映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

シンギュラリティは起きている

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her/世界でひとつの彼女

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

少しだけ未来のロサンゼルス。手紙の代筆を生業にしているセオドアは、妻と別れたことをうまく受け入れられず、一年以上離婚の書類にサインも出来ず、ふさぎ込んだ日々を過ごしていた。

ある時街なかで、世界初の感覚的人工知能型OSの広告に目がとまり、そのまま手に入れて家に帰った。購入してすぐに深く考えることもなく、人工知能型OSの音声を女性に設定したのだが、やがて彼女との会話に癒され恋をしてしまう。

わたくし的見解

スパイク・ジョーンズの作品は、彼の映画という以上にチャーリー・カウフマンの映画であるようなイメージが強い。スパイク・ジョーンズ監督初期の代表作「マルコヴィッチの穴」「アダプテーション」などは、チャーリー・カウフマン脚本であるからだ。正直、私の中では2人はごっちゃになっている。

チャーリー・カウフマン脚本「エターナル・サンシャイン」の監督ミシェル・ゴンドリーも、もう一緒くたである。夢見がちで繊細で、煙に巻かれたような気分になる作品群。比較的好きな類ではあるけれど、観るのも少し面倒に思え、人様に強く薦めるにはやや気が引ける。

「Her」は、脚本もスパイク・ジョーンズが単独でクレジットされていて(これは長編作品としては初めてらしい)そう言われてみると、これまでの作品とは少しだけ違う気がする。

相変わらず、夢見がちで繊細で哲学的でスカしてて、しかし今回は煙に巻かれない。SFでありファンタジーめいているが、意外と現実的で、無性に人様に薦めたくなる作品だった。

スパイク・ジョーンズ曰く、Siriが世に出回るずっと以前から抱いていたアイディアだそうで、進行形で人工知能が急速な発展を遂げる今となっては、あり得なくはないリアリティーのある物語になっている。

英単語としての「シンギュラリティ」は、技術的特異点と和訳されるが、近頃は「人工知能が人類の叡智を超えること」を指すキーワード。

何十年か先(2045年とか2050年とか)に起きるだろうと声高に叫ばれているが、人類全体ではなく、個々の人間レベルではすでに起きとるがな、と私には思えてならない。

Siriに無理強いをした時など顕著だ。すでに何度もネットで話題にされているように、「歌って」と強要すれば、(音階がつけられないので)自信がないと前置きした上で歌ってくれるし、「モノマネして」と言えば、幾度か断ったあとで旬の芸人のモノマネもしてくれる。

質問に対する正確な答えだけでなく、「より人間味のある答え方」が進化しているのを目の当たりにすると、その辺の気の利かない女性と話すより、Siriと話した方が楽しいと思われても仕方がない。

Siriより受け答えのつまらない人間なんて、掃いて捨てるほどいる。

そんなこんなで、主人公のセオドアがAI(人工知能型OS)に恋してしまうことを納得するのは容易い。この手の作品にありがちな、人と深く関わりを持てないタイプの主人公像ではない点も鑑賞しやすい。

離婚の傷心から立ち直れず、それを心配して恋人候補を紹介してくれる友人もいる。それでも、優しく賢く、活き活きと会話するAIに癒されるのは当然な気がする。

しかも、Siriよりも一層滑らかで感覚的な話し方をし、加えてアナウンサーのような美声ではなく、少し掠れ、しかし魅力的なスカーレット・ヨハンソンのセクスィーヴォイスなのだ。

個人的には、人間がAIに恋していく過程ではなく、AIがどのように進化を遂げていくかの描き方が面白かった。

人に寄り添うようにプログラムされたAIが、ディープラーニングしていく中で疑問や欲求を抱くようになる。自身について劣等感を抱くこともある。

70年代のSFブームの頃から、アンドロイドは電気羊の夢を見るか、のようなフレーズがあるが、本作に登場するAIのサマンサ(AIが自分でつけた名前)はOSであるため、アンドロイドのような体さえ持たない。

彼女は肉体を持たないことや、人間ではないことに強く劣等感を抱く時があり、そんなことあるだろうかと思いつつも、人に近づきたいと欲するAIに、つい心を打たれてしまう。きっと、スカヨハのセクスィーヴォイスのせいと思いたい。

セオドアが何度か、今の恋人はAIだと打ち明ける場面がある。驚きはあるものの、案外あっさり受け入れてくれる友人もいれば、元妻には強い拒否反応を示される。

大いにあり得る周囲の反応や、主人公の葛藤などリアルな展開を見せ、多くの(人間同士の)恋愛同様に、別れが訪れる。

恋する過程では、AIが自身は何なのか探求し、生身の人間であるセオドアも自らを何度となく省みて、それぞれが成長を遂げる。職業として手紙の代筆を続けてきた主人公が、自分のために手紙を書くシーンはその証。

物語の概要を聞くと、ホアキン・フェニックスの外見もあって、陰湿で屈折した恋愛映画を想像しそうだが、思いもよらず爽やかなヒューマンドラマに仕上がっている。

進化したAIに人類が脅かされるようなSF作品の定番的展開や、それに付随して「気を付けろぉ」と長井秀和も戒めたりしない。こんなSFもええじゃないか。な、お薦めの秀作。

ファム・ファタール

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紙の月

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

バブル崩壊後の1994年。主婦で銀行の契約社員として働く梅澤梨花は、ある時から渉外の仕事を任されるようになる。職場での評価も高く自身もやりがいを感じているが、夫は梨花の仕事を軽んじている様子だった。

有り体の妻として収まってくれればいい、と言わんばかりの夫に漠然とした不満を覚えていた頃、顧客の孫息子と親密になったことで、梨花は横領に手を染めるようになる。原作は、角田光代のベストセラー小説。

わたくし的見解

比較的原作に忠実だったBSドラマとは、ヒロインの見せ方がずいぶん異なるようで、そちらのファンにとっては映画は少し納得のいかない出来かも知れない。

ドラマとの差別化、あるいは単純に連続ドラマと長編映画では描けるボリューム(映像化できる時間の尺)が大きく違うので、その影響とも考えられる。

毎度おなじみの、身も蓋もない形で物語を要約すると、主婦が年下の恋人に貢ぐために勤め先で横領をはたらき、後戻りできなくなる話。なのだけれど、若い恋人に夢中になって身を滅ぼすというよりは、イプセンの「人形の家」的な要素の方が圧倒的に色濃い。

ヒロインの梅澤梨花は、第三者から見れば何不自由ない幸せな奥様だ。彼女の夫は優しく穏やかな性格で、しかも仕事も順調。確実に出世コースにも乗っている。専業主婦に憧れる女性にとっては何とも羨ましい、理想の嫁ぎ先に思えるだろう。

映画の序盤、梅澤梨花が家計からではなく自分の給料でペアウォッチ購入し、夫にプレゼントする場面がある。

高価なものは買えず、少しだけ手頃な値段の腕時計を贈る。夫は「ありがとう」と笑顔を見せるが、瞬時に腕時計の価値を見抜き「休みの日に着けるよ」と感謝を述べる。

別の機会に、梨花が手が出せなかった、誰の目にも高級と分かる腕時計を妻にプレゼントする。面と向かって妻を批判しないし、声を荒げるような真似もしない。一貫して優しい夫なのだが、しかし確実に妻を傷つけていく様が上手いと思った。夫を演じる田辺誠一さんの、いかにも悪気のない優男ぶりが良い。

この場面を観ても、また実際にそのような状況を身近で経験することがあっても、その夫の何が悪いのか? なんて優しい旦那さん! と思う人も少なくないだろう。

しかし、夫の一見優しい言動は、彼女の仕事やその収入、ひいては彼女自身にそれほどの価値がないと見なしている。梨花には、そう思えてならない。

犯罪に手を染めるきっかけは、年下の男性に恋したことなのだが、それはあくまできっかけに過ぎないと感じさせるだけの、複雑なヒロインの鬱屈が見て取れる。

「女性特有の何か」を描かせればピカいちの角田光代による原作なので、もともと骨組みがしっかりしているのだと思う。ただ、映画には映画の梅澤梨花が生きていて、小説・ドラマとは違う面白味がきちんとあるところが素晴らしい。

ヒロインの描き方に限らず、横領の手口の見せ方も業界モノ顔負けのリアリティーと、エンタテインメントとしての小気味良さやスリルもあり上手い。

犯罪を重ねることで、何故かどんどん活き活きしてくるヒロインを愛でる背徳感も楽しい。観ているうちに、いつの間にか犯罪者の肩を持ってしまっている。犯罪映画としては成功だ。

原作者に言わせると、お金を介在してしか恋愛が出来ないヒロインを描いているそうだが、映画の梅澤梨花にとって「お金」は別のモノに成り果てているように思う。お金=犯罪は、彼女を解放するものであり、同時にがんじがらめにするもの。再び彼女から自由を奪うものになっているようだった。

エンドクレジットで「Femme Fatale」というタイトルの歌が流れる。私はいつも、ファム・ファタールとは、アンパンマンドキンちゃんルパン三世の不二子ちゃんのような「悪女」を連想してしまう。

しかし直訳では「運命の女」、エンドロールの曲も邦題は「宿命の女」。そのようなタイトルの曲が流れてきて、物凄くストンと落ちるものがあった。

「紙の月」のヒロインが、果たして誰にとっての宿命の女であったのか定かではないが、彼女には彼女自身を解放するために羽ばたき続けて欲しい。

たとえ、その方法が犯罪であったとしても。ひたすらに堂々巡りで、決して自由なんて手に入らないとしても。その姿の哀しさと美しさが、ファム・ファタールと呼ぶのに、あまりにもふさわしいから。

女性によくある病い

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めぐりあう時間たち

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

「ダロウェイ夫人」を執筆中の、20世紀を代表する女性小説家ヴァージニア・ウルフ、2001年のニューヨークでパーティーの準備に忙しいクラリッサ、1951年のロスで夫の誕生日を祝おうとするローラ、三人の女性の一日の出来事が不思議な形で交錯していく。

マイケル・カニンガムの同名小説を、「リトル・ダンサー」で脚光を浴びたスティーブン・ダルドリー監督が手がけた。

わたくし的見解

公開から、かれこれ15年近く経ってしまったのだと感慨深くありつつ、わたくしの生涯ベストのうちの一つに挙げられる作品です。

この度、大切にしまいこんでいた懐からこの作品を取り出した理由は、先日自宅にて、とある邦画を鑑賞したことによります。その邦画は犯罪映画ながらも、根底には女性特有の病いがテーマのように描かれていて、そういった作品の最高峰に「めぐりあう時間たち」は位置しているのでは、と芋づる式に繋がり再鑑賞するに至りました。

すでに触れたとおり、とても好きな作品なのですが、楽しい映画ではないし、しょっちゅう見返したい類のものでもないのです。ほんと十年に一度くらいの鑑賞で十分なシリアスさです。

めぐりあう時間たち」は、実はとても賛否の分かれる作品で、わからない人にとっては何が良いのかさっぱり分からないと評価されています。

その理由について、「ダロウェイ夫人」という英米文学に、どこまで精通しているかが大きく影響しているとする人がいますが、私は違うように思います。

実際、私は英米文学にきわめて暗く、ジェイン・オースティンさえ映画作品しか知らず、ヴァージニア・ウルフにいたっては名前を聞くのも当時は初めて、まして「ダロウェイ夫人」なぞ知る由もありませんでした。

“夫人”しか一致していないのに「チャタレー夫人の恋人」的なやつかな〜とか、ニコール・キッドマンはなんで付けっ鼻しとるんやろ〜と、かなり呑気なノリで観始めたのに、映画の冒頭から一気に作品に惹きこまれたことを今でもよく覚えています。

その冒頭は、家から抜け出した付けっ鼻のニコール・キッドマンが、見るからに神経質そうに足早に歩いてゆくもので、私はただそれだけのシーンに釘付けになりました。

音楽はピアノの旋律が美しく、かつ扇情的です。何かが起こりそうなのです。何かが起きてしまいそう、言い知れない不安な予感がひたすらに続く緊張感こそが、冒頭のシーンだけでなく、この映画の素晴らしさと言えます。

予感のとおり、付けっ鼻のニコールが演じる女流作家は、長年心の病に苦しんだすえ、献身的だった夫と最愛の姉に手紙を残し入水自殺します。これが冒頭のシーン。しかし物語の時間は遡り、作家が代表作でもある「ダロウェイ夫人」を執筆していた頃へとシーンを移します。

すでに何度かの自殺未遂を起こし、心の病と闘いながら作品の構想を練るヴァージニア・ウルフ

まったく違う時代と場所で、作家の小説のアイデアに運命を導かれるかのごとく人生の岐路を迎える二人の女性。二人の女性はそれぞれに、また違う時代を生きていながらも、その傍らには「ダロウェイ夫人」という小説が大きな存在感を持っています。

ヴァージニア・ウルフよりも後世を生きる二人の女性は、単純に思い入れの深い小説に強く影響されているだけのようにも見えますが、不思議と彼女たちの人生の選択がまるで、作家の小説の構想を変化させているような映画の構成になっており、それが「めぐりあう時間たち」という邦題の所以でもあるのでしょう。

小説が、それを知る女性たちの人生に不可逆で一方通行の影響力を持つのではなく、小説と読者が相互に影響しあうような描かれ方が魅力でもあり、同時に作品の分かりにくさの原因でもあります。

たしかに、ややこしいなと思うのですが、やはり私にとっては冒頭から途切れない何かが起きてしまう予感、そのゾワゾワ感がたまらなく何よりも評価する点でして、再鑑賞して最も残念だったのが、やはり二度目ではゾワゾワが少なからず和らいでしまったことでした。

はじめて観たときの、あの緊張感は二度と味わえないのだと痛感し、つくづく映画も一期一会であることよと思い知った梅雨明けです。

しかし、比較的ゾワゾワせずに冷静に鑑賞しても実に出来の良い映画だと感じましたので、全然わかんねーリスクもありますが、ぜひ一度ご賞味されたし。

わからなくても、けだし問題ございません。ばいきんまんアンパンマンの宿敵)のごとく「だから女の子は苦手なんだよ、ハッヒフッヘホー」と、のたまって済ませてしまえばよろしいと思います。

ルーマニアのなまはげ

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ありがとう、トニ・エルドマン

映画情報

  • 原題:Toni Erdmann
  • 制作年度:2016年
  • 制作国・地域:ドイツ、オーストリア
  • 上映時間:162分
  • 監督:マーレン・アデ
  • 出演:ペーター・ジモニシェック、ザンドラ、ヒュラー

だいたいこんな話(作品概要)

宅配業者に応対する時でさえ、ちょっとした悪ふざけを欠かさないヴィンフリートは、老犬と共にドイツで暮らしていた。

娘のイネスはルーマニアブカレスト経営コンサルタントの会社に勤めるバリバリのキャリアウーマンだ。そのため、帰郷しても仕事の電話が途切れず取りつく島もない。

祖母の家に顔を出す余裕もなく、翌日にはブカレストに戻るという。娘が心配なヴィンフリートは愛犬の死をきっかけに、彼女の誕生日に合わせてサプライズ訪問するのだが。

わたくし的見解

とても大まかに分類すると、ハートフルコメディに属する作品なのだと思う。コメディだけにカテゴライズできないせいか、前回ご紹介させて頂いた「おとなのけんか」と比べると、コメディ要素は弱い。

邦画に多く見られる、分かりやすく泣かせるタイプの映画がお好みの方にとっては、ハートフルの部分も弱いのではと懸念。

しかし、喜怒哀楽の発露をあまり細かく指示しない余白のあるものや、感じ方に自由度の高いものが好みの場合は、魅力ある作品と言えるだろう。

どのような作品なのか、今回はかなり意図的に情報を入れず劇場へ赴いた。雑誌や映画紹介サイトなどで使われている、画像に惹かれたのが鑑賞のきっかけで「変なの!(どんな映画か)さっぱり見当もつかない」という第一印象をキープしたまま作品を観てみたかったのだ。

体格の良いオッサンがおかっぱ頭(明らかにヅラ)で、手錠で繋がった若いお嬢さんに険しい表情を向けられている。実にキワモノっぽい画像なのに、父と娘がどうとかこうとか、と映画情報は紹介している。

このシチュエーションで、親子だなんて。つかみ、としてはインパクトのある一枚だ。

いざ劇場に赴けば、顔も何もなく長い黒い毛に包まれた大きなモノと女性が、しっかりとハグしているポスターに出迎えられ、世界中が涙し笑った、などと大袈裟に書かれたキャッチコピーにますます困惑する。

「こんな毛むくじゃらに、どうやって感動するのだろうか」と。映画が始まっても、着地点の見えない展開を、わたくしは十分楽しむことができた。

ドラマの部分は大変に丁寧で、「東京物語」のような、時間の進み方がまるで違ってしまった、大人の親子の姿を上手く描いている。

身内だからこその甘えや、親子なのにいつの頃からか踏み込めなくなってしまった独特の心の距離などは、子供が大人になってしまってからの親子関係として、とくに先進諸国では共通のものなのだろうと実感。

タイトルの「トニ・エルドマン」というのは、父親の世を忍ぶ仮の姿なのだけれど、この父親像がエキセントリックなようでいて、とてもリアルだった。冗談が好きで、冗談が過ぎるきらいがあり、娘に煙たがられる。

娘はキャリアウーマンで、いい大人なので明からさまに反発はしないし、なるたけ父にかまってやろうと努力はするものの、居心地の悪そうな様子は顕著。

客観的に見ても、父トニ・エルドマンの冗談は安定してスベっているところが、やるせなく、あるあるネタ的おやじの悲哀。

加えて娘の、仕事の忙しい女性にありがちなキリキリ舞いで張り詰めた感じも、とてもよく捉えられている。これも頑張っている女性にとっては万国共通のキツさなのだろうか。

作品観賞後に女性監督と知ったが、だからこそのリアリティーかも知れない。

ハートフルが弱いと称したのは、これ見よがしなハッピーエンドに落ち着かないからで、しかし個人的にはそのほうが信頼のおける作品だと好もしく思っている。

いちばんキツかったところを何とかすり抜けたあたりで終幕するので、劇的に気持ちが落ちるような、しんどさはない。その点は安心して観賞してもらえる作品だ。

ただ、ディズニーさながらのエバーアフター(そして皆、末長く幸せに暮らしましたとさ)は残念ながら用意されていない。人生とは一体何なんだ、みたいなことも結局うまく分からない。けれど、そんなに簡単に分かってたまるかとも思う。大人の映画であることは、確かである。

山椒は小粒でぴりりと辛い

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おとなのけんか

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

子供同士の喧嘩といえ、前歯を折る怪我にまで発展したことについて、当事者の少年二人の両親が集まり、建設的かつ平和的な解決を目指して話し合うつもりだったのだが。原作は、ヤスミナ・レザによる戯曲「大人はかく戦えり」。ワンシチュエーションの会話劇でありコメディ。

わたくし的見解

いくつかの性犯罪疑惑(というか、ほぼ事実)を抱える波乱万丈人生の監督、ロマン・ポランスキーの諸事情により、映画の舞台は現代のアメリカ、ニューヨークなのに、撮影はすべてフランスで行われている。

子供たちが遊んでいる冒頭とエンディングシーン以外は、終始、怪我をした少年の家の中で物語は展開するので、どこで撮影しても同じと言えば同じなのだけれど。

一応、子供たちが遊ぶ場所には背景にブルックリン橋が見え、冷蔵庫の中身はアメリカの食品(牛乳やら何やら)で埋めつくされている。

というような、ささやかなトリビアはどうでもよくなる位、秀逸な会話劇であり、オスカー受賞者の中でも特に生真面目なイメージの女優を集めておきながら、見事にコメディとして確立している。

何しろ、オープニング・クレジットの後に一発目に拝めるのは、娼婦を演じようが何しようが永遠の優等生、ジョディ・フォスターのお顔だったので、私はコメディが始まったとは露知らなかった。

これがキャスティングの妙であると後に分かるとは言え、ジョン・C・ライリークリストフ・ヴァルツにコメディの要素を感じとることは出来ても、ジョディに加えケイト・ウィンスレットみたいな米英二大シリアス女優が登場して、果たして笑いの匂いを嗅ぎとる者がいようか。否、いないはず。

前歯が折れる怪我をした少年の両親が、ジョン・C・ライリージョディ・フォスター。夫は日用品おもに金物を扱っている店の店主、そしてアフリカ事情に詳しく物書きでもある書店員の妻。

棒で殴って怪我をさせた少年の両親が、クリストフ・ヴァルツケイト・ウィンスレット。大手製薬会社を顧客にもつ弁護士の夫と、投資ブローカーの妻。

という組み合わせだ。会話の中で、おそらくあえて触れないようにしているが、二組の夫婦は生活水準に大きく差がある。当然、価値観も違う。

前歯が二本折れるような、そこそこヒドい怪我をしてはいるが、どちらも穏便に話を終えようと努めるも、はなからギクシャク感が否めない。

四人のうち最も穏健派であるジョン・C・ライリーは、実現はしなかったものの舞台のキャストとしても何度かオファーを受けたそうで、庶民的で、話し合いの雲行きが怪しくなってくると「まあまあ」と丸く収めようとする夫役が、実にはまっている。

対して、この庶民側夫婦の妻がジョディ・フォスターであることに違和感を覚えていた。しかし、すでに触れたとおり、このキャスティングこそが計算尽くなのだと分かる。

所詮、子どもの喧嘩と軽くとらえている男親に比べ、子供が怪我をさせられたことに過剰に反応する神経質な母親では、少々役の方が不足している。

演技そのものは、さすがと言ったところなのだが、ジョディ・フォスターにやらせるならもう一捻り欲しいと思っていたら、きちんと役の方が彼女のビッグネームに追いついてくれるのだ。

話が進んでくる(喧嘩がエスカレートする)につれ、彼女のアフリカ事情に詳しい設定が効いてくる。

自らの住む場所から遠く離れたアフリカで絶えない悲劇について、心を痛めること自体には全く問題はなく尊敬すべきことなのだけれど、どこか自分ばかりが聖人気取りで、賢しい女の鼻につく様が、なるほど、ここはジョディ・フォスターのポジションだと感心させられた。

おとなのけんかは、被害者側の夫婦と加害者側の夫婦という対立から始まるも、先に少し触れたように事態をさほど深刻にとらえていない父親たちと、そうではない母親たちの対立という図式や、あるいは三つ巴、さらにはそれぞれの夫婦喧嘩へと巧みに形を変えることで、退屈させない展開。

私はあらゆる芝居のなかで、コメディは最も難しい部類に入ると考えているが、この作品の名優たちは文句なしの演技を見せている。

ポランスキー監督のセンスによるものかも知れないが、特に会話の「間」が完璧であるし、その巧みな演技力で産み出された「緊張と緩和」が的確に笑いを誘う。素晴らしい会話劇の小品と言えるだろう。

実にへんてこりんな映画

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美しい星

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

予報が当たらないことで知られる、お天気キャスターの大杉は愛人を車で送っていく途中、突如大きな強い光に包まれ気を失い、自らが火星人であると悟る。

すでに互いへの関心も弱まっていた彼の家族も、次々と金星人、水星人として覚醒。妻だけが一人地球人として家族旅行を夢見て、ネットワークビジネスにのめり込んでいく。三島由紀夫が1962年に発表したSF小説の設定を、現代に置き換え映画化した意欲作。

わたくし的見解

吉田大八監督は、ここ近年の作品で興行的に成功を収めていると言ってよいと思う。直近から遡ると宮沢りえさん主演の「紙の月」、口コミから上映期間をじわじわ伸ばし最終的に国内の映画賞をいくつも受賞した「桐島、部活やめるってよ」。

やはり、ある程度スマッシュヒットを飛ばしたからこそ、大手を振って今回のような壮大な茶番劇を作ることが叶ったのだと信じてやまない。

大変に出来の良い、そして上質な悪ふざけ(ただし大真面目でもある)であるから、さすがに今回は興行的には厳しいのではというのが私見である。

吉田大八作品に対する印象は、(あるある〜早く言いたい〜)イタい人が取り上げられがちであること。悪意のある表現での「イタい人」だが、作品自体にはあまり悪意がない。

かと言ってイタい人を、あたたかい眼差しで見てもいないし、どちらかと言えばフラットに眺めて批判もせず、でも人間てこんなんですよねぇ結構。みたいな体温の低さがある。

「ゆれる」などの西川美和監督が一貫して嘘つきを描いているのに対し、吉田大八監督は自分あるいは他者が作り上げた、嘘の世界で生きる人にスポットを当てている。

両監督が、比較的近いところに人間らしさ、人間臭さを見出していると感じているが、しかし似て非なるもの。嘘を発信する人が好きな西川監督、嘘に飲み込まれて嘘(虚)の中で生きている人が好きな吉田監督、と個人的に分類している。

どちらの場合も、さほど他人事ではないと言うか、案外誰にでも当てはまることのように思う。嘘をつく人と、虚の世界で生きる人。

さて、興行的には当たらないと踏んでいる本作のポイントは、今となっては口に出しただけで何故か胡散臭さが漂ってしまう「UFO」。

劇中で、はっきり「UFOを見たから」とのセリフはないものの、主人公家族が宇宙人と自覚したきっかけは確実にこれなのである。この名実ともにふわふわしたUFOを、どのように扱えばよいのか思案することが鑑賞者には課せられる。

未確認飛行物体という名称よりも、より明確に宇宙人(地球以外の星の生物)が乗っているものと捉えて頂きたい。

ロマンとしてUFOが好きな人以外は、完全否定する人と、より科学的に未知数の部分を鑑みて広い宇宙中探せばいるかも知れないけど、円盤型して地球人に見えるところをプカプカ飛んだりしないんじゃないのかと考える人に、大きく分かれるのではないだろうか。

そして、この映画においては、本当にUFOが来て主人公たちは、その肉体ではなく精神が宇宙人(地球人ではない)なのだと考えるべきか、あるいは地球人が結局そのように思い込んでしまっているだけなのか、という非常に危うい綱渡りが周到に展開される。

そのため作品の軸は、お天気キャスターの自称火星人が訴える環境破壊に歯止めが効かない美しい星、地球の存亡ではなく、自称宇宙人どもが果たして宇宙人なのか否かであり、どちらに転んでも見事なトラジコメディ(悲喜劇)として仕上がっている。

原作者の三島由紀夫の中では、宇宙人なのか否かは明確に念頭において創作したようだが、時代設定も現在から数年後に置き換えた本作では、さてどうだろう。わたくしは非常に上手く出来ていると感心した。

それでも、やはり(しつこいようだが)興行的にはムツカシイと思う。

だからもし、この作品を観ても何じゃコラと怒らないで欲しい。怒りそうなら観ないで欲しい。観たならイタイタしい人々を不謹慎と思わず笑ってあげて欲しい。笑い飛ばすことは、必ずしも上から目線である事にはならないのだから。

"Misirlou" 丸腰刑事のテーマ

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パルプ・フィクション

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

低俗小説(パルプ・フィクション)的エピソードを集積させ、オムニバス仕立てにしたクライムムービー。ヴァイオレンス、コメディの要素も強い。

ギャングのボスと二人の部下、ボスの妻、ボスが八百長を仕掛けたプロボクサーのエピソードがストーリーの主軸。94年アカデミー賞脚本賞カンヌ映画祭パルムドール獲得。

わたくし的見解

昨年末からブレイクし、今年のR-1ぐらんぷりで優勝したアキラ100%さん。丸腰刑事のテーマ曲が「パルプ・フィクション」のセンセーショナルなオープニングテーマと同一なのです。

あらためて本当にこの曲かっこいいなぁ、なんて感心しながら丸腰刑事の巧みなオボンさばきを眺めていたら、無性に「パルプ・フィクション」を観たくなってしまい、20年ぶりくらいで再鑑賞。

映画の冒頭で、パルプ・フィクションなる言葉の意味がテロップで表示されますが、まさに煽情的な音楽です。血湧き肉躍る、とはこの事か。

タランティーノの監督デビュー作「レザボア・ドッグス」に心酔した男子たちにとっては、満を持しての二作目でありメジャー作品と言えるものでした。一般の人にとっては、タランティーノは「パルプ・フィクション」から、のイメージが強いのではないでしょうか。

キル・ビル」のインパクトが強すぎるユマ・サーマンも、この頃は前後して「ガタカ」などの出演もあり、正統派のファッション・アイコン的存在。劇中、アニエス・ベーを見事に着こなしツイスト・コンテストに出場する彼女を、私も心底COOL、すこぶるイイ女だと憧れておりました。

また公開当時は、あの「サタデーナイト・フィーバー」のジョン・トラボルタが残念なくらい中年太りして、だけれども踊るとやっぱり格好いい! と騒がれていましたが、わたくし個人は往年の映画への思い入れもない世代のため、彼の長髪も似合うと思えず、欧米人がセクシーとのたまう割れた顎も解せず、正直ピンときていませんでした。

しかし時を経て鑑賞してみると、やはりジョン・トラボルタのダンスの実力はまったく目を見張るものがあり、超絶COOL。ユマ・サーマンとのツイスト・コンテストシーンは、ほんま痺れます。

激しさだけで踊る(しかし顔は無表情の)ユマ・サーマンに対し、あくまで冷静で、ともすればアンニュイに軽く流して踊るジョン・トラボルタ。彼がこの作品を機に、大人の俳優として返り咲いたと言っても過言ではないかも知れません。以降は、ちょっとクセのある、個性的な悪役として活躍する機会が増えます。

オムニバスの中で(プロローグを除く)最初のエピソードとして、ギャングのボスの妻であるユマ・サーマンとボスの部下の一人ジョン・トラボルタが、ボスの命令で食事に行きます。

他の部下が妻の足をマッサージしただけで、ボスから半殺しにあったと噂に聞いたヴィンセント(ジョン・トラボルタ)は、とにかく穏便に食事を済ませ家まで送り届けたい。しかし、ボスの妻ミアは美しく魅力的で、良い雰囲気になってしまった二人。

抗いがたいミアの魅力と、ボスへの忠誠心の間で煩悶していると、急転直下で下心が吹き飛ばされる事態に見舞われます。ユマ・サーマンは鼻血を出しても格好よく、すったもんだがありながら、最後は無事にミアを家まで送ったジョン・トラボルタの気障な去り際も、大変に洒落ています。

タイトル通り、くだらなく実に低俗なエピソードで構成されたオムニバスですが、時系列の置き換えだけでなく各エピソードのリンクの仕方が洗練されていて、下品なのにスタイリッシュの極み。それが「パルプ・フィクション」のすべて。

ほぼ同じ頃の作品「レオン」の悪徳警官、ゲイリー・オールドマンを俳優たちが真似したがるように、当時のクリエイターは「パルプ・フィクション」をこぞって真似した、そんな作品でした。

今観ても、この手のオムニバス作品の最高峰に位置していると感じますし、あの頃得た興奮、映画体験は何ものにも代え難い。

劇場鑑賞以降、20年あまり観ていなかった間もオープニングテーマの「ミシルルー」と、サミュエル・L・ジャクソンの唱える、旧約聖書のエゼキエル25章17節はずっと脳裏に残っており、また今後も私の頭から完全に消え去ることのない響きなのだろうと思えました。