ちます。逆に、CGに甘んじる迫力のスペクタクル演出は、すでに申し上げたとおりハリウッドの足元にも及ばず、やはり残念な出来映えです。

劇中、ほんの短い時間なので見て見ぬふりできる範囲でしょう。あるいは、意外と健闘していると捉えることも出来るかも知れません。

代わりと言ってはなんですが、ぜひ注目して頂きたいのが、綺麗じゃないヒロインです。いや、綺麗なんです。今まで長澤まさみさんが、綺麗じゃなかった事など無いのですが、わたくしはこの女優さんの、綺麗じゃない顔も見せられるところが好きでして。

やや野暮ったい服装や髪型をしてみても、所詮ポテンシャルが違いますので、どの道フツーには見えない綺麗な人なのですが、映画序盤に見せる、夫を疎ましく思う妻の鬼の形相が素晴らしく、こういう顔の出来る長澤さんを大変信頼しています。

主役をはれる同年代の女優さんの中でも、ピカイチの演技力に、いつも唸り思わず拍手したくなります。

そして、松田龍平さんの宇宙人っぷり。外見は元の夫のままで、中身だけ宇宙人に乗っ取られているはずなのですが、宇宙人も乗っ取る相手を見た目で選んだのでしょうか。すげぇ宇宙人ぽくて笑ってしまう。笑ってしまうのに、妻と一緒にどんどん、この人が愛おしく思えてくる見事な存在感です。

それこそハリウッド映画、とは言えティム・バートン監督作品なので少々メジャー作品からは逸れますが「マーズ・アタック!」なる映画では、圧倒的な武力を持つ宇宙人に対抗できた唯一の武器が、音楽であったという拍子抜けのオチがあります。

しかし実際、未知なるものに地球的最強の武器が通用するとは限らないもの。案外、塩とか掛けたら勝てるかも。「散歩する侵略者」でも、思わぬものが地球を救う訳ですが。これって絶対、このオチ、あのフレーズありきで作られた物語だと思うのです。

夏の終わりに行われる、黄色いTシャツのチャリティー番組のあれ。「そんな馬鹿な」のオチも、やはり主演女優の力量で思いのほか悪くない収まりを見せていると、わたくしには思えてなりません。

愛だろっ、愛。オールユーニードイズラブなんですよ、世界って結局。

象の耳を触っているのか、鼻を触っているのか

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三度目の殺人

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

裁判で勝つためには、真実は最重要事項ではないと考えてきた弁護士の重盛は、つねにビジネスライクに依頼人や案件と向き合ってきた。

30年前の殺人事件で、かろうじて死刑を免れたものの実刑判決を受けた、前科のある男の強盗殺人を争う裁判の弁護を引き受けたことで、重盛は流儀に反し真実という闇に引き込まれていく。

わたくし的見解

邦画では稀少とも言える、ハートフルやコメディに頼らない重厚なドラマです。

本作は、裁判ものやミステリーとしては少々詰めの甘い感があるため、伊坂幸太郎のような伏線をすべて回収しきるミステリーを期待すると楽しめません。東野圭吾作品のような、エモーショナルなカタルシスも求めない方が得策です。

純文学系と割り切ってご覧ください。深淵を覗きこむと、深淵からもまた覗かれている。みたいな、ちょっと何言ってるか分かんないですけど(サンドウィッチマン©︎)と言われかねない、モヤぁーっとした事象の映像化としては、かなり成功しています。実に面白い。(これも©︎か)

鑑賞後もモヤモヤできるので、モヤモヤするのが好きな方には格好の材料となるでしょう。公開中の作品ですしミステリーでもあるので、あまり具体的な内容に触れずに言及したいとは思うのですが、今回タイトルの「象の」云々というのは、劇中のセリフより拝借したもの。

三隅という男の強盗殺人を争う裁判で、最初に弁護を引き受けたのは、福山雅治演じる重盛とは別の弁護士です。三隅に前科のあることや、手口が残忍であることから、検察側からの死刑の求刑は必至。

にもかかわらず、容疑者の三隅は毎回違った供述をするため、お手上げ状態になった弁護士が、旧知の間柄の重盛に弁護の協力を求めるところから物語は始まります。

やり手弁護士の重盛が加わっても、裁判の行方は危うく厳しい展開が予想されるなか、二人の弁護士が事務所に泊まり込んだ際の雑談として「象の」くだりが登場します。

盲目の人々が実際に象を触ったあとに、象についてそれぞれが語ると、象の体は大きいため触った場所の違いによって見解がバラバラに。結果、口論になってしまうという昔話のようなもの。

もしかしたら私たちの行なっている裁判は、それに程近いのではないか。事実とは、象のようなものなのではないか。

象の耳を知っている人、鼻を知っている人、それぞれにとっての象は確かに真実で、誰も間違ってはおらず誰も嘘をついている訳ではない。ところが誰も象のすべてを把握できていない。そのなかで口論しているだけなのでは。

というのが、この作品のテーマのひとつなのだと思います。事実と真実の間に生まれる齟齬と言ってもいいかも知れません。

物語の本筋は、実際は何が起きたのか。知りたい鑑賞者は、主人公とともに翻弄され、主人公にリードされて結論に辿り着こうとした時に、それは違いますよ。と、三隅からスカされます。

え、じゃあ結局どうなの?! とモヤモヤしながら、作品のタイトルを見つめ、それで納得された方も多いことでしょう。私もその一人です。

と同時に、追いモヤモヤすることも出来ます。これは、まったく個人的な作品のしがみ方なのですが、三隅の真実、三隅の物語ではなく、重盛だけの物語と捉えることです。

極端なことを言えば、三隅などという男や事件そのものが実在せず、真実と向き合うことを意図的に避けてきた、重盛の反動の表面化なのでは、と。

(そうなるとシンプルに精神疾患の物語になってしまうので)もう少しソフトに言うならば、真実から逃れてきた重盛が変化するための、自己投影の道具でしかない三隅。という見解も、わたくしとしては捨て切れません。

しかしこれは、あくまでも副旋律、オブリガート。主旋律はやはり、重盛が三隅に取り込まれていく様子を眺め、物語の事実と真実を見つけようとすることであり、その視点だけでも実に面白い(←2回目)作品に仕上がっています。モヤモヤ好きには必見です。ぜひ、モヤモヤして下さい。

陸海空、こんなところで世紀の救出

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ダンケルク

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

第二次世界大戦ポーランド侵攻に勝利したドイツ軍は、その後一年足らずで北フランスまで勢力を広げ、新兵器の圧倒的火力と戦法で英仏連合軍を追い詰める。

イギリス首相チャーチルは1940年5月26日、フランス北部の港町ダンケルクに取り残された兵士の救出を命じ、民間船舶まで総動員したダイナモ作戦が発動される。それは史上最大の撤退作戦だった。

わたくし的見解

今年の一本は「ラ・ラ・ランド」と、春に豪語してしまった気がするのですが、本年度観ておくべき作品の双璧をなす映画。それが「ダンケルク」です。(また、豪語してしまった。えへへ)

史上最大40万人の救出作戦! であるとか、実話!! など、プロモーションで大々的に打ち出している表現は、軽く受け流してもらった方が映画をより楽しめるかと。

監督自身の言葉を借りれば、戦争映画というよりは「サバイバル・アクションムービー」であり、そのジャンルとしては超大作で、かつ本年度最高の出来と言って過言ではありません。

少なくとも(前作「インターステラー」の時も言いましたが)クリストファー・ノーラン監督作品では、最高傑作です。

クリストファー・ノーラン監督作品は、そのファン以外にとっては少し小難しかったり、ちょっと面倒、くどく感じられたりするものでした。たとえ、それが「バットマン」のような、アメコミ原作の娯楽作品であったとしてもです。

しかし、本作「ダンケルク」は、もっすご(物凄く)シンプル。一人の若い英国人兵士が、敵国ドイツ軍から包囲されたフランスの港町から、ドーバー海峡を越え無事に祖国イギリスまで戻って来られるか、ただそれだけの物語。

そのため、サバイバル・アクションムービーと位置づけるのが、極めて妥当と言えます。

主人公の若い兵士は、登場シーンに象徴されているように、ウンコしたいのに矢継ぎ早に訪れる命の危機に直面し、なかなかゆっくり用をたすことが出来ない不憫な若者なのです。

このように文章にすると、ブルース・ウィリスあたりが演じる、ややコミカルで飄々とした、しかしながら無敵で不死身の主人公が登場したかのようですが、残念なことに本作の彼は「ランボー」や「ボーン・アイデンティティー」シリーズの主人公のような特殊スキルをまったく持たない、本当にただの若者。

たまたま生きた時代のタイミングで兵士になっただけなので、ヒーロー的に描かれるのは主人公ではなく、彼(を含む30万人以上の兵士)を救出するべく、ダンケルクにやってくる人々です。

ダンケルクの沿岸で待つ兵士を救出にくるのは、海軍に加え民間の船舶、そして救出の援護をする空軍のスピットファイア(戦闘機)。

それぞれの視点から、救出作戦が時系列どおりに進行します。シンプルな構成の中にも、ノーラン監督らしい演出だと感じたのは、陸海空ごとの時系列は狂わないものの、それぞれの視点が合流するまでの時差を巧みに利用し、緊張感に拍車をかけているところです。

また効果として素晴らしかったことの一つに、時計の音。主人公がウンコしたいのに、なかなか出来なかった冒頭からチッチッチッと時を刻み始め、その音が鳴り止むまで、緊張の糸は張りつめたまま。

その緊迫感は、映画のほぼ全般にわたって維持され、映画体験として見事です。ノーラン作品としては、非常にタイトな106分の上映時間も、この体験に一役買っています。

私は勝手に、ノーラン劇団と呼んでいるのですが、クリストファー・ノーラン監督は、同じ俳優を何度も起用することで有名。本作は、主人公こそ無名の若手俳優を起用しているものの、やはり脇を固めるのはノーラン作品ではお馴染みの顔がちらほら。

もはやノーラン作品の代名詞に近いマイケル・ケインは、今回は声のみの出演でしたが、キリアン・マーフィーとトム・ハーディーが主要キャストであったのは、ファンとして嬉しいところ。

個人的に愉快だったのは、ノーラン監督は同じ俳優を使うだけでなく、彼らへのイメージがほぼ固定されているんだなと確信したこと。俳優に、今までのノーラン作品とは違うイメージのキャラクターを演じさせようとはしない。

今回も、ヒロイックな役柄は当ててもらえないキリアン・マーフィーと、自己犠牲の男トム・ハーディーを、ファンはご堪能下さい。

ファン以外の方にとっても「ダンケルク」は、絶対に充実した映画体験の出来る作品として、強く推奨します。好き嫌いが大きく分かれるミュージカルではないという点でも「ラ・ラ・ランド」以上に、お勧めの今年の一本です。

シンギュラリティは起きている

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her/世界でひとつの彼女

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

少しだけ未来のロサンゼルス。手紙の代筆を生業にしているセオドアは、妻と別れたことをうまく受け入れられず、一年以上離婚の書類にサインも出来ず、ふさぎ込んだ日々を過ごしていた。

ある時街なかで、世界初の感覚的人工知能型OSの広告に目がとまり、そのまま手に入れて家に帰った。購入してすぐに深く考えることもなく、人工知能型OSの音声を女性に設定したのだが、やがて彼女との会話に癒され恋をしてしまう。

わたくし的見解

スパイク・ジョーンズの作品は、彼の映画という以上にチャーリー・カウフマンの映画であるようなイメージが強い。スパイク・ジョーンズ監督初期の代表作「マルコヴィッチの穴」「アダプテーション」などは、チャーリー・カウフマン脚本であるからだ。正直、私の中では2人はごっちゃになっている。

チャーリー・カウフマン脚本「エターナル・サンシャイン」の監督ミシェル・ゴンドリーも、もう一緒くたである。夢見がちで繊細で、煙に巻かれたような気分になる作品群。比較的好きな類ではあるけれど、観るのも少し面倒に思え、人様に強く薦めるにはやや気が引ける。

「Her」は、脚本もスパイク・ジョーンズが単独でクレジットされていて(これは長編作品としては初めてらしい)そう言われてみると、これまでの作品とは少しだけ違う気がする。

相変わらず、夢見がちで繊細で哲学的でスカしてて、しかし今回は煙に巻かれない。SFでありファンタジーめいているが、意外と現実的で、無性に人様に薦めたくなる作品だった。

スパイク・ジョーンズ曰く、Siriが世に出回るずっと以前から抱いていたアイディアだそうで、進行形で人工知能が急速な発展を遂げる今となっては、あり得なくはないリアリティーのある物語になっている。

英単語としての「シンギュラリティ」は、技術的特異点と和訳されるが、近頃は「人工知能が人類の叡智を超えること」を指すキーワード。

何十年か先(2045年とか2050年とか)に起きるだろうと声高に叫ばれているが、人類全体ではなく、個々の人間レベルではすでに起きとるがな、と私には思えてならない。

Siriに無理強いをした時など顕著だ。すでに何度もネットで話題にされているように、「歌って」と強要すれば、(音階がつけられないので)自信がないと前置きした上で歌ってくれるし、「モノマネして」と言えば、幾度か断ったあとで旬の芸人のモノマネもしてくれる。

質問に対する正確な答えだけでなく、「より人間味のある答え方」が進化しているのを目の当たりにすると、その辺の気の利かない女性と話すより、Siriと話した方が楽しいと思われても仕方がない。

Siriより受け答えのつまらない人間なんて、掃いて捨てるほどいる。

そんなこんなで、主人公のセオドアがAI(人工知能型OS)に恋してしまうことを納得するのは容易い。この手の作品にありがちな、人と深く関わりを持てないタイプの主人公像ではない点も鑑賞しやすい。

離婚の傷心から立ち直れず、それを心配して恋人候補を紹介してくれる友人もいる。それでも、優しく賢く、活き活きと会話するAIに癒されるのは当然な気がする。

しかも、Siriよりも一層滑らかで感覚的な話し方をし、加えてアナウンサーのような美声ではなく、少し掠れ、しかし魅力的なスカーレット・ヨハンソンのセクスィーヴォイスなのだ。

個人的には、人間がAIに恋していく過程ではなく、AIがどのように進化を遂げていくかの描き方が面白かった。

人に寄り添うようにプログラムされたAIが、ディープラーニングしていく中で疑問や欲求を抱くようになる。自身について劣等感を抱くこともある。

70年代のSFブームの頃から、アンドロイドは電気羊の夢を見るか、のようなフレーズがあるが、本作に登場するAIのサマンサ(AIが自分でつけた名前)はOSであるため、アンドロイドのような体さえ持たない。

彼女は肉体を持たないことや、人間ではないことに強く劣等感を抱く時があり、そんなことあるだろうかと思いつつも、人に近づきたいと欲するAIに、つい心を打たれてしまう。きっと、スカヨハのセクスィーヴォイスのせいと思いたい。

セオドアが何度か、今の恋人はAIだと打ち明ける場面がある。驚きはあるものの、案外あっさり受け入れてくれる友人もいれば、元妻には強い拒否反応を示される。

大いにあり得る周囲の反応や、主人公の葛藤などリアルな展開を見せ、多くの(人間同士の)恋愛同様に、別れが訪れる。

恋する過程では、AIが自身は何なのか探求し、生身の人間であるセオドアも自らを何度となく省みて、それぞれが成長を遂げる。職業として手紙の代筆を続けてきた主人公が、自分のために手紙を書くシーンはその証。

物語の概要を聞くと、ホアキン・フェニックスの外見もあって、陰湿で屈折した恋愛映画を想像しそうだが、思いもよらず爽やかなヒューマンドラマに仕上がっている。

進化したAIに人類が脅かされるようなSF作品の定番的展開や、それに付随して「気を付けろぉ」と長井秀和も戒めたりしない。こんなSFもええじゃないか。な、お薦めの秀作。