映画ザビエル

時間を費やす価値のある映画をご紹介します。

"Misirlou" 丸腰刑事のテーマ

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パルプ・フィクション

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

低俗小説(パルプ・フィクション)的エピソードを集積させ、オムニバス仕立てにしたクライムムービー。ヴァイオレンス、コメディの要素も強い。

ギャングのボスと二人の部下、ボスの妻、ボスが八百長を仕掛けたプロボクサーのエピソードがストーリーの主軸。94年アカデミー賞脚本賞カンヌ映画祭パルムドール獲得。

わたくし的見解

昨年末からブレイクし、今年のR-1ぐらんぷりで優勝したアキラ100%さん。丸腰刑事のテーマ曲が「パルプ・フィクション」のセンセーショナルなオープニングテーマと同一なのです。

あらためて本当にこの曲かっこいいなぁ、なんて感心しながら丸腰刑事の巧みなオボンさばきを眺めていたら、無性に「パルプ・フィクション」を観たくなってしまい、20年ぶりくらいで再鑑賞。

映画の冒頭で、パルプ・フィクションなる言葉の意味がテロップで表示されますが、まさに煽情的な音楽です。血湧き肉躍る、とはこの事か。

タランティーノの監督デビュー作「レザボア・ドッグス」に心酔した男子たちにとっては、満を持しての二作目でありメジャー作品と言えるものでした。一般の人にとっては、タランティーノは「パルプ・フィクション」から、のイメージが強いのではないでしょうか。

キル・ビル」のインパクトが強すぎるユマ・サーマンも、この頃は前後して「ガタカ」などの出演もあり、正統派のファッション・アイコン的存在。劇中、アニエス・ベーを見事に着こなしツイスト・コンテストに出場する彼女を、私も心底COOL、すこぶるイイ女だと憧れておりました。

また公開当時は、あの「サタデーナイト・フィーバー」のジョン・トラボルタが残念なくらい中年太りして、だけれども踊るとやっぱり格好いい! と騒がれていましたが、わたくし個人は往年の映画への思い入れもない世代のため、彼の長髪も似合うと思えず、欧米人がセクシーとのたまう割れた顎も解せず、正直ピンときていませんでした。

しかし時を経て鑑賞してみると、やはりジョン・トラボルタのダンスの実力はまったく目を見張るものがあり、超絶COOL。ユマ・サーマンとのツイスト・コンテストシーンは、ほんま痺れます。

激しさだけで踊る(しかし顔は無表情の)ユマ・サーマンに対し、あくまで冷静で、ともすればアンニュイに軽く流して踊るジョン・トラボルタ。彼がこの作品を機に、大人の俳優として返り咲いたと言っても過言ではないかも知れません。以降は、ちょっとクセのある、個性的な悪役として活躍する機会が増えます。

オムニバスの中で(プロローグを除く)最初のエピソードとして、ギャングのボスの妻であるユマ・サーマンとボスの部下の一人ジョン・トラボルタが、ボスの命令で食事に行きます。

他の部下が妻の足をマッサージしただけで、ボスから半殺しにあったと噂に聞いたヴィンセント(ジョン・トラボルタ)は、とにかく穏便に食事を済ませ家まで送り届けたい。しかし、ボスの妻ミアは美しく魅力的で、良い雰囲気になってしまった二人。

抗いがたいミアの魅力と、ボスへの忠誠心の間で煩悶していると、急転直下で下心が吹き飛ばされる事態に見舞われます。ユマ・サーマンは鼻血を出しても格好よく、すったもんだがありながら、最後は無事にミアを家まで送ったジョン・トラボルタの気障な去り際も、大変に洒落ています。

タイトル通り、くだらなく実に低俗なエピソードで構成されたオムニバスですが、時系列の置き換えだけでなく各エピソードのリンクの仕方が洗練されていて、下品なのにスタイリッシュの極み。それが「パルプ・フィクション」のすべて。

ほぼ同じ頃の作品「レオン」の悪徳警官、ゲイリー・オールドマンを俳優たちが真似したがるように、当時のクリエイターは「パルプ・フィクション」をこぞって真似した、そんな作品でした。

今観ても、この手のオムニバス作品の最高峰に位置していると感じますし、あの頃得た興奮、映画体験は何ものにも代え難い。

劇場鑑賞以降、20年あまり観ていなかった間もオープニングテーマの「ミシルルー」と、サミュエル・L・ジャクソンの唱える、旧約聖書のエゼキエル25章17節はずっと脳裏に残っており、また今後も私の頭から完全に消え去ることのない響きなのだろうと思えました。

上級者のこなれた抜け感

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カフェ・ソサエティ

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

1930年代のハリウッド。その街は映画関係者のみならず、あらゆる種類の成功者と、成功を夢見る者で活気に満ちていた。

まだ夢見る側にいるニューヨーク出身の青年ボビーは、業界大手エージェントとして成功している叔父の紹介で、美しい女性ヴォニーと出会う。

アカデミー賞史上最多の24回ノミネート記録を誇るウディ・アレンが、片目をつぶっていても撮れるであろう、お得意のロマンチック・コメディ。

わたくし的見解

前回ご紹介したケン・ローチ監督に負けず劣らずの御老体、ウディ・アレン。彼くらいになると、もう息をするように脚本を書き上げ、ルーティンワークをこなすごとく、年に一本かるーく映画を撮ってしまう。

毎回似たような話やないかい、と突っ込むのもかえって野暮。近頃、性別を問わずファッション誌で多用されるワード「こなれ感」が、見事に映画として具現化したのがウディ・アレンの作品ですから、確かに「こなれ」てるのは大層お洒落であると実感しました。

ニューヨークを愛するあまり、9.11以降しばらくしてニューヨークを離れ、ロンドンを拠点に映画制作するようになったウディ・アレン

映画人のくせにハリウッドにさえ滅多に足を運ばず、ニューヨークから出ないことで知られてきたウディ・アレンですが、いったんヨーローッパまで行ってしまったら、きっと案外楽しかったんでしょうね。ちょっと古めかしい欧州の雰囲気も、彼の近頃の気分にマッチしたに違いありません。

とはいえ、ヨーロッパもだいぶ満喫できたしと思ってか思わずか、2013年の「ブルージャスミン」あたりから、作品の舞台を再びアメリカへと戻しつつあります。

今回の作品も物語の前半はロサンゼルス、後半はニューヨークを舞台に展開します。主人公はニューヨークの下町ブロンクス出身の青年で、言わずもがな当然ユダヤ人です。

演じるジェシー・アイゼンバーグは比較的小柄なこともあり、かつて自身で主演していた頃のウディ・アレンを代替するような役回り。気の利いた会話と楽しい人柄で、正直パッとしない外見ながら、最終的には美女を魅了するタイプです。

駆け出しの若者だったロサンゼルス時代も、成功者として地位を得たニューヨークでも、虚飾に満ちた社交界(カフェ・ソサエティ)のなか、一歩引いた目線で人々を観察し、人間あるいは人生を悟る主人公。

ニューヨークで成功した後、もう一人の美しいヴェロニカと出会い妻にすることが叶いますが、かつてロサンゼルスで恋をしたヴェロニカ(ヴォニー)と再会し心が揺れます。

すべてが大方の予想どおり進む物語ですし、それについても観に行く前からだいたい想像できていて、しかも結果なにひとつ裏切られる展開はない。

では一体この映画は何なんだ? と問われれば、オシャレ上級者の「こなれ感」や「抜け感」を楽しむ映画と答える他ありません。

ヒロインのヴォニーが主人公を「ヘッドライトに照らされて怯えた鹿みたいでスイート」と評し、上手いこと言いおるなと感心しつつも、考えてみればウディ・アレンジェシー・アイゼンバーグを見てそう思っただけに違いなく、結局ウディ・アレンが好きか嫌いかだけに、作品の評価は集約されてしまうのが厳然たる事実です。

好きな人にとっては、今回の作品もジューイッシュ(ユダヤ教ジョークが冴え渡り、人生のほろ苦さがサラリと描かれ、みごと期待に応える出来と思われます。

奇遇にも(現代の)ハリウッドを舞台にしたストーリーを要約すれば、身も蓋もない「ラ・ラ・ランド」同様、確かに幸せなのに、あり得たかも知れないもう一つの未来(人生)に思いを馳せ遠くを見るラストシーンまで、何もかも想定内におさまる。

ある種の映画のお手本のような作品。風薫る5月に、ちょっとお勧めしたくなる軽やかさです。

ちなみに、ジェシー・アイゼンバーグは猫背で何を着ても野暮ったいですが、ヴェロニカ、クリステン・スチュワートブレイク・ライブリーの二人は、本人たちの輝きもさることながら、CHANELの衣装とジュエリーによって、まさにゴージャス。

ファービュラス。決して会話のみならず、目に見えて実際オシャレ映画であることは間違いありません。

たらい回しホラー

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わたしは、ダニエル・ブレイク

映画情報

  • 原題:I,Daniel Blake
  • 制作年度:2016年
  • 制作国・地域:イギリス、フランス、ベルギー
  • 上映時間:100分
  • 監督:ケン・ローチ
  • 出演:デイブ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ、ケイト・ラッター

だいたいこんな話(作品概要)

イギリス北東部のニューカッスルで、長年大工として働いてきたダニエルは心臓発作を起こして以降、医師からは仕事を止められている。

働く意欲は強いが、心臓の治療が終わるまで収入を得る手段がないため、国からの援助に頼る他なかった。しかし、複雑な社会保障制度によって支払いは拒否されてしまう。

役所で手続きするうちに、同じように制度から見放されたシングルマザーとその子供たちと知り合う。彼らとの交流は心温まるものであったが、それぞれの生活は困窮していくばかりだった。第69回カンヌ国際映画祭で、最高賞パルムドール受賞作品。

わたくし的見解

ケン・ローチ監督といえば社会派。本作も混じりっけのない、もっすご分かりやすい社会派作品です。The 社会派、This is 社会派、とシュプレヒコールして街をねり歩いてもいいくらいです。

同監督は10年前にも「麦の穂をゆらす風」でパルムドールを受賞しているのですが、そちらはアイルランド独立戦争を描いているためか、(私自身が不勉強なこともあり)社会派な上にとっても真面目な作品、という印象しか残っていません。

くらべて本作は、現代進行形で起きている問題を扱っているからか、あるいは監督が御年80を迎え肩の力がいい具合に抜けた余裕の現れなのか、とりあげられている問題は極めてシリアスながらも、大変とっつき易くライトタッチに仕上げられています。

カンヌ映画祭の受賞作品は、よく分からんと評価されるケースが多々ありますが、本作に難解な部分はありません。

主人公は日本で失業保険にあたるものを申請するのですが、医師から働くことを止められているにもかかわらず、健康面で就労が不可能な時に求める受給の対象から外されてしまいます。

受給却下の審査結果を不服として再審査を求める手続きと、求職活動をしているけれども、職に就くことが出来ない場合の受給申請を同時に行わなければならないと役所から説明され、困り果てるダニエル・ブレイク。

お役所で手続きを行ったことがある人なら、おそらく誰でも感じたことのある不便さ(時には理不尽さ)を見せるところから物語は始まります。

手続きの書類を入手するのにインターネット以外の手段がないなど、日本より
も不親切な制度のようにも感じられますが、明日は我が身のあるあるネタです。

ユーモアのある皮肉たっぷりな口ぶりが魅力的な、主人公のダニエル・ブレイク。彼のおかげで事態の深刻さは、かろうじて見るに耐えるものになっていますが、物語は一貫して問題提起のみを行います。

単館映画館でよく上映されている、クセは強いが実は根はやさしい老人と、周囲の人々との交流をハートフルに描いた作品みたいなものを期待すると、キツイ思いをすることになる。

このあたりのシビアさは、いかにもカンヌで評価される類の作品と言えます。

日本とイギリスとの細かな社会保障制度の違いはあれ、作品を観ていて感じることは、ルール(制度)遵守にこだわることで、しばしば援助の必要な人にそれが与えられない結果を招くということです。

鑑賞者が主人公に寄り添って、物語のゆく末を見守ることが出来るのは、ひとえにダニエル・ブレイクなる人物が、至極まっとうな人だからこそ。

おそらく日本でもイギリスでも、実は援助の必要がない状況にありながら不正受給をしている人が、あたり前のようにしているズルを出来ない、曲がったことを嫌うダニエルの一本気な性格が災いし事態が悪化してしまう。

不正受給をなくすために設けられているルールなのだろうけれど、真面目な人が損をするのはおかしいんじゃないの?と(問題をあまり込み入らせずに)シンプルなところへ気持ちを持っていかせる見事なキャラクター設定です。

主人公ダニエル・ブレイクを演じているのはコメディアンで、俳優としては主に舞台で活躍している人のようです。この人こそダニエル・ブレイクそのものと思わせる見事な演技で、大半の鑑賞者は彼を好きなるはずですし、その好感度こそが作品の肝となる。

まさにタイトルロールとなるべくして、なっています。また、固有名詞がタイトルであるという点も、この映画の最大のテーマのひとつでもあります。

ケン・ローチ監督のさっぱりとした演出だからこそ、感情に訴えてくるものがあり、社会的な問題提起の手法として実に巧妙であると感心しました。

シニカルの糖衣錠

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アメリカン・ビューティー

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

舞台はアメリカ、郊外の閑静な住宅地。うだつの上がらないサラリーマン、レスターは不動産業を営む妻とのあいだに娘を一人持つ、ごくごく平凡な中年男。妻とは倦怠期まっ只中、典型的なティーンエイジャーの娘はいつも不機嫌で会話もない。会社ではリストラ候補としてレポートの提出を求められる。

くさくさした毎日に変革をもたらしたのは、娘の親友アンジェラと、隣に越して来た少年リッキーとの出会いだった。

わたくし的見解

冒頭、薄暗い部屋で家庭用ビデオカメラに撮られている少女は「あんなパパ、死んで欲しい」と洩らす。カメラを構えているボーイフレンドは「僕が殺してあげようか」と答える。

その後、舞台となる住宅地の空撮とともに主人公によるナレーションが始まり、軽い自己紹介と「一年以内に俺は死ぬ、この時はまだ当然そんなこと知らないけどね」と、いきなりの死亡宣言が。

不吉な言葉のもたらす印象とは裏腹に、映像は晴れた日の愛すべき我が街、愛すべき我が家を丁寧にとらえます。

物語はひたすらにコミカル。その中で丁寧にうわべの美しさと、裏側にずっと隠してきたものを描き出します。

ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」のように、死んだ男の回想として繰り広げられる数日間。主人公は、いかにして死を迎えたのか。

エピソードの数々を常にシニカルな笑いでシュガーコートすることで、静かに漂っていた哀しみが、かえって浮き彫りに。そのバランス感覚の妙は、実に見事で鮮やかでした。

アメリカン・ビューティーとは、劇中にもしばしば登場し、画面に彩りを添えている深紅のバラの品種名だとか。

しかし同時に「アメリカン」は、作品に登場する(一見した限りは)絵に描いたように幸せな?アメリカの中流家庭を指しているに違いないし、さらに続く「ビューティー」の語をもってして、皮肉に満ちたこの物語を完璧に表現しているタイトルと言えます。

サム・メンデスにとって初映画監督作品であり、脚本家もまた(TVの脚本家として活躍していたものの)映画脚本を手がけたのは、これが初めてと言うから驚き。1999年公開の作品ですが、今観ても断然おもしろい。

またサム・メンデス監督は「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」において、「アメリカン・ビューティー」と同じ系譜の作品に取り組んでいます。そちらでは、一切のコミカルを捨て、洗練を極め、またしても高い完成度を実現させました。ぜひ比較しながら、ご覧になってはいかかでしょうか。

懐古主義による総天然色の夢

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ラ・ラ・ランド

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

他者から見れば笑われるような夢を追い求める街、ロサンゼルス。ハリウッドのカフェでアルバイトしながら映画女優を目指すミア。今では時代遅れのジャズを、思う存分演奏できる店をいつか持ちたいと考えるセバスチャン。

LA名物の渋滞の中で出会った、夢を追いかける一組の男女の物語をミュージカル映画全盛期の華やかさをもって実現させた、本年度アカデミー賞最多ノミネート作品。監督賞、主演女優賞など最優秀賞を多数受賞。

わたくし的見解

個人的にファーストインプレッションは、タイトルがダサいと思っていて、アカデミー賞最多ノミニーだろうが何だろうが、スルーしかねない作品でした。

しかし、これもまったく個人的に「エマ・ストーン」ウォッチャーを自負しているので、色々チェックしてみると、なんと「セッション」の監督作品で、しかもミュージカルだと知り結果、公開日を待ちに待つ形で気持ちの上では多少食い気味に鑑賞いたしました。

「セッション」も、ある意味のジャンル映画というか、音楽もの(かつ青春もの)ではあったのですが、いきなりミュージカルって「大丈夫? デイミアン・チャゼルぅ(監督)」と実は鑑賞前は少々心配しておりました。

ところが、完全無欠の見事なミュージカル映画で、めちゃくちゃ楽しかったです。しかも、ブロードウェイで成功したミュージカルの映画化ではなく、オリジナル作品という点も、楽しくて忘れていましたけど何気に凄いことだと思われます。

その凄さは、アカデミー賞で最多部門ノミニー(美術賞、撮影賞、作曲賞、歌曲賞などではウィナー)という形で反映されています。

そもそもデイミアン・チャゼル監督は大学卒業制作の初長編監督作品で、すでにミュージカルを手掛けており、その時予算や技術面などで実現できなかったアイディアをモリモリ盛り込んだのが、今回の「ラ・ラ・ランド」なのだそうです。

私ごときが「大丈夫ぅ?」などと心配するに及ばない実績と実力の持ち主だった訳で、いやはや失礼つかまつる。

歌や踊り、その画面構成などが素晴らしく、もちろん単純にその演出だけでも楽しめた作品ですが、そこにさらに往年の作品へのオマージュがたくさん散りばめられており、そのジャイアンツ愛に勝るほどの映画愛が、鑑賞時の気分の高揚に拍車をかけたことは言うまでもありません。

いや言ってますけどね。映画史に残ると思われる、本作品のオーバーチュアでの、テクニカラーを意識したあえてカラフルな女性の衣装。現在の規格よりも横幅の割合の大きいシネマスコープの採用も、オープニングを筆頭に様々な場面でその効果を遺憾なく発揮しています。

物語は大変にシンプルで、正直、作品の一曲目ですべて語られています。はじめは予告だけで全部わかってしまうほどの、単純な男女の出会いと別れ、だと捉えていました。

しかし、CMなどで告知されている通り、夢追い人の物語に他ならないのです。私のような「セッション」ファンをニヤリとさせる、Jazz is deadの現実に、主人公の一人セブが葛藤する匂いづけと同様、ラブストーリーはあくまで夢の実現のサイドストーリーに過ぎない。

けれど、この単純なラブストーリーを珠玉なものにしているのは、一度は交差した二人の人生が、夢が叶ったことで離ればなれになってしまう、ベッタベタな切なさ。そして何より、この恋愛なくして二人の夢は実現しなかったことに尽きます。

この作品に向けられる批判は、おそらく「意外性のないストーリー」についてが最たるものかと想像しています。ただ私は、この手の作品に複雑な物語は不要だと考えています。

ミュージカルは歌と踊りを見せる必要があるので、視覚、音響の情報量が多くなります。舞台よりも映像の情報量が増える映画ならば、なおのこと。単純なストーリーは、ミュージカル映画の飽和しがちな情報量とバランスをとることに長けていると思うのです。

あと、あまりにも楽しくて忘れていたことが、もうひとつ。

そもそもミュージカルを受け入れられない人には、ストーリーの重厚さに関わりなく、まったく何っにも面白くない映画だと思うので、私や世間がどれだけ煽ってもスルーして下さい。

ただし、ミュージカル好きの自覚がある場合には(最終的な評価の保証は出来ませんが)オープニング10分だけで、映画一本分の価値がありますので必ずや鑑賞をおすすめします。

ルイ帰る

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たかが世界の終わり

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

劇作家のルイは、自らの死期の近いことを知らせるために、疎遠にしていた家族の元へ戻った。母と妹の暮らす家に兄夫婦も訪れ、ルイの帰郷を待ち構えていた家族。しかし、血の繋がった家族にも12年ぶりの再会は一筋縄にはいかず、個々の思いにささやかな衝突が絶え間なく生まれるのだった。

お洒落をし、ご馳走を作り、気持ちの高揚を抑えきれない母。気がつけば大人になっていた妹。家族の面倒を実際的にすべて引き受けている兄。初めて会う兄嫁。ルイは帰郷の理由を打ち明けられないまま、時間ばかりが過ぎてしまう。

わたくし的見解

日本語的使用法から少し離れて、そもそもテンション(tension)とは、引っ張る力。「張りつめている」ところから「緊張」などの意味あいになるのだと思われますが、日本語的にも英語的にも、テンションの高い強い作品です。劇中、のべつまくなし喋られる言語はフランス語ではありますが。

ハリウッド映画にひっぱりダコの、マリオン・コティヤールと比べれば知名度は劣るものの、母親役のナタリー・バイを筆頭に、新旧フランスを代表する主役級のキャストで固められた、この映画のこの家族。

ほんと、一人ずつで一本ずつ主演映画撮れるような豪華なメンツですが、作品を観てみるとなるほど。結局、全員主役なのです。正直、主人公のギャスパー・ウリエルが一番サイドキャスト、語りべポジションと言うか、傍観者と言うか。家族が物凄いテンションで怒鳴り合う姿を、やるせなさそうに眺めるばかり。

なぜ、そこまで緊張が高まってしまうかと言うと、12年ぶりに帰省したルイは、家族にとって鬼っ子に他ならないからです。知的レベル、感受性、家族の中でルイだけが違う次元にいて、家族の誰もが彼を理解できずにいる。慕っていないのとも違う、愛していないのとも違う。ただ理解できない存在であることが、家族にとって異物としての彼を際立たせます。

その上、ルイはその研ぎ澄まされた感受性を活かし芸術家(劇作家)として社会的にも成功していて、その事も家族にある種の負い目を感じさせ、ますますナーバスにならざるを得ない。

登場人物が少ないことを補うかのような、あまりにも膨大な台詞の量に圧倒されます。編集しているとは言え、よくこれほどの言葉の掛け合いを一気にできるものだと、ここで改めて主役級のキャストの力量を思い知るのでした。

しかし大量の台詞群は、そのどれも台詞らしからぬ、とても日常的で家族間ゆえに遠慮のない、時には過度に相手を傷つけるような言葉が見事に選ばれており、大変によく出来た脚本だと感心していたのですが、そもそも原作が舞台戯曲なのだそうで至極納得です。

主演クラスの俳優による台詞の応酬は素晴らしいのに、少し接写に頼りすぎている映像が気になりました。あえて映画としての欠点を挙げるとするならば、この点かと思われますが、中産階級あるいは労働者階級の、決して広くはない実家を舞台にした密室劇とも言えるので、人物に寄らない引きの映像では、かえって不自然になってしまうのでしょう。

当然、接写の方が緊張感の演出効果もあります。また舞台とは違う映画ならではの演出も、きちんとなされており、世界から大注目の若手監督であることも十分理解できました。「たかが世界の終わり」はカンヌ映画祭で(最高賞ではない)グランプリ受賞作品で、これもまさにその通りだな、と。

カンヌのは苦手なんだよな、という人には必ずや苦手系作品でありましょうし、パルムドール(最高賞)ではないのも確かに、あと一歩まだ早い、まだ若い作品であることは否めない。とは言え、グザヴィエ・ドラン監督は本当にまだ若く(なんと、20代!)驚きの成熟度であること、大注目株であることに間違いはありません。

最後に、個人的に最も印象的であったことを幾つか挙げると、注目作品に主演するのは少し久方ぶりだったギャスパー・ウリエル(かつての美少年)が、良い感じに老け、大人のイイ男になっていたこと。

舞い上がって見せていても、その実やはり一番冷静に家族のすべてを思いやっている母親を演じていた、貫禄のナタリー・バイ。

そして、マリオン・コティヤールの、善良であること以外に何ひとつ取り柄のない普通のおばさん(兄嫁)の演技の完成度の高さは見事でした。強い女性を演じることが多い人なだけに、その振り幅の広さに、彼女のひっぱりダコの必然を感じました。

モノクローム、モナムール

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女の中にいる他人

映画情報

だいたいこんな話(作品概要)

夕刻の東京、赤坂。青ざめた顔で歩く田代は、ほどなくして近くのビアホールで、長きにわたる友人の杉本に声を掛けられる。互いに仕事帰りであったが、二人は鎌倉の住まいも近く、家族ぐるみの付き合いをするほど親密だった。行きつけの店で飲み直す田代と杉本に一本の電話が。それは杉本の妻が、赤坂で亡くなった知らせだった。

わたくし的見解

個人的には、成瀬巳喜男監督というと、林芙美子原作の女性映画のイメージが強くある。事実、女性映画の名手として知られているけれど、この時代の映画監督の作品数は、現代のそれとは比べものにならないほど多く、実際には実に様々な作品を手がけている。

女の中にいる他人」も、タイトルの印象とは違い、物語の大半は主人公の「男性」田代が、心理的に追いつめられていく様子が描かれる。

小津作品では、汗などかくこともなさそうなほど神格化された女優、原節子に驚くほど人間臭い芝居をさせるのが成瀬監督。しかし本作では、テレビCMみたいに郊外で暮らす理想的な家族像を描きだす。まるで小津映画ばりにハイソで、所帯じみた様子がおよそ見当たらない主人公ファミリー。市井の人々とは一線を画した、ブルジョワジーの匂いすらする。

私は、成瀬作品では特に「稲妻」がお気に入り。これは(時代設定が多少異なるとは言え)「女の中にいる他人」とは対照的に、所帯じみったれたド庶民の家族を見ることが出来る作品だ。面白いのは、ブルジョワ臭がプンプンの本作も、こってこての生活感漂う「稲妻」も、ふとフランス映画のような趣きを感じさせるところにある。

特に「女の中にいる他人」は、外国文学を原作としているせいもあって、テーマも含め、より一層ヨーロッパ的。映像も強いコントラストを用いたモノクロで、本来その言葉が指すものとは厳密には違うにせよ、フィルムノワールと呼びたくなる作品だ。

内容は、ひらたく言ってしまえば、自責の念にかられる。ただ、それだけの物語なのだ。罪を犯した者が、良心の呵責に耐えられなくなる。日々のささやかな出来事が、罪の意識を持った主人公をどんどん追い詰めていく。

心の機微を丁寧に捉えている、とベタな表現が当てはまるも、果たしてタイトルの「女」はいつ登場するのか。という思いを、ずっと持ちながら鑑賞することになる。何しろ、見せられるのは小林桂樹演じる田代の心の機微なのだ。

「女」と言えば、物語が始まった時にはすでに死んでいる杉本の妻と、テレビCMみたいに出来の良い田代の妻だけである。映画における「女」は、消去法で当然、田代の妻になるが、ずっと田代中心で動いていた物語が、いつのまにか田代の妻に視点が移っている展開は鮮やか。

演出も、これまた超ベタなのに、どうしようもなく洗練されていて、やはり職人監督以上の力量を感じずにはいられない。

女の中にいる他人」は昨今、BSドラマでリメイクされている。連ドラの、こってりたっぷりも面白いと思うが、オリジナルの、あっさり味なのに重厚な感じも少しお勧めしたい。

極端に趣きが違うが、バカリズム脚本ではっちゃけていた「黒い十人の女」のオリジナル(市川崑監督作品)も、女優の美しさ目当てだけでも価値がある作品。モノクロ作品が苦手でなければ、試して頂きたい。